ライターズブルース

読むことと、書くこと

カウンターの内側から

『うつわや料理帖』/あらかわゆきこ/株式会社ラトルズ/2006年刊
『うつわや料理帖Ⅱ』/あらかわゆきこ/株式会社ラトルズ/2010年刊

 週に何度か鎌倉のカフェバーでアルバイトを始めた。人生初の飲食業は覚えることだらけで、最近は家でもドリップ用のケトルをくるくる、バースプーンをくるくる、隙があったら練習、練習。フルタイムで勤めるわけではないので、カレーやガパオを覚えるのはもう少し先になりそう。その間、私が一人で入るときはカンタンなおつまみを出すことになった。

 ドリンクのオーダーをとりながら出せるもの、となると凝ったことはできない。カフェバーだから、なるべくフォークかスプーンで食べられるものが良い。お酒のアテになるもの、軽く小腹を満たせるもの、原価があまり高くないもの。等々、あれこれ考えながら11月は料理の本ばかり開いていた。

 新しく買った本もある一方で、前から持っていた本も、今までとは違った風に見えてくる。

 たとえば『うつわや料理帖』と『うつわや料理帖Ⅱ』。器のお店の主がお客さんに教わって、作っておいしかったレシピを紹介した本で、レシピにまつわるエピソードと、器とその作り手の紹介を交えながら、口伝えらしい手軽に作れる料理がたくさん載っている。パセリが余ったときは「じゃが芋とにんにく炒め」を、梅酒に漬けた梅を貰ったときは「手羽先梅煮」を、ホームパーティに招かれたときは「ヤム・ウン・セン」を、という具合に活用してきた。

 そして今、自分がカウンターの内側に入ってみると以下の前書きに「なるほどなあ」と思う。

店というのは「この指止まれ」と、いつも指を揚げているようなものだと思います。
食べることが好き、料理が好き、お酒が好き、花が好きという、店主の好みとどこか重なり合い、「この指」に止まって下さった方々との交友録は、店の歴史と共に増えて行きました。(中略)
おいしい料理が人から人へ伝わるのはすてきです。(『うつわや料理帖』「はじめに」より)

 代々木上原の「うつわや」は、実際すてきなお店だった。

 初めて訪れたのは2009年、亡くなった陶芸家について書くという仕事を引き受けてしまって、その取材先の一つだった。作家ものの器なんて買ったことがない、完全に門外漢の私が事情を打ち明けると、店主のあらかわさんは「それは大変でしょう」。淡々と、器のこと、故人のことを話してくれた。記事が掲載された雑誌を持って挨拶に行って、それでも器はなかなか買えなくて、先に著書を買い、ときどき届く作家展のお知らせを持って恐る恐るお邪魔して。

「後始末を人にさせたくない」とお店を閉めたのは2016年。それまでに私が買ったのは漆のタンブラーと、ガラスの小鉢と片口、白磁の中腕、小皿、数えるほどしかない。それでも、器を選ぶ楽しみのようなものを初めて体験することはできた。

 鉄瓶で沸かしたお湯で淹れてくれるお茶がおいしくて、器やお花を眺めながらあらかわさんや他のお客さんの話を聞くのがおもしろくて、手ぶらで来て手ぶらで帰ることが申し訳なくて。いっそ喫茶店としてお会計してくれたらいいのに、と思ったこともあった。

 言ってみれば私は、あらかわさんが揚げた「指」にふらふらと近づいては、しっかり止まれる脚を持たずにいたわけだな。料理と器の写真を眺めていると、別世界にあこがれるような、当時の気持ちがよみがえってくる。

 そして私のバイト先も、まさに「この指止まれ」だ。店長はアパレル業界の出身で、内装は鎌倉のカフェの中でも屈指のオシャレさ(だと私は思う)。オシャレなだけなら私が客として通うことはなかったはずで、自家製のトニックウォーター、ジンジャーシロップやコーラシロップを使ったカクテルを昼間から飲ませてくれる。店長がデザインした男女兼用のオーバーオールの他、コーヒーカップやアクセサリーが並び、店の奥の工房ではたまにミシンを動かしている。そこにいろいろな人が来ては去っていって、そしてまた戻ってくる人もいる。

「この指止まれ」の「指」に、今回はどうやら止まることができたらしい。指を揚げる側になれるかどうか、止まってくれる人がいるかどうかは、もう少し続けてみないとわからない。

 

(そんなわけでしばらくぶりの更新になりました。以下は営業。)

『Jenteco LABO』は鎌倉駅西口から徒歩3分、御成通り沿いの入口がわかりにくいカフェです。私は今のところ金曜の夜と、今週は臨時で7日(土)17時から出勤予定。

ある日のおつまみ。カレーやガパオなどのお食事は21時でラストオーダーなのでご注意を。21時以降「ブログ見たよ」というお客さんにはスパイスナッツをサービスします。

今だからこそのバーコード問題

『装丁物語』/和田誠/中公文庫/2020年刊

 日本で流通する書籍にバーコードが印刷されるようになったのは、だいたい1990年頃だそうだ。私は小学4年生か5年生くらいだったはずで、だからまあ自分のお小遣いで本を買うようになる頃には、あって当たり前のものになっていた。記憶を掘りおこせば、小学校低学年の頃にお小遣いで買った『ドラえもん』の単行本には、じっくり眺めたその裏表紙には、あんなものはなかったような気がするけれども。

 大人になって本を作ることになったとき、一番楽しかったことの一つはデザイナーさんとの打ち合わせだった。本文用紙は時間が経つと黄ばむ紙がいいとか、トイレに置いてもらえるような本にしたいとか、オマケをつけたいとか、素人の私が思いついたことを口走ると、彼ら(二人組のデザイナーさんだった)はそれをアイデアとして受けとめて一つ一つ具体的な形にしてくれた。
「バーコードがなあ……」
 カバーのデザイン見本を広げながら、彼らの一人が顔をしかめたときは、私もやっぱり顔をしかめた。表1と表4が一体となったそのデザインに、二連のバーコードはどう見ても邪魔だった。カバー用紙の裏にちょっとしたオマケを印刷して、それが少しだけ透ける包装紙のような紙を選んで、せっかくいい感じに仕上がったのに。バーコード、邪魔だなあと思ったけれども、顔をしかめただけで何も言わなかった。仕方ないことだと思っていたからだ。

 でも、あれは「当たり前のこと」でも「仕方ないこと」でもなかったのかもしれない。バーコードは剥がせるシールにしてもらうとか、オビに印刷してもらうとか、あのカバーを汚さないで済むように、著者として一言ゴネておくべきだったのではないか。たとえ実現できなかったとしても。

 ぼくだって本が読者に早く届くことに反対する理由は何もないですよね。だけど、あまりにも単純に「便利」というイメージに惑わされてはいないか、と思った。もっと慎重に検討されなかったのか。こんな大きなスペースをとるバーコードでなく、もっと細いもの、もっと小さなものができるだろう。あるいは透明のインクで刷るとか。(中略)
 しかし現在のやつで動き出してるから今さらそんなこと言っても遅いと言われちゃう。便利なもののどこが悪い、という人たちは、装丁が本の一部だという認識がなくて、「包み紙」くらいのイメージであるらしい。だから「表4をください」なんて言い方ができるんじゃないでしょうか。装丁はデザイナーが流通にあげるとかあげないとか言えるものじゃないんですよ。本は著者も編集者も装丁家も宣伝部も販売部も含めてそれを作る送り手のすべてと、受け手である読者のものです。その一部である装丁もそうです。間違っちゃいけない。(「18 バーコードについて」より)

 和田誠さんの装画や挿絵が入った本はいくつか(いくつも)持っているけれど、そういえばご本人の著書は読んだことないなと思って、何気なく手にとったのが『装丁物語』の文庫版だった。絵から想像されるとおり、飾り気がなく親切な文体で、紙について、文字について、画材について、著者との関係や編集者との関係、人の本を装丁するときと自著を装丁するときの違いなどなど、装丁についてのあれこれが語られる。

 装丁家ってこんなにいろんなことを考えているんだなあ、すごいなあと感心することの連続で、だからこそ最終章の「バーコードについて」が切ない。本のデザインに関わってきた人たちが誰も知らないところで、いつのまにか、本の裏表紙(いわゆる表4)にバーコードを二つ入れることが、その大きさも位置も「決められていた」。

 決まった後になって、図書設計家協会というところが主催するパネルディスカッションに著者が参加したときの経緯が記されている。読んでいて悲しくなったのは、決めた側の人たち(出版業界のエライ人たち)は、本はティッシュペーパーや洗剤と同じ「消耗品」だと認めたも同然だったんじゃないかということだ。バーコードは流通の過程では必要だとしても、本が読者の手に渡った後は不要で、ただ醜いだけだ。でも「消耗品」だったら読んだ後はどうせ捨てるから、醜くても問題ない、そんな感じだったんじゃないか。

 どこかでこれを読んでいるかもしれない出版業界のエライ人へ。

 本に画一的にバーコードが印刷されるようになって30年以上経った現在、電子書籍も含めてあらゆるコンテンツがネット市場に溢れる状況で、利便性を競っても勝ち目はないと思いませんか。多少不便でもモノとしての美しさとか、自分の部屋に置いておきたくなるような佇まいとか、そういうものにこだわる方向に転換しませんか。バーコードは今の大きさの半分くらいでも十分読み取れるはず。とりあえずもっと小さくするように、決めてもらえませんか。

和田誠さんの自著自装による『お楽しみはこれからだ』を買ってみた。オリジナルは文藝春秋から1975年に刊行、私が買ったのは国書刊行会による復刻版ではあるけれど、バーコードは和田さんの意志を反映してオビに印刷されている。バーコードがない本っていいもんだなあと、手に取ってみるとしみじみ思う。

とんかつと酔芙蓉

今週買った本、のことでも書こうかと思っていたけれど……。

 福田和也さんが9月20日に亡くなったそうだ。訃報にふれて、自分に何かやるべきことがあるだろうかと少し考えたけれども、葬儀に参列したいとは思わないし、連絡するべき知友もない。私の生きる世界では、福田さんはだいぶ前に他界していた。

 2012年か13年頃だったと思うが、『en-taxi』という季刊文芸誌の編集者に「福田和也論を書かせてくれませんか」と打診したことがあった。批評家としての福田和也が再起不能であることは私の目には明らかだったし、その編集者は福田さんのゼミの卒業生だったから(私の三つか四つ先輩)、そう、たしかこんな感じのメールを打った。
「福田先生はもうダメです。せめて文芸の舞台で葬ってあげませんか」
 先生の書いたものであろうと何であろうと、おもしろいものはおもしろいし、つまらないものはつまらない。ざっくり言ってしまえば批評とはそういうことだろう。福田さんの原稿に対して誰もそれをやる人がいないなら、あたしがやってやるよ……とまあ、そう思ったわけだ。
 相手の断り文句はこうだった。
「私にとって福田さんは仕事相手です」
 だから何、と思ったけれども、深追いはしなかった。コイツらなんもわかってねーな、言葉とか文章とか批評とか、そういうものがどんな風に人を縛るかを何もわかってない。当時の私は誰かと福田さんの話をする度にそう思ったものだった。それは、先生の屍が布も土もかけられずに晒されているという怒りであり、悲しみだった。もし私が追悼文を書くとしたら、やっぱりあのタイミングだったと今も思う。

 そんなわけで今さら訃報をもたらされても、特にするべきことはない。

 ……いや、一つあった。その雑誌の企画で角川春樹さんに俳句を教わる席上で、いずれ先生が亡くなったら「とんかつ忌」で追悼句を詠んであげますね、などと茶化した思い出がある。
 俳句の世界では「○○忌」というのは季語の一種で、芥川龍之介の河童忌(7月24日)、太宰治の桜桃忌(6月13日)あたりが有名だ。とんかつが福田さんの好物であることは自他共に認めるところだったから、「とんかつ忌」がぴったりだと思ったのだ。本人は不満げだったけれども。

 

   呑み歩いた思ひ出ばかりとんかつ忌

   コップ酒を干しては汲まむとんかつ忌

   恩讐や暖簾かきわけとんかつ忌

 

 こんなところだろうか。「とんかつ忌」で追悼句を詠もうなんて、我ながら高いハードルを課してしまったものだ。

 昔ごちそうになった天ぷら屋で天丼を頼んで、一人で献杯して帰る道すがら、芙蓉の花が咲いていた。「酔芙蓉忌」あたりにしておけば風情があって、本人も満足してくれたかもしれないな。どの季節に死んだかなんて、本人は知り得ないことではあるけれど。

 

   酔芙蓉を求めて歩く和也の忌

 

 俳句もしばらく作っていなかったから、これが追悼句になっているかどうかは正直よくわからない。何にせよ、
「書き出しはキツイ。どんなカンタンな原稿でも、書き出すときは飛び降り自殺する気分だ」
 そう言っていた先生が、もう何も書かなくていいのだと思うと、私はほっとする。

故人が好きだったジョニー・キャッシュとかルシンダ・ウィリアムスでもかけてあげようかと思ったけれども、別にそこまでしなくてもいいか。外は雨が降っているし、今日は佐山雅弘さん”Vintage”の気分だ。

 

夏季雑詠とお知らせ

『合本現代俳句歳時記』/角川春樹 編/角川春樹事務所/1998年刊

 俳句の集まりに少し関わることになって久しぶりに歳時記を手に取ってみると、あまりにも状態がひどくて少したじろいでいる。意図して付けた折り皺とそうでない折り皺が無数に入っているのはともかくとして、擦り切れた背表紙がガムテームで補強してある。それもまあ仕方なかったとしても、赤い装丁に、よりにもよって水色のガムテープはまったく似合ってない。その水色もところどころ茶色く変色しているし、いざ広げると補強の甲斐もむなしく、背表紙がべろんと本体から剥がれかかる。本体の小口も天も、飲み物だかタバコのヤニだかわからないシミだらけだ。

 それだけ使い込んだといえば聞こえはいいけれども、長くまっとうに俳句を続けている人の歳時記は、むしろきれいに使われていることのほうが多いように思う。以前参加していた句会では革の表紙に手脂で艶が出た、愛用という言葉がぴったりな歳時記を見かけたことがある。ひきかえ私のは、狼藉の跡としか言いようがない。せめて外函をとっておけば良かったものを、いつどうやって棄ててしまったのだったか。

 云々と書いているうちに、久しぶりに俳句を作りたくなった。作ろうとしたけど、まあ作れなくて、昔はどうやって作ってたんだっけ。昔から別にたいして作れていなかったのか。この歳時記、人前に出せないくらいみっともなくて、でも捨てられなくて、結局なんだか私みたいだ。

 ……というわけで雑詠十句。

 

  父の日の午后の麦酒のしづかなり

  生よ死よハブ酒のハブの云うことにや

  蜥蜴鳴く私はわたしに名をつける

  島影はうすくとほくに原爆忌

  ババ抜きのババがぐるぐる熱帯夜

  サングラスはずして昔の話など

  網膜に無数の穴あく晩夏かな

  ゆく夏のしづかな雲と波の詩

  歳時記をとぢて無縫の夏逝かす

  片恋のあと拭きあげて秋に入る

 

 以下はお知らせ。

 7月頃まではだいたい週に一度の更新を目安にしていましたが、ちょっと身辺がばたついてきて、しばらく不定期更新となりそうです。なるべく本について書きたいと思っていますが、読んで書く時間がないときは俳句一つとか、そんな感じになるかもしれません。

 読んでくださっているかた、どうもありがとう。ではまた。

財布やらケータイやらと一緒にカバンに突っ込んで、落っことしたり酒をこぼしたり、まあいろいろ思い出される。そのうち製本用のノリとテープを買って、補修してみようかな。

 

文章の生死

『なつかしい本の話』/江藤淳/ちくま文庫/2024年刊

 最近どうも、ちくま文庫ばかり買っているような気がする。

 生きているうちに司馬遷の『史記』を読んでみようかと思い立ったのが数ヶ月前。現代日本語訳としてはちくま文庫版が良さそうだと当たりをつけたものの、通読できるかどうか、あまり自信はない。とりあえず一巻を立ち読みしてから考えようと、大きめの書店の近くを通りがかる度に立ち寄ってちくま文庫コーナーをチェックするようになった。

 全八巻となると文庫でもそれなりに場所をとるからか、店頭では『史記』になかなか巡り会えない。ネット書店で取り寄せたほうが早いと歯痒く思いながらも、おかげで洲之内徹のエッセイ集が新たにちくま文庫から出ていることを知った。それで『史記』を置いていないことがもうわかっている書店でも、洲之内徹の続刊がそろそろ出ただろうかと、ちくま文庫コーナーをうろつく。すると今度は江藤淳の『なつかしい本の話』をみつけて……という具合に、家の本棚にちくま文庫が増えつつある。

 どうやら私は、死んだ人の本ばかり読んでいる。書店に行けば「話題の新刊」や「◯◯賞受賞作」も手に取ってはみるけれど、結局買って帰るのは死んだ人の本ばかり。ちくま文庫を多く買ってしまうのも、そのレーベルが古典や旧作のリバイバルを多く出しているからだと思う。

 私は、いま生きている人たちの書いたものに興味がないんだろうか? 時代に取り残されるとは、こういう状態をいうのかもしれない。漠然とした不安が、ないわけではないけれども。

 私はただ、時勢とも文壇の流行とも無関係に、手当り次第に自分の心に響き合うものを求めて、あれこれと濫読をつづけていたにすぎなかった。(中略)
 いったい今日、あのころの私のような本の読み方をしている若い人がいるだろうか、と考えることがある。時流にも、文芸批評家のいうことにもまったく無関心に、ただ自分の嗅覚だけを信じて古今東西の書物の森のなかを逍遥してみよう、という若い人々が? それも、教養を身につけて優越感を味いたいというさもしい魂胆からではなく、自分の心身に重くのしかかって来る生の意味を解き明かしたいが故に、そうせずにはいられない若者たちが。……
 私は、そういう若者たちが、やはりいるに違いないと思い、またいてほしいと思っている。そうでなければ、読書というものは知的な冒険ではなくなり、われわれの感情生活はいくらでも貧しいものになってしまうだろうから。(「ルナール『にんじん』『博物誌』」より)

 気の向くままに手に取った一冊で上記引用の箇所が目に留まって、「読みたいものを読みなさい」と背中を押してもらったような気持ちになった。これを書いたときの著者と今の私はほぼ同年齢で、つまり私はこの人の言う「若い人」ではない。それに、濫読と言えるほどの量を読んでいるわけでもないのに。

『なつかしい本の話』は、幼年期から青年期にかけて親しんだ本について、中年になった著者がさまざまに思いをめぐらせたエッセイ集だ。「読みたいものを読む」ことは当たり前のように見えて、じつは難しい。子供の頃は親や教師の勧める本を読んでみたものの、あまり楽しむことができなくてがっかりしたり。ジュニア向けのシリーズ本を愛好しつつ、なぜかそれを恥ずかしく思ったり。大学生になると無知無学のコンプレックスを埋めるために難しい本を手に取っては、理解できないためにかえってコンプレックスを強くしたり。そうこうするうちに社会に出て、仕事で必要な本しか読まなくなってしまう。でも、読みたいものを読むこと以上にましな「読書術」があるだろうか。……読んだ後、そんなことをぼんやり考えた。

 

 思い出してみれば江藤淳も、私にとってはまず「先生の先生」だった。大学在学中からお世話になっていた先生がしばしば「江藤先生」の話をしていたからだ。それなのに私は、学生時代に『成熟と喪失』『閉ざされた言語空間』の二冊を読んだきり、長いこと他の著作を読もうとしなかった。「先生の先生だから」という理由で読んでしまうことが、なんとなく嫌だったのだ。

 だからその先生が編集同人をしていた雑誌の「江藤淳没後十年特集」に私も寄稿することになったときは、かなり焦った。手に入る本を手に入れて、時間の許す限り読みながら、私はただ「先生の先生」ではない江藤淳に出会うことだけを目指していた。

 それから十五年経って、今は「読むべきだ」とか「読まなければならない」という重圧はどこかへいってしまった。それが良いことか悪いことかは一概に言えない。目指すところも何もなく、ただ単に「読みたい」という気持ちだけで頁を開くと、江藤淳という人はつくづく、良い文章を書く人だと思う。

 瑣末な例を一つだけ挙げると、体言止めがほとんどない。日本語の文章は語尾が単調になりがちで、変化をつけたくなったときに便利なのが体言止めだ。ライターとして原稿を書いていた頃の私は「技術」としてそれを多用しがちだった。でも、そんなものは技術でもなんでもない、単なる小細工だ。単調であるという理由で読むことを止めてしまうような文章は、そもそもの内容が乏しいのだ。仕事の一環として江藤淳を読んだときは、そういうことには気づかなかった。

 先日、都内に用事があって竹橋の近代美術館に立ち寄ると、常設展に長谷川利行の描いた岸田国士像が掛かっていた。あ、江藤さんの本に出てきた人だ、と思って、持ち歩いていた文庫本を帰りの電車で開くと「翻訳そのものが確実に文学を感じさせる翻訳」とある。江藤さんがそこまで言うのなら、岸田国士の翻訳したルナールを読んでみたいなと思う。こういう時にふと、その人が死んでもその人の書いた文章は生きていると感じる。

銅版画家・武田史子さんの装画もすてきだと思う。江藤淳の全集は一昨年から電子版で刊行されているけれども。『犬と私』とか『夜の紅茶』とか『西御門雑記』とか、エッセイだけでも紙の本で復刻してくれないだろうかと、ちくま文庫コーナーをうろつく理由がまた一つ増えた。

批評的であるということ(その三)

『洲之内徹ベスト・エッセイ2』/洲之内徹/椹木野衣 編/ちくま文庫/2024年刊

 大学で在籍していたゼミでは学期中に一回か二回、外部から講師を招いてのゲストレクチャーがあった。ゲストは作家や漫画家や舞踏家など、幹事をする学生によってさまざまで、講義後には必ず飲み会が開催された。藤沢のキャンパスから新宿の中華料理屋へ移動すると、ゲストを囲んで乾杯をする。指導教員の福田和也さんは「初めて買ったCDは?」とか「今まで買った一番高いものは?」とか、その時々のゲストにちなんだお題を学生に与え、学生はそれに答える形で一人一人自己紹介していくのが恒例だった。

「一番好きな批評家は?」というお題が回ってきたのは、たしか針生一郎さんが招かれたときだったと思う。私は「洲之内徹」と答えたが、ほんとうのところ、評論とか批評の類はそのゼミに入るまでほとんど読んだ試しがなかった。講義で触れられた小林秀雄江藤淳洲之内徹を文庫本で一、二冊読んだ程度、つまりその三択(もしくは福田和也を入れた四択)で、一番も何もないもんだと内心自嘲したものだった。

 だからまあ、知ったかぶりだったと言われても仕方ない。ただし文庫本を一冊か二冊読んだ程度でも「この人はあまり批評家らしくない批評家だな」ということはわかった。小林秀雄江藤淳も、それから福田和也も、その主著を開くと「批評とはかくあらねばならない」という定義が展開されている。洲之内徹はそういうことを言わない。そこが好きだったわけだ。

 

 しかし最近になって、やっぱりあれは知ったかぶりというか、思い込みだったと発覚した。『洲之内徹ベスト・エッセイ2』の冒頭に収録された「批評精神と批評家根性と」という短文に、洲之内徹の批評観というべきものがはっきり記されていたのだ。曰く、「批評家は、何よりも先ず作品を理解しなければならないのだが、然も理解するということは、芸術に関する限り先ず”感ずる”ことなのだ」。

 私が愛読してきた「気まぐれ美術館」シリーズは六十代以降に書かれたエッセイで、編集・解説の椹木野衣さんの表現を借りると「脱線調の味わいある文章」だ。だから、若い頃はこういうカクカクした文章も書いていたんだなと、微笑ましく思った。しかし続いて掲載されている「結構な御身分」という短文を読むうちに、驚愕というか震撼というか、ぞっとした。二十代の若者が六十、七十になるまでずっと刃物を研いでいる、その音がきこえてくるようで。

 長くなるけど以下に引用する。

 よほど強靭な精神力をもっていないかぎり私たちは自分で自分の環境をつくって、それでもって逆に自分の心を支えてゆかなければいつも自分の心を破壊の危険に曝すことになる。現実的な生活の形式は、無意識という避難所を精神のために用意してくれる。また、精神の自己保全の本能は、蛹が繭に籠るように、自らを思想や、真実や、良心などの裡に棲まわせたがるものだ。
 しかし、私は自分の精神の周囲に、そうした環境をつくることはすまいとおもう。そのために、私の精神が殻をなくしたやどかりのように、柔い腸を砂地にひきずりながら這いまわらなければならぬとしても、真実や、良心のお題目を唱えて、時代の風波の中に身の安泰を願うようなざまをさらすまい。そうして私の観念が猶一層錯乱を深めてゆき、そうした精神の加速度を肉体が支えきれなくなるようなときが早晩来るとしても、私は身を躱したりはすまいとおもう。(中略)
 ひとつの立場をもって生きるなどということが、既に私にはできないことである。精神に環境がないというのはそのことなのだ。つまり、生活から意義だとか目的だとかを一切抜き去ってしまうことである。そうして、ただその無意味と無目的の裡に生きるということのほかには、真実掛値のない誠意は私にはもてない。また、事実それ以外のものは私には残されてもいない。(「結構な御身分」より)

 批評的であることについてときどき無目的に考える……前回ブログを更新した際、末尾にそう書いた。私は二十代を通して福田和也という批評家の世話になり、その後疎遠になった。その過程で文筆業者となり、それを廃業した。要するに「先生」に対しても「仕事」に対しても、「ひとつの立場」に居続けることができなかった。それを反省したり、正当化したり、そういうことはなんだかインチキくさい。だからといってなかったことにもできないから、ときどき無目的に考える……そんな心境が続いていたものだから、上記に引用した「無意味と無目的の裡に生きる」という箇所がなんだか目に沁みた。

 私は学生の頃から洲之内徹の文章が好きだった、そう思っていたけれども、自覚が甘かったかもしれない。私にとって批評という言葉は福田さんによって肉付けされたと思っていたけれども。あの頃、洲之内徹の文章に振れ動いた心の針のようなものが、どこからやってきたかがわからない。

 前々回書いたとおり「気まぐれ美術館」シリーズは新潮社が絶版にして以降、古書以外に入手できない状態が続いていた。一方で小説や、上記を含む文学論等を編んだ『洲之内徹文学集成』(月曜社)は現在も販売されている。刊行当時(2008年)、買うか買うまいかずいぶん迷ったものの、税込8,000円となると私の金銭感覚では「業務用」だ。結局買わなかったのはケチっただけとも言えるが、私は洲之内徹を研究したり分析したりしたくない、ただの読者でいたい、という気持ちもあった。

 その「業務用」をやっぱり買うべきか、今になってまた迷っている。たぶん、そのうち買うだろうと思う。でも今はまだ読みたくない。読むのが怖いのだ。

椹木野衣さんの編集も解説も、表紙もとても気に入っている。上下巻ではなく1・2巻ということは、とりあえず3巻はあるものと期待している。

 

批評的であるということ(その二)

『日本の家郷』/福田和也/洋泉社新書/2009年刊
『日本人の目玉』/福田和也/ちくま学芸文庫/2005年刊

小林秀雄賞を擁する新潮社が洲之内徹の本を絶版にしたことは、批評的ではなかった」と前回書いた後で、なんだかバカなことを書いてしまったなと思った。新潮社で重版・絶版の決裁をする人は、そもそも自社がそういう賞を運営していることを知らないかもしれない。小林秀雄がかつて洲之内徹を「今一番の批評家」と評価したことくらい新潮社では常識だろう、と思うほうがどうかしているのかもしれない。

 もし知っていたところで何だというのか。私は出版社で働く人たちの中に、与えられた業務に忠実な「アイヒマン的会社員」の姿を何度も見てきた。文学賞の運営は彼らにとって興行の一つに過ぎないだろうに。そもそも私は何をもって批評的だとか批評的ではないと判断しているんだろう?

 批評という言葉と出会ったのは、大学二年生の秋だった。たまたま履修した大教室の講義がおもしろかったために、以降の学生生活を福田和也さんの講義とゼミを中心に過ごすようになったことは以前に書いた。その福田さんが批評家をもって任じていたのだった。

「ものごとの価値を示すのが批評です」
「文芸批評家とか音楽批評家なんていないんですよ、批評家はなんでも対象にするから」
「批評家が一つの職業として認知されるようになったのは小林秀雄以降です」
 などなど、講義や飲み会で福田さんが言っていたことを今でも覚えている。言葉の意味内容が経験によって蓄積されるとすれば、私個人にとって批評という言葉の中身は、まずは福田和也という人の批評観によって形成されたはずだ。

 そろそろ自分なりに整理しておこうと思って、福田さんの著書をいくつか手に取って頁をめくるうちに、殺伐とした気分になった。書かれた時期を遡ったほうがおもしろい。批評家としての地位を確立していく過程で、文章が弛緩していったように見える。

 たとえば1995年から1997年にかけて執筆された『日本人の目玉』。この本で一番雄弁なのは、目次だと思う。いま読んでもさすがだなと思う文章はところどころあるけれども、「虚子と放哉の間で理論を、西田と九鬼の間で思考を、青山と洲之内の間で美を、安吾と三島の間で構成を、川端において散文を問い、そして小林秀雄にたどりついた」、その章立て以上に引用したい箇所はない。

 一方で1991年から1992年にかけて執筆された『日本の家郷』では、文章自体に、おそらくはこの著者固有の批評観というものが表れている。

 あらゆる時代において、海彼の思潮に侵され、大国の陰に己の小ささを認めなければならなかった日本は、明晰な意識の前にはただ虚妄としてしかあらわれることができなかった。「虚妄」としてしかあらわれえない、日本の真実を直視した時に、はじめて文芸は「日本」を在らしめる言葉に調べを与えることができた。(中略)
 その認識が極みに達し、日本とは、あらゆる意味で実体ではなく、正当な名前ですらないと認識した時、批評がはじまる。(『日本の家郷』「第3章 虚妄としての日本」より)

 論旨について議論することは、ここではご免被りたい。ただ、この間に著者が商業誌の要請に応え、批評家という職業に邁進していったことは事実だ。初出はどちらも『新潮』という文芸誌で、単行本はどちらも新潮社から刊行されている。『日本人の目玉』が「商品」として評価されていなければ、その後同社の複数の雑誌で連載を持つことはなかったと思う。

 そして二冊を並べたとき、私個人は、後に書かれた文章よりも前に書かれた文章を「批評的だ」と感じている。批評家という職業に徹するほど批評的ではなくなっていった、私には、どうしても、そういう風に見える。

 商業主義に走りすぎた、と言うのは簡単で、実際に私が学生だった頃(『日本人の目玉』が単行本として刊行された後)、福田さんの周囲には「多作を控えたほうがいい」と言う編集者もいた(それはそれで担当編集者としては矛盾するのだろうけど)。でも、その多作をもって得た金でしこたま酒を飲ませてもらった私としては、それを云々したくない。

 それにもし「批評家という職業に徹するほど批評的ではなくなった」とすれば、それは福田和也という一人の批評家の資質よりは、近現代の批評のあり方とか、出版事業の体質に依拠するところが大きいんじゃないだろうか……今のところただの直感ではあるけれど。

 何に笑って、何に怒るか。何を喜び、何を悲しむか。その価値観は、一般化することのできない体験を基に形成される。そういうものを小林秀雄は「宿命」と呼び、江藤淳は「私情」と呼び、柄谷行人は「単独性」と呼んだ。宿命/私情/単独性を語ることこそが批評である……、これも福田さんの受け売りだ。

 私は批評家を志したことは一度もないし、「批評」そのものを扱おうとも思わない。ただ、学恩よりは酒場で恩を受けた者として、「批評的であること」についてときどき無目的に考えるだけだ。

デビュー作(文庫)や最新刊についてもいずれ書こうとは思うけれども、正直なところ気が重い。今回も、どの本を題材とするか迷ってるうち更新が遅れてしまいました。