ライターズブルース

読むことと、書くこと

墓前報告、の報告

もっと実績を上げている人はたくさんいるだろうけど。誰かの何かの参考になれば幸いです。

 なるべく定期的に読んだり書いたりする時間を設けようと思って、あとはわりと無目的にブログを始めて、地味にちまちまやってきた。昨年末、『ユリイカ』の依頼を受けて書いた原稿が不掲載となったことも、その原稿をここで公開したことも、偶発的な成り行きによるもので、昨日までに92人が購入(という名の投げ銭)してくれたことに驚いている。収支報告は以下のとおり。
  販売金額:27,600円(300円×92人)
  販売手数料:▲4,140円(27,600円×15%)
  振込手数料:▲300円
  手取り:23,160円

 アクセス解析をしたところ、1月6日から7日にかけてX(旧ツィッター)上でリンクが拡散されていた様子を確認した。当該記事(2024年12月27日付)単独でのアクセス数は昨日時点で7,491件、結果的には『ユリイカ』臨時増刊号(総特集 福田和也)に掲載されるより多くの人に読んでもらえたと思う(もちろん、読んでつまらなかったとか、眉をひそめた人もいるだろうけど)。

 92人が300円の支払いのために決済手続きをしてくれたこと、私にない能力を持っている人たちが自分のSNSアカウントで記事を共有してくれたこと、いろんな人が少しずつ手を貸してくれたおかげで、このような報告ができることを心から感謝している。どうもありがとうございます。

 特に、プロの書き手(あるいは出版社から何らかの報酬を得ているであろう人)の幾人かがおおむね好意的な(少なくとも批判的ではない)反応を示してくれたのは意外だった。経験上、こういう記事をおもしろがってくれる読者はある程度いるだろうと予測する一方で、出版業界周辺からは黙殺されるだろう、反応があったとしても「破門された元弟子による私的復讐」みたいに揶揄されるだけだろうと思っていたから。関係者にとっては、雑誌の原稿料を公に晒す「めんどくさい著者」の存在は黙殺したほうが無難というもので、いくらかリスキーかもしれない行動をとってくれた方に、敬意を表したい。

 フリーライターを廃業した理由はその気になれば二ダースは挙げられる、と以前書いたが、要するにこういうこと(原稿料が安いとか編集者が**だとか)を、書きたいと思ったときにいつでも書ける自分でいるために辞めたんだな、と納得もしている。

 そんなわけで『ユリイカ』の明石くん、いろいろどうもありがとう。お礼に宣伝文の一部を添削してあげよう。

原文:福田和也の人生はその著作のなかに収められるのではない、残された人々が今日もつづけていくのだ。
(人は誰しも自分の人生を生きるのであって、誰かの人生を他の誰かが続けることはできない。雑誌の宣伝文だから、ある程度の誇張表現は仕方ないとしても、虚言や妄想の類は慎んだほうが良い。一方で、慕っていた先生の不在に耐えがたい、という心情は理解と同情に値する。故人の著書『ろくでなしの歌』へのオマージュを込めて、以下のように添削した)
添削例:福田和也が歌ったメロディーは、その著作の中だけに響くのではない、残された人々が今日も歌いつづける。

 二十数年前、ゼミの合評会で私が他の学生(特に男子生徒)の作品をこき下ろすと、福田先生はうつむいて、笑いを堪えていたものだった。私はなにも男子生徒をいじめたかったわけではない、学生同士が遠慮や忖度をし合っていたのでは、先生が講評しにくいだろうと思ってのことだった。いろいろ教えてくれたり、酒を飲ませてくれる人に対して、私はそういう尽くし方をした。

 もろもろの報告と、花と酒とカツサンドを携えて、昨日墓参りに行ってきた。プリントアウトした販売実績データを線香と一緒に焚きあげた。「福田和也という人は知らないけどおもしろかった」という感想は、たぶん、ご本人が聞いたら一番喜ぶと思う。

福田和也の墓に酒とカツサンドを供える弟子が、少なくとも一人はいたという記録のために撮影しました。転載は固くお断りします。また故人の冥福を祈り、所在地その他の詮索は慎んでいただくようお願いいたします。

 報告は以上。以下は、お礼になるかどうかはわからないけど、福田和也という人物を考えるうえで参考になりそうな情報を二つばかり追記する。

 一つ目は、家出直後の原稿の荒廃についての具体例。記事の大部分が他人の著作からの引用、という状態が数週間続いたことは以前記した(2024年1月19日付投稿)。単行本化はされていないが、2012年1月から2月の『週刊新潮』をあたれば実態を確認できる。

 もっとひどかったのが、月刊『文藝春秋』の連載「昭和天皇」。山田風太郎の『戦中派不戦日記』の一部を書き写したと思われる箇所が2〜3頁くらいあって、出典の記載もなかった(著作権の侵害に該当するかもしれない)。単行本で訂正がなされたかどうかは確認していないが、『文藝春秋』2012年3月号(2月10日前後発売)と『新装版 戦中派不戦日記』講談社文庫版、100頁~109頁)で照合できるはずだ。

 上記二件について、著者を擁護するつもりはまったくない。その一方で、こういう原稿を掲載した編集部、担当編集者も怠慢だったと思う。お金を払って雑誌を買う読者に対して。

 前掲『ユリイカ』増刊号には編集者あるいは元編集者15人が名を連ねているが、私の知る限り半数以上は、福田さんの家出とその後の「仕事ぶり」を黙認していた。置き去りにされた荷物(蔵書その他の資料を含む)を代理で引き取りにきた編集者は、一人もいなかった。

 参考情報二つ目は、処女作『奇妙な廃墟』の成立に、配偶者が果たした役割について。

 仏文学者の平坂純一さんによると、故・西部邁氏は「福田は細君にドイツ語を任せ、デビュー作を書いている」と話していたという(『情況』2024年Autumn号掲載、「衒学的な、あまりに衒学的な」)。この記事を読んで私が思い出したのは、『奇妙な廃墟』の序章に記された、詩人パウル・ツェランと哲学者ハイデガーの邂逅譚だ。コラボトゥール(ナチズムに加担したフランス文学者)を論じた本書において、「アリバイ」と位置付けられている重要なエピソードを、著者に知らせたのは当時の妻の弘美さんだった、と以前聞いた覚えがあったからだ。

 マルティン・ハイデガーパウル・ツェランは、ナチスユダヤ民族に加えた蛮行をはさんで正反対の位置にありながら、ジェノサイドと全体主義の本質を前にして、虐殺と圧制にみちた現実よりもさらなる深淵への到達を詩作=思索する者の課題とすることにおいて一致して結びついた。この結びつきはもとよりハイデガーが許されたとかツェランが癒されたといったことからは最も遠いことである。しかし、それでもなお、かれらの結びつきは、「アウシュヴィッツ」後の時代における最も建設的な関係であるし、文芸にとっての希望でなければならない。(中略)
 ここでハイデガーツェランが到達した地点が、小論がコラボ作家を論じる位置であり、またいうならば一種のアリバイである。(『奇妙な廃墟』/2002年ちくま学芸文庫版/45~46頁)

 ここで言う「アリバイ」という言葉は、不在証明というよりは免罪符という意味合いに近いと私は理解している。ヒューマニズムの観点から抹殺されてきた作家の作品を、文学として評価することへの免罪符だ。

 今回ブログを更新するにあたって、私の記憶に間違いないか、弘美さんにメールで確認したところ「たしかにそうです」との返信を受け取った。また、ハイデガーツェランを「森の樹木と語ることのできる詩人」と評価していたというエピソード(同、43頁)は、いささか意訳であることに加えて、下記二点を教示してくれた。

・直訳すると「ハイデッガーは、かつて、私に、シュバルツバルトでのツェランは植物と動物について、ハイデッガー自身よりも、より多くの知識を持っていた、と述べた」となるが、「付け加えると、パウル・ツェランは、”学識ある詩人”でもあった─さらに全く驚くべき、自然に対する知識を有した人間であった」という前文を受けての意訳だった。

・上記エピソードを記したH・G・ガダマーの著書”Wer bin Ich und wer bist Du?”については『奇妙な廃墟』序章の注記33に出典が記載されているが、出版社名「Suhrkamp」は不完全で、より正確には「Suhrkamp Verlag」である。

 福田和也の遺作となった『放蕩の果て 自叙伝的批評集』(草思社/2023年刊)第一部の「妖刀の行方──江藤淳」では、処女作の執筆当時の生活についても記されているが、そこに弘美さんの名はない。妻に支えられて執筆したこと、その妻から自分がいかにして逃げたかを書くことができたなら、「自叙伝的批評集」となり得たかもしれない。

 

報告と御礼、お詫びと訂正、などなど

現在のアクセス数は496、購入が20。だいたい25人のうち1人が購入してくれたらしい。

【報告と御礼】
 12月27日付の投稿について、20人の方が購入(という名の投げ銭)してくれました。収支報告は以下のとおり。
 販売額:6,000円(300円×20人)
 販売手数料:▲900円(6,000円×15%)
 振込手数料:▲300円
 手取り:4,800円
 購入してくださった方、SNS等でリンクを転載してくださった方へ、心から御礼申し上げます。どうもありがとうございました。
 福田和也さんの墓前に供える花とお酒と、まい泉カツサンドくらいは買えそうです。お墓の所有管理者ではないため所在地を明かすことはできませんが、なるべく今月中に、場所の特定に結びつかない程度の写真を撮ってご報告したいと思います。

 

【お詫びと訂正】
 アクセス解析をしたところ、田中純氏のブログ内に追記として、当ブログへリンクが貼られていることを確認しました。

https://before-and-afterimages.jp/news2009/2024/12/27/『ユリイカ』福田和也特集/

 また1月4日に近所の図書館で当該『ユリイカ』を拝見したところ、田中氏のご指摘のとおり「『福田和也のオトモダチ』による文集」という表現は適切ではなかったことがわかりました。お詫びします。以上を踏まえて、前回の投稿を以下のように訂正しました。
訂正前:公平性云々は方便で、「福田和也のオトモダチによる文集」には適さないというのが本音かもしれない。
訂正後:公平性云々は方便で、なんとなく載せたくないというのが本音かもしれない。

 

【『ユリイカ』臨時増刊号(総特集 福田和也)の感想、もしくは印象】
 古屋健三さん(大学時代の指導教授)の談話と、佐々木秀一さん(処女作『奇妙な廃墟』の担当編集者)の寄稿がおもしろかった。また、修論の抜粋と単行本未収録原稿が掲載されているのは資料的価値があると思う。それ以外は拾い読みした程度で、気が向いたらそのうちまた図書館で読んでみようと思う。
 今あまり気が向かないのは、私が知っている福田和也という人は、だいぶ前に死んでいたからだろう。つい最近死んだと認識している人たちのノリには付いていけない、もちろんその認識が正しいのだとしても自分はこの葬列には加われない……というのが拾い読みの感想、というか印象だった。

 

重松清さんへの御礼と補足】
 重松清さんが福田さんへの弔辞の中で私の名前を挙げてくださっていたことは人伝てに聞いており、『ユリイカ』増刊号でその内容を確認した。この場を借りて御礼申し上げます。
 雑誌『en-taxi』との関わりについて補足すると、私は依頼を断ったことは一度もなく(一度に三本書いたこともある)、自分から「書かせてほしい」と言ったのは一度だけだ(相手にされなかったことは2024年9月22日付投稿で記した)。五年くらい続いた連載が終わったときは打ち上げもなかった。その後に編集同人に加わった重松さんとは一度も面識がないだけに、「誌面を支えてくれた」とのお言葉が嬉しかった。

 

【拙稿への反省と補足】
 12月27日と30日に更新した内容について、直接的に間接的にいくつか反響をいただいたが、そのうち多いのが「よくあることじゃないか」というものだった(上述した田中純氏のブログにも「家庭内のいざこざは誰にでも起こりうること」とある)。どうも意図したことが伝わっていない、私の書き方がまずかったのだろうという反省の意味で、以下に少し補足する。
 不倫や別居や離婚自体はよくあることだろうけれども、私が問いたかったのは、学生を巻き込む必要がどこにあったのか、ということだ。大学の構内で配偶者をストーカーだと偽り、学生たちを盾にして逃げるという行いは、教員がやっていいことではなかったと思う。どんな事情があったとしても。もし家出後の福田さんが、大学教授という定職や批評家という肩書きを捨てて、私小説か自伝的エッセイあたりを書いていたなら、それがどんなにくだらない内容だったとしても、私は温かい気持ちで見送ることができただろう。
 少なくとも私は、いきなり羽交締めにされる経験をしたのは後にも先にもあのときだけで、それなりに怖い思いをした。「大変だったね」とか「かわいそうに」という声は特になく、それはまあ別にいいけれども、「よくあること」と言われるのはいくらか心外だった。
 どこがまずかったんだろうと読み返してみたけれども、自分で自分の原稿を客観視するのは難しい。もう少し時間を置けば具体的な改善点が見えてくるかもしれないが、今のところ「誰か病院に連れてってあげたら」というのが自分の原稿に対する感想だ。
 ちなみに一番嬉しかったのは「愛がある」という感想。それはそれで意外だったが、言われてみればそうかもしれない。

 

【その他備忘】
 いろいろ思い出したことがある一方で、時間の経過とともに忘れかけていることもあり、福田さんとの個人的な関わりについて年末年始に整理してみた。自分自身の備忘のためであり、ブログで公開する必要はないと思うが、そもそもブログ自体がやる必要もないのであって。
 大半の人にはつまらないだろうけれども、福田さんの人となりについて知りたいという人には、少しだけ参考になる箇所があるかもしれないので、一応以下に記録を残します。

・1999年4月 大学入学
・2000年9月 福田ゼミに所属
・2003年3月 『en-taxi』創刊、短いコラムを寄稿。単位が足りず留年
(福田さんが馬込から旗の台に転居して、そのお手伝いに行ったのは多分この前後)
・2003年4月 拙著『間取りの手帖』を上梓
(この頃に『文藝春秋』で福田さんと鹿島茂さん、松原隆一郎さんによる鼎談書評が始まり、2年間くらいその構成を担当させてもらった)
(渋谷のブックファーストでアルバイトをしていたのもこの頃。レジにお子さんを連れた福田さんが現れたことがあり、福田さんの奥さんが現れたこともあった)
・2003年9月 大学卒業、以降はフリーライター
(品川区戸越に引越して、大井町とんかつ屋「丸八」に誘われたのがこの頃。戸越と旗の台は近いので、度々ご自宅に招いてもらったり、銀座で飲んだ帰りのタクシーに同乗させてもらったりした)
・2004年6月 『en-taxi』6号に「角川春樹句会」を寄稿。以降、連載化
(連載の他には、対談や座談会の構成したり、その時々の特集に寄稿したり。重松清さんが弔辞で言及していた石原慎太郎×立川談志の対談は、2006年か07年頃だったと記憶している)
・2007年1月 『週刊モーニング』の巻末に「悶々ホルモン」を連載
(6回目か7回目が掲載された後、福田さんから電話がかかってきて「アナタの好きなホルモン焼きに案内してほしい」と呼び出された。私が焼いたミノを食べながら、原稿をホメてくれた)
・2008年2月 師弟関係に亀裂が生じた
2023年12月8日付投稿に関連)
・2008年6月 京都の肉割烹「安参」に連れていってもらう
(「悶々ホルモン」単行本用の番外編のため。内心悩んでいたが、原稿は努めて陽気に書いた覚えあり)
・2008年10月 師弟関係の変質を受け入れた
(福田さんが旗の台から目黒区内に転居したのがこの頃。奥さんの手伝いに行って、帰宅した福田さんと鉢合わせし、ギョッとされた覚えあり)
・2009年3月 陶芸家・吉田明さんの追悼文を『en-taxi』に寄稿
・2009年6月 『en-taxi』の江藤淳特集に「師と師の師の間に」を寄稿
・2009年9月 『en-taxi』のブルジョワジー特集に「我が石原慎太郎の慎太郎」を寄稿
(上記三本は、いわば福田さんの「無茶ぶり」。福田さんはいずれの原稿もホメてくれたが、素直に喜べなかった記憶あり。江藤淳特集については、奥さんが「福田は良いお弟子さんを持ちました」と言ってくれた。慎太郎の慎太郎については、アモーレの澤口さんが「あの雑誌で気を吐いているのはお前だけだ」と言ってくれた。そっちのほうが嬉しかった)
・2010年3月 師弟関係が破綻
(当時の私から見た福田さんは、やってることは醜悪だし、書いてるものはつまらないし、「アタマおかしいんじゃないの」という感じだった。今後は表面上のお付き合いに留めましょう、と申し入れた覚えあり。現実はなかなかうまくいかなかったが)
・2010年4月 母校大学で非常勤講師として週に一コマのワークショップを出講
(福田さんは酒井信さんを誘ったが断られて、その代打として私に話が回ってきたのが1月頃だった)
・2010年10月 怪文書事件発生
2023年6月30日付2023年8月11日付の投稿に関連あり)
・2010年11月 福田ゼミの謝恩会開催
(99年入学組の幹事として関わった。「最後のご奉公」のつもりだった)
・2010年12月 『en-taxi』「角川春樹句会」最終回
・2011年3月 東日本大震災発生
(たしかその翌日に神保町の東京堂書店で、坪内祐三さんと福田さんのトークライブが開催された。打ち上げ後に福田さんをご自宅へ送る際、なぜか戸越のカラオケボックスに立ち寄った記憶あり。福田さんとサシで飲んだのはこれが最後だったと思う)
・2011年12月 福田さんの「放蕩」の実態がご家族に露見し、年末に家出
・2012年1月 ご家族からの連絡を受けて、捜索に協力
2024年12月27日付投稿参照。奥さんを大学へ案内したのは、2月の第一週か第二週、学期最後の授業の日だった。夫の勤務先へ行くのは本当に「気が進まない」ことだったに違いなく、最低限のマナーとして「教室内には立ち入らない」と事前に打ち合わせていたことを追記しておく)
・2012年2月か3月 福田さんのお子さんと文藝春秋の飯窪氏との面会に同席
(私が見た限り、福田さんのご家族が一番心配していたのは、家出以降の原稿がたとえようもなく荒れていったことだった。2024年1月19日付投稿参照)
・2012年3月 青山ブックセンターで福田さんのサイン会
(店の前で福田さんのお父上を出迎えて、会場まで案内した。私がお父上と対面したのはこの一度きり、小柄で、足元が覚束なかった記憶あり。私自身も列に並び、著書『村上春樹12の長編小説』にサインをもらったが、ため書きには福田さんのお子さんの名前を指定した。お子さんの名前を書く福田さんの手は震えていた)
・2012年5月頃 蔵書を中心に、福田さんが置いていった荷物の片付けを手伝う。
2023年5月12日付2023年5月19日付2024年6月16日付投稿参照)
(非常勤講師として母校大学に出講したのは2012年春学期が最後。福田さんからは何の連絡もなし)
・2012年9月 『病気と日本文学 近現代文学講義』刊行
(学生時代に録音した音源を元に構成した講義録。制作の途中で家出騒ぎが発生して、担当してくれた洋泉社の雨宮さんにも迷惑をかけた覚えあり。最終章に単行本のための「特別講義」を設けたが、レコーダーを回しても福田さんは意味のあることをほとんど喋らなかったため、指定された教材と断片的な言葉を手掛かりとして九割方は私がでっちあげた)
(以降、福田さんとの個人的な関わりは一切なし)

『病気と日本文学 近現代文学講義』/福田和也/洋泉社/2012年刊
10年前の講義をテキスト化したもの。文字起こしをしながら、「福田先生こそ病気なんじゃないの」と震撼した覚えあり。

 

続・恩師の背中

『放蕩の果て 自叙的批評集』/福田和也/草思社/2023年刊

 いずれ忘れてしまうだろうから、今のうちに書いておこう。九月の末、福田和也さんの葬儀が済んだ頃にこんな夢を見た。
「死ぬのが怖い、行ったら戻れない」
 どこかの公園だか河川敷だか、西陽に染まった野っ原で先生が泣いている。
「仕方ないじゃないですか。私は大丈夫ですから」
 そう言って背中をさすってあげる夢だ。ロロピアーナのジャケット越しに触れた背中は、まだ肉が付いていた頃の、私が知っている福田先生の背中だった。

ユリイカ』から寄稿依頼があったのはその一ヶ月後くらい、世に出ている追悼文の類に目を通しながら、さて何を書こうかと考えた。前回更新した内容、つまり、なりふり構わず逃げ去った「恩師の背中」を書こうと思ったのは、そのほうが雑誌全体がおもしろくなると思ったからだ。卒業生による寄稿は七、八本予定されていたから、恩師を後ろから斬りつける原稿が一本くらいあったほうが全体として盛り上がる……少なくとも私が学生だった頃の福田さんなら、そういう意図をホメてくれただろう。

 思い出すままにキーボードを打って、三、四時間で七、八枚くらいになった。残すべき要素に優先順位をつけて、一時間くらいかけて指定字数(五枚弱)まで削った。原稿料は一枚あたり千円とのことだから合計四千数百円、私が供出できる時間はこのくらいが限度だ。ちなみに今回使ったネタは、寿司に喩えるなら穴子イクラとかウニとかトロではないし、私の好きな〆鯖でもない。

 掲載見送りとされた理由については、編集長の明石くん(福田ゼミの後輩)でないと本当のところはわからない。私が理解した範囲では「公平性に欠ける」ということらしい。本文中に書いた騒動の日、奥さんが福田先生に暴力を振るって、それが発端となって先生は逃げたと聞いている、私の書き方は奥さん側に有利な方へ偏っている、とのことだった。

 元はといえば、福田さんが**や**を滞納して、彼女と称する女性との遊興に散財していたと露見したことが「発端」だったと私は思うが、「奥さんにも原因がある」とか「物書きは何をやっても許される」とか言う人もいるだろう。夫婦の揉め事を第三者が公平に描くなんて土台無理な話で、私は「いろいろあったうちの一つ」、つまり「恩師の背中」を書いた。そのように伝えたが、とにかくこのままでは掲載できないとのことだった。

 2012年以降の福田さんが尋常でない痩せ方、老け方をしていったのは、関係者でなくとも周知の事実だ。原稿の荒れ方も尋常じゃなかった。2011年末の家出は自殺行為だったと言っていいと思うが、衰弱していく様子を間近で見てきたであろう明石くんが、いまだに「奥さんに有利(先生に不利)」という言い方をしていることに私は驚いた。

 それ以上に難儀だったのは、彼が使う「公平」という言葉にほとんど意味を見出せないことだった。私が思う公平性は、たとえば自分が編集の仕事で人並みの給料を貰っているなら、外部に原稿を発注する際は一枚あたり最低四千円の原稿料を用意することだ。それができないなら、原稿の内容について著者と対等に交渉できる立場ではない。アンタにとってはメシのタネでも、こっちにとっては仕事にも何にもなりゃしないんだから。

 それでももし明石くんの意を汲むとすれば、たとえば編集後記に次のような文言を付け加えれば済む話だ、「◯頁の佐藤和歌子さんのエッセイで書かれた騒動について、編集部ではかくかくしかじかとの情報を得ています。公平性に欠けるのではと懸念しましたが『読者の判断に委ねたい』との著者の意向を尊重し、そのまま掲載することとしました」。あるいはタイトルを「短編小説・恩師の背中」にするとか、(私自身は小説と称するほどクリエイティブな原稿を書いたとは思わないけど)彼のほうから提案があればそのくらいは譲歩したかもしれない。

 要するに、カネが出せないならアタマ使え。あたしの時間を奪うな。自分で何とかしろ。……こういうこと言わなきゃわかんない人って、たいがい、言ってもわかんないんだよな。それに公平性云々は方便で、福田和也のオトモダチによる文集」には適さないというのが本音かもしれない。なんとなく載せたくないというのが本音かもしれない。(2025年1月6日訂正)

 さきほど青土社の公式サイトを確認したところ、前に見たときにはあった執筆者の名前がまた一つ消えていた。しかも定価が2,640円から3,080円に上がっている。やれやれ。

 年の最後に、福田さんの遺作『放蕩の果て 自叙的批評集』の一節を引用する。

 確かに、私は江藤さんから妖刀を譲り受けた。いい気になって、振り回していた時期もあった。
 しかし、この十年ほど妖刀の姿を見ていない。(中略)
 一体、今妖刀は何処にあるのだろう。
 誰か知っている人がいたら、教えてもらえないだろうか。(「妖刀の行方──江藤淳」より)

 そんな妖刀なんてものが本当にあったとしたら、先生が出ていったあの家に置いてきたんじゃないですかね。もしまた夢に出てきたら、そう教えてあげよう。

前回、「購入」機能を初めて使ってみたところ10人の方が「投げ銭」してくれました。どうもありがとう。目標の20人に届いたら、福田先生の墓参りに行って当ブログで報告します。
それでは、良いお年を。

 

場外追悼・福田和也

本日発売の『ユリイカ』増刊号に掲載予定だった記事をお届けします。縦書きの印刷物を想定して書いたからブログの体裁では少し読みにくいかもしれない。でもまあ経緯が経緯なので加筆修正はしていません。

恩師の背中

佐藤和歌子

 私の最初の単行本はヘンテコな間取り図ばかりを載せたヘンテコな本だった。学生時代に作っていたフリーペーパーが編集者の目に留まって本を出すことになって、それがヒットしてフリーライターになったんですよと話すと、「調子に乗っちゃったんだね」と今でも言われる。実際には調子に乗るどころではなかったのだが。

 二刷の知らせを受けたときは素直に嬉しかったけれども、三刷、四刷になると「コワイ、キモチワルイ」。売れる前と売れた後で私は何も変わらないのに、いろんな人がいろんなことを言い出す。本が売れたんだからニコニコしてなきゃいけないのに、当時の私はいつでも泣きたい気持ちだった。

 実際に泣き出してしまったことがある。夏のゼミ合宿の二日目の講評会の席で、寝不足だったり前夜の酒が残っていたり、気がつくと涙が止まらなくなっていた。

「いきなり読者が増えるってキツイよね」

 その夜の飲み会で、福田先生はそう声をかけてくれた。

「でも、本が売れるっていいことだから。本屋さんも喜ぶし、印刷屋さんも喜ぶ。絶対、いいことだから」

 教え子が出した本が自分の本より売れて、教え子を慰める先生がどこの世界にいるだろうか。それが福田先生だった。

 それから二十年の間にはいろいろなことがあって、先生とは疎遠になり、フリーライターは廃業した。「いろいろ」のうちの一つを書くとしたら、やっぱりあれか。

 福田先生の行方がわからないとの連絡をご家族から受けたのは、二〇一二年の三が日が明けた頃だった。高齢のご両親の入院が重なるなか、長子である先生と連絡が取れず、ご家族は困憊しきっていた。私は「一緒に土下座してあげますから」というメールを先生に送ったが、音沙汰なし。「本当は気が進まないんですけど」という奥さんを、先生の勤務先(したがって私の母校)である大学に案内することになったのは、学期末が迫る寒い日の午後だった。

 教室は二階で出入り口は二箇所、片方で奥さんが、片方で私が待ち伏せた。日が落ちて終業時刻を少し過ぎると、私が待ち構えていたほうの扉から先生が出てきた。

「お迎えにあがりました」

 私は先生の右腕をしっかり抱えた。しかし先生は、事態を察するやそれを振りほどいて教室の中に戻ってしまった。

「どうしましょう」

「待つしかないですね」

 五分くらい経っただろうか。扉が開くと今度は学生が大勢出てきて、私と奥さんを取り囲み、取り押さえた。

「あなたたち、不審者ですよ!」

 どうやら先生は「ストーカーに待ち伏せされていて帰れない」などと説明したらしい。「その人は先生の奥さんです」と私は怒鳴ったが、福田先生を守ろうという彼らにもみくちゃにされて身動きがとれない。先生はその間に逃走した。

 遠巻きに見守る学生の中に顔見知りを見つけて助けを求め、やっと解放された私と奥さんが校舎の裏手に向かうと、先生はタクシーに乗り込むところだった。出発しようとするタクシーに奥さんが体当たりをして、運転手に怒鳴られた。「この人ストーカーです、助けてくださーい」と先生が叫び、「夫婦喧嘩ですから、お構いなく!」と私も叫ぶ。奥さんだけは抑えた声で「話し合いましょう」と呼びかけていた。

 結局、もう一台タクシーを呼んで先生の車を追いかけたが、信号待ちで巻かれてしまってその日の追跡は諦めた。辻堂駅から上りの東海道線に乗ると、暖房は効いているのに膝が震えだした。先生は学生を騙して、利用して、逃げた。奥さんか私か、学生さんが怪我をしてもおかしくなかった。

「あれは、書けなくなりますね」

 私がそう言って奥さんが頷いたのだったか、奥さんが言ったことに私が頷いたのだったか、思い出せない。ただ、先生は奥さんから逃げたのではない、自分自身から逃げている、と思ったことは覚えている。別居するにしろ離婚するにしろ、もう少しマシなやり方がある。

 逃げたこと自体を非難するつもりはない、私だってライター業から逃げた。でも、自分自身に対して批評的でない人に、批評の文章が書けるだろうか? 批評家という洋服を着ている限り、批評からもっとも遠い場所にいる。やがて疎遠になった福田和也という人を、私はそのように眺めていた。

 以上。掲載見送りとなった経緯については次回、「続・恩師の背中」とでもしてなるべく年内に書いてみます。

 下方にスクロールすると「記事を購入」というボタンが表示されますが、要は「投げ銭。「おもしろかったよ」とか「ユリイカ編集部はけしからん、代わりに原稿料を払ってやろう」という意気なお方は、どうぞご購入ください。ただし、購入しても「ありがとう」程度の文言しか表示されないのでご注意を。

 運営側の手数料は15%とのこと、20人以上の人が300円で「購入」してくれれば『ユリイカ』から原稿料もらうよりマシだった、という計算。SNSで拡散したい人はご自由にどうぞ。もしそれなりの金額になるなら、その金で酒買って福田先生のお墓参りに行ってきます。

(以下は2025年1月6日追記)

 購読者が目標の20人に達しました。どうもありがとうございます。
 購入ボタンは残しますので、初めて訪れて、福田和也の供養に参加したい、そういう志を私に託してもいいという方は、どうぞご購入ください。命日の前後にでも墓参りに行って、花と酒を供えて、お志を伝えてきます。

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雑記と予告

来年のカレンダーは今年に引き続き安西水丸さんにしました。
『安西水丸 カレンダー 2025』

 小山田圭吾さんが東京オリンピック開会式の作曲担当を辞任したという報道が出たとき、私が最初に思ったのは「何人目だったんだろう?」ということだった。「世界的に有名な日本人作曲家」という括りでまっさきに思いつくのは坂本龍一さんで(当時まだご存命だった)、開催側はオファーしたけど断られたのかもしれないな、若い頃に小山田圭吾さんと組んでいた小沢健二さんは、オファーが来たとしても断りそうだ、映像作家でいえば宮崎駿さんも、まず引き受けないだろう……。そういう、表には出てこない話が何件くらいあったんだろう、とぼんやり考えたものだった。

 なぜそんなことを思い出したかと言えば、手元に『ユリイカ』一月臨時増刊号の企画書なるものがあって、現在公式サイトに載っている執筆者一覧と見比べていたからだ。九月に亡くなった福田和也さんの追悼特集を組むとのことで、私のところへは十月末に寄稿依頼があり、企画書はそのメールに添付されていた。企画書には入っていたけれども、公式サイトには載っていない「執筆者」が、ざっと見る限り五、六人はいる。

 かくいう私もその一人だ。断ったのではない、原稿を書いてゲラを戻して責了したつもりだったが、つい先日編集部から「物言い」が付いて掲載見送りとなった。こんなことなら引き受けなければよかったと、つい双方のリストを見比べて、最初から依頼を断ったであろう賢明な御仁の名前を確認していたわけだ。

 

 断ろうかと思う理由は二つあった。まず原稿料が400字あたり1,000円、ほとんどボランティアだ。制作費が足りないなら隔月刊とか季刊にすればいいものを、月刊に加えて臨時増刊号を出して、それを2,640円で商業出版するというのは、私の感覚で言えば厚かましい。

 加えて、寄稿依頼の文章が意味不明だった。メールを引用するのは差し控えるが、興味のある方は以下、青土社の公式サイトの予告文をご覧されたし。

青土社 ||ユリイカ:ユリイカ2025年1月臨時増刊号 総特集=福田和也

福田和也の人生は(中略)、残された人々が今日もつづけていく」、やっぱり意味不明だ。「残された読者の中で生き続ける」とでも書けばいいのにと思う。依頼メールもこの調子で長文が綴られていて、判読するだけでひと苦労だった。亡くなった福田さんへの義理を通すために引き受けて、さっさと書いて終わらせたつもりだったのだが。

 フリーライターをしていた頃、「ここは削らないとマズイ」と言われることはあっても「これを加筆しないと掲載できない」と言われたことは一度もなかった。「だったら自分でお書きになればいいのではないでしょうか」と編集者に伝えたが、私の意味するところも、彼には不明だったらしい。フリーランス法を盾にゴリ押しすることも一瞬考えたけれども、これ以上関わりたくない気持ちが勝った。

 まったく、まともに読み書きのできない編集者を相手に原稿を売ることほど不毛なことはない。思い出してみれば、そもそもそれで私はライターを辞めたのだった。……どうも愚痴っぽくなってしまったので、江藤淳さんの文章を引用しよう。

 いずれにしても、本とは活字だという考え方は、本とは思想だという考え方とどこかで通じ合うものであるが、私はこういう考え方にまつわりついている一種貧寒なものに、あまり親しみを感じることができない。本とは、むしろ存在である。活字になった言葉と、語られていないそれより重い言葉との相乗積である。そして、また、そのように感じられる本だけが、私にとってはなつかしいのである。(『なつかしい本の話』江藤淳/ちくま文庫

「活字になった言葉と、語られていないそれより重い言葉」という一節は、今年出会えてよかった文章の一つだ。亡くなった福田和也さんについても「語られていない言葉」がたくさん存在している。

 掲載見送りとなった原稿は、雑誌の発売日(12月27日)に当ブログで公開する予定です。福田さんのことで検索してお越しになった方には、興味を持ってもらえる内容だと思うけど、そうでない方は少々退屈させてしまうかもしれません。でもまあ、せっかく書いたので。

(2024年12月27日追記:ユリイカ臨時増刊号の定価は税込3,080円に変更されたようです)

 

今年の安西水丸カレンダーで一番印象的だったのは10月。UFOとコーヒーカップとマーブルチョコの絵に添えられた言葉は「なんか変だな。そんな人生である」。そう、そんな人生なんだよなあと頷くことの多い年だった。

 

カウンターの内側から

『うつわや料理帖』/あらかわゆきこ/株式会社ラトルズ/2006年刊
『うつわや料理帖Ⅱ』/あらかわゆきこ/株式会社ラトルズ/2010年刊

 週に何度か鎌倉のカフェバーでアルバイトを始めた。人生初の飲食業は覚えることだらけで、最近は家でもドリップ用のケトルをくるくる、バースプーンをくるくる、隙があったら練習、練習。フルタイムで勤めるわけではないので、カレーやガパオを覚えるのはもう少し先になりそう。その間、私が一人で入るときはカンタンなおつまみを出すことになった。

 ドリンクのオーダーをとりながら出せるもの、となると凝ったことはできない。カフェバーだから、なるべくフォークかスプーンで食べられるものが良い。お酒のアテになるもの、軽く小腹を満たせるもの、原価があまり高くないもの。等々、あれこれ考えながら11月は料理の本ばかり開いていた。

 新しく買った本もある一方で、前から持っていた本も、今までとは違った風に見えてくる。

 たとえば『うつわや料理帖』と『うつわや料理帖Ⅱ』。器のお店の主がお客さんに教わって、作っておいしかったレシピを紹介した本で、レシピにまつわるエピソードと、器とその作り手の紹介を交えながら、口伝えらしい手軽に作れる料理がたくさん載っている。パセリが余ったときは「じゃが芋とにんにく炒め」を、梅酒に漬けた梅を貰ったときは「手羽先梅煮」を、ホームパーティに招かれたときは「ヤム・ウン・セン」を、という具合に活用してきた。

 そして今、自分がカウンターの内側に入ってみると以下の前書きに「なるほどなあ」と思う。

店というのは「この指止まれ」と、いつも指を揚げているようなものだと思います。
食べることが好き、料理が好き、お酒が好き、花が好きという、店主の好みとどこか重なり合い、「この指」に止まって下さった方々との交友録は、店の歴史と共に増えて行きました。(中略)
おいしい料理が人から人へ伝わるのはすてきです。(『うつわや料理帖』「はじめに」より)

 代々木上原の「うつわや」は、実際すてきなお店だった。

 初めて訪れたのは2009年、亡くなった陶芸家について書くという仕事を引き受けてしまって、その取材先の一つだった。作家ものの器なんて買ったことがない、完全に門外漢の私が事情を打ち明けると、店主のあらかわさんは「それは大変でしょう」。淡々と、器のこと、故人のことを話してくれた。記事が掲載された雑誌を持って挨拶に行って、それでも器はなかなか買えなくて、先に著書を買い、ときどき届く作家展のお知らせを持って恐る恐るお邪魔して。

「後始末を人にさせたくない」とお店を閉めたのは2016年。それまでに私が買ったのは漆のタンブラーと、ガラスの小鉢と片口、白磁の中腕、小皿、数えるほどしかない。それでも、器を選ぶ楽しみのようなものを初めて体験することはできた。

 鉄瓶で沸かしたお湯で淹れてくれるお茶がおいしくて、器やお花を眺めながらあらかわさんや他のお客さんの話を聞くのがおもしろくて、手ぶらで来て手ぶらで帰ることが申し訳なくて。いっそ喫茶店としてお会計してくれたらいいのに、と思ったこともあった。

 言ってみれば私は、あらかわさんが揚げた「指」にふらふらと近づいては、しっかり止まれる脚を持たずにいたわけだな。料理と器の写真を眺めていると、別世界にあこがれるような、当時の気持ちがよみがえってくる。

 そして私のバイト先も、まさに「この指止まれ」だ。店長はアパレル業界の出身で、内装は鎌倉のカフェの中でも屈指のオシャレさ(だと私は思う)。オシャレなだけなら私が客として通うことはなかったはずで、自家製のトニックウォーター、ジンジャーシロップやコーラシロップを使ったカクテルを昼間から飲ませてくれる。店長がデザインした男女兼用のオーバーオールの他、コーヒーカップやアクセサリーが並び、店の奥の工房ではたまにミシンを動かしている。そこにいろいろな人が来ては去っていって、そしてまた戻ってくる人もいる。

「この指止まれ」の「指」に、今回はどうやら止まることができたらしい。指を揚げる側になれるかどうか、止まってくれる人がいるかどうかは、もう少し続けてみないとわからない。

 

(そんなわけでしばらくぶりの更新になりました。以下は営業。)

『Jenteco LABO』は鎌倉駅西口から徒歩3分、御成通り沿いの入口がわかりにくいカフェです。私は今のところ金曜の夜と、今週は臨時で7日(土)17時から出勤予定。

ある日のおつまみ。カレーやガパオなどのお食事は21時でラストオーダーなのでご注意を。21時以降「ブログ見たよ」というお客さんにはスパイスナッツをサービスします。

今だからこそのバーコード問題

『装丁物語』/和田誠/中公文庫/2020年刊

 日本で流通する書籍にバーコードが印刷されるようになったのは、だいたい1990年頃だそうだ。私は小学4年生か5年生くらいだったはずで、だからまあ自分のお小遣いで本を買うようになる頃には、あって当たり前のものになっていた。記憶を掘りおこせば、小学校低学年の頃にお小遣いで買った『ドラえもん』の単行本には、じっくり眺めたその裏表紙には、あんなものはなかったような気がするけれども。

 大人になって本を作ることになったとき、一番楽しかったことの一つはデザイナーさんとの打ち合わせだった。本文用紙は時間が経つと黄ばむ紙がいいとか、トイレに置いてもらえるような本にしたいとか、オマケをつけたいとか、素人の私が思いついたことを口走ると、彼ら(二人組のデザイナーさんだった)はそれをアイデアとして受けとめて一つ一つ具体的な形にしてくれた。
「バーコードがなあ……」
 カバーのデザイン見本を広げながら、彼らの一人が顔をしかめたときは、私もやっぱり顔をしかめた。表1と表4が一体となったそのデザインに、二連のバーコードはどう見ても邪魔だった。カバー用紙の裏にちょっとしたオマケを印刷して、それが少しだけ透ける包装紙のような紙を選んで、せっかくいい感じに仕上がったのに。バーコード、邪魔だなあと思ったけれども、顔をしかめただけで何も言わなかった。仕方ないことだと思っていたからだ。

 でも、あれは「当たり前のこと」でも「仕方ないこと」でもなかったのかもしれない。バーコードは剥がせるシールにしてもらうとか、オビに印刷してもらうとか、あのカバーを汚さないで済むように、著者として一言ゴネておくべきだったのではないか。たとえ実現できなかったとしても。

 ぼくだって本が読者に早く届くことに反対する理由は何もないですよね。だけど、あまりにも単純に「便利」というイメージに惑わされてはいないか、と思った。もっと慎重に検討されなかったのか。こんな大きなスペースをとるバーコードでなく、もっと細いもの、もっと小さなものができるだろう。あるいは透明のインクで刷るとか。(中略)
 しかし現在のやつで動き出してるから今さらそんなこと言っても遅いと言われちゃう。便利なもののどこが悪い、という人たちは、装丁が本の一部だという認識がなくて、「包み紙」くらいのイメージであるらしい。だから「表4をください」なんて言い方ができるんじゃないでしょうか。装丁はデザイナーが流通にあげるとかあげないとか言えるものじゃないんですよ。本は著者も編集者も装丁家も宣伝部も販売部も含めてそれを作る送り手のすべてと、受け手である読者のものです。その一部である装丁もそうです。間違っちゃいけない。(「18 バーコードについて」より)

 和田誠さんの装画や挿絵が入った本はいくつか(いくつも)持っているけれど、そういえばご本人の著書は読んだことないなと思って、何気なく手にとったのが『装丁物語』の文庫版だった。絵から想像されるとおり、飾り気がなく親切な文体で、紙について、文字について、画材について、著者との関係や編集者との関係、人の本を装丁するときと自著を装丁するときの違いなどなど、装丁についてのあれこれが語られる。

 装丁家ってこんなにいろんなことを考えているんだなあ、すごいなあと感心することの連続で、だからこそ最終章の「バーコードについて」が切ない。本のデザインに関わってきた人たちが誰も知らないところで、いつのまにか、本の裏表紙(いわゆる表4)にバーコードを二つ入れることが、その大きさも位置も「決められていた」。

 決まった後になって、図書設計家協会というところが主催するパネルディスカッションに著者が参加したときの経緯が記されている。読んでいて悲しくなったのは、決めた側の人たち(出版業界のエライ人たち)は、本はティッシュペーパーや洗剤と同じ「消耗品」だと認めたも同然だったんじゃないかということだ。バーコードは流通の過程では必要だとしても、本が読者の手に渡った後は不要で、ただ醜いだけだ。でも「消耗品」だったら読んだ後はどうせ捨てるから、醜くても問題ない、そんな感じだったんじゃないか。

 どこかでこれを読んでいるかもしれない出版業界のエライ人へ。

 本に画一的にバーコードが印刷されるようになって30年以上経った現在、電子書籍も含めてあらゆるコンテンツがネット市場に溢れる状況で、利便性を競っても勝ち目はないと思いませんか。多少不便でもモノとしての美しさとか、自分の部屋に置いておきたくなるような佇まいとか、そういうものにこだわる方向に転換しませんか。バーコードは今の大きさの半分くらいでも十分読み取れるはず。とりあえずもっと小さくするように、決めてもらえませんか。

和田誠さんの自著自装による『お楽しみはこれからだ』を買ってみた。オリジナルは文藝春秋から1975年に刊行、私が買ったのは国書刊行会による復刻版ではあるけれど、バーコードは和田さんの意志を反映してオビに印刷されている。バーコードがない本っていいもんだなあと、手に取ってみるとしみじみ思う。