なるべく定期的に読んだり書いたりする時間を設けようと思って、あとはわりと無目的にブログを始めて、地味にちまちまやってきた。昨年末、『ユリイカ』の依頼を受けて書いた原稿が不掲載となったことも、その原稿をここで公開したことも、偶発的な成り行きによるもので、昨日までに92人が購入(という名の投げ銭)してくれたことに驚いている。収支報告は以下のとおり。
販売金額:27,600円(300円×92人)
販売手数料:▲4,140円(27,600円×15%)
振込手数料:▲300円
手取り:23,160円
アクセス解析をしたところ、1月6日から7日にかけてX(旧ツィッター)上でリンクが拡散されていた様子を確認した。当該記事(2024年12月27日付)単独でのアクセス数は昨日時点で7,491件、結果的には『ユリイカ』臨時増刊号(総特集 福田和也)に掲載されるより多くの人に読んでもらえたと思う(もちろん、読んでつまらなかったとか、眉をひそめた人もいるだろうけど)。
92人が300円の支払いのために決済手続きをしてくれたこと、私にない能力を持っている人たちが自分のSNSアカウントで記事を共有してくれたこと、いろんな人が少しずつ手を貸してくれたおかげで、このような報告ができることを心から感謝している。どうもありがとうございます。
特に、プロの書き手(あるいは出版社から何らかの報酬を得ているであろう人)の幾人かがおおむね好意的な(少なくとも批判的ではない)反応を示してくれたのは意外だった。経験上、こういう記事をおもしろがってくれる読者はある程度いるだろうと予測する一方で、出版業界周辺からは黙殺されるだろう、反応があったとしても「破門された元弟子による私的復讐」みたいに揶揄されるだけだろうと思っていたから。関係者にとっては、雑誌の原稿料を公に晒す「めんどくさい著者」の存在は黙殺したほうが無難というもので、いくらかリスキーかもしれない行動をとってくれた方に、敬意を表したい。
フリーライターを廃業した理由はその気になれば二ダースは挙げられる、と以前書いたが、要するにこういうこと(原稿料が安いとか編集者が**だとか)を、書きたいと思ったときにいつでも書ける自分でいるために辞めたんだな、と納得もしている。
そんなわけで『ユリイカ』の明石くん、いろいろどうもありがとう。お礼に宣伝文の一部を添削してあげよう。
原文:福田和也の人生はその著作のなかに収められるのではない、残された人々が今日もつづけていくのだ。
(人は誰しも自分の人生を生きるのであって、誰かの人生を他の誰かが続けることはできない。雑誌の宣伝文だから、ある程度の誇張表現は仕方ないとしても、虚言や妄想の類は慎んだほうが良い。一方で、慕っていた先生の不在に耐えがたい、という心情は理解と同情に値する。故人の著書『ろくでなしの歌』へのオマージュを込めて、以下のように添削した)
添削例:福田和也が歌ったメロディーは、その著作の中だけに響くのではない、残された人々が今日も歌いつづける。
二十数年前、ゼミの合評会で私が他の学生(特に男子生徒)の作品をこき下ろすと、福田先生はうつむいて、笑いを堪えていたものだった。私はなにも男子生徒をいじめたかったわけではない、学生同士が遠慮や忖度をし合っていたのでは、先生が講評しにくいだろうと思ってのことだった。いろいろ教えてくれたり、酒を飲ませてくれる人に対して、私はそういう尽くし方をした。
もろもろの報告と、花と酒とカツサンドを携えて、昨日墓参りに行ってきた。プリントアウトした販売実績データを線香と一緒に焚きあげた。「福田和也という人は知らないけどおもしろかった」という感想は、たぶん、ご本人が聞いたら一番喜ぶと思う。
報告は以上。以下は、お礼になるかどうかはわからないけど、福田和也という人物を考えるうえで参考になりそうな情報を二つばかり追記する。
一つ目は、家出直後の原稿の荒廃についての具体例。記事の大部分が他人の著作からの引用、という状態が数週間続いたことは以前記した(2024年1月19日付投稿)。単行本化はされていないが、2012年1月から2月の『週刊新潮』をあたれば実態を確認できる。
もっとひどかったのが、月刊『文藝春秋』の連載「昭和天皇」。山田風太郎の『戦中派不戦日記』の一部を書き写したと思われる箇所が2〜3頁くらいあって、出典の記載もなかった(著作権の侵害に該当するかもしれない)。単行本で訂正がなされたかどうかは確認していないが、『文藝春秋』2012年3月号(2月10日前後発売)と『新装版 戦中派不戦日記』(講談社文庫版、100頁~109頁)で照合できるはずだ。
上記二件について、著者を擁護するつもりはまったくない。その一方で、こういう原稿を掲載した編集部、担当編集者も怠慢だったと思う。お金を払って雑誌を買う読者に対して。
前掲『ユリイカ』増刊号には編集者あるいは元編集者15人が名を連ねているが、私の知る限り半数以上は、福田さんの家出とその後の「仕事ぶり」を黙認していた。置き去りにされた荷物(蔵書その他の資料を含む)を代理で引き取りにきた編集者は、一人もいなかった。
参考情報二つ目は、処女作『奇妙な廃墟』の成立に、配偶者が果たした役割について。
仏文学者の平坂純一さんによると、故・西部邁氏は「福田は細君にドイツ語を任せ、デビュー作を書いている」と話していたという(『情況』2024年Autumn号掲載、「衒学的な、あまりに衒学的な」)。この記事を読んで私が思い出したのは、『奇妙な廃墟』の序章に記された、詩人パウル・ツェランと哲学者ハイデガーの邂逅譚だ。コラボトゥール(ナチズムに加担したフランス文学者)を論じた本書において、「アリバイ」と位置付けられている重要なエピソードを、著者に知らせたのは当時の妻の弘美さんだった、と以前聞いた覚えがあったからだ。
マルティン・ハイデガーとパウル・ツェランは、ナチスがユダヤ民族に加えた蛮行をはさんで正反対の位置にありながら、ジェノサイドと全体主義の本質を前にして、虐殺と圧制にみちた現実よりもさらなる深淵への到達を詩作=思索する者の課題とすることにおいて一致して結びついた。この結びつきはもとよりハイデガーが許されたとかツェランが癒されたといったことからは最も遠いことである。しかし、それでもなお、かれらの結びつきは、「アウシュヴィッツ」後の時代における最も建設的な関係であるし、文芸にとっての希望でなければならない。(中略)
ここでハイデガーとツェランが到達した地点が、小論がコラボ作家を論じる位置であり、またいうならば一種のアリバイである。(『奇妙な廃墟』/2002年ちくま学芸文庫版/45~46頁)
ここで言う「アリバイ」という言葉は、不在証明というよりは免罪符という意味合いに近いと私は理解している。ヒューマニズムの観点から抹殺されてきた作家の作品を、文学として評価することへの免罪符だ。
今回ブログを更新するにあたって、私の記憶に間違いないか、弘美さんにメールで確認したところ「たしかにそうです」との返信を受け取った。また、ハイデガーがツェランを「森の樹木と語ることのできる詩人」と評価していたというエピソード(同、43頁)は、いささか意訳であることに加えて、下記二点を教示してくれた。
・直訳すると「ハイデッガーは、かつて、私に、シュバルツバルトでのツェランは植物と動物について、ハイデッガー自身よりも、より多くの知識を持っていた、と述べた」となるが、「付け加えると、パウル・ツェランは、”学識ある詩人”でもあった─さらに全く驚くべき、自然に対する知識を有した人間であった」という前文を受けての意訳だった。
・上記エピソードを記したH・G・ガダマーの著書”Wer bin Ich und wer bist Du?”については『奇妙な廃墟』序章の注記33に出典が記載されているが、出版社名「Suhrkamp」は不完全で、より正確には「Suhrkamp Verlag」である。
福田和也の遺作となった『放蕩の果て 自叙伝的批評集』(草思社/2023年刊)第一部の「妖刀の行方──江藤淳」では、処女作の執筆当時の生活についても記されているが、そこに弘美さんの名はない。妻に支えられて執筆したこと、その妻から自分がいかにして逃げたかを書くことができたなら、「自叙伝的批評集」となり得たかもしれない。