転職者の見た景色

高橋是清自伝』上下/高橋是清/上塚司編/中公文庫/1976年刊

 中小企業の広報部門に在籍していたことがある。『高橋是清自伝』はそのときに資料として読んだ。経営者向けのコンサルティング・サービスを提供する会社で、広報部門では顧客向けの会報誌やメルマガを制作していた。私の担当業務の一つは、過去の財界人や経営者の業績を紹介しつつ、現代の経営に活かせそうな「学び」コラムを執筆することだった。

 高橋是清は大蔵大臣を歴任した人で、「二・二六事件で暗殺された人」といえば話が早いかもしれない。不利と思われた日露戦争で軍費を調達して日本を辛勝に導いたとか、1930年の世界恐慌では日本を最速でデフレから脱却させたとか、日本史上最も優れた財政家として評価されている。私は日本の近代史に明るい方ではないから、その程度のイメージしかなかったけれども、自伝を読んですっかり好きになってしまった。

 なにしろ転職の回数と振り幅が激しい。幕末は洋館のボーイとして下働き、英語の修行のために渡米した先では奴隷労働。脱走して帰国した後は英語教員になるが、芸者遊びに熱中して芸者屋の居候兼お手伝い。翻訳業をしたり銀相場に手を出したり。「売られた身体」「つのる放蕩」「花魁の強意見」「酒量日に三升」「放埒の経歴が祟る」等々、目次の見出しだけでもおもしろい。

 私が一番好きなのは上巻の最後、あれやこれやで日本初の特許局局長にまで出世していたのに、ペルーの鉱山事業に乗り出して破産するところだ。「万事休す!−–良鉱、実は廃鉱」「馬もろとも泥沼に沈む」「さらばさらば、アンデスの山よ」といった具合で、国の借金を私財で穴埋めした格好で帰国。家族をこんな風に説得する。

「この上は運を天に任せ、一家の者は一心となって家政を挽回するに努めなければならぬ。ついてはこれから田舎に引籠って大人も子供も一緒になって、一生懸命に働いてみよう。しかもなお飢えるような場合になったら皆も私と共に飢えて貰いたい」

 高橋是清37歳。私が一家の一員だったら「はい、飢えます!」と挙手をして応えたい。

 おもしろいのはいいけれど、原稿を書く段になって困ってしまった。先述したように当時の私は業務の一貫として「学び」コラムを書かなければならなかったが、学びの要素が抽出できない。平たく言うと、真似できるものではない。困った挙句、「転がるように職を変えることで、自分自身を相対的に見ていた。お金の価値も相対的なものだと熟知していたからこそ、お金の使い方に長けていた」といったような話でお茶を濁したように記憶している。

 今だったらどう書くかな。高橋是清本人ではなく、彼を抜擢し権限を与えた側に興味を促す書き方もある。乱世の人事に学べ、とか……。フリーライターをしていた頃から通じて、書けた原稿よりは書けなかった原稿のほうが記憶に残る。心残りというものだろうか。

 五ヶ月少々でその会社を退職したのは、休みが少なかったことが最大の理由だ。自席で本を読んでいたことを上司の上司に注意されたが、隔週で土曜日も出勤するとなると職務に必要な本を読む時間がない。直属の上司は理解のある人で「たまにキーボードを叩くフリをしてくれれば業務時間内に読んでいてもいい」と言ってくれたけれども。この際、書くこととはまったく別の仕事をしたいと思った。仕事というものは探せばあるもののようで、次は派遣社員として経理の仕事をすることにした。37歳だった。

 転職は、楽しいものかと聞かれると首を縦には振れないが、自分を相対化すると見える景色が変わることは確かだ。奴隷、ホームレス、日銀総裁、大蔵大臣、総理大臣。高橋是清には遠く及ばないとしても、私もいろんな景色を見たいと思っていた。

愛称は「ダルマさん」。ヒゲも豊かだし、新札の肖像に推したい。

脱走の記憶

『「本が売れない」というけれど』/永江朗/ポプラ新書/2014年刊

 引越しに向けてなるべく本を減らそうと思ったときに、比較的早く整理が進んだのは新書だ。文庫本や単行本と比べると、新書には時流がより濃く反映される傾向がある。少なくとも私が持っていた新書については、買った当時の好奇心は満たされたと確認したうえで、この先再読する可能性は低いと思われるものが多かった。

 もちろん例外もあって『「本が売れない」というけれど』はその一つ。タイトルどおり、1990年代以降の日本の出版事業が「不況」と言われている状況について、客観的なデータを分析し個人的な体験を交えながら整理した内容だ。例えば、書籍の販売額と雑誌の販売額の推移を比較すると「出版不況は雑誌不況だ」という実態が見えてくる。あるいは、書籍の発行点数と売上高を比較すると、書店も出版社も著者も、1980年代と同じ売上高を維持するのに二倍の労力を割いている計算になる。雑誌が売れることを前提とした流通システムが、雑誌が売れなくなったために機能不全に陥っていることは、わりと容易に類推できる。

 引越しの準備をした段階で、刊行から八年近く経過していた。最近は独立系の出版社や書店が増え、取次を介さない直接取引も増えていると聞く。新しいデータを参照した類書があるかもしれないと思いつつ、見切りをつけることができなかったのは、勇気のある本だと思ったからだ。エピローグから引用しよう。

現在の出版産業が多産多死の自転車操業状態になってしまったのは、目先のおカネほしさに新刊をジャブジャブつくって書店にばらまくということを繰り返してきたからだ。ぼくが以前から指摘している「本の偽金化現象」である。(中略)著者が10年かけて書いた本が、書店の店頭から1週間で姿を消し、多くの読者が知らないうちに断裁されパルプになってしまう状況は、「本」と「読者」のためになっているだろうか。

 著者の永江朗さんはフリーライターだ。出版社から報酬を受け取る立場から、既存の出版流通システムを批判することは、いろんな意味で難しい。フツウは、自分の本を出してくれるという相手に向かって「出版社は本を出しすぎだと思いますよー」と言っても、笑われるだけだ。スーパーライターと言われるような堅実なキャリアを持つ著者だからこそ通った企画であり、書けた本であり、そういう人にそこまでさせてしまうほど、状況は深刻だったという証拠だと思う。

 そういえば『新潮45』2015年2月号では「出版文化こそ国の根幹である」という特集で本書が批判されていた。「図書館でベストセラーを何冊も貸し出しされると出版社や著者が儲からない、という主張はずいぶん下品だ」という著者の指摘に対して、林真理子さんが「ライターと違って作家は、時間をかけて小説を書いているから一緒にしないで」みたいな反論をしていた。いやはや。

 私もフリーライターという肩書きを十年少々は使わせてもらった。俯瞰的に見れば、機会に恵まれたほうであり、機会に対して実力が追いつかなかったと自覚している。とはいえ、人気作家が九ヶ月間に二十二点の新刊を出している状況は、異常だと思った(佐藤優さんの2015年1月から9月の新刊をちまちま数えたことがある)。手数料で儲けているはずの問屋が「手数料は要らないから生産を控えろ」と言っている業界は、病んでいると思った(2010年に始まった取次の総量規制は2015年頃には常態化していた)。

 自分もフリーライターとしてこのような本を書くべきだったのか? 少なくとも、書くことを目指すべきだったのか? 心の声が、まったくないわけではないけれど。

 出版社がなくなっても出版が生き残ればいい。書店がなくなっても本を選ぶ場所があればいい。原稿料が出なくても、文章を書くことができて、読んでくれる人がいればいい。システムに「滅び」のプログラムが組み込まれていたなら、私も「バルス」と唱えたかもしれないが。代わりに「Think different」と自分に言い聞かせてひっそり脱走したことを思い出す。どの道も楽ではない。

奥付によると第1刷が2014年11月4日、11月19日付で第2刷。関係者による「バルス」の合唱が聞こえる。

【備考】Amazonリンクの掲載について

久しぶりに日本の出版事情について考えていたら気分が暗くなったので、バラを買ってみました。

 先週から各記事の末尾にAmazonリンクを貼っています。記事を閲覧された方がリンクからAmazonでお買い物をすると、売上の数%が「協力報酬」として私に支払われる仕組み(らしい)です。

 主な動機は好奇心です。アフィリエイトというweb広告の仕組みは以前から聞いてはいましたが、やったことはなかったので、どんなものかと思いまして。今のところ収益化は目的でも目標でもありません。ブログの運営費用(「はてなブログPro」の年間利用料とドメイン維持費、一ヶ月あたり1,000円くらいか)の足しになれば嬉しいけど、ならなくても、ならないとわかればそれでよし、といったところです。

Amazonアソシエイト・プログラムの詳細についてはこちらをご参照ください。)

 以下は余談。Amazonの進出、台頭によって街の書店(いわゆるリアル書店)が閉店に追い込まれた、という話は2000年代から聞こえていました。でも、街の書店が本を注文してもマトモに相手にされないという現象は1970年代から一般的だったようです。以下は『ぼくは本屋のおやじさん』(早川義夫晶文社/1982年刊)からの引用です。

お客さんが発売前に注文を出す。うちで一冊確実に売れるとわかっていても、発売日と同時には入ってこない。いくら実績がなくとも、いくら新潮社にうちが貢献していなくとも、一冊注文を出したのだから寄越せばいいじゃないかと誰でも思うでしょう。まともに考えればおかしいと思う。(中略)くればいいけれど、くるかこないのか当てもないわけだから、書店が、大書店に本を買いに行くことになる。こんなバカなことがあるだろうか。

 こんな状態が少なくとも二十年以上は放置されていたのだから、欲しい本がある人がAmazonで注文しようと思うのは当たり前だと思います。Amazonにできること(一冊の本の注文を受けて、それを確実に届けること)が、なぜ日本の書店や出版社や取次店にはできなかったんだろう、と思う。

 思い出すのは「もしドラ」(『もし高校野球の女子マネージャーがドラッガーの「マネジメント」を読んだら』/岩崎夏海ダイヤモンド社/2009年刊)です。手元にないので正確な引用ではありませんが、経営学の祖・ドラッガーはこんなことを言っているらしいです、「企業の使命は顧客を満足させることだ。だから、誰が客なのか、客を定義することは経営者にとって最初にして最重要の課題である」。 

 日本の出版業界でAmazonの「独り勝ち」といわれる状態が続いているのは、いち企業として本を読みたいと思う人を満足させるという使命を実行しているからだろうと思います。「図書館でベストセラーを貸し出しされると、儲からない」とか主張する一部の出版社(と一部の著者)にとって、客は誰なんだろうか。誰なんでしょうね。

 

弟子時代の遺物(その二)

サミング・アップ』/モーム著/行方昭夫訳/岩波文庫

 いま私の手元にあるサマセット・モームの文庫本はすべてF先生宅から貰い受けたものであることは前回に書いた。書いた後で思い出したことがあり、思い出した後で考えたことがある。

モームだけでいいんじゃないかって気がする。全部書いてあるんだもの」

 いつか何かの折に、F先生はそんなことを言っていた。先生が家出をする数ヶ月前、もしくは一、二年程度前かもしれない。時期も話の前後もはっきりしないが、酒を飲んでいたことだけはたしかだ(先生と会って酒を飲まなかったことは一度もない、学生時代の講義を別にすれば)。先生にそう言わせたのは代表作でも短編集でもなく、『サミング・アップ』だっただろうと今さらのように考えている。

サミング・アップ』はモームが64歳のときに発表したエッセイ集だ。人生には意味などないのだから、せめてペルシャ絨毯の職人のように自分の審美眼に従って人生模様を織り上げよう、と考えていたモームは、この本をその模様の総仕上げと位置付けている。自伝的な回想、文芸と文壇、宗教や哲学等々、思索の対象は幅広い。私がアンダーラインを引きたいのは、たとえば以下のようなところだ。

しかし私はもう一生をほぼ終えた人間であるから、今さら真実を隠すのはふさわしくない。私は誰にも実際以上によく思ってもらいたいなどとは思わない。私を好む人にはあるがままの私を受け入れて頂きたいが、そうでない人に相手にされなくても何ら痛痒を感じない。(中略)偉大な作家は堂々たる想像の翼をのばして、どんどん天高く昇って行くだろうが、そういう真似は私には出来ない。私の想像力は元来弱いのに加えて、ありそうもないことを書くのを嫌う性分に邪魔されて飛翔できないのだ。私は壁画ではなく、イーゼルにのせられる絵ばかり描いてきた。(23章より)

 作家を職業としたモームが、その職業的仮面を取り払って書いている、そんな印象を受ける。F先生が「全部書いてある」と言った、全部という言葉が酒席の誇張だとして、言わんとするところは「職業作家が書かないこと、書けないことを書いている」という意味だったのではないか。

 F先生宅からこの本を持ち帰った当時、私はまだフリーライターという商売をしていた。一定の職分において文章を書いていくと、その職分のために書けない文章というものが意識の端からせり上がってくる。商売として書けない場合もあれば、自己矛盾や自己否定に発展するから書けない場合もある。それを書くためには、その職分を返上しなければならない。おそらく、どういうジャンルの物書きでも多かれ少なかれ抱えるジレンマだと思う。少なくとも私の場合はそうだった。

 モームが作家としてではなく、一人の人間として文章を書いている。F先生がその率直さに打たれたのだとしたら、その当時の先生は「批評家」であることを辞めたかったのかもしれない。批評家である自分と、批評家ではない自分の分離、対立。連載中だった仕事の資料も含めて、蔵書も何もかもを置き去りにしての家出は、やっぱり批評家のすることではない。先生は批評家を辞めたかったのだと、考えるほかない。

 前回「不肖の弟子だった」と書いたが、私は批評家を自認する人の弟子を自認していた。その人が批評家ではなくなったときに、どういう行いをもって弟子たり得るかは難しいところだ。当時も難しかったし、今も難しい。

原題”THE SUMMING UP”、別の邦訳では『要約すると』。中身が饒舌なだけに、モームらしいタイトルだと思う。

弟子時代の遺物(その一)

『お菓子と麦酒』/サマセット・モーム/厨川圭子訳/角川文庫/平成20年刊

 引越しから半年以上経ってようやく本の収納場所を定めて、ジャンルや判型、作家ごとにざっくり整理してみると、サマセット・モームの文庫本が十冊くらいある。全体量と比べれば好きな作家の一人にモームを加えなければならないように思うが、じつは自分で買ったものは一冊もない。すべてF先生宅から貰い受けたものだ。

 F先生は大学の先生で、私は二十歳から三十過ぎまでの間に三回、引越しの手伝いをした。といっても作業は主に、不要とされた本の山から欲しい本を持ち帰ることだった。それに三回目については、家出をしたF先生の遺物整理をご家族に提案してのことだったから、いわゆる「引越しの手伝い」と言って良いかどうかは自信がない。ともかくそういう経緯で、モームの文庫本が私の手元に一揃いある。

 講義でも著書でもF先生がモームに触れていた記憶はなく、にも関わらずその文庫本は折皺や付箋がたくさん付いた状態で、書架の中でも手に取りやすいところに置き去りにされていた。まとめて引き取ったのは、家出に至った先生の心境に少しでも近寄ろうという気持ちが、幾らかはあったのかもしれない。

 サマセット・モームと言えば、画家ゴーギャンをモデルに書かれた『月と六ペンス』が有名だが、作家本人の一番のお気に入りは『お菓子と麦酒』だったという。発表は1930年、56歳のときの作品で、ヒロインのモデルは最愛の女性だったと言われている。モームらしい(イギリス人らしい)皮肉は健在で、たとえば「ロイの経歴は文学志望の若人の模範になるであろう。私と同時代の作家で、ロイほどの乏しい才能をもって、ロイほどの高い地位にのしあがった者は他に思いあたらない」。この尖ったペンで最愛の女性を描くと、どういうことになるか。

“夜明けのように清純でした。青春の女神ヒーピーのようでした。ティーローズのようでした”(中略)

“じつにいい人だった。一度も不機嫌な彼女を見たことがない。欲しいとひとこと言えば、すぐ何でもくれる人だった。彼女が他人の悪口を言っているのを聞いたことは一度もない。美しい心の持ち主だったよ”

 回りくどい悪口と平明な賛辞、この対比が鮮やかだ。何より、好きな女を描いた小説のタイトルが”Cakes and Ale”、微笑ましいではないか。私はたしかにこの作家が好きだ、人としてチャーミングだと思う。

 作中ではこの女性が家出というか、駆け落ちをする。作家である夫は、再婚した女性の秘書的手腕によって高い地位に到達するが、文学的評価を受けるのは最初の妻と暮らした頃に書かれた作品である、というのが物語のポイントの一つになっている。F先生の著書も、後世に残るとすれば最初の結婚生活で書かれたものだろう。

 先生は批評家をもって任じていたが、自分自身に対して批評的でない人に批評の文章は書けない。当時の私はそのように考え、先生が一度は家に帰るように、自分のことや家族のことに向き合うように、わりといろんなことをした。嫌がられるようなこともしたし、裏切るようなこともした。

 不肖の弟子だったと、認めざるを得ない。実際、手伝いと称しては資料になりそうな本をあれこれ持ち帰ったものの、その半分も活用しなかった。そしてライター稼業を廃して、自分自身が引越しをする段になると、貰い受けた本の大部分に見切りをつけた。F先生の書架には学術的な本も稀覯本の類もあったに違いないが、私の手元に一番多く残ったのは世界的ベストセラー作家の文庫本だ。我ながら欲もなければ学もない、情けないを通り越して清々しい。

2023年5月19日追記:記事タイトルに(その一)を加えました。本文を数箇所改めました。

この顔で"Cakes and Ale"と韻を踏んじゃうところが好き。(写真は『月と六ペンス』の見返し)

贅沢と極道

『私の作ったお惣菜』/宇野千代集英社文庫/1994年刊

 海の近くに住んだら、いつでも海を見ながらビールが飲めるなあ。そんな思い付きでの引越しだったから、歩いて海に出られる以外の条件はほとんど全部妥協した。最大の難点は本棚を置くスペースがないことで、引越し前に本はできるだけ処分する羽目になった。荷ほどきをしてみれば、あの大型本はこの棚に置けたなあと悔やんだり、持ってきたはずの本が見つからなくて、無駄と知りつつもう一度探してみたり。しかしまさか、同じ本が二冊出てこようとは。

 作家で、銀座でお弁当屋さんをやりたいと思うほど料理好きだった宇野千代。『私の作ったお惣菜』では故郷岩国の郷土料理やこの人らしい創作料理が紹介されていて、「春雨スープを出したら平林たい子はフカヒレスープと思い込んでいた」とか「東郷青児ライスカレーが好きだったから薬味を二十種類も作った」等々、昭和の著名人が登場するエピソードも楽しい。

 それで若い頃の一時期、私はよくこの本を人にあげていた。最初は誰かから貰って、その貰った本を人にあげて、自分用に買い足して、それをまた誰かにあげる。そんなことを何度か繰り返すうちに、手元に二冊ある状態になっていたらしい。思えば、本が好きで食いしん坊の友人ばかりだった。

 いつの忘年会だったか、この本に載っている「極道すきやき」を試したこともある。ブランデーと割下に漬けた肉を卵黄に絡めて焼くというシンプルなレシピで、ネギも春菊も豆腐も使わない。

このすきやきの特徴は、あの、素晴らしい肉の旨味だけを、純粋に堪能しよう、と言う訳なのですね。その場合には、葱や豆腐は、よけいなものなのです。贅沢と言えば、これ以上、贅沢なすきやきはありませんね。極道すきやきと名前をつけた私の気持が、誰にでも分からない筈がない、と私は思ったのです。

 百グラム三千円くらいのできるだけ上等な肉を使います、でも、みなさんがお作りになる場合は千円くらいの牛肉でも良いと思いますよ。……上から目線の宇野千代に煽られて、肉の係を拝命した私はとにかく高い牛肉を求めてデパ地下の精肉店へ出向いた。そんな店で肉を買うのは初めてのことで、一番高い肉でも百グラム二千円くらいしかしないことに失望したものだ。

 レシピに従って下拵えした肉を見て、誰かが「酒池肉林」と呟いた。鍋に広げると、じゅっという音と共にブランデーの匂いが部屋中に充満して、誰かがむせかえった。火がついたように笑いが弾けた。今にして思えば、けっこうな近所迷惑だったに違いない。

 その忘年会から数年後、私はその友だち三人を三人それぞれに泣かせた。目の前で泣かれたこともあり、電話口で泣かれたこともある。その度に私は「泣きたいのはこっちのほうなんだけどな」と思いながらも、結局は泣かなかった。その後で長い手紙をくれた友だちもいて、私はそれに短い返事を書いたけれども、結局は渡さなかったような気もする。もう十年くらい経つだろうか。

 引越し前の私は二回この本を手に取って、二回とも「捨てない」という選択をしたはずだ。楽しい思い出と苦い思い出と両方あるから、その選択が懐かしさのためだったか、後ろめたさのためだったか、正直よくわからない。あの頃近くに海があれば、海を見ながら一人でビールを飲んでいれば、誰かを泣かせたりしなくて済んだかもしれないなあと、ぼんやり考える。

 二冊あるうちの一冊は、引越し先で仲良くなった人にあげた。本好きの料理人だ。もう一冊は、これを書き終わったら別の人にあげようと思う。それくらい、もう十分に楽しんだ。

同じ本を二冊買ってしまうのは紙の本ならでは。売ったり譲ったりできるのも紙の本ならでは。

雑誌を買う理由

BRUTUS』914号/マガジンハウス/2020年4月15日刊

 インターネットの普及によって情報がタダで手に入るようになったから雑誌が売れなくなった、という話が嫌いだった。フリーライターをしていた頃は特に、出版関係者の口からそういう話を聞くと「人のせいにされてもなー」とうんざりした。既に出来上がった状況に原因を求めても、結果は一ミリも動かない。非生産的だと思うから嫌いだった。

 加えて、因果論として疑わしいと思っていた。若い頃に私が時々買っていたのは、ファッション関係なら『Olive』か『装苑』、カルチャー関係なら『QUICK JAPAN』や『relax』、テレビはあまり見ないわりに『テレビブロス』も好きだった。情報を買っていたのではない。その雑誌が放つ価値観への共感や憧れが、購入の動機になっていたように思う。

 何がカッコ良くて、何がダサいか。何をおもしろがって、何を切り捨てるか。雑誌という媒体に表れるそれが、相対的に魅力的ではなくなったから、人は雑誌に金を払わなくなったのではないか。統計的に科学的に証明できることではないけれども、雑誌不況と言われる現象の因果はそこにあると考えるようになった。仕事相手(出版関係者)と話が噛み合わないと感じることが年々増えていった。

 2020年4月、転職して三つ目の会社に在籍していた私は、仕事帰りに立ち寄った書店で久しぶりに雑誌を買った。『BRUTUS』914号、海と崖と空の写真に「いつか旅に出る日。」という特集タイトルが浮かんでいる。2月に横浜港で新型コロナウイルスの感染者が確認され、3月に入ると新規感染者数を示す棒グラフが日毎に伸び、日本政府が初めて緊急事態宣言を発令した直後のことだった。駅ビルは営業時間を短縮していたために書店も閉店間際で、その隣の旅行会社のカウンターには人影がないばかりか照明も点いていなかった。

 雑誌をめくれば、アメリカ西海岸のビッグ・サーという集落が紹介されている。ホテルもない、携帯の電波も入らない、伝説的ジャーナリストが執筆の拠点とした土地だという。西オーストラリアのピンク色の湖。イギリスの海上要塞の廃墟を再利用したホテル。このタイミングで、よく取材を組めたものだと驚いたし、この特集で行こうと思ったこと自体がすごい。国内では熊本県天草や青森県八戸も紹介されているが、全体的には僻地が多い印象だ。パンデミックによる移動制限があろうとなかろうと、ぶらっと旅行できないところを編集部は意図的に選んだのかもしれない。

”思い立つ日が旅の始まり”、誌名ロゴの肩にはそんなコピーが添えられている。つまり、コロナ禍にある今現在も、旅を始めることができる。そんなメッセージに敬意と共感を覚えたからこそ、私は700円を支払った。それが雑誌というものだと思う。免疫力アップが期待できる食材のリストとか、芸能人が”自粛"せずに飲み歩いていたといった情報の羅列を、私は求めない。

 引越しを機に雑誌のバックナンバーの大半は処分した。この雑誌のこの号を留保したのは、いつかこれについて書こうと思っていたからかもしれない。図書館のせいで本が売れないという話も、私は嫌いだ。それもいつか書こうと思う。

ビッグ・サーという土地の情報を必要としていたのではない。だから、私は「情報」とは別の何かに金を払ったはずだ。