追悼文についての覚書き

『友よ、さらば 弔辞大全Ⅰ』/開高健・編/新潮文庫/昭和61年刊
『神とともに行け 弔辞大全Ⅱ』/開高健・編/新潮文庫/昭和61年刊

 15年前に少々変わったなりゆきで、物故した陶芸家の追悼文を書いたことは前回に記した。当時その種類の原稿を書いたことのなかった私がまず参考にしたのが、開高健の編集による『友よ、さらば』『神とともに行け』だった。明治から昭和にかけての追悼文の選集で、たとえば昭和17年萩原朔太郎への追悼を三好達治が書き、昭和39年には三好達治への追悼を中野重治が、昭和54年には中野重治への追悼を佐多稲子が書いている。勝者も敗者もない懸命なリレーのようでもあり、時の奔流に言葉が浮かびあがった一瞬を捉えた写真集のようでもある。

 亡くなった人を悼む言葉に優劣をつけるなんて外道のすることだよなあと思いながらも、読めば心にすっと入ってくる文章とそうでもない文章があることは、どうすることもできない。当時の私は外道上等と開き直って、その良し悪しを分析したものだった。その結果、良い追悼文には「怒り」がある、と思ったことも前回に書いた。

 たとえば菊池寛直木三十五が亡くなる数日前まで囲碁を打ち、その勝敗を互いに記した表を家の壁に貼っていた。通夜の晩に誰かがそれを片付けてしまったことに気づいて、「自分はむやみに腹が立って、社員や女中を怒鳴りつけて探させた」。

 あるいは東条耿一。ハンセン病の隔離施設で共に闘病した北条民雄を看取った際、「私は周章てふためいて、友人たちに急を告げる一方、医局への長い廊下を走りながら、何者とも知れぬものに対して激しい怒りを覚え、バカ、バカ、死ぬんじゃない、死ぬんじゃない。と呟いていた」。

 私に確信に近いものを与えたのは佐多稲子から壷井栄へ贈られた言葉だ。

 壷井栄さん、三十数年のつきあい、ありがとう。あなたとおしゃべりをするときはもう失われました。そのことであなたとのおつきあいはもう終るのでしょう。けれども私のいる間は、あなたとのつながりはいろいろな形で残りましょう。私はそのことでむしろ苦しい。あなたと共にあった私は、私の中に残るにしても、あなたのうちにあった私は、永久に消えたことをおもうからです。(中略)
 あなたが私を語ってくれることはもう無いのです。私は不満です。

 佐多稲子という人は激しい感情をよくよく自制した文章を書く人だ、そういう人が敢えて選んだに違いない「不満」という言葉に、私は「怒り」に近いものを感じた。それを手がかりとして仮説を立て、自分の仕事を進める頼みとしたのだったが。

 良い追悼文には「怒り」がある……とも限らないかなあ、と今は思う。

 たとえば梶井基次郎が死んで、自らも病床にあった三好達治が寄せた詩も、心にすっと入ってくる、--「僕は考へる ここを退院したなら 君の墓に詣らうと」。林芙美子の死に「幻滅」という言葉を使った平林たい子の文章も良い、--「私達は、思いがけず二人とも文壇の人間になったが、私たちの夢はこんなことではなかった。もっともっと、崇高ですばらしい筈だった」。この本に入っているものではないけれど、思い出してみれば、甘粕事件で殺された伊藤野枝について書いた辻潤の文章も好きだ。江藤淳の遺書に応答した石原慎太郎の弔辞も、忘れられない。

 良い追悼文の条件なるものを外道なりに考え直してみると、率直であること、個人的であること、だろうか。15年前の私が「怒り」をキーポイントと捉えたのは、おそらくそれが元来個人的な感情であり、率直さをもって発露されるものだからかと思う。

 そしてそれは、もしかすると追悼文に限ったことではないのかもしれない。どんな目的の文章であれ、率直に、個人的に書くこと。それができたなら、もし次に誰かの追悼文を書く機会が訪れたとしても、アワアワと参考書を紐解くような真似はしなくて済むと思うのだけど。今はまだこの二冊は捨てられない。

『友よ、さらば』には55編、『神とともに行け』には50編所収。編者あとがきによると弔辞というものの特質は「たった一回しか書けない」こと。なぜなら「人はたった一回しか死ねない」。

 

うつわについての覚書き

『自分で焼ける 何でも焼ける 決定版 七輪陶芸入門』/吉田明主婦の友社/平成14年刊

 誰かを指して器が小さいと言えば悪口になるし、器が大きいと言えば褒め言葉になる。でも、必ずしも大きい方が良いとも限らないんじゃないか。私がそう思うのは、若い頃に自分の器を無理矢理広げるようなことをしたという実感があるからだ。

 たとえば15年前、雑誌に吉田明さんという陶芸家の追悼文を書いた。経緯としては、私がお世話になっていた福田和也さんという人がいて、吉田さんはその福田さんが懇意にしていた。福田さんは自分が追悼文を書くべきところを、なぜか私に「書きなさい」と言った。当時の私は作家ものの器なんて一つも買ったことがなく、当然、陶芸のことは何も知らない。取材に同行して窯場にお邪魔したことはあったけれども、故人との面識はその一度きりだった。

 そしてまた、吉田明さんという人は明らかに「規格外の人」だ。素人にできるのは粘土を成形して乾燥させて、せいぜい釉薬をかけるくらいのことで、焼成は業者任せが当たり前だった陶芸の世界で、「七輪陶芸」というものを発明した。バーベキューで使うような七輪に、乾燥させただけの粘土の塊を突っ込んで、通風口からドライヤーで熱風を送り込む……理には叶っているのだろうけれども奇想天外な焼き方は、吉田さんが思い付かなければ誰もやらなかったんじゃないか。七輪陶芸は「規格外」の一例であり、吉田さんの器を扱っていたお店の主人は陶芸家と呼ぶことをためらい「天才」という言葉を使っていた。

そのとき、残った灰の中に1個のぐい呑みを入れたままにしておいたら、次の朝、うっすらと木炭の灰が溶けているではないか。灰が溶けているということは、温度が1200度にはなっているということである。七輪ではせいぜい800度ぐらいにしかならないと思っていた私は驚いた。1200度以上の高温が保てるなら、誰でも簡単に、好きなときにやきものが焼ける……そう思って、私はこの『七輪陶芸入門』をつくることにした。(「あとがき」より)

 追悼文を引きうけてしまった私は、吉田さんの最後の窯場で遺作展が催されると知って、新潟県十日町市に出かけた。おっかなびっくり買った茶碗や湯呑みを持って、福田さん行きつけのバーに行くと「これ、ほんとに吉田が作ったの?」と一蹴された。以前に八王子の窯場を火事で全焼したことがあると聞いて、八王子の図書館に行って新聞の縮刷版から記事をコピーした。それを持ってまたバーに行くと、福田さんは出火原因を巡って吉田さんらしいエピソードを聞かせてくれた。そういう風にして「取材」を進めた。

 追悼文を書くのは初めてのことで、私は他の人が書いた追悼文をいくつか読んで、その良し悪しについて考えた。結果、良い追悼文には「怒り」があると思った。その人がいないことの理不尽に対する怒り。やり場のない、不快で無益で無償の感情。吉田さんの死が早すぎることは理解しながらも、私自身には怒りと呼べるほどの強い感情はない、福田さんの怒りを代弁するのが自分の役割だと、当時はそういうつもりで原稿を書いたのだったが。

 私にも怒りはあったな、と今は思う。というのも、福田さんは私が原稿を引きうけた後、唐津風の絵皿と粉引の耳杯をくれた。吉田さんの器を一つも持たずにその追悼文を書くのはさすがに無理だと思ったんだろう。こんなのもらったくらいで書けるかよ、ナメてんじゃねーよ、と私は思った。自分が書きたくないからって人に押し付けてんじゃねーよ、と思いながら私は書いた。実際、もらった器は原稿を書くうえでは何の役にも立たなかった。福田さんの怒りと私の怒りと、どちらが原稿に資したかは、よくわからない。

 そういう風にして書いたこと、自分の器を広げたことを、良かったとも悪かったとも思わない。ただ、器というものはたぶん、大きくすることはできても小さくすることはできないし、無理矢理大きくすれば歪んだり割れたりする。それが私の実感だ。

 最近「金継ぎスターターセット」というものを買って、初めて金継ぎをやってみた。少し前に割ってしまった別の作家の器を修復するためだったが、吉田さんの絵皿も、もらったときから端が少し欠けていたのを思い出して、ついでに補修した。おそらく福田さんは、四、五枚の組皿の一つが欠けてしまって、それを私にくれたんだと思う。……ったく、ナメやがって。そう思いながら今では、私はその絵皿を気に入っている。直す前よりずっと。

手前の絵皿と奥の耳杯がもらいもので、右側のぐいのみと茶碗は自分で買った。使い続けることが吉田さんへの手向けになればいいと思う。

お知らせ

微熱で頭がぼーっとするため今週の更新はおやすみします。風邪かな、花粉かな。

見にきてくださった方、ごめんなさい。

花屋で雪柳をみかけるとだいたい毎年買ってしまう。今年のも枝ぶりがなかなか。

中間報告

『新版 エルサレムアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』/ハンナ・アーレント/大久保和郎訳/みすず書房

 学生の頃、ある講義の課題として以下のテーマが与えられた。

第二次世界大戦における極限状況下で、表現者たちは表現し得たか」

 学生の立場としては、イエスかノーかを答えて、その根拠を挙げる形で規定字数(たしか2000字)のレポートを書かなければならない。頭ではそう理解していても、私はその答えを自分の中に見つけられなかった。「何を表現したか」ではなく「表現し得たか否か」が問われていることの意味を考えながらも、イエスかノーかの二択の前でどうにも足が竦んだ。

 講義ではブレヒトツェランといった亡命作家の詩や文章が読み上げられた。また別の回では「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」というアドルノの評論が紹介された。要するに、人間の文化そのものがアウシュヴィッツに代表される機械的な大量殺戮に至る契機を内包している、ということを理解しようとする自分がいる一方で、「友愛の地を準備しようとしたぼくたち自身は、友愛をしめせはしなかった」という詩に心を動かす自分がいる。その間に整合性を見出すことができない。

 課題は、課題だからどうにかやっつけたけれども、何をどう書いたのかは覚えていない。単位はもらったけれども、自分は結局この講義を理解できていなかったんだなと感じた。あのとき何を書けば正解だったんだろう。正解とは言えないまでも、自分で納得できるような答えが、いつか見つかるだろうか。

 

イェルサレムアイヒマン』は、その講義で指定されていたテキストの一つだ。ユダヤ人を強制収容所へ移送する実務を担ったナチ親衛隊元中佐を被告とする裁判の傍聴記で、シオニズムについても、イスラエル建国の経緯についても、この講義で初めて知った私にはなかなかの難物だった。

 虐殺に積極的に加担した人物が、ユダヤ人も故国を持つべきだというシオニズム思想に傾倒していたことはまだしも理解できる(ヨーロッパからユダヤ人を排除するという点で両者は一致する)。しかし彼がそのイスラエルという国の法廷で裁かれ、死刑に処されたという事実関係のねじれに頭がついていかない。ドイツ哲学を専攻していた先輩曰く「アーレントの文章は、読みにくい」、その言葉を慰めとしたものだった。

 理解はできなくても「理解し難いものがそこにあるな」と感じることは、それでも少しは意味のあることだったかもしれない。というのも、その後の社会生活で何度か「あの本に書かれていたのは、もしかするとこういうことだったかもしれないな」と感じる場面があったからだ。

 たとえば、絶版になった自著の電子データについて出版社に問い合わせると「データの譲渡料は十万円です」と返ってくる。同じ人に図書館の複本問題について聞いてみると「著者の利益を守ることは出版社の義務ですから」と返ってくる。著者である私には矛盾して聞こえるけれども、出版社という組織のなかで働く人にとっては矛盾でも何でもないらしい……ということがしばしば起きた。矛盾しませんか、と指摘すると出所のしれない大義名分や美辞麗句が返ってきて、私は「あ、アイヒマンっぽい」と連想した。連想することによって心のバランスをいくらか保つことができた。

 彼の語るのを聞いていればいるほど、この話す能力の不足が思考する能力--つまり誰か他の人の立場に立って考える能力--の不足と密接に結びついていることがますます明白になってくる。アイヒマンとはコミュニケーションが不可能だった。それは彼が嘘をつくからではない。言葉と他人の存在に対する、したがって現実そのものに対する最も確実な防壁[すなわち想像力の完全な欠如という防壁(独語版)]で取り囲まれていたからである。(中略)
 アイヒマン自身にしてみれば、これは気分の変化というだけのことであった。そして、その時々の気分を昂揚させてくれる決まり文句をあるいは自分の記憶の中で、あるいはそのときの心のはずみで見つけることができるかぎりは、彼は至極満足で、〈不整合〉などといったようなことには一向に気がつかなかった。(「第3章 ユダヤ人専門家」より)

 学生時代の講義では配布されたコピーを参照し、その後図書館で本を手に取ったものの、私には読めそうもないなと諦めた。いま手元にあるのは2017年に刊行された『新版 エルサレムアイヒマン』だ。相変わらず「アーレントの文章は読みにくい」が、それがどういう種類の読みにくさであるか、少しはわかるような気がする。この人はたぶん、理解しがたい事柄を、理解しがたいものとして表そうとしているんだと思う。

 絵は人に見られることで完成すると、ある画廊の人が言っていた。文章も、人に読まれることによって完成するだろうか。もしそうだとしたら、「表現者たちは表現し得たか?」というあの課題に対する答えは、彼らの書いたものを私が読んで感受しきったときに「イエス」となるはずだ。まだその途上にいる今は、「表現者たちは、表現しつつある」としか言えない。

イスラエルの法廷がアイヒマンを死刑とした罪状には「人道に対する罪」も含まれていた。現在は南アフリカイスラエルを、集団殺人の罪で国際司法裁判所に提訴している。

責任の墓標

『作家の値うち』/福田和也飛鳥新社/2000年刊

 大学受験のときは理工学部を志望して一年浪人までしたのに、結果は惨敗で、受かったのは予備校の先生に勧められて受験した某私大の環境情報学部だけだった。入学はしたけれど、これという目的もなく漫然と大学に通うなか、たまたま履修した講義を担当していたのが福田和也先生だった。第二次世界大戦下の文学や思想を題材とした講義内容がおもしろかったことに加えて、その人のゼミでは飲み会に参加すれば単位がもらえるらしいとの噂を聞いて、以降の私は福田さんの授業とゼミを中心とした大学生活を送ることになった。

 卒業後、就職先が決まらずフリーライターとして活動するようになると、福田さんは私を「弟子」として周囲の人たちに紹介した。酒を飲ませてもらったり、仕事を紹介してもらったり、酒を飲ませてもらったり、という間柄は、私が三十になる頃まで続いた。必然的にその著書の多くを買って読んだから、7、80冊くらいは持っていただろうか。いろんなことがあって疎遠になり、フリーライターを廃業し、一昨年引越しをする段になって、その大部分は手放してしまったが。

『作家の値うち』は、私が初めて買った福田さんの本だ。現役作家の主要な小説作品を100点満点で評価するという挑発的なブックガイドで、たとえば当時の私は、店頭でまず山田詠美の頁を開いた。中学から高校にかけて愛読した作家がどのように評価されているかと見てみると、「倫理的な作家である」。作品はすべて作家の価値観の提示の場となる、ゆえにその本領は短編で発揮され、長編は説教くさくなる……。うーむ、と声こそ出さなかったものの、書店の店先で頷いた覚えがある。本を読むことはそれなりに好きだったとはいえ、理系崩れで現代文芸というものにそれほど親しんでこなかった私は、桐野夏生宮部みゆきも、石原慎太郎矢作俊彦も、この本に導かれて読んだのだった。

 99年から2000年にかけて書かれた本だから、以降に登場した作家が載っていないのは当然のこととして、それ以上に時間の経過を感じさせるのは、その前書きだ。小説に点数をつけることはナンセンスであると百も承知のうえで、このような「暴挙」に至った理由について、以下のように説明されている。

 どう見ても活字にする価値のない作品が、つぎつぎに権威ある文芸誌に掲載されるだけでなく、高名な賞を受賞する。一方できわめて優れた作品が、何の反応も評価も受けないままに消え去っていく。
 こうした光景が、一部の偏向としてでなく、有力な作家や一流の編集者の構成する場の中心で行われているのだ。
 そうした状況を改善する、覆すことが、批評家の責任であることは云うまでもない。(「はじめに」より)

 このような義憤は嘘偽りのないものであった、当時の著者の身近にいた私はそう思う。しかし同時に、この十年余り後にはその人自らが「活字にする価値のない」原稿をしばしば雑誌に掲載していたことも、思い出さずにいられない。

 たとえば週刊誌の連載で、見開き一頁の文字量の九割方がある本からの引用だった場合、それこそ「活字にする価値がない」と思う。そういう引用だらけの原稿は、一度だけでなく数週間に渡って掲載された。その頃すでに疎遠になりつつあった私は、思い余ってそのコピーを取って引用部分を蛍光ペンで塗りつぶして、福田さんと近しい編集者に渡したのだったが。まっ黄色になったその紙の束が、本人の手に渡ったかどうかはわからない。

 書いていたことと矛盾するじゃないか、と責める気持ちは、少なくとも今はない。そんなことは私にだって多々身に覚えがある。それでも、かつて文芸の基準を説いていた人が、自らの基準を破壊することになった事実には、いまだに呆然としてしまう。どうしてあんなことになったんだろうかと、疑問が向かう先には荒れ果てた土地が広がっている。私が背を向けて逃げてきた土地が。

 いつか福田和也論を書かなければならないなと、以前は思っていた。あれほど世話になった者として。でも今は、あまりそうは思わない。責任とか義務とか使命とか、そういう重苦しい動機ではなく、もう少し身の丈に即したところから書けたらいいだろうな、とは思う。福田さんから受けとったものが、もし私のなかに根づいて生きているなら、何らかの形で出てくるだろうし、出てこないならそれまでのことだ。

採点基準29点以下は「人前で読むと恥しい作品。もしも読んでいたら秘密にした方がいい」。明らかにケンカを売っている、それを当時は私もおもしろがったのだったが。

会社員たちへ

『男たちへ フツウの男をフツウでない男にするための54章』/塩野七生/文春文庫/1993年刊

 塩野七生さんの『男たちへ』のようなコラムを書きませんか、と言われたことがある。もう二十年近く前の話だ。駆け出しのフリーライターにとって原稿の依頼は何でもありがたい。しかし、実際にその本を手に取ってみて大いに困惑した。「フツウの男をフツウでない男にするための54章」というのがそのサブタイトルで、言ってみれば男性論。二十代前半の小娘の書く男性論を、読みたいですか? 私はあんまり、読みたいと思わないなあ。

 なんて思ったことを正直に言っていたのでは仕事にならない。代替案にごにょごにょと言い訳を添えて、なんとかその場を凌いだ(どんな代替案だったかは忘れてしまった)。

 相手は当時の私よりは年上の、しかし今の私よりは若い女性編集者だった。明確な意図があってというよりは、たまたまそういう企画を思いついたときに、たまたま私が目に留まったんだろう。今となっては「なぜ私に?」というあのときの疑問に明確な答えがないことくらいは承知している。ただ、年齢を言い訳の筆頭に挙げたことを思い出すと、では二十年近く経った今なら男性論が書けるのか、どうなんだろうかと、つい考えてしまう。

 私は、テレビ・ニュースを見ているとき、アメリカとソ連の戦力削減交渉の場が写し出されると、ひどく熱心に見たものだった。(中略)その場にいたアメリカの首席代表の、エミッツだったか、まあそんなふうな名の男だったが、ついこの間まで首席をつとめていたその男が、大好きだったからである。
 年齢は、八十歳を越えているのだそうだ。だけど、ステキな男だった。眼がいい。じっと相手の眼をみつめて、動かない。
 また、話し方がいい。静かで落ちついた話し方をする。それも、抑えた声で。
 そして、最もイイ点は、笑い顔を安売りしないことだった。笑い顔を安売りする男には、政治家であろうと財界人であろうと、また俳優であろうと、私は食傷気味なのです。
 この人を笑わせてみたい、と私などは思う。八十歳だろうが、そんなことはまったく関係ない。(「第43章 男が上手に年をとるために」より)

 男の色気について。男のロマンについて。不幸な男について。成功する男について。独断も偏見も上等、爽快な男性論だ。大著『ローマ人の物語』をものした人だから、マキャベリダヴィンチといった歴史上の人物も登場するけれども、私はどちらかというと、テレビに映る政治家とか少女時代からファンだった映画俳優を俎上に載せて、その魅力をダーッと語るくだりが好きだ。妙な説得力がある。

 でも、「フツウの男」にはあまり参考にならないかもしれないなあ、とも思う(もちろん、別に参考にしなくても読んでおもしろければ十分だけど)。日本の社会で「フツウの男」と言えば、まず会社員だろう。著者の好みを要約すると「スタイルのある男」ということになる。自分のスタイルというものを醸している会社員を、私はうまくイメージすることができないのだ。

 スタイルがあるとはどういうことか。本書によると、第一に「年齢、性別、社会的地位、経済状態などから、完全に自由であること」。第二に「倫理、常識などからも自由であること」。以下は省略するけれども、やっぱり会社員には、なかなか難しいのではないか?

 

 私の見知った人で、当てはまるとすれば、転職して最初に入った会社のO専務かもしれない。大手出版社で編集長を勤めあげた後、複数の子会社で役員をしていた人で、私は下っ端の事務員として伝票を作って専務(と社長)にハンコをもらっていた。同じような業務をその後いくつかの会社ですることになったけれども、一番仕事がしやすかったのは間違いなくO専務だ。

 月に何度かある「ハンコ押し」のタイミングを把握していて、出張や休暇の予定が決まると「○日から○日までいないよ?」と念押ししてくれる。ほとんど流れ作業のようにハンコを押しながら、たまに発生するイレギュラーな伝票では手を止めて「これ何?」と聞いてくる。世間話や冗談で適度にコミュニケーションをとりつつ、馴れあう隙は見せない。人目を引く美男ではないがポロシャツやダッフルコートがよく似合っていた。

 O専務を「スタイルのある会社員(会社役員)」のモデルとして仮定すると、その条件とはどんなものだろうか。塩野先生に倣って、独断と偏見で書き出してみると……。

 第一に、自分の価値観と他人の価値観の区別がつくこと。この区別がつかない人には、会社の人間関係が一種のロールプレイであることを理解できない。いわゆるパワハラとかセクハラも、根っこにあるのは価値観の押し付けなんじゃないだろうか。

 第二に、わからないことをわからないと言えること。これができないと、不確かな認識に基づいて不確かな判断を下すことになる。年齢や役職に反比例して、できなくなっていく人が多いようだ。

 第三に、自分の属している会社を適度に好きでいること。O専務の場合、たとえば私が親会社のことを褒めると(書類を返してくれるのが早いとか、担当者が親切だとか)、親戚の子どもを褒められたみたいにはにかむ。愛社精神というものは、ほとばしるよりは滲みでるくらいがちょうど良いと思う。

 ……しかしまあ、これでは男性論にならない。強いて言えば会社員論か。若かりし日に「男性論を書け」との依頼に正面から取り組めなかったのは、年齢の問題ではなく、やっぱり資質の問題だったんだな。情けない言い訳をしてしまったものだと、いまさらながら恥ずかしい。

初出は1980年代の『花椿』。資生堂の広報誌でこういう連載があったというのは、バブル全盛期の果実という感じがする。

プロとアマチュアと、それ以外

『波止場日記 労働と思索』/エリック・ホッファー田中淳・訳/みすず書房/1971年刊

 肉体労働とか頭脳労働という言い方になぞらえて、自分は感情の労働者だ、と思っていた時期がある。たとえばある人物のインタビュー記事を引きうけると、その人の著書や過去の関連記事を読んで「ポイント」を探す。どんなに小さくてもいいから、好奇心や共感を寄せられるポイントを見つけて、それをできるだけ増幅させる。その人物に対面したときに「会えて嬉しい」「話を聞きたい」、そういう気持ちがなるべく自然に出てくるように自分で自分を仕向ける。増幅させた感情は、記事を書き終えるとほとんど同時に消え失せる。

 取材対象は人物に限らず、店とかイベントとかその時々で色々だったけれども、ほとんど無意識的にそんなやり方をしていた。当時の私の基本的な考えとして、原稿料をもらって文章を書くなら、読んだ人の心を動かす文章でなければならない。そのためには、まずは自分の心を動かさないと始まらない。深い知識とか特別な閃きとか、そういうものは自分にはないから、売り物になるとしたら心の動きだけだ、と思っていた。

 誰に教わったのでもないその「やり方」が正しかったか間違っていたか、フリーライターという職種としては、おそらく間違っていたんだろう。三十をいくつか過ぎた頃、いろんな物事に対して心があまり動かなくなった。映画やドラマを見てもおもしろくない。本を読んでも集中できない。人と会っても心から楽しむことができない。伸び切ったゴムみたいなもので、特に困ったのは、自分の書く原稿に以前のような興味や執着を感じられなくなったことだった。原稿料さえもらえれば出来も不出来もどうでもいい……そうなることが怖くて、そうなる前に他の仕事をすることにした。

七月一日
 第三十四埠頭、フライング・エンタプライズ号、九時間。忙しい一日。だが不愉快ではなかった。仕事は絶え間なかったが、せきたてられはしなかった。
 近ごろ朝晩は冷えて雨がちだが、昼近くになると暖かい陽がさしてくる。ドックの後方の広い開口部から見える湾の景色がオトギの国のようだった。外の景色は窓からは部屋に入ってこれず、ドアからだけ入ってくる。
 休みをとってもほとんどなにもできない私は、文筆家としては失格である。たしかに、ときには独創的な考えが浮かぶこともある。そして一心不乱に考えれば、最後には何とか二~三〇〇〇語の文章を組み立てることもできる。しかしそれには一年という歳月がかかるかもしれない。いつもいちばん重要な言葉がすぐに浮んでこない。そのつどあらたに探し出さなければならない。

 エリック・ホッファーは文筆家としてプロになることを選ばなかった、そのために「異色の哲学者」として名前を残した人だ。最初に本を出したのは49歳のときで、二冊目、三冊目を出版しながら、65歳まで港で働き続けた。大学の仕事にも誘われて、執筆に専念することもできたはずなのに、そうはしなかった。

『波止場日記 労働と思索』はタイトルどおり、サンフランシスコ港における日々の労働と思索についての日記だ。その日の船荷のこと、離れて暮らす息子のこと、本の感想など。雑多な題材のなかで、私が親しみを覚えるのは学者や作家、いわば「自称・知識人」への懐疑だ。たとえば「ただ単に書くという習慣からぶあつな本が無数に生れるのを考えるとぞっとする」……。港湾労働者として働きながら文章を書くことは、彼にとって自然なことだったんだろう。哲学者という言葉は職業ではなく、肩書きでもなく、生き方を指すんだな、こういう生き方もあるんだなと思う。

 良い文章を書きたかったからフリーライターは廃業しました、と人に言ったことはない(たぶんないと思う)。どうも言い訳としてバカバカし過ぎる気がするけれど、白状してしまえば、その当時はそんな心境だった。

 プロとして書き続けることと、良い文章を書くことが、自分の中で二律背反してしまったのは、どういう経緯だったんだろう? 力不足の一語で片付けるのではなく、いずれ整理して書きたいとは思うけれども、書けるだろうか? 「とにかく、書くべきものであるなら書かねばならない」とホッファーは言っている。私は、書けることと書けないことの境界線上でいまだに足踏みしている。

原題は“WORKING AND THINKING ON THE WATERFRONT”。ちょっと、かっこよすぎると思う。