ライターズブルース

読むことと、書くこと

あとから生まれたわたしたちは

『ブレヒトの詩 ベルトルト・ブレヒトの仕事 3』/責任編集・野村修/河出書房新社/1972年刊

あとから生まれるひとびとに

1
ほんとうに、ぼくの生きる時代は暗い!
無邪気なことばは間がぬける。つややかなひたいは
感受性欠乏のしるし。わらう者は
おそろしい知らせを
まだ受けとらない者だけだ。

なんという時代──いまは
木々についての会話が、ほとんど犯罪に類する、
なぜなら、それは無数の非行について沈黙している!
平穏に街路をわたるあのひとは
苦境にある友人たちからは
もはや手の届かぬひとではなかろうか?

たしかに、ぼくはまだ食えている
でも嘘じゃない、それはただの偶然だ。ぼくの仕事は
なにひとつ、ぼくに飽食の権利をあたえていない。
まずは運がよかったのだ。(運がなくなればおしまいだ。)

ひとはいう、飲んで食え、きみの所有をよろこべ、と。
だがどうして飲み食いできようか、もしぼくの
食うものが飢えたひとから掠めたもので
飲む水が、かわいたひとの手の届かぬものだとしたら?
それでもぼくは食い、ぼくは飲む。

賢明でありたい、と思わぬこともない。
むかしの本には書いてある、賢明な生きかたが。
世俗の争いを離れてみじかい時を
なごやかに送ること
暴力とは縁を結ばずに済ますこと
悪には善でむくいること
欲望はみたすのでなく忘れること
が、賢明なのだとか。
どれひとつ、ぼくにはできぬ、
ほんとうに、ぼくの生きる時代は暗い!

2
ぼくが都市へ来たのは混乱の時代
飢餓の季節。
ぼくがひとびとに加わったのは暴動の時代、
ぼくは叛逆した、かれらとともに。
こうしてぼくの時が流れた
ぼくにあたえられた時、地上の時。

戦闘のあいまにものをたべ
ひとごろしたちにまじって眠り
恋のときにも散漫で
自然を見ればいらだった。
こうしてぼくの時が流れた
ぼくにあたえられた時、地上の時。

ぼくの時代、行くてはいずこも沼だった。
ことばがぼくに、危ない橋を渡らせた。
ぼくの能力は限られていた。が、支配者どもの
尻のすわりごこちを少しは悪くさせたろう。
こうしてぼくの時が流れた
ぼくにあたえられた時、地上の時。

ぼくの力は乏しかった。目的地は
まだまだ遠かった、
はっきり見えてはいたが、しかしぼくは
行き着けそうにない。
こうしてぼくの時が流れた
僕にあたえられた時、地上の時。

3
きみたち、ぼくたちが沈没し去る高潮から
うかびあがってくるだろうきみたち、
思え
ぼくたちの弱さをいうときに
この時代の暗さをも、
きみたちがまぬかれえた暗さをも。
じじつぼくたちは、靴をよりもしばしば国をはきかえて
絶望的に、階級間のたたかいをくぐっていったのだ
不正のみあって、怒りが影をひそめていたときに。

とはいえ、ぼくたちは知っている
憎しみは、下劣なものにたいするそれですら
顔をゆがめることを。
怒りは、不正にたいするそれですら
声をきたなくすることを。ああ、ぼくたちは
友愛の地を準備しようとしたぼくたち自身は
友愛をしめせはしなかった。

しかしきみたち、いつの日かついに
ひととひととが手を差し伸べあうときに
思え、ぼくたちを
ひろいこころで。
(原題:an die nachgeborenen、野村修訳)

 手元にある数少ない詩集の中から、ベルトルト・ブレヒトの詩を引用しました。

 ブレヒト(1898-1956)はドイツの劇作家で詩人。ヒトラー政権の成立直後にドイツを離れてヨーロッパ各地を転々。1941年にはアメリカへ亡命したものの、戦後は反共産主義の高まりを逃れて出国。スターリン体制下の東ドイツで葛藤を抱えながら、表現活動を続けたとされています。

「英雄のいない国は不幸だが、英雄を必要とする国はもっと不幸だ」

「科学の目的は、無限の英知への扉を開くことではなく、無限の誤謬に一つの終止符を打つことだ」

「彼の敗北を喜ぶなかれ。世界がその畜生を阻んでも、そいつを産んだメス犬がまた発情する」

 2025年の日本で、通称・オレンジナチスの台頭に不安を抱く人たちへ、ブレヒトの言葉を届けたいなと思いました。

思い込みを解きほぐす気の長い作業について

『町の本屋はいかにしてつぶれてきたか 知られざる戦後書店抗争史』/飯田一史/平凡社新書/2025年刊

 洗濯機にマグネットで取り付けられるバスマットホルダーという商品を通販サイトで見つけて、便利そうだからもしよかったら注文しようか──少し前に実家でそんな話をしたところ、父が苦々しい表情で言い切った。
「またアマゾンか。アマゾンのせいで本屋がつぶれた。アマゾンは嫌いだ」
 それは違うよ、町の本屋が激減したのはそもそも日本の出版の流通構造に問題があったからだよ、と言いかけて飲み込んだ。出版関係者ではない人に「日本の出版の流通構造」を説明するのは骨が折れる。私としては単に、濡れたバスマットは洗濯機のフチに掛けておくより広げて干しておいたほうが乾きやすいと思っただけだ。
「他の店でも取り寄せできるから、まあちょっと考えといてよ」
 そう言って話を畳んだが、父は憮然としていた。よほどアマゾンが嫌いらしい。

 それでも、町の本屋が激減したのはアマゾンのせいではない。インターネットのせいでもブックオフのせいでも図書館のせいでも、もちろんない。『町の本屋はいかにしてつぶれてきたか 知られざる戦後書店抗争史』を読めば、父にもそれがわかるだろう。とはいえ全十一章(約350頁)中、アマゾン(およびその他のネット書店)が登場するのは最終章。本を貸したところで父が最後まで読むかどうかはわからない。もう少し簡便に、父の思い込みをほぐす方法はないだろうか。

 

 アマゾン日本語版サイトがオープンしたのは2000年、私がフリーライターとして活動を始めたのは2003年だった。私は資料として必要な本がほぼ確実に手に入るアマゾンを重宝しながら、出版関係者によるアマゾン批判を否定できずにいた。
「大企業による寡占は、市場にとって健全ではない」
「アマゾンが送料無料にしたために、再販制度が崩れた」
「このままだと町の本屋がつぶれる」
 私よりも経験豊富な人たちがそう言うのなら、きっとそうなんだろう。私自身、漠然とそう思い込んでいた。考え直すきっかけとなったのが電子書籍の登場、時期としてはiPad日本語版が発売された2012年頃だった。

 出版物の流通効率を示す指標の一つに「返本率」がある。限られた売り場面積で、昨日売れた本より今日届く本のほうが多いとなれば、書店側は返本するしかない。私がライターを始めた当時から返本率の高さは常に問題視されていた(ちなみに2012年当時は37~38%)。

 電子書籍と紙の本で棲み分けすれば、紙の本の物流サイクルがゆるやかになるかもしれない。一つのタイトルが売り場に長く置かれれば、買ってくれる人の目に留まって、返本率が下がる可能性がある。私にはそう思えたのだが。
「電子版を安売りすると、紙の本が売れなくなる」
「お世話になってきた町の本屋を裏切ることはできない」
 電子書籍の普及を期待する声は、身の回りでは皆無だった。ほとんど興味も持たれていない。なんかヘンだ……そう思って調べ始めると、出版業界の「常識」はあれもこれもが疑わしい。
「インターネットで情報がタダで手に入るようになったから、雑誌が売れなくなった」
「売れる本を図書館でぐるぐる貸し出しされると、ベストセラーが生まれにくい」
 ……この人たちとは話が合わない。とにかく一旦、出版業界を離れよう。そう思ったのが2015年頃だった。

 書籍流通の問題点を解決するものとしてネット書店を捉えた論考に木下修「オンライン書店は書籍流通に何をもたらしたか」(『オンライン書店の可能性を探る』2001年所収)がある。
 木下は、適正な流通マージン率にし、返品抑止システムをつくって高返品率から脱し、適品・適量・適時の流通取引システムにして書籍だけで利益が出る構造にすべき、と提言した。
 1、高機能の注文対応型の書籍流通システム
 2、大型の書籍ディストリビューションセンター(書籍流通センター)の設立
 3、書籍の正味引き下げ(特に注文品・買切品の正味引き下げ)
 が必要だ、と。Amazonはこれらを実現している。ただしその理由は「お金のある外資だから」だけではない。2000年前後のAmazonは新興勢力であって「大書店」ではなかった。(中略)
 国内の取次や書店業者も、ネット書店業に果敢に挑んだ。だがAmazonはどの国内事業者よりも長期視点に立って先行投資をし、巨額の赤字を掘りつづけながら顧客が望む出版流通を築き、顧客基盤ができあがると、出版社や物流会社から有利な取引条件を勝ち取っていった。
 筆者はAmazonを称賛したいわけではない。しかしAmazon登場以前に長い間出版流通上の問題だと語られてきたことをこの企業が自力で解決し、公取が望んできた「弾力化」を実現したのは間違いない。そしてそれができない町の本屋を、追い込んでいることも。(「第十一章 ネット書店」より)

 顧客を満足させることが、企業の使命である。ゆえに企業経営にとって、顧客を定義することが最初にして最大の課題である。──たしか「もしドラ(『もし高校野球の女子マネージャーがドラッガーの『マネジメント』を読んだら』/岩崎夏海/ダイヤモンド社/2009年刊)にそんなことが書いてあった。

 著者にとっての顧客は誰なんだろう? 出版社にとって、取次店にとって、書店にとっての顧客は誰なんだろう? もし「読者/本を読む人」と定義するなら、少なくとも「出版社V.S.図書館」という論争は発生しなかっただろう。「電子書籍が売れると紙の本が売れなくなる」という抑圧も。

 日本国内のアマゾン・ユーザーは推定6000~7000万人。私はその一人として、アマゾンのサービスに概ね満足している。敢えて不満を挙げるとすれば、AWSがイスラエルのデータセンターに巨額の投資をして、軍と政府にクラウド・コンピューティング技術を提供していることだ。
「アマゾンのセール期間に買うのを止めよう、というオンライン署名に参加したよ。本を買う側としては、私はアマゾンのサービスに満足しているけど、入植活動への投資には反対だからね」
 父には、そう話してみようか。もしそれで耳を貸してくれるようだったら、大型書店でバイトしていた頃の話とか、書店のマージン率の低さとか、運賃の高騰と再販制度の矛盾とか、そんなようなことを話してみようかと思う。

アフィリエイト・リンクを貼りつつ、ボイコット署名活動へのリンクを貼るのは、矛盾してるな〜と自分でも思うけど。たとえば前回の『私の文章修行』のリンクからは4冊売れて、売上449円(うち紹介料は13円)。アマゾンさんには「顧客の希望」を伝えつつ、本の紹介を通じて何らかの「思い込み」をときほぐしたい、というのが私の立場です。今のところ。

上手い文章、良い文章

『私の文章修行』/週刊朝日編/朝日新聞社/1979年刊

 文章が上手いということは、それを書く目的を達成できることだと思う。求人への応募書類なら一次面接に進むこと。商品紹介なら購買に結びつくこと。謝罪文なら相手の理解と赦しを得ること。フリーライターとして営業していた頃の私は、読んだ人に楽しんでもらうことを目的としていた。

 中小企業の広報部門に在籍していた頃は、商品URLをクリックしてもらえるようにとメルマガを書いた。また別の企業で経理部門に在籍していた頃は、役務売上に新税率が適用されてもクレームが来ないようにと顧客向けの案内文を書いた。そういうケースにおいて、私の打率はそこそこ高かった。

 その一方で「上手い文章」とは別に「良い文章」というものがある。個人的に、経験的に、繰りかえし読んで心地よい文章が、良い文章だと思う。上手いがために一度で済んでしまう、再び読む気にならない文章は、上手であっても良い文章とは言えない。

 結局のところ私は、上手な文章ではなく良い文章を書きたいらしい。

 ライターを廃業した理由の一つに編集者に対する不信感というものが挙げられる、と前回書いた後で、理由ではなく「きっかけの一つ」としたほうが適切だったかもしれない、と思い直した。目的に合わせて上手に書くことに空しさを覚えて、「良い文章」などというものを目指してしまった、それがより根本的な原因だったのではないか。空しさを覚えた背景には、編集者に対する不信感があったとしても。

 

 上手な文章を目指そうと良い文章を目指そうと、書くことが基本的に孤独な作業であることは変わらない。その孤独に向きあう「仲間」の存在を感じることで、いくらか慰撫される場合がある。

 たとえば『私の文章修行』。この本をいつどこで買ったのだったか(もしかすると世話になっていた先生の書架から貰い受けたのかもしれない)、気まぐれに手にとって頁を捲るうちに「ぼちぼち書くか」と気持ちを立て直す、私にとってはそういう本だ。

 1978年に『週刊朝日』に掲載されたリレーエッセイの単行本で、作家や評論家、俳優やミュージシャン等々52人が「文章修行」について思うところを綴っている。

 試しに倉橋由美子の頁を開くと──「若い頃から文章を書くことを商売にしてゐる人間は丁稚小僧に出された貧家の孝子に似て、苦労しただけ早くから文章は達者になるが、若くして文章を書く楽しみを失ふ。それは営業用の文章の型ができてしまふからで、その型に合せて他人を楽しませる文章を書くのは苦労である。それを埋合せてくれるものは金銭と名声しかなくなる」──。

 ライターだった頃の私は、名声というほどの活躍とは程遠く、原稿料がいついくら振り込まれるかもわからない状態で書いていたのだから、まあ「埋合わせ」が追いつかなくて廃業するのも仕方なかったな……という具合。

(前略)さういふ商売、つまり文筆業を数十年も続けて年をとつた人の文章は、所謂名文かもしれないがどこか悪達者なところがある。
 文章の品位を保つには自分の型など持たないのがよい。それに気に入った他人の文章を真似る楽しみは残しておきたい。それは素人の稚気ではあるが、しかし素人が自ら楽しんで(といふことは自己陶酔に陥つてといふことではない)書いた文章には少くとも下品なところはない。(中略)
 できれば過剰な形容詞や比喩の贅肉を一切落して骨だけが歩いていく調子の文章で書きたい位であるが、それでは面白がつて読んでくれる人などゐないに違いない。これが小説を書く気になれない理由の一つである。(「骨だけの文章」倉橋由美子)

 私が「上手い文章」という言葉で表そうとしたことを、この人は「悪達者」と書いている。私が「良い文章」という言葉で表そうとしたことは、おそらく「文章の品位を保つ」ことと関係しているに違いない。共感という言葉を使うのはおこがましいが、遠くの独房から聞こえた独り言に大きな声で相槌を打ちたいような気持ちに駆られる。

 古い本だからとうに絶版で文庫化もされていないが、古書市場では手頃な価格で売買されている。どこの独房の声がどこへ通じているかわからない、興味のある方へ向けて執筆者一覧を以下に併記しておく。

──丸谷才一、高峰秀子、清水幾太郎、円地文子、新藤兼人、和田誠、坪井忠二、團伊玖磨、田村隆一、飯田善国、武田百合子、北杜夫、佐藤忠男、吉田秀和、開高健、中村武志、日高敏隆、小川国夫、東海林さだお、倉橋由美子、山口瞳、堀淳一、宇野千代、尾崎一雄、大岡信、森崎和江、金達寿、佐多稲子、山下洋輔、吉行淳之介、江國滋、ドナルド・キーン、梅原猛、野見山暁治、中上健次、澁澤龍彦、つかこうへい、田中美知太郎、芥川比呂志、石原慎太郎、殿山泰司、河上徹太郎、沢木耕太郎、戸板康二、大岡昇平、大野晋、中山千夏、三善晃、倉本聰、植草甚一、井上靖、池田満寿夫──

 それにしても「雑誌文化はなやかなりし頃」と書き添えたくなるような執筆陣だ。子役時代の高峰秀子は月刊映画誌に「日記や落書きをイヤオウなく書かされていた」そうで、今の時代で言えばブログやSNSがその代替か。

 雑誌広告とweb広告で、売上額が逆転したのは2010年頃。以降インターネット上では(特に商用サイトでは)私の思う「上手い文章」と「良い文章」が、日に日に乖離していくように見える。あまり共感できない目的に合わせて上手い文章を書くよりは、無目的に下手な文章を書きたい。倉橋由美子に倣って言えば、それがwebライターをやる気になれない理由の一つだ。

装丁と挿絵は池田満寿夫。東海林さだおさんのエッセイに、池田満寿夫による「ショージ君」が添えられているのが「大人の遊び」という感じで微笑ましい。

「原稿料がいくらかわからない問題」について今思うこと

Excelってライター時代はほとんど使わなかった。
会社員をやったおかげで少しは使えるようになりました。

 ライターを廃業した理由の一つに、編集者に対する不信感というものが挙げられる。その最たるは原稿料で、振込があるまでいくらかわからないケースが珍しくなかった。それほど手広く営業していたわけではないけれども、個人的な印象(偏見)としては以下のとおり。
・新潮社──依頼の段階で明示してくれることが多かった。
・文藝春秋──教えてくれる人と教えてくれない人、半々くらい。
・講談社──こちらから聞けば教えてくれるが、時間はかかる。
・マガジンハウス、小学館──聞いてもわからないことが多かった。
 廃業して10年近く経つから、最近のことはわからない。去年施行されたフリーランス法に則って「適正な取引」を行われていることを願ってはいるが、長年の慣習が法令一つでガラリと変わるかどうか、いくらか懐疑的になってしまう。
 少なくとも当時は、出版社の規模が大きくなるほど額がはっきりしない一方で、実際の振込額は割高な傾向があった。背景として、規模に比例して分業化が進んで編集部員が予算を把握していない(だから聞かれても答えられない)という実情と、「よそより高いんだから文句ないでしょ」という心情と、両方があったんじゃないかと思う。
 会社員生活を数年経た今となっては、大企業のなかで個々の社員が細かい予算を管理できないのは、ある程度は仕方のないことだと理解している。とはいえ金額について合意のないまま仕事を進める慣習は、やっぱりおかしい。社内手続きの不備で間違った額が振り込まれる可能性だってあるわけだから。間違いでないことくらい、お互いに確認できる状態にしておかないとマズイだろう。
 そんなわけで、先方から金額の提示がないときは、こちらが見積書を提出するべきだった、というのが現時点での結論だ。ライター稼業を再開する予定は今のところないけれども、世間知らずだった自分自身への反省の意味で、見積書のテンプレートを作成してみた。
 Googleドライブに置いておくので、ご入用の方はご自由にお使いください。ただし結果については自己責任とやらでお願いします。

 

 なにしろ初めて会社員になったのが30代後半だったから、世間知らずだったなあと思い知らされることは他にもいろいろあった。
 たとえば雇用保険。加入すると一人に一つ被保険者番号というものが割り当てられる。私はそんな番号の存在さえ知らずにいた。
「ほんとうに、ないですか?」
「たぶん、ないと思うんですけど」
 入社手続きの際、窓口の職員に何度も念を押されて、怪訝に思ったものだった。その後、別の会社で私自身が入社手続きを担当する段になってようやく、あの年齢まで一度も雇用保険に加入したことがない、それが当時の担当職員を驚かせたのだと理解した。
 組織図というものにも驚かされた。最初に入った会社では、実際に働いている社員は男女半々くらいなのに、組織図には男の名前しか載ってない、つまり部長以上の役職についている女性が一人もいなかった。女であるために個人的に不快な思いをしたことはあっても、相手の顔が見えない、システマチックな抑圧を感じたのは初めてで、これが男女差別というものかと、井戸から出てきた蛙のように仰天したものだった。
 若い人たちがいろんなことを考えながら仕事をしていることにも驚かされた。何を着ていくか、誰とランチに行くか、どのタイミングで上司にハンコをもらうか、いつ有休を申請するか……。
 彼らに比べると20代の頃の私は、何も考えてなかった。そもそも仕事は、一人でするものだと思っていた。取材や打ち合わせも仕事のうちだけれども、本番は原稿を書くこと。一人でパソコンに向かっている間は、文章のことしか考えない。机から離れている間も、何を書くか、どう書きだすか、参考になりそうな本はないか、だいたいいつもぼんやりと、そんなことばかり考えていた。
 どうやら自分は、奇妙な20代を過ごしてしまったらしい。会社の中で働く若者たちを目の当たりにすると、そう認めざるをえなかった。

 

 そのようにして編集者に対する不信感も、半分くらいは解消した。つまり彼らは「編集者」である以前に「会社員」であり、日々いろいろなことを考えていたわけだ。何を着ていくか、誰とランチに行くか、どのタイミングで上司にハンコをもらうか、いつ有休を申請するか……。
 本や雑誌を作るという業務についても、もちろん考えてはいたのだろうけれども、ライターの私が原稿のことばかり考えて過ごしていたのと比べれば、優先度はあまり高くなかったんじゃないだろうか。会社員なんだから、それが当たり前といえば当たり前だと思う。
 一方では、いまだに理解できないこともある。
「ウチで書かせてあげようか」
「あなたの本を出してあげることもできるよ」
 知り合ったばかりの編集者にそのように声をかけられる度、フシギに思ったものだった。上から目線でムカつく、というのではない。この人にとってはそれが仕事じゃないのか? 自分の仕事をするにあたって、してあげるとか、あげないとか、そういう感覚が理解できなかった。
 その出版社で書かせてほしいと思う人の数と比べて、実際に書かせてもらえる人の数のほうが少ない。需要と共有のバランスの観点から、こちらが「書かせてもらう」立場だということはわかる。でもそれは、その出版社と私個人の関係だ。いち社員と私個人の関係ではない。
 数社を跨いで会社員生活をするなかで、個人と取引をする会社もあった。しかし、個人事業主たる取引先に対して「ウチで取引してあげる」なんて言い方をする社員は、今のところ見たことがない。自分の業務を遂行するために、相手が有している技術や知識を借りる必要がある、そういう認識で取引が進められる。組織対個人の力関係を持ち出して、相手の足元を見るような言動は、下品で恥ずかしいこととして軽蔑される傾向があるように思う。
 出版社に所属する「編集者」が、外部に対して「書かせてあげる」とか「出してあげる」という感覚になってしまうのは、どうしてなんだろう? もしかすると彼ら自身がその組織のなかで、「雇ってあげる」とか「企画を通してあげる」とか、日々そういう抑圧を受けているんだろうか。今のところ、そんな風に憶測するしかない。

最近読んだ本の中では『教えること、裏切られること 師弟関係の本質』(山折哲雄/講談社現代新書/2003年刊)が興味深かった。師弟関係についてあれこれ考えたけど、その話はまた今度。

 

いまさらの話と、いまさらのご報告

『この星を離れた種族』/パク・ヘウル 著/廣岡孝弥 訳/inch magazine/2024年刊

 いまさらの話題になってしまうけれど、今年最初の読書はインチマガジンというインディペンデント・レーベル発行の『この星を離れた種族』だった。大晦日に実家に向かう電車の中から携帯端末で注文したところ、その三日後に数枚の年賀状と一緒にポストに届いていた。お正月を過ごす間には他の文庫本を読んでいたのだが、今年最初に届いた本、もっと言えば「今年最初に気に入った本」がこの小冊子だった。

「鉄の種族」「ゆりかご惑星」の2篇が収められたSF短編集で、まず装丁がとても良い。上着のポケットに入れて持ち歩ける大きさで、ブルーとグレーを基調とした装画に中綴じの赤い糸がかわいい。裏表紙に汚いバーコードもない。手で持った感じ、目で見た感じ、「本を所有する喜び」みたいなものがある。

 小説の内容については、あれこれ説明するより『この星を離れた種族』というタイトルから自由に想像してもらうほうが(あるいは実際に読んでもらうほうが)いいと思う。高度に発達したテクノロジーとその荒廃が背景となっていて、そういう話がこういう装丁に収められているところがスゴクイイ。あり得るべき未来の乾いた空気と、本を所有するという前時代的な喜びを同時に味わっている私は、「ああ、いまだこの星に留まっている種族なんだなあ」という不思議な気持ちにさせられる。

 いまさらの話として書き出したのは、5月に入ってから年初の話をすることに対してだが、個人的にはもう少し色々な意味でも「いまさら」感がある。

 私は2000年代前半にライター稼業を始めて2015年頃に廃業した。廃業に至った理由の一つに「出版業界に限界を感じた」ことが挙げられる。その間、小規模出版のプラットフォームが発達して、出版業界の外で(あるいは周縁で)独立系の出版が勃興していることは知っていた。個人経営の書店やミュージアムショップなどでいくつか買ったことはあるものの、2025年の年初になってようやく「この本の良さは、インディペンデントならではだな」などと感じ入ったのも、いまさらと言えばいまさらだ。つくづく私は、いまだこの星に留まっている、遅れた種族らしい。

 

 さて、以下はご報告というか、もう一つ「いまさらの話」を。

 今週からSNS「X」上に、いわゆるbotを設置しました。「ライターズブルース.bot」という名前で月~金に1回、自動投稿するように設定してあります。botbirdというツールを使って、とりあえず50件くらい登録したところです。

 ブログを始める際になんとなく、SNSもやったほうがいいんだろうなと思ってアカウントは作ってあったんですが。SNSが「人とつながる」ツールだとすれば、今はそんなにつながらなくてもいいかな、ブログも、読む人が誰もいなくてもとりあえず続けられればいいや、という感じで放置していました。

 自分なりに何かやってみようと思い直したのは、去年の12月27日付のブログがきっかけです。初めて課金機能をつけて、4~5千円くらいになればいいかと思っていたところ、X(旧Twitter)上でいろんな人がポストやリポストをしてくれたおかげで、3万円以上の売上になりました。自分の売上のためには自分で広報しないとな~とか、こういうコミュニティに自分も参加しないとな~とか色々考えて、とりあえず半自動運用しようと結論した次第です。引きこもり児童がおそるおそる保健室登校を始めたよ、という感じ。

 教室への登校(手動での投稿)を諦めたのは、私にはとてもついていけないからです。タイムラインと呼ばれるあの画面を眺めていると、スクランブル交差点の真ん中で立ち往生して怒鳴られたりクラクションを鳴らされてるような、「頼むから一人ずつ、ゆっくり喋ってくれないか」という気分になる。あの形式の情報を処理する能力が私には欠けているようで、かなしきかな、遅れた種族よ。

 

 Twitterでbotを運用するというプランは10年くらい前、ライターを廃業するときに思いついたことでした。前述したように個人出版のプラットフォームがいろいろ出てきて、これからは出版社に頼らず自分で本を作ろうと思っていた頃です。告知宣伝のために出版社や編集者の悪口をTwitterで言いふらして、いわゆる炎上商法を試してみようと計画したわけです。それ用の原稿も120本くらいこしらえていたんですが。

 実行に至らなかったのは、まずは転職して生計を立てるのに忙しかったから。転職したらしたで、本名で出版活動をしたり炎上商法を試すのはリスキーになってしまったから。それにやっぱり、炎上商法は自分には向いてないと思ったから。自分にも反省すべきところ、恥ずべきところが多々あったなと我に返ってしまう。それに悪口を書くと、やっぱりイヤな気分、暗い気分になってしまう。

 デスクトップに保存してあった原稿を印刷して、久しぶりに読んでみると、やっぱり暗い気持ちになりました。その一方で、こんなこと考えてたんだな、どうしてもこれが言いたかったんだな、と思うものもありました。「今となっては笑える」もしくは「今なお同情に値する(と思われる)」ネタを選んで、新たなネタを加えて、「出版業界で行き倒れたフリーライターの生き霊」という設定にしました。

 生き霊なので性格は歪んでるし、言ってることは逆恨みだったり言葉足らずだったり。その時々でこちらのブログで補足(というか言い訳)するつもりですが、基本的には「そんなこと言ってるから廃業したんだよ~」と笑ってもらえればいいかなと。いまさら炎上商法を試そうとは思わない、自分の書いた文章を、読んでおもしろいと思ってくれる人に届ける努力をもう少ししてみようかなと。そんなところです。

それにしても「生成AIを使いこなそう」という時代に、こんな原始的なものをbotと呼んでいいんだろうか? たぶん良くない。ロボットの着ぐるみの中で汗だくになって、根室女工節と横浜銀蝿を足して2で割ったようなブルースを歌う、そんな気分だ。

ハートフィールドとビリー・ホリデイ

『風の歌を聴け』/村上春樹/講談社文庫/1982年刊

 小説とエッセイの違いについて考えていた。考えるともなく、ぼんやりと。

 小説は作り話で、エッセイは実際に起きたことだ、一般的にはそう思われているらしい。私も十代の頃はそう区別していたような気がする。でも実際に起きたことをそのまま書くのは、難しいというより不可能だ。

 日時や場所、居合わせた人々、どんな天気で、誰がどんな服を着ていたか等々、あらゆる事象の中から何を書くか(何を書かないか)、取捨選択をしないことには進まない。書こうと決めたことにぴったりな言葉が見つかるとも限らない。見つかったと思っても、文章として組み立てた途端に意味を見失うこともある。なんか違うな、ああでもないしこうでもない、とやってるうちに「実際に起きたこと」からズレていく。そもそも、実際には何が起きたのか、頭を抱える羽目になる。だからエッセイも(というか、あらゆる文章は)虚構の一つに違いない。

 私は基本的に、小説だろうとエッセイだろうと、読んでおもしろければ形式は何でもいいと思う。でも、もし誠実さを基準とするならば、小説以上の形式はない。あらゆる文章が虚構であるなら、あらゆる物書きは嘘つきだ。小説を書く者だけが「私は嘘つきです」という事実を述べている、とでも言っておこうか。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」
 僕が大学生のころ偶然に知り合ったある作家は僕に向ってそういった。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少なくともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧な文章なんて存在しない、と。
 しかし、それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。そういうことだ。
 8年間、僕はそうしたジレンマを抱き続けた。──8年間。長い歳月だ。
(中略)
 今、僕は語ろうと思う。
 もちろん問題は何一つ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みに過ぎないからだ。(『風の歌を聴け』)

 村上春樹のデビュー作を久しぶりに手に取ったのは、デレク・ハートフィールドのことを思い出したからだ。物語の冒頭、上記引用箇所に続いて登場する、架空の作家だ。発表当時は書店や図書館に「ハートフィールドを読みたい」という問い合わせが相次いだらしい。発表から20年以上経って、だいぶ遅れて読んだ私も「すっかり騙された」クチだった。

 なにしろありありと描かれている。経歴や代表作、作風はもちろんのこと、「文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ。」(「気分が良くて何が悪い?」1936年)といった具合に、引用形式には律儀に出版年が添えられている。1938年、右手にヒットラーの肖像画を抱えて、左手で傘をさしたまま、エンパイア・ステート・ビルの屋上から飛び降りた──ずいぶん奇矯な作家だったんだろうなと思わざるを得ない。

 きわめつけは「ハートフィールド、再び……(あとがきにかえて)」という最終章だ。墓参りのためにアメリカに短い旅行をしたという思い出が語られ、「一九七九年五月 村上春樹」と締めくくられる。これでは本当の、一般的なあとがきだと思い込んでも仕方ないではないか。

 どうしてここまで念入りに作り込んだんだろう? 「ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、そういった彼の同時代の作家に伍しても、ハートフィールドのその戦闘的な姿勢は決して劣るものではないだろう、と僕は思う」……だったらヘミングウェイとかフィッツジェラルドとか、実在した作家を題材にしてもよかったんじゃないの?

 

 比較対象として適切かどうかはわからないけれども、思いつくままに本棚から『雑文集』(新潮文庫/2015年刊)を取り出して「ビリー・ホリデイの話」を開いた。以前書いたから内容は省略するが(2023年12月15日付)、ジャズという音楽についての短いエッセイだ。ビリー・ホリデイが実在した歌手であることは私も知っているが、もしこれが架空の存在だったとしたらどうだろう? 少々ムリな仮定ではあるけれど、そのつもりで読んでみた。

 たぶん、特に問題ない。

「ジャズってどんな音楽ですか?」という質問に言語で答えることが、このエッセイの主題だ。したがってここでは、歌手の経歴や曲名など、具体的な音楽を想起させるような説明は一つもない(もし説明したら「だったら聴いたほうが早いじゃないか」ということになってしまう)。ただジャズ・バーを経営していたときに、ある客のリクエストで何度かビリー・ホリデイのレコードをかけたという思い出が綴られる、一つの物語のように。

 もしこれが架空の歌手だったとしても、「こういうことがつまりジャズなんだよ」という内容は伝わるはずだ。読んだ人がその歌手の音源を探して、そんなものは存在しないと知って面食らう、というアクシデントは発生したかもしれないけど。

 要するにビリー・ホリデイが実在しようとしなかろうと、デレク・ハートフィールドが実在しようとしなかろうと、読むという行為の障害にはならない。実在した存在か、架空の存在かは、むしろ書くという行為の分水嶺になってくるんじゃないか。

「僕は文章についての多くをデレク・ハートフィールドに学んだ」

 デビュー作においてそのように書きだすことは、おそらく、「僕」に人格を与えるために必要な手続きだったんだと思う。「僕」という虚像を存在させるためには、ヘミングウェイやフィッツジェラルドといった実在の作家ではなく、「デレク・ハートフィールド」という虚像を存在させなければならなかった……今のところそんな風に納得している。

 

 さて、去年亡くなった福田和也さん、私が二十代を通して世話になった「福田先生」について書くとしたら、多かれ少なかれ嘘を書くことになるはずだ。小説にしようとは思わない、そういう野心は、たぶん邪魔になるだろうから。エッセイを書こうとも思わない、今までだって書いたものが結果的にエッセイになっただけだ。ただ、読む人に対してではなく自分自身に対して正直に書くために、どういう嘘が必要になるんだろうなあと、引き続き考えている。考えるともなく、ぼんやりと。

『一人称単数』(文春文庫/2023年刊)に所収の「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」は、実在のサックス奏者が登場する短編小説だ。「僕」という語り手が村上春樹本人を思わせる、エッセイに近い読後感。小説とエッセイの違いについてあれこれ考えたけど、結局、長いのが小説で短いのがエッセイ、もうそれでいいんじゃないか。少々乱暴な結論ではあるけれど。

 

転載3「実録:我が石原慎太郎の慎太郎」

 

「en-taxi」VOL.27(扶桑社、2009年9月刊)への寄稿記事を加筆修正のうえ転載します。

 あなたはもうプロなんだから、一円にもならない文章を書いてはいけない。F先生にはいろんなことを教わった、これもその一つだ。もちろんメールや手紙の類はその限りではない、作品としての文章を趣味で書くようになったら、物書きとしておしまいだということ。甲斐のない話になってしまうけれども、一度だけこの教えを破ったことがある。

 去年の夏、学生時代の友人と小説を書いて読み合おうということになった。二人ともF先生の下で小説を書くゼミに在籍していた、その思い出話をしていたときのことだった。

 フリーライターという少々ヤクザな商売をしている私と違って、彼女はきちんとした勤め人だ。作家に転身するしないは私の関知するところではないが、いつかまた小説を書く意志があるらしいことは薄々知っていた。私自身は、ちょうど書いてみたい題材があった。あるときあるきっかけで感じたコトを、小説という形に仕立ててみたい。どの程度具体的な構想だったか、漠然とした情熱だったかはわからない。別のものを別の眼差しで見ているに違いない友人への共感が、私の口を滑らせた。

「やろう」

 〆切りは一ヶ月後、枚数は自由に。いまさら「口を滑らせた」などと言うのは彼女に対して失礼かもしれないが、口が滑りでもしなければ言うこともなかった。後からF先生の教えを思い出して「しまった」と思ったものの、会社員としての生活と経験を数年分重ねた彼女が、どんな小説を書いてくるか。真摯でしばしばユーモラスな評者であった彼女が、今また私の書いたものにどんな言葉を与えてくれるか。約束を交わすと、俄然愉しみになった。

 愉しみを覚えたあの瞬間、私は、書くという自分の仕事を趣味に貶めたのだろうか? わかっていたのは、学生同士ではなくなった現在、そのような機会を持つことが、彼女との関係をどのようにか変質させるかもしれないということだった。書くこと、読むことへの真剣さのさじ加減によっては、片方が片方に、あるいはお互いに、幻滅することもあり得る。何が得られるかもはっきりしないのに、私は代えの利かない友人を言わば賭け金にした。

 仕事で原稿をやりとりするときの緊張感は、その種類や相手によってさまざまで、単純に比較することはできない。しかし小説だろうと何だろうと、学生だろうとプロだろうと、文章を書くことは大体においていつも何かの賭けだった。何度か、ここぞという時には自分にとってなるべく大きなものを賭けようとしてきた。勝ち負けは別にして。

 〆切りに向かって乗りだすと、私は自分が書こうとしているコトが、既にある作家によって書かれているような気がした。しかも、私には文句の一つもつけようのない形で。

 ならば模倣しよう。

 

 本当に飲みたいときには、自分からは誘えないものだ。酒と、それに付きあってくれる仲間を必要としているという自覚もない。

「飲もうよ。ちょっと体動かしたくて」

 U子から電話があったときには、だから二つ返事で家を出た。

 卓球バーという呼び名は、マスターはダサいと言って疎んじるが、まあそういう店だ。卓球は特別好きでも嫌いでもないが、近所というだけで仲間と何度か訪れていた。

 どうせ素人同士、気の利いたテクニックがなくても、来た球をひたすら返していけば勝てる。相手がスマッシュやカットに失敗するのを根気よく待つ。そんなやり方で私はいつも、仲間内ではどちらかと言えば上位につけていた。だけどこの日は、あまりに張りあいがなかったのだろう。

「卓球って気分じゃなかった?」

 言われてみればそのとおりだった。ルールだとかラケットだとか、球が跳ね返るということや何かが、大気圏外のように遠い。いつもどおりラケットを当てているはずなのに、球が別の生き物のような動きをする。その生き物に、さして関心を払えない自分がいる。

「だめだね、とうも」

 慣例どおり罰ゲームのテキーラを立ったまま飲み干す。カウンターには若い男が一人いるだけで、私たちのゲームを一目見たきり背を向けて、マスターと開幕したばかりのF1グランプリの話をしていた。

「なに、男?」

 肯定も否定もしなかったけれども、U子はさっさとカウンターに体を預けて、ハイボールをダブルで頼む。少し迷って、私はズブロッカをロックで頼んだ。

「勘がいいね、相変わらず」

「わかりやすいもの、あなたは」

 こんな時間に誘うということは、おそらく彼女のほうで何か話したいことがあったのに違いなかった。霜の降りたグラスに指を這わせて、しばらく間を置いたけれども、切り出したのは私のほうだった。

「二年くらい前に、私がつきあってた男、覚えてる?」

 今度はU子が返事を怠った。覚えてるも何も、といったところだろう。

「先週、うちのスタジオに来たんだよね」

「仕事で? だけどスタジオなんて他にいくらもあるでしょう。ヨリ戻したいんじゃないの」

「まさか。戻りようがないもの。向こうもわかってるよ」

「じゃあ、なんで」

「さあ」

 彼女の発した問いは、おそらくもっともなのだろう。だけど私には新鮮で、しばらく真面目に考える。

「うちよりマシなスタジオと、私よりマシな技師が、空いてなかったんでしょう」

 話してみれば、それだけのことだった。煙草の煙が揺れて、U子が少しこちらを見やるのがわかる。私は目の前のグラスを見ている。

「まあ、それだけなんだけどね」

 U子のガラムを一本もらって、慎重に火をつけると、異様なスピードで燃えていく。自分が中毒患者のように吸っていることに、少しして気がついた。

 U子は悪酔いするとケンカはするし泣くし物は壊すし、それでも最後は大笑いして帰る、年のわりに古いタイプのミュージシャンだった。そんなU子が結婚するというニュースは、仲間内を沸かせた。人間するときにはするもんだ、と誰かがいい加減に話をまとめれば、世の中の男も捨てたもんじゃない、と誰かがまぜっ返す。そういうざっかけない祝福に、ここひと月ばかり私も加わっていた。

「惚れ込んでたのは知ってたけど。もう終わったもんだとばかり思ってたよ」

「私も」

「だって***さんとつきあってなかったっけ」

「どうなんだろう、あれは、つきあったって言えるのかね」

 U子の三つ奥の席に座っている男は、今度は今年の桜の話をしている。目黒川の近くに住んでいるらしい。

 二杯目のズブロッカを干して、もうワンセット申し込むと、さっきより大差で負けた。

「ダメじゃん、全然ダメじゃん」

 U子はからから笑いながら、ラケットと球を放りだした。私も勢いに任せてショットグラスの底を上げる。

「声が」

 私が声を潜めるとU子は注意深げに体を傾けて、その向こうにいる男と私を結ぶ線を遮った。

「似てるの」

 すばしこく目を左右させて、言ってる意味がわからない、という風にわずかに首を傾げる。

「あの人の声に聞こえるんだよね、全部とは言わないけど、半分くらいの男の声が。街歩いてても、あの人の声を拾っちゃうんだよね」

「なにそれ。いつから」

「だから、こないだ。あの人が来て、帰ってから。最初は宅急便。一瞬、仕事替えたのかと思った、それかいたずらしにきたのかと思った」

「配達員の声を彼と間違えたってこと? 音響技師なのに?」

 U子はガックリと肩を落として、また笑い出した。

「それとも音響技師だから、かね」

「マイクを通して聴く分には平気、どういうわけか。だけど電車に乗ってるときとか、すれ違いざまとか。咳払いとか、笑い声が。いちいち、びっくりするくらい」

「それはきついね」

 そのとおりだった。

 U子がふいに私の肩を叩いた。

「それで、どうするの」

「別に。どうもしない。どうにもできないし」

「そうかな、そういうもんかね」

「そうだよ、それは」

 煙草を二本、灰にした。

「忘れたと思ってたんだけどな」

「そのうちまた忘れるよ」

「そのうちって?」

「すぐだよ、すぐ」

 すぐってどれくらいなの、とは聞かなかった。すぐと言ったら、すぐなのだろう。

 つられて笑顔を造ると、瞼に心地よい重みを感じた。ふと、U子の結婚を改めて祝福したい気持ちになったけれども、言葉が出てこない。

 暖房と煙草でくぐもった空気を追い出すように、マスターが窓を開けると、凍った外気がうっすらと朝焼けていた。いつのまにか、男はいなくなっていた。

 

 友人にメールで作品を送る際、私は自分がある大家の掌編を剽窃したことを書き添えた。

「あまりうまくいったとは言えないものの、やってみていろいろわかったこともあるように思います。当日話をするのを楽しみにしています」

 平日の夜に大井町で待ち合わせて、まずはとんかつとビールで乾杯した。当たり障りのない話をしながらロースカツを平らげ、バーに移ってからじゃんけんをした。勝ったのだったか負けたのだったか、私の送ったものから友人の講評を仰ぐことになった。

 彼女は作家の名前を二つ挙げた。その一つが、石原慎太郎だった。

「……よくわかったね」

「当たり? 嬉しいな。どの作品かはちょっとわかんなかったけど、もしかしたら、と思って」

 私は文庫版『我が人生の時の時』を鞄から取り出して見せた。

「あのね、本当に短い、これと同じくらいのやつ。テニスを卓球にしてみました」

「どれだろう、そんなのあったっけ」

「テニスコートで」と題されたその掌編を、彼女がすぐには思い出せなかったのも無理はない。太平洋の真ん中で迷子になったり、熊や鯨と遭遇したり、「時代と一緒に寝た」と自覚する作家の「人生の時の時」の連なり。私が剽窃したのは、全四十編の中では地味と言って差し支えないものだ。ヨットや猟の話など、私には真似のしようもないことは言うまでもないが。

「友だちとテニスして、酒飲んで、話をする、それだけなんだもの。それが、漂流とか死神の話と同じテンションで書かれてるんだもの」

 最初に読んだのは六、七年前だったか。頭上を大きな雲が音もなく過ぎていった、影だけを落として……そんな読後感だった。さあ模倣しようと思って読んでみると、今度は顕微鏡で何か自然界の結晶を覗いたときのような、緻密な美しさが現れた。

「参ったね、正直。どうしてわかったの」

「文体がそれっぽいなと思って。それとサトウさん、好きそうだし」

 読書家で考察に優れた彼女ならではのことだろう。このような友人の存在を嬉しく思うと同時に、いまさらのように照れくさい。

「だけど、やってみてなるほどと思ったのは、会話と地の文の区別だね。カギカッコの中では女にふられたって話をしてるんだけど、地の文ではほとんど女が出てこないんだ」

「ちょっと、読ませてくれる?」

 私は彼女のために頁を開いて、しばらくの間黙って酒を飲んだ。私が煙草を一本吸い終える前に、ふふふ、と彼女が声を立てた。

「男は半年、女はすぐ、か。アンサーソングみたいになってるわけだね、おもしろい」

「でもねえ、二つばかり小細工した。卓球バーに男の客を置いたのね。これを消すと、かなりスカスカする。書いてて、ちょっと持ち堪えられなかった」

「そう。もう一つは……」

「幻聴というかね。別に聴覚じゃなくてもよかったんだろうけど、何かしないと、未練っぽさが出ないような気がして」

「全体の分量は同じくらいなんだよね?」

 私は頷く。

「小細工した分で、石原さんは何を書いているかと思って探してみた。『S』が過去につきあっていた女についての描写があったのね。だから私も『U子』が付き合っていた男を『私』が思い出すって部分を書き足してみたんだけど、どうにもしっくりこなくてヤメちゃった。このあたりでタイムアップ。無謀だったよ。だいたい、時の時って何なのさ」

「ねえ。我が人生の時、だったらまだわかるけど。時の時は、ちょっとねえ」

「『必ず必要』とか『あるものでありはしない』とか、この文体は真似しきれない」

 上品な小鼻がぴくぴくしている。彼女流の爆笑だ。

 思えばこんな時にこそ俺の人生は飛翔していたのかも知れない……私は作家の手による「あと書きに代えて」を声に出して読みあげた。

「人生の飛翔」

 もう一度、呟く。

「そんなことがあるのかね。なさそうだよ、どうも私には」

「わからないよ。後から振りかえると飛翔していた、そういうことがあるのかもしれない」

 沈黙が苦にならない。その点でも彼女は貴重な友人だ。

 黙ってグラスを傾けながら、私は過去に一度、この作家と遭遇したときのことを思い出していた。もちろん、遭遇したと思っているのは私一人で、向うにしてみれば覚えのないことだろうけれども。

 

 雑誌の仕事で石原慎太郎と立川談志の対談に立ちあったのは、二〇〇六年六月のことだった。薄いジョーゼットのシャツを選んで出かけたということは、そのような気候だったのだろう。銀座六丁目のバーでジンを一杯だけ飲んで、一丁目の「はち巻岡田」に着いたのは定刻の三十分前だった。

「サトウさんは、そこ。談春さんはこちらにお願いします」

 先に到着していたF先生が席を割り振っていた。上座は、主客の二人がどう座っても差し支えないように空けてある。

「床の間のない部屋、それだけはお願いしておいたの。二人ともそんなこと気にしないだろうけど。念のため」

 現役都知事で作家の石原慎太郎と、国会議員経験もある落語家の立川談志、どちらに床の間を背負わせるか、なるほど難しい問題だ。F先生らしい配慮であり、それだけ神経を使う座だったということでもある。

 その甲斐あってか、対談は上首尾に終わった。異次元の感情について、イリュージョン落語について。参議院選挙のこと、大平正芳のこと、田辺茂一や小林秀雄、そして石原裕次郎のこと。時々真剣がかち合うような緊張が走りながらも、掛けあう言葉には親愛がみなぎっていた。

「今日の石原さん、コロッコロしてたね」

 料亭の玄関先で深々と頭を下げ、主客二人を見送ると、F先生は会心の笑みで振りかえった。

「おもしろかったね。僕がまとめたいくらいだよ」

 同席していた『文藝春秋』の飯窪編集長は、意味ありげな視線を寄こす。こんな豪華な対談の構成を任されて大丈夫? と言いたいのだろう。全然、大丈夫じゃない……飯窪さんには私も大恩があると言ってよいが、このときばかりはイラッとした。ただし、

「速記、頼んでるんでしょ。なるべくそのまま、あまりいじらないほうがいいよ」

 この言葉はアドバイスとして胸に留めた。

 通常この手の対談・座談会が終わると、数日を経て速記録が上がってくる。構成者はそれを元に、なるべく読みやすく原稿を仕立てる。それが編集部を通じて発話者に届けられ、発話者は著者として事実誤認を訂正し、言い残したことを補足するべく朱字を入れる。その朱字が反映されて、ようやく一本の記事が完成する。

 構成者の私が担うのは全体工程の一部だ。できるだけ発話者の真意や気持ちが記事として伝わるように、努めはする。しかしそもそも石原慎太郎と立川談志、後に編集部がつけた見出しによると「日本の文化を過激に支えてきた」二人の「真意や気持ち」を、私が推しはかるなんて、可能よりは不可能に近いのではないか。

 無事雑誌となって手元に届くと、真っ先に、どこに朱字が入ったかを確認した。立川談志の朱字にはいくつかの反省を促されたが、石原慎太郎による朱字は、私の予想の範囲外のものだった。

「あなたにはやっぱり、自負があるもの。俺は談志だぞってぇ、自負がある」

 この小さい「ぇ」を、私は入れた覚えがない。

「アア、しっかりしろ、ほんとにもう……」

 この「アア」も。

「大蔵大臣だった頃の大平さんのところに談志を連れて行って、俺が『よろしくお願いします』って頼んだら、『引き受けた』って言ってくれたよな。それなのにお前、ソファに寝ころがって『何でもいいから金くれ、金ちょうだいよ』って言っただろう」

 談志さんが「ソファに寝ころがっていた」とは知らなかった、速記録にも残っていない。なるほど、なるほど……。

 私が石原慎太郎という作家に「遭遇」したのは、対談当夜のことではない。自宅兼仕事場のワンルームで誌面を確認し、思わず唸り声を上げた、それから笑ったり泣いたりした、その時のことだ。構成者のただ一人として、あの晩あの場の「真意や気持ち」を仮定し文章に起こした。少なくともこの作家一人は、それをそうと受容し、補強してくれている。そんな実感があった。

 対談の構成は何度も経験しているが、そんなことは後にも先にもこれきりだ。

 

「後からF先生に報告したのね。朱字を入れられて、あんなに嬉しかったことはないって。そしたら『我が都知事の繊細さをわかってくれて、僕も嬉しいです』って。あんときゃそう、都民税払っててよかったと思ったね。ああいう人の下で都民をやるのは悪くないというかね」

 友人もあの対談記事を読んでいた。それを思い出そうというように頷いている。

「繊細さか。うん、たしかに繊細だ」

「たとえば私がヨットに乗って遭難して、生きて帰ったとしても、あんなものは書けないよ。それと同じようにね、酒場だとか誰かの葬式で、『時の時』が過ぎていったとしても、それに気がつくことはできないんじゃないかと思うわけ。気がつくことを、繊細と呼ぶのかどうか」

「書くことで、書かれることで、初めて立ち現れるわけだね。『時の時』が」

「うん。だいたい私は、男が女を忘れる、そういう話だと思ってたんだ。だから、女が男を忘れるって話を書こうと思ったときに、思い出したわけだよ。でもどうも勘違いだったね、いまさら気がついた」

「そう? サトウさんのは、あれはあれでアリだと思うよ。別にエラそうに言うつもりはないけど」

「ありがとう。だけど」

 講評される側の立場も忘れ、一度閉じた文庫本の頁を、今度は自分のために探った。掌編の後ろから十二行目を人差し指でなぞる。

「今自分が思いがけない友達といるのだな、という気がしていた──この一文が、この作品の柱だったと思うわけ。今となっては、だけどさ」

「つまり『時の時』を自覚したとき……なんだかややこしいけど。柱か、言いたいことはわかるような気もするよ」

「捏造できるものではない。でも、気づかなかったらなかったことになる。両方だね。その二つが揃って……それが才能ってことなのかね」

「わからない。才能ってものは、私にはよくわからない」

「それは私もそうだよ。だけど天才とかね、呼びたくない。そんなつまらないものじゃないと思うんだ」

 酔うに任せて、たしかそんなことを喋ったはずだ。

 このあと私が講評をぶった彼女の作品については、言うまい。ただ、何らかの形で活字になれば、私は嬉しい。

 

──『わが人生の時の時』には、「不思議さ」が満ちている──とF先生は説く。船から仲間が落水して「どう考えてもまぎれもない死そのもの」を確認しながら、なぜか身中に「みずみずしい活力のようなもの」が漲ってくる不思議さ。母船を見失って死ぬ目に遭いながら、生還すると他愛のない冗談で笑うことしか出来ない不思議さ。つまり「この世があり、自然があり、海があり、生物がおり、自分が生きているということの、堪え難く、歓喜に満ちた不思議さ。つまり私たちが、人生という時間を持っていることの不思議さそのものを、『わが人生の時の時』は突きつける」、新潮文庫版の解説だ。

 私はあの対談の仕事をとおして、文中に小さい「ぇ」を一つ入れるだけで標準語が江戸弁に化けるという「不思議さ」を味わった。言葉によって何かが伝わること。伝わったと思いこんでは満たされ、伝わらなかったと思いこんでは失望するのも、なんでなのかわからない。誰かの書いた言葉が自分の身のうちに入ってきて木魂すること。一つの単語を、一つの文字を、句読点を書いたり消したりして、いったい何が変わるのか。わからなくても、性懲りもなくまた書き直す。一文字の違いを巡って友人と話しあうことも不思議だし、文章を書いてお金をもらうことも、私にとっては不思議なことだ。

 石原氏の語る「人生」の相貌に接して、私たちは自分の貧しい「人生」に疑念を抱かざるを得なくなる──とF先生は言う。私は疑念を抱くはるか手前の地点で、読むことと書くことの不思議さにかかりきりになっている。

「一円にもならないつもりで書いた原稿も、こうして何かに使って原稿料に化けることがありますからね」

 これを書き終えたら、教えを破ったこととその顛末を報告するつもりだ。

 以上、『en-taxi』VOL.27(2009年9月発売号)に掲載された「我が石原慎太郎の慎太郎」を加筆修正のうえ転載しました。大きな変更点は以下のとおり。
1、タイトルの一部変更
 もとは「ブルジョワジーの秘かな愉しみ~小金持ちが近代文学を作った」という特集への寄稿だった。石原慎太郎について書くように促したのは福田和也さんで(記事中「F先生」として登場する)、その福田さんは獅子文六について書いていた。
 タイトルは変更しなくても問題ないように思ったが、記事のスタンス、筆者の立ち位置をいくらかわかりやすく示す意図で「実録」という冠を付けた。
2、人物の呼称の変更
 小説を書いて読み合った友人のことを、初出時は「T」と呼び表していたが、「友人」もしくは「彼女」と改めた。また当時『文藝春秋』編集長だった飯窪氏は、「I編集長」としていたが、実名に改めた。記事中にイニシャル呼びが多くて、少々うるさく感じたこと、飯窪氏については特に名を伏せる必要もないと思われたため。結果的にイニシャルは「F先生」と、架空の人物「U子」のみとなった。
3、最終ブロックの書き直し、および全体のトーンの調整
 初出時は石原慎太郎の「処刑の部屋」(新潮文庫版『太陽の季節』所収)の一節を引用し、この作家への自分なりの敬意を述べるという形で結びとしていた。全体の構成を改めて検討した結果、「F先生の教えを破った」という冒頭部分に対応する形で最終ブロックを書き直した。
 また、最終ブロックの変更に合わせて全体のトーンを調節した。具体的な例を一つあげると、初出時は石原慎太郎と立川談志の対談について、実際の記事から12行引用していたが、引用ではなく地の文に落とし込む形で省略した。
──そんなわけで転載企画、改稿作業は今回でひと段落。お付き合いくださった方々、どうもありがとうございました。 今回の記事については、2月に読み返した時点ではあまり直す必要を感じなかったものの、結果的には「ここまで手を入れたら、もう別の原稿かも」と思うくらい直すことになりました。
 あれこれ手を入れながら考えたこと、思い出したことなど、以下に有料記事として追記します。2000字程度の編集後記、ご興味とお時間のある方は、例によってどうぞ「投げ銭感覚」でご購入ください。

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