ライターズブルース

読むことと、書くこと

とんかつと酔芙蓉

今週買った本、のことでも書こうかと思っていたけれど……。

 福田和也さんが9月20日に亡くなったそうだ。訃報にふれて、自分に何かやるべきことがあるだろうかと少し考えたけれども、葬儀に参列したいとは思わないし、連絡するべき知友もない。私の生きる世界では、福田さんはだいぶ前に他界していた。

 2012年か13年頃だったと思うが、『en-taxi』という季刊文芸誌の編集者に「福田和也論を書かせてくれませんか」と打診したことがあった。批評家としての福田和也が再起不能であることは私の目には明らかだったし、その編集者は福田さんのゼミの卒業生だったから(私の三つか四つ先輩)、そう、たしかこんな感じのメールを打った。
「福田先生はもうダメです。せめて文芸の舞台で葬ってあげませんか」
 先生の書いたものであろうと何であろうと、おもしろいものはおもしろいし、つまらないものはつまらない。ざっくり言ってしまえば批評とはそういうことだろう。福田さんの原稿に対して誰もそれをやる人がいないなら、あたしがやってやるよ……とまあ、そう思ったわけだ。
 相手の断り文句はこうだった。
「私にとって福田さんは仕事相手です」
 だから何、と思ったけれども、深追いはしなかった。コイツらなんもわかってねーな、言葉とか文章とか批評とか、そういうものがどんな風に人を縛るかを何もわかってない。当時の私は誰かと福田さんの話をする度にそう思ったものだった。それは、先生の屍が布も土もかけられずに晒されているという怒りであり、悲しみだった。もし私が追悼文を書くとしたら、やっぱりあのタイミングだったと今も思う。

 そんなわけで今さら訃報をもたらされても、特にするべきことはない。

 ……いや、一つあった。その雑誌の企画で角川春樹さんに俳句を教わる席上で、いずれ先生が亡くなったら「とんかつ忌」で追悼句を詠んであげますね、などと茶化した思い出がある。
 俳句の世界では「○○忌」というのは季語の一種で、芥川龍之介の河童忌(7月24日)、太宰治の桜桃忌(6月13日)あたりが有名だ。とんかつが福田さんの好物であることは自他共に認めるところだったから、「とんかつ忌」がぴったりだと思ったのだ。本人は不満げだったけれども。

 

   呑み歩いた思ひ出ばかりとんかつ忌

   コップ酒を干しては汲まむとんかつ忌

   恩讐や暖簾かきわけとんかつ忌

 

 こんなところだろうか。「とんかつ忌」で追悼句を詠もうなんて、我ながら高いハードルを課してしまったものだ。

 昔ごちそうになった天ぷら屋で天丼を頼んで、一人で献杯して帰る道すがら、芙蓉の花が咲いていた。「酔芙蓉忌」あたりにしておけば風情があって、本人も満足してくれたかもしれないな。どの季節に死んだかなんて、本人は知り得ないことではあるけれど。

 

   酔芙蓉を求めて歩く和也の忌

 

 俳句もしばらく作っていなかったから、これが追悼句になっているかどうかは正直よくわからない。何にせよ、
「書き出しはキツイ。どんなカンタンな原稿でも、書き出すときは飛び降り自殺する気分だ」
 そう言っていた先生が、もう何も書かなくていいのだと思うと、私はほっとする。

故人が好きだったジョニー・キャッシュとかルシンダ・ウィリアムスでもかけてあげようかと思ったけれども、別にそこまでしなくてもいいか。外は雨が降っているし、今日は佐山雅弘さん”Vintage”の気分だ。

 

夏季雑詠とお知らせ

『合本現代俳句歳時記』/角川春樹 編/角川春樹事務所/1998年刊

 俳句の集まりに少し関わることになって久しぶりに歳時記を手に取ってみると、あまりにも状態がひどくて少したじろいでいる。意図して付けた折り皺とそうでない折り皺が無数に入っているのはともかくとして、擦り切れた背表紙がガムテームで補強してある。それもまあ仕方なかったとしても、赤い装丁に、よりにもよって水色のガムテープはまったく似合ってない。その水色もところどころ茶色く変色しているし、いざ広げると補強の甲斐もむなしく、背表紙がべろんと本体から剥がれかかる。本体の小口も天も、飲み物だかタバコのヤニだかわからないシミだらけだ。

 それだけ使い込んだといえば聞こえはいいけれども、長くまっとうに俳句を続けている人の歳時記は、むしろきれいに使われていることのほうが多いように思う。以前参加していた句会では革の表紙に手脂で艶が出た、愛用という言葉がぴったりな歳時記を見かけたことがある。ひきかえ私のは、狼藉の跡としか言いようがない。せめて外函をとっておけば良かったものを、いつどうやって棄ててしまったのだったか。

 云々と書いているうちに、久しぶりに俳句を作りたくなった。作ろうとしたけど、まあ作れなくて、昔はどうやって作ってたんだっけ。昔から別にたいして作れていなかったのか。この歳時記、人前に出せないくらいみっともなくて、でも捨てられなくて、結局なんだか私みたいだ。

 ……というわけで雑詠十句。

 

  父の日の午后の麦酒のしづかなり

  生よ死よハブ酒のハブの云うことにや

  蜥蜴鳴く私はわたしに名をつける

  島影はうすくとほくに原爆忌

  ババ抜きのババがぐるぐる熱帯夜

  サングラスはずして昔の話など

  網膜に無数の穴あく晩夏かな

  ゆく夏のしづかな雲と波の詩

  歳時記をとぢて無縫の夏逝かす

  片恋のあと拭きあげて秋に入る

 

 以下はお知らせ。

 7月頃まではだいたい週に一度の更新を目安にしていましたが、ちょっと身辺がばたついてきて、しばらく不定期更新となりそうです。なるべく本について書きたいと思っていますが、読んで書く時間がないときは俳句一つとか、そんな感じになるかもしれません。

 読んでくださっているかた、どうもありがとう。ではまた。

財布やらケータイやらと一緒にカバンに突っ込んで、落っことしたり酒をこぼしたり、まあいろいろ思い出される。そのうち製本用のノリとテープを買って、補修してみようかな。

 

文章の生死

『なつかしい本の話』/江藤淳/ちくま文庫/2024年刊

 最近どうも、ちくま文庫ばかり買っているような気がする。

 生きているうちに司馬遷の『史記』を読んでみようかと思い立ったのが数ヶ月前。現代日本語訳としてはちくま文庫版が良さそうだと当たりをつけたものの、通読できるかどうか、あまり自信はない。とりあえず一巻を立ち読みしてから考えようと、大きめの書店の近くを通りがかる度に立ち寄ってちくま文庫コーナーをチェックするようになった。

 全八巻となると文庫でもそれなりに場所をとるからか、店頭では『史記』になかなか巡り会えない。ネット書店で取り寄せたほうが早いと歯痒く思いながらも、おかげで洲之内徹のエッセイ集が新たにちくま文庫から出ていることを知った。それで『史記』を置いていないことがもうわかっている書店でも、洲之内徹の続刊がそろそろ出ただろうかと、ちくま文庫コーナーをうろつく。すると今度は江藤淳の『なつかしい本の話』をみつけて……という具合に、家の本棚にちくま文庫が増えつつある。

 どうやら私は、死んだ人の本ばかり読んでいる。書店に行けば「話題の新刊」や「◯◯賞受賞作」も手に取ってはみるけれど、結局買って帰るのは死んだ人の本ばかり。ちくま文庫を多く買ってしまうのも、そのレーベルが古典や旧作のリバイバルを多く出しているからだと思う。

 私は、いま生きている人たちの書いたものに興味がないんだろうか? 時代に取り残されるとは、こういう状態をいうのかもしれない。漠然とした不安が、ないわけではないけれども。

 私はただ、時勢とも文壇の流行とも無関係に、手当り次第に自分の心に響き合うものを求めて、あれこれと濫読をつづけていたにすぎなかった。(中略)
 いったい今日、あのころの私のような本の読み方をしている若い人がいるだろうか、と考えることがある。時流にも、文芸批評家のいうことにもまったく無関心に、ただ自分の嗅覚だけを信じて古今東西の書物の森のなかを逍遥してみよう、という若い人々が? それも、教養を身につけて優越感を味いたいというさもしい魂胆からではなく、自分の心身に重くのしかかって来る生の意味を解き明かしたいが故に、そうせずにはいられない若者たちが。……
 私は、そういう若者たちが、やはりいるに違いないと思い、またいてほしいと思っている。そうでなければ、読書というものは知的な冒険ではなくなり、われわれの感情生活はいくらでも貧しいものになってしまうだろうから。(「ルナール『にんじん』『博物誌』」より)

 気の向くままに手に取った一冊で上記引用の箇所が目に留まって、「読みたいものを読みなさい」と背中を押してもらったような気持ちになった。これを書いたときの著者と今の私はほぼ同年齢で、つまり私はこの人の言う「若い人」ではない。それに、濫読と言えるほどの量を読んでいるわけでもないのに。

『なつかしい本の話』は、幼年期から青年期にかけて親しんだ本について、中年になった著者がさまざまに思いをめぐらせたエッセイ集だ。「読みたいものを読む」ことは当たり前のように見えて、じつは難しい。子供の頃は親や教師の勧める本を読んでみたものの、あまり楽しむことができなくてがっかりしたり。ジュニア向けのシリーズ本を愛好しつつ、なぜかそれを恥ずかしく思ったり。大学生になると無知無学のコンプレックスを埋めるために難しい本を手に取っては、理解できないためにかえってコンプレックスを強くしたり。そうこうするうちに社会に出て、仕事で必要な本しか読まなくなってしまう。でも、読みたいものを読むこと以上にましな「読書術」があるだろうか。……読んだ後、そんなことをぼんやり考えた。

 

 思い出してみれば江藤淳も、私にとってはまず「先生の先生」だった。大学在学中からお世話になっていた先生がしばしば「江藤先生」の話をしていたからだ。それなのに私は、学生時代に『成熟と喪失』『閉ざされた言語空間』の二冊を読んだきり、長いこと他の著作を読もうとしなかった。「先生の先生だから」という理由で読んでしまうことが、なんとなく嫌だったのだ。

 だからその先生が編集同人をしていた雑誌の「江藤淳没後十年特集」に私も寄稿することになったときは、かなり焦った。手に入る本を手に入れて、時間の許す限り読みながら、私はただ「先生の先生」ではない江藤淳に出会うことだけを目指していた。

 それから十五年経って、今は「読むべきだ」とか「読まなければならない」という重圧はどこかへいってしまった。それが良いことか悪いことかは一概に言えない。目指すところも何もなく、ただ単に「読みたい」という気持ちだけで頁を開くと、江藤淳という人はつくづく、良い文章を書く人だと思う。

 瑣末な例を一つだけ挙げると、体言止めがほとんどない。日本語の文章は語尾が単調になりがちで、変化をつけたくなったときに便利なのが体言止めだ。ライターとして原稿を書いていた頃の私は「技術」としてそれを多用しがちだった。でも、そんなものは技術でもなんでもない、単なる小細工だ。単調であるという理由で読むことを止めてしまうような文章は、そもそもの内容が乏しいのだ。仕事の一環として江藤淳を読んだときは、そういうことには気づかなかった。

 先日、都内に用事があって竹橋の近代美術館に立ち寄ると、常設展に長谷川利行の描いた岸田国士像が掛かっていた。あ、江藤さんの本に出てきた人だ、と思って、持ち歩いていた文庫本を帰りの電車で開くと「翻訳そのものが確実に文学を感じさせる翻訳」とある。江藤さんがそこまで言うのなら、岸田国士の翻訳したルナールを読んでみたいなと思う。こういう時にふと、その人が死んでもその人の書いた文章は生きていると感じる。

銅版画家・武田史子さんの装画もすてきだと思う。江藤淳の全集は一昨年から電子版で刊行されているけれども。『犬と私』とか『夜の紅茶』とか『西御門雑記』とか、エッセイだけでも紙の本で復刻してくれないだろうかと、ちくま文庫コーナーをうろつく理由がまた一つ増えた。

批評的であるということ(その三)

『洲之内徹ベスト・エッセイ2』/洲之内徹/椹木野衣 編/ちくま文庫/2024年刊

 大学で在籍していたゼミでは学期中に一回か二回、外部から講師を招いてのゲストレクチャーがあった。ゲストは作家や漫画家や舞踏家など、幹事をする学生によってさまざまで、講義後には必ず飲み会が開催された。藤沢のキャンパスから新宿の中華料理屋へ移動すると、ゲストを囲んで乾杯をする。指導教員の福田和也さんは「初めて買ったCDは?」とか「今まで買った一番高いものは?」とか、その時々のゲストにちなんだお題を学生に与え、学生はそれに答える形で一人一人自己紹介していくのが恒例だった。

「一番好きな批評家は?」というお題が回ってきたのは、たしか針生一郎さんが招かれたときだったと思う。私は「洲之内徹」と答えたが、ほんとうのところ、評論とか批評の類はそのゼミに入るまでほとんど読んだ試しがなかった。講義で触れられた小林秀雄江藤淳洲之内徹を文庫本で一、二冊読んだ程度、つまりその三択(もしくは福田和也を入れた四択)で、一番も何もないもんだと内心自嘲したものだった。

 だからまあ、知ったかぶりだったと言われても仕方ない。ただし文庫本を一冊か二冊読んだ程度でも「この人はあまり批評家らしくない批評家だな」ということはわかった。小林秀雄江藤淳も、それから福田和也も、その主著を開くと「批評とはかくあらねばならない」という定義が展開されている。洲之内徹はそういうことを言わない。そこが好きだったわけだ。

 

 しかし最近になって、やっぱりあれは知ったかぶりというか、思い込みだったと発覚した。『洲之内徹ベスト・エッセイ2』の冒頭に収録された「批評精神と批評家根性と」という短文に、洲之内徹の批評観というべきものがはっきり記されていたのだ。曰く、「批評家は、何よりも先ず作品を理解しなければならないのだが、然も理解するということは、芸術に関する限り先ず”感ずる”ことなのだ」。

 私が愛読してきた「気まぐれ美術館」シリーズは六十代以降に書かれたエッセイで、編集・解説の椹木野衣さんの表現を借りると「脱線調の味わいある文章」だ。だから、若い頃はこういうカクカクした文章も書いていたんだなと、微笑ましく思った。しかし続いて掲載されている「結構な御身分」という短文を読むうちに、驚愕というか震撼というか、ぞっとした。二十代の若者が六十、七十になるまでずっと刃物を研いでいる、その音がきこえてくるようで。

 長くなるけど以下に引用する。

 よほど強靭な精神力をもっていないかぎり私たちは自分で自分の環境をつくって、それでもって逆に自分の心を支えてゆかなければいつも自分の心を破壊の危険に曝すことになる。現実的な生活の形式は、無意識という避難所を精神のために用意してくれる。また、精神の自己保全の本能は、蛹が繭に籠るように、自らを思想や、真実や、良心などの裡に棲まわせたがるものだ。
 しかし、私は自分の精神の周囲に、そうした環境をつくることはすまいとおもう。そのために、私の精神が殻をなくしたやどかりのように、柔い腸を砂地にひきずりながら這いまわらなければならぬとしても、真実や、良心のお題目を唱えて、時代の風波の中に身の安泰を願うようなざまをさらすまい。そうして私の観念が猶一層錯乱を深めてゆき、そうした精神の加速度を肉体が支えきれなくなるようなときが早晩来るとしても、私は身を躱したりはすまいとおもう。(中略)
 ひとつの立場をもって生きるなどということが、既に私にはできないことである。精神に環境がないというのはそのことなのだ。つまり、生活から意義だとか目的だとかを一切抜き去ってしまうことである。そうして、ただその無意味と無目的の裡に生きるということのほかには、真実掛値のない誠意は私にはもてない。また、事実それ以外のものは私には残されてもいない。(「結構な御身分」より)

 批評的であることについてときどき無目的に考える……前回ブログを更新した際、末尾にそう書いた。私は二十代を通して福田和也という批評家の世話になり、その後疎遠になった。その過程で文筆業者となり、それを廃業した。要するに「先生」に対しても「仕事」に対しても、「ひとつの立場」に居続けることができなかった。それを反省したり、正当化したり、そういうことはなんだかインチキくさい。だからといってなかったことにもできないから、ときどき無目的に考える……そんな心境が続いていたものだから、上記に引用した「無意味と無目的の裡に生きる」という箇所がなんだか目に沁みた。

 私は学生の頃から洲之内徹の文章が好きだった、そう思っていたけれども、自覚が甘かったかもしれない。私にとって批評という言葉は福田さんによって肉付けされたと思っていたけれども。あの頃、洲之内徹の文章に振れ動いた心の針のようなものが、どこからやってきたかがわからない。

 前々回書いたとおり「気まぐれ美術館」シリーズは新潮社が絶版にして以降、古書以外に入手できない状態が続いていた。一方で小説や、上記を含む文学論等を編んだ『洲之内徹文学集成』(月曜社)は現在も販売されている。刊行当時(2008年)、買うか買うまいかずいぶん迷ったものの、税込8,000円となると私の金銭感覚では「業務用」だ。結局買わなかったのはケチっただけとも言えるが、私は洲之内徹を研究したり分析したりしたくない、ただの読者でいたい、という気持ちもあった。

 その「業務用」をやっぱり買うべきか、今になってまた迷っている。たぶん、そのうち買うだろうと思う。でも今はまだ読みたくない。読むのが怖いのだ。

椹木野衣さんの編集も解説も、表紙もとても気に入っている。上下巻ではなく1・2巻ということは、とりあえず3巻はあるものと期待している。

 

批評的であるということ(その二)

『日本の家郷』/福田和也/洋泉社新書/2009年刊
『日本人の目玉』/福田和也/ちくま学芸文庫/2005年刊

小林秀雄賞を擁する新潮社が洲之内徹の本を絶版にしたことは、批評的ではなかった」と前回書いた後で、なんだかバカなことを書いてしまったなと思った。新潮社で重版・絶版の決裁をする人は、そもそも自社がそういう賞を運営していることを知らないかもしれない。小林秀雄がかつて洲之内徹を「今一番の批評家」と評価したことくらい新潮社では常識だろう、と思うほうがどうかしているのかもしれない。

 もし知っていたところで何だというのか。私は出版社で働く人たちの中に、与えられた業務に忠実な「アイヒマン的会社員」の姿を何度も見てきた。文学賞の運営は彼らにとって興行の一つに過ぎないだろうに。そもそも私は何をもって批評的だとか批評的ではないと判断しているんだろう?

 批評という言葉と出会ったのは、大学二年生の秋だった。たまたま履修した大教室の講義がおもしろかったために、以降の学生生活を福田和也さんの講義とゼミを中心に過ごすようになったことは以前に書いた。その福田さんが批評家をもって任じていたのだった。

「ものごとの価値を示すのが批評です」
「文芸批評家とか音楽批評家なんていないんですよ、批評家はなんでも対象にするから」
「批評家が一つの職業として認知されるようになったのは小林秀雄以降です」
 などなど、講義や飲み会で福田さんが言っていたことを今でも覚えている。言葉の意味内容が経験によって蓄積されるとすれば、私個人にとって批評という言葉の中身は、まずは福田和也という人の批評観によって形成されたはずだ。

 そろそろ自分なりに整理しておこうと思って、福田さんの著書をいくつか手に取って頁をめくるうちに、殺伐とした気分になった。書かれた時期を遡ったほうがおもしろい。批評家としての地位を確立していく過程で、文章が弛緩していったように見える。

 たとえば1995年から1997年にかけて執筆された『日本人の目玉』。この本で一番雄弁なのは、目次だと思う。いま読んでもさすがだなと思う文章はところどころあるけれども、「虚子と放哉の間で理論を、西田と九鬼の間で思考を、青山と洲之内の間で美を、安吾と三島の間で構成を、川端において散文を問い、そして小林秀雄にたどりついた」、その章立て以上に引用したい箇所はない。

 一方で1991年から1992年にかけて執筆された『日本の家郷』では、文章自体に、おそらくはこの著者固有の批評観というものが表れている。

 あらゆる時代において、海彼の思潮に侵され、大国の陰に己の小ささを認めなければならなかった日本は、明晰な意識の前にはただ虚妄としてしかあらわれることができなかった。「虚妄」としてしかあらわれえない、日本の真実を直視した時に、はじめて文芸は「日本」を在らしめる言葉に調べを与えることができた。(中略)
 その認識が極みに達し、日本とは、あらゆる意味で実体ではなく、正当な名前ですらないと認識した時、批評がはじまる。(『日本の家郷』「第3章 虚妄としての日本」より)

 論旨について議論することは、ここではご免被りたい。ただ、この間に著者が商業誌の要請に応え、批評家という職業に邁進していったことは事実だ。初出はどちらも『新潮』という文芸誌で、単行本はどちらも新潮社から刊行されている。『日本人の目玉』が「商品」として評価されていなければ、その後同社の複数の雑誌で連載を持つことはなかったと思う。

 そして二冊を並べたとき、私個人は、後に書かれた文章よりも前に書かれた文章を「批評的だ」と感じている。批評家という職業に徹するほど批評的ではなくなっていった、私には、どうしても、そういう風に見える。

 商業主義に走りすぎた、と言うのは簡単で、実際に私が学生だった頃(『日本人の目玉』が単行本として刊行された後)、福田さんの周囲には「多作を控えたほうがいい」と言う編集者もいた(それはそれで担当編集者としては矛盾するのだろうけど)。でも、その多作をもって得た金でしこたま酒を飲ませてもらった私としては、それを云々したくない。

 それにもし「批評家という職業に徹するほど批評的ではなくなった」とすれば、それは福田和也という一人の批評家の資質よりは、近現代の批評のあり方とか、出版事業の体質に依拠するところが大きいんじゃないだろうか……今のところただの直感ではあるけれど。

 何に笑って、何に怒るか。何を喜び、何を悲しむか。その価値観は、一般化することのできない体験を基に形成される。そういうものを小林秀雄は「宿命」と呼び、江藤淳は「私情」と呼び、柄谷行人は「単独性」と呼んだ。宿命/私情/単独性を語ることこそが批評である……、これも福田さんの受け売りだ。

 私は批評家を志したことは一度もないし、「批評」そのものを扱おうとも思わない。ただ、学恩よりは酒場で恩を受けた者として、「批評的であること」についてときどき無目的に考えるだけだ。

デビュー作(文庫)や最新刊についてもいずれ書こうとは思うけれども、正直なところ気が重い。今回も、どの本を題材とするか迷ってるうち更新が遅れてしまいました。

 

批評的であるということ(その一)

『洲之内徹ベスト・エッセイ1』/洲之内徹/椹木野衣 編/ちくま文庫/2024年刊

 御社は新しい本を作ることより今ある本を売ることを考えたほうがいいと思いますよ、と新潮社の人に言ったことがある。もう十年以上前のことだ。新潮社といえば歴史も知名度もある出版社で、フリーライターという当時の私の立場でそんなことを口走るのは、生意気を通り越して滑稽だったに違いない。本を作る部署で働く人に対して失礼でもあったと思う。でも、私はいたって大真面目だった。

 そのとき頭にあったのは「気まぐれ美術館」シリーズのことだ。私は学生の頃にその新潮文庫を三点買った。文庫になっていない単行本があと三点あって、いつ文庫化するんだろうと思っていたら、いつの間にか文庫も単行本もすべて絶版とされていた。好きな作家の本が絶版になったことはもちろん残念だけれども、それ以上に「なんで?」という疑問のほうが大きかった。

 洲之内徹は銀座の画廊主で、愛蔵した美術品はその死後に百点以上が「洲之内コレクション」という名前で宮城県美術館に収蔵された。入れ替えをしながら常設展示されており、他の美術館の企画展に貸し出されたこともある。つまり彼のエッセイは書店以外にも販路があり、新しい読者を得る窓口があったはずだ。そういう本の在庫を切らさず持ち続けることが、歴史も知名度もある出版社の存在意義というものではないのか?

「気まぐれ美術館」シリーズの扱いを巡って、言ってみれば私は新潮社という出版社への不信感を抱いたわけだ。それをそのまま若手のいち社員に伝えたのは、やっぱりまあ、愚かなことだったと思うけれども。

 

「気まぐれ美術館」シリーズは長いこと古書以外に入手できない状態が続いていたが、今年の春に筑摩書房が『洲之内徹ベスト・エッセイ1』というタイトルで文庫を刊行した。椹木野衣さんによる巻末解説も読みたいし、刊行をささやかに讃えたい気持ちも湧いて、見かけてすぐに買った。

 でも、読み始めるとそんなことはどうでもよくなる。現役の美術評論家洲之内徹をどう位置付けしているかとか、ちくま文庫の編集部の方針とか、本を買ったもともとの動機は読んでいるうちに霞んでいく。

 たとえば「月ヶ丘軍人墓地(一)」。名古屋市内の静かな住宅地の坂道の途中に、「日の丸と軍艦旗とをぶっちがい十文字に掲げた」墓地の入り口が唐突に現れる。旗をくぐって墓地に入ると、百体ほどの軍人像が列になって並んでいる。当時(1982年)著者が撮影したと思われる写真が白黒で掲載されているが、一種異様な光景だ。

 像は高さ一メートル前後で、台座(墓石)には戒名ではなく軍隊の階級名と名前が彫られている。著者は墓守と会って話を聞き、図書館で戦史を読む。彼ら(第三師団歩兵第六聨隊)は上陸から数日後には敵地に取り残され、「二百名がたった十名になってしまった」、「第三師団は消滅してしまった」。

 それにしても、と私は考える。死んだこの男たちにとって、当時の合言葉みたいだった「お国の為」とか「聖戦」とか「八紘一宇」とかはいったい何だったろう。本当にそう信じて戦場へ行った兵士がこの中に果して何人いただろうか。しかし、信じていようといまいと、死は眼前に待構えている。その避けるわけにはゆかない暴力的な死を自分に納得させるためにはその合言葉を信じるほかなかったろう。母親はまた、そうして死んだ息子の死を無駄死だと思いたくなければ、そうするしかなかったろう。愛国主義といい、軍国主義といい、ありようはそういうものだったかもしれない。(「月ヶ丘軍人墓地(一)」より)

 この「ありよう」という言葉にヒヤリとする。自分がもろに影響を受けて育ったはずのいわゆる「戦後民主主義教育」を、いわゆる「自虐史観」として一刀両断する気はない。でも欠けているものがあったとすれば(どんな教育も万全ではない)、この「ありよう」ではなかったか。そういう予感にとらわれる。それがそのまま今の自分自身の欠落として感じられてくる。

 思うに、小説と比べるとエッセイは、時とともに古びやすい。ある人間が何を前提として生きているか、小説では登場人物を描く際に必然的にその条件が描かれる(そうでないと物語が成立しない)けれども、エッセイではそこのところを省略して書かれる(少なくとも同時代においてはそれで成立する)からだと思う。

 では、洲之内徹のエッセイはどうして古びないのか? はっきりしたことは言えない。ただ、彼は同時代に生きた多くの人とは、何か決定的に違うものを前提として生きていたのではないか、という気がする。

 

 新たに編集されたこのエッセイ集には、初期から晩年までの文章がわりと満遍なく収められている。画商としての洲之内、作家としての洲之内、復員兵としての洲之内……編集にあたった椹木野衣さんは、異なる角度から照明を当てることで立体としての「洲之内徹」が浮かび上がるような、そんな選び方をしたのかもしれない。

 それから、批評家としての洲之内。洲之内徹について語ろうとするとき、避けて通りづらいものとして「批評」という言葉がある。椹木野衣さんも巻末の解説で触れているが、かつて小林秀雄が「今一番の批評家」と洲之内を評価したことに由来するらしい。

 批評とは何か。私は二十代の頃にお世話になった人が「批評家」を肩書きとしていた関係で、この言葉について自分なりに考えたことがあるけれども、納得できる結論には至っていない。次巻以降を読みながら、整理していきたいところではある。

 しかし少なくとも、小林秀雄賞を擁する新潮社が洲之内徹の本を絶版にしたことは、批評的ではなかった。批評の賞を運営する出版社として風上にもおけないことだった、と改めて思う。

ちくま文庫の二巻目は八月九日に発売予定とのこと。新潮文庫版のときより表紙の絵が大きいし、書店で平積みにしたら目を引くんじゃないだろうか。

古典のろのろ歩き

『新源氏物語』一 改版/田辺聖子/新潮文庫/2015年刊
『方丈記』/鴨長明/浅見和彦 校訂・訳/ちくま学芸文庫/2011年刊

 源氏物語といえばイケメン貴公子があちこちで女をたぶらかしては泣いたり泣かせたりするお話でしょ、私は別にいいや、と敬遠していたのだが。お正月を過ぎた頃、今年のNHK大河の放映に合わせて本屋で各種関連本が平積みになっているのを見て、なにげなく手に取ったのが田辺聖子さんによる『新源氏物語』だった。

 頁を開くと「光源氏光源氏と、世上の人々はことごとしいあだ名をつけ、浮わついた色ごのみの公達、ともてはやすのを、当の源氏自身はあじけないことに思っている」……え、なんかゴメン。「彼は真実のところ、まめやかでまじめな心持の青年である」……そうなの? 知らなかった。「世間ふつうの好色者のように、あちらこちらでありふれた色恋沙汰に日をつぶすようなことはしない」……誤解してたかもしれないな、ちゃんと読んだことないから。

 以来、気が向いたときに少しずつ読み進めて、半年過ぎる頃ようやく上巻を読了した。いかに気の向かない日が多かったことか。そう、今のところ「やっぱりそういうお話じゃん!」。原典を大胆に翻案して冒頭に「空蝉の巻」を持ってきた田辺聖子さんの手腕にまんまと乗せられたというか、私は別に、と思っていたのに源氏の口説きにほだされてしまう女性心理を体感したというか。

 どうもこれは「源氏、ステキ!」と胸をときめかせながら読むお話ではなく、「この姫君の気持ち、わかるわ~」と自分好みの姫に肩入れしながら楽しむお話なのかもしれない。しかしながら私の「推し」は朝顔の姫、「源氏と契った女人たちがそれぞれに苦しむさま」を聞いて「自分はちがう人生をえらぼう」と決意している人だ。必然的に、物語にはあまり登場しないのである。

 せっかくだから最後まで読もうと中巻を買ったのは先月のこと。今のところベッドサイドに放置されている。一方で先週買った『方丈記』はさっさと読み終わってしまった。源氏物語と比べてぐんと短いせいもあるけど、たぶん好みの問題なんだろう。

 

「ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」という出だしで有名な方丈記は、源氏物語より二百年くらい後、平安時代から鎌倉時代に移りゆく乱世に書かれた随筆だ。ちくま学芸文庫版では、原文を通しで載せた後、全体を十三の章に分け、原文と現代語訳と解説がセットで進行する。京都の市街図や近郊図、史跡の写真などの資料も多く、概要しか知らない初心者にはありがたい。おかげで鴨長明という人がすっかり好きになってしまった。

 まず構成が上手。序文に続いて「四十余りの春秋をおくれる間に、世の不思議を見る事、ややたびたび」と都の火災、大風、遷都、飢饉、大地震を描写し、「世の中、ありにくく、我が身と栖との、はかなく、あだなるさま、またかくごとし」。簡素な庵での侘び住まいに安寧を見出す、という流れが自然だ。

 方丈というのは縦横三メートルくらいの広さを指すそうで、「方丈記」は著者がそのくらいの庵に起居したことに由来する。東日本大震災感染症の流行で混乱する都下に暮らしたせいだろうか、光源氏のきらびやかな都暮らしよりは、長明の侘び住まいに共感したり憧れたり。

 もし、念仏もの憂く、読経まめならぬ時は、みづから休み、みづからおこたる。さまたぐる人もなく、また、恥づべき人もなし。ことさらに無言をせざれども、独りをれば、口業を修めつつべし。必ず、禁戒を守るとしもなくとも、境界なければ、何につけてか破らん。(中略)
 もし、余興あればしばしば松の響に秋風楽をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる。芸はこれつたなけれども、人の耳をよろこばしめむとにはあらず。ひとり調べ、ひとり詠じて、みづから情(こころ)をやしなふばかりなり。

 訳文・解説の浅見和彦さんによると、鴨長明という人は頭脳明晰で行動力もあるが、人付きあいが苦手だったらしい。下鴨神社禰宜の家に生まれ、その筋の要職に推されたこともあるけれども、親戚に邪魔されて出世の道を閉ざされてしまったとか。なんかまあ、不器用な感じだ。

 古文の教科書には序文しか載ってなかったから、最後に大どんでん返しがあることは読んでみて初めて知った。侘び住まいの良さを語り尽くした後で、「姿は聖人にて、心は濁りに染めり」。俗世を逃れて執着を捨てたつもりでも、この庵での暮らしに執着している自分の心は濁っている、と言っている。人の世に生まれて人の世を厭うなら死ねばいい、なのになぜ生きるのか? 人付きあいが嫌なら人に読ませる文章なんて書かなければいい、なのになぜ書くのか? この人はたぶん、そういう境地で筆を置いたんじゃないだろうか。

 

 ところで『新源氏物語』上巻で私が好きだったのは「海はるか心づくしの須磨の巻」。手を出してはいけない人に手を出したことがお上に知れて、光源氏都落ち。うらさびしい須磨の海ばたの暮らしで己の罪深さに慄く、というくだりだ。まあ結局はこの地でも新しい恋とやらが待っているのだけど。

 方丈記にはさまざまな漢籍や和歌からの引用が織り交ぜられているそうで、福原(現・神戸市)に赴いた際の描写は、この「須磨の巻」に類似しているとか。長明さんもやっぱりこの箇所が好きだったのかもしれないな。上巻だけでも読んでおいてよかった、中巻も少しずつ読んでみるか。気が向いたときに。

日野(現・京都市伏見区)には庵は残っていないが「方丈石」という石碑が立っているらしい。京都に行く機会があったら寄ってみたい。