"怒り"ではなく"粘り"を

『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』/加藤陽子朝日出版社/2016年刊

 今の若い人たちはもっと怒ったほうがいいと、先日ある年長者に言われて、さて、と考え込んでしまった。とうに四十を過ぎている私を指してのことだったかどうかはともかく、私だってここ十年くらいの政府・官邸のやり方には頭にきている。でも、怒りという感情を発露すると、自分でもどこに向かうかわからない、経験的に。それでも怒りを、怒りとして表出するべきなんだろうか?

 国政というものに国民の一人としてどう参加したものか、わからなくなったときに読みたくなるのが『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』。著者によると、世界が日本に「どちらを選ぶか」と真剣に問うたことが過去に三度あったという。日本はまず国連脱退を選び、次にドイツ・イタリアとの軍事同盟を選び、最後は真珠湾攻撃を選んだ。その意思決定は為政者や軍人によってのみなされたわけではなく「国民」も関わっていた。であれば今の日本で、おそらくは私自身もその意思決定に関わっている。なるべくなら不本意な形で関わることを避けたいけれども、当時の人々とて敗戦の道を辿るとは思っていなかったはずで……。

 東大の歴史の先生が書いた歴史の本を、私のような門外漢が読んで理解が追いつくかといえば、追いつかないのが道理だ。しかしこの本は、高校生を対象に開講された全六回の講義録。地図や年表等の資料も豊富で、何より質疑応答がめっぽうおもしろい。たとえば満州事変後の国連との交渉を題材に、先生は次のような問題を設定する。

「一国の首相が何かをやろうと考えたとき、その選択や行動を縛るものは何ですか。ただし、対外関係とジャーナリズムを除いて」

 生徒からは「有権者の意向」「産業界の利害」など複数の解答があがる。「他にありますか」と聞かれて、最後の一人が答えたのが「憲法とか」。

「ああ、これはすごい。私が想定していなかった答えをあげてくれました。憲法について制約要因だと考えていなかったということは、私が立憲主義者じゃなかったということですね(笑)」

 先生が用意していた解答は「テロリズムを含む政治運動」だったと明かされるのだが。国会レベルでも官邸レベルでも憲法をないがしろにした決定が度々なされている現在、憲法によってその職位を保障されている彼らに「あなたは立憲主義者ですか?」と質問してみたいなと思う。怒りではなく、好奇心から。

選択の入口の地点で、ゲームのルールが不公正であったり、レフリーが不公平であったりする現状を目にしたとき、国家との社会契約が途絶えたと絶望する道をとるのではなく、ゲームのルールを公正なものに、レフリーを公平な人に代えていく、その方法や方略を過去の歴史から知ること、それが今、最も大切なことだと私は考えています。(「はじめに」より)

 2020年10月、菅前総理が日本学術会議の会員候補6名の任命を拒否したことも「頭にくる」出来事の一つだった。うち5名は代替手段によって学術会議の活動に加わったそうだが、加藤陽子さんだけは加わっていない。歴史の分野については自分がいなくても会員が充実していることに加えて、「十分な説明なしの任命拒否、また一度下した決定をいかなる理由があっても覆そうとしない態度に対し、その事実と経過を歴史に刻むため、”実”を取ることはせず、”名”を取りたい」と。こういう態度を「粘り腰」というのだろう。怒りを表出するよりは、かくありたいと思ってしまうのは凡夫の高望みだろうか。

 好きな作家の本。思い出や思い入れがある本。もう一度、読みたい本。もう一度、読まなければならない本。引越しに向けてなんとなくの直感で本を整理した結果、手元に残った本はどうやら以上のいずれか(もしくはいくつか)に当てはまる。この本は、少なくともあと三回は読まなければならないと思っている。選択を迫られたときの「なんとなくの直感」の精度を上げておくためにも。

地図や年表資料に加えて、写真やイラストを使った吹き出しもわかりやすいし、楽しい。

電子書籍、私の場合

『HIROHIRO ARAKI WORKS 1981-2012』(ジョジョ展イラスト集)/荒木飛呂彦集英社/2012年刊

 丸三日かけて整理して、業者に引き取ってもらった古本は段ボール17箱分。電子書籍だったなら引越し前にそんな苦労はしなくて済んだはずで、「紙の本はもうこりごり」と結論してもおかしくないように思う。しかし古本の買取代金を家具・家電の処分費用に充てた結果、「電子書籍は読まなくなっても売ることができないのだから、やっぱり高いよなあ」なんて思ったのは、連日の作業で頭も体も疲れていたせいか? 実際のところどうなんだろう、電子書籍というものは。その値段は、紙の同タイトルの九割強という現在の相場が妥当なんだろうか。

 電子で買っておいてよかったと思うタイトルも、中にはある。たとえば『ジョジョの奇妙な冒険』。第8部まで通算131巻(現在第9部を連載中)、かなりのボリュームだ。そもそも私が初めて電子書籍を買ったのも『ジョジョ』だった。2012年、iPad日本語版が発売された年。電子書籍ePUBというファイル形態)はその数年前から日本国内で流通し始めていたけれども、パソコンや携帯電話で本を読もうという気にはなれず、タブレットという端末を手にしたときに「これなら読めるかも」と思った。かねてコミックスを揃えようか迷っていた『ジョジョ』第6部を試しに買ってみた結果、内容は問題なく楽しめた。紙とほぼ変わらない値段には「高いんじゃないの」と思ったものの、場所をとらないことは最大の魅力だと感じた。

 しかしそれ以上に印象的だったのは、同じ年に六本木の森タワーで開催された原画展だ。私は熱心なジョジョファンとは言えない(コミックスを買おうか迷うくらいのヘナチョコだ)けれども、原画の迫力はすごかった。絵が熱源となって会場の室温が2℃くらい上昇している感じ。私が第6部に続いて第1部から電子版で揃えたのは、このすごさと比べると紙のコミックスの魅力もかすむ、原画には到底及ばないのだから電子でもいいか、と納得したからでもある。

 会場で販売されていたイラスト集『HIROHIRO ARAKI WORKS 1981-2012』は、展覧会の図録としては小さいけれどもコミックス版よりは大きく、会場で見た原画の存在感を思い出させてくれる。後年に発売された画集と比べて画質は粗いながらも、約350頁フルカラーをコミックスのように両手で持ってパラパラ捲れるのは楽しい。手に取ると「これがあるからコミックスは電子でもいいか」と思うと同時に、「これが3,800円で電子は……」とも思う。やっぱり、高いんじゃないのかなあ?

 紙代も印刷代も倉庫代もかからないのに、どうしてこんなに高いんだろう。そう思って、じつは電子書籍関連の会社に潜り込んだことがある。2016年から2017年にかけて、大手出版社と書店が出資する合弁会社で、従業員と役員を足して常勤は十名に満たない小さな会社だった。

 親会社の経理部に面倒を見てもらいながら一年余り帳簿をつけた結果、電子書籍のデータの管理にはかなりの費用(人件費)がかかることを知った。電子の販売価格は紙の同タイトルとのバランスを重視して決まるケースが多いと思うが、少なくとも私が勤めた当時の会社は、ボロ儲けとはほど遠かった。それに、システム会社に支払う費用は月単位、人数単位によって決まる。その費用を一冊あたりに割り当てることが難しい以上、原価から一冊の売値を算出することは、考え方として無理がある。売値も月単位、ユーザー単位で決めるほうが理にかなっているのかもしれない……経理初心者としてそんな風に思ったものだ。事業内容はベンチャービジネスなのに、運営がベンチャー企業じゃないからうまくいかないんじゃないの、とも。

 電子書籍の価格を妥当と感じるかどうかは、当たり前だけれども人によると思う。私の場合は、巻数の多いコミックスは電子で買って、それ以外は紙で買うことが多く、”Kindle unlimited”に読みたいタイトルが複数入っていると二、三ヶ月契約してまとめて読み、またしばらく解約する。我ながら消極的な使い方だ。

 本当はもっと別の、電子書籍ならではの楽しみ方があるんじゃないのかな。紙の本の補完ではなく、もっと積極的にお金を使いたくなるような電子書籍って、あっていいんじゃないかな。今でも時々、そんなことを考える。それはもしかすると「電子書籍」という名前ではないのかもしれないけれども。

小口を左手で傾けると「オラオラ」が、右手で傾けると「無駄無駄」が現れる。紙の本ならではの仕掛け。

持っているもの、持っていないもの

長谷川利行画集』/長谷川利行画集刊行会/中央公論美術出版/昭和38年刊

 海を見ながらビールでも飲もうかと思って。引越しの報告にそう付け足すと、どういうわけか誰も彼もが「いいですね」「素敵ですね」と言ってくれた。みんなそんなに海とビールが好きなのか? 特に姉は「いいなあ、いいなあ」と嫉妬まじりに繰り返すので、それなら自分も海の近くに引越せばと思ったけれども、姉には学校に通う子供があり、近所で長く続けている仕事もある。私が自分一人の都合で引越しできるのは、言ってみれば何も持っていないからだ。家も子供も、取り替えの効かない勤務先もない。人と比べて余分に持っていたのは本くらいで、それも七割方処分すると、荷物を積んだ引越しのトラックはすかすかだった。

 しかしそれでも「何も持っていない」は言い過ぎというもので、私はたとえば長谷川利行の画集を持っている。関東大震災後の近代化していく東京の街や人を描いた画家。彼は三十前後で絵を描き始めてから四十九歳で亡くなるまで、寺や、木賃宿と呼ばれる簡易宿泊所に寝泊まりして、住所さえ持たなかった。窮民施設で病死した後も係累は現れず、遺留品のスケッチブックや日記は焼却されたという。比べれば私は、何も持っていないどころかずいぶんいろいろなものを持っているような気がしてくる。

 あるとき利行に洋服をくれた人がいた。曰く、絵は買いたいが、着物も髪もとにかく不潔で家に上げられない、その洋服を着て来なさいと。ところが十日経っても来ない、代わりに警察から連絡が来た。洋服が盗品だと疑われたらしい。留置場に迎えに行くと、利行はその人の顔を見るなり足に抱きついて泣き出したという。

私には私にふさわしい服装がある。あなたがこんな洋服を着せてくれたために、かきたい絵を一週間もかけなかった。くやしいといって司法主任ももてあますほど抱きついて泣いちゃった。食うこと、住むことは木賃宿に住んでいるわけだからなんでもないが、絵が描けないことがいかに苦痛だったかということだ。(中略)大変な泣きじゃくりで、どうして慰めていいか解らない、司法主任もそとへ出たらどんどんかけといって慰めた。(座談会「長谷川利行をしのぶ(一)」木村東介の談話より)

 この画家の名前は洲之内徹のエッセイで知ったのだと思うが、欲しいと思ったのはお世話になっていた先生の自宅でその画集を見せられたときだった。夫人によるお料理を食べ、酒も相当量飲んで、先生はその画集を広げた。何を話したかは覚えていない、きっと利行について何か書こうと考えていたのだろう。私は横から覗き込んだ”上野風景”という絵を「いいなあ」と思って、その翌日に神保町の古書店で同じ画集を見つけた。15年以上前のことだ。

 いいなあと思ったその頁を開くと、今も、やっぱりいいなあと思う。鋪道が開けていて、両側に木々があって、その上に空が開けている、題がなければどこともわからないような絵だ。地面にも木々にも空にも、ところどころ白い絵の具が重ねられていて、その白い色が明るいのが良い。そこにあるのは公園でもなく木や道や空でもなく、風景そのものという感じがする。住所とか係累とか、そういうものを持っている限り、こんな風景は見えてこないのかもしれない。

 不思議だなと思うのは、表紙の裏には一誠堂のタグが付いているけれども、一誠堂は美術書を専門とした古書店ではない。そして私がいわゆる画家の画集を買ったのはこれが初めてで、画集の探し方なんて知らなかった。たまたま入った古書店で「先生の家で見たあの画集、あるかなあ」くらいの気持ちで美術書コーナーを覗いてみたらあった、という具合。値段も覚えていない、一万円札をふんだんに持ち合わせていたとは思えないから、たぶん数千円か。

 偶然はもう一つあって、先生とはその日の神保町の路上でばったり会った。前の晩に同席していた担当編集者も一緒だったから、彼との仕事の資料を探しにきていたのだと思う。私が買ったばかりの画集を袋から出して「ありましたよ~」と報告すると、編集者氏は私の顔を指差して「持ってますねえ」と言った。その横で先生は大笑いしていた。私は何を持っていたんだろう。それで今は、何を持っているんだろう。

合計156点が収められていて、うちカラーは36点。白黒が多いのは残念だけど、絵を描き始める前に創作した短歌や詩、友人による回想や座談会、年譜などの資料は充実している。名前は「はせかわとしゆき」と読むらしいけど、愛称として「りこう」と呼ぶ人が多い。

書くことと書かないこと

『時に佇つ』/佐多稲子講談社文芸文庫/1992年刊

 ライター業を廃した理由は、その気になれば二ダースは挙げられる。後付けの説明にどの程度の本当が含まれるかは保留として、諸々の中でおそらくはこれが根本的な問題だったかなと現時点で思うのは、良い原稿を書けたときに限って良くないことが起きることだった。

 書くなら良いものを書きたいと思って自分なりに尽くす。結果、思ったよりは良く書けた、良い反響が得られた。すると、そのことを起点として良くないことが起きる。嫉妬ややっかみを買う程度なら不愉快の一言で片付けられるけれども、大切な人との関係が取り返しのつかない方向に捻じ曲がっていった、その捻じ曲げる力の一つに自分の書いた「良い原稿」があるのを認めたときは困憊した。書こうという気持ちが曇り、濁っていった。

 他の仕事をして、書かない生活をする中で初めて見聞きして知り得たことがある以上、廃業、転職したことに後悔なり反省なりはない。あのまま続けていたら、と考えることは恥や恐怖を伴う。それでも時々は、やっぱりちょっと情けない気持ちになる。たとえば佐多稲子の本を手にとると、この人はどうして書き続けることができたんだろう、と思う。

 佐多稲子は昭和初期のプロレタリア文学から出発して1990年代まで書き続けた人だ。私は十年以上前に季刊の文芸誌の仕事でこの作家について十枚ほど書いた、その時期にまとめて本を買い、読み耽った。引越しを機に処分しなかったのは、好きな作家の一人だからと言って終えてもいいけれど、おそらくは「どうして書き続けることができたのか」という問いが残っているからでもある。

 文学仲間であり先輩でもあった夫との関係は、彼女の原稿が高く評価され、経済的にも一家を支えるようになるにつれて、こじれていった。たとえば『くれない』という小説では、夫婦二人とも家で書く仕事をしている、夫婦が属する文学グループでは男女平等を謳ってもいる、それでも妻としてお茶をいれるのはいつも自分であることを「なんなんだろうと思う」といったことが書かれている。するとそれを読んだ夫が「お前にお茶をいれさせると後が怖いからな」とあてこすりを言う、その経緯がまた『灰色の午後』という小説に書かれている。泥沼だ。

 夫婦関係以上にきつかったのは、戦地慰問に参加したことを戦後になって咎められたことだったかもしれない。戦前からの仲間が文学団体を設立するときに彼女は仲間はずれにされた、そこで自分が「戦争協力」の汚名を着ていることに気付いて愕然としたという。

「戦地へ行かれたことを、当時、悪いことをする、とお考えでしたか」
「悪いこと? いいえ、そうはおもいませんでした」
と私は彼を見上げて答えた。
「あ、そうですか」
 と彼はにこりともせず「それならよろしいのです」と、切り口上に聞える答えをした。
 そう聞いたとき私は、心の中で、なにおっ、と叫んでいた。(中略)私のあのときの猛々しい反撥は、それならよろしいのです、などと簡単に審判を下すような、その扱いに対するものだった。私にとっては、そんな軽いものではなかったからである。(「その四」より)

 作家としての活動が、その自分を産み育てた文学的土壌を汚すものとして非難された、その周辺のものごとを書いた文章に居直りもなく、悔悟もなく、弁明もないのは驚異だと思う。「軽いものではなかった」と書くが、重いものだったとは書かない。書くことは書く、書かないことは書かない、その見極めの基準は何だったんだろう。

『時に佇つ』は1976年に発表された短編集で、出生にまつわること、非合法時代の共産党活動のこと、離婚した夫の死など、題材は様々だ。「過ぎた年月というものは、ある情況にとっては、本当に過ぎたのであろうか」、老齢に入った彼女が自分の人生をどう見ていたか、いや、書くことによってどう見据えていくかという独特のライブ感がある。

 どうして書き続けることができたのか、久しぶりに読み返してみてもその答えは得られないままだ。感嘆とともにむしろ疑問が増えたように思うが、一つ思い出した。資料として読んだ当時、「強か」と書いて「したたか」と読むことを、私はこの作家の小説によって覚えたのだった。夫や党の仲間ではなく「私の強かさ」と、この人は書いていた。

講談社文芸文庫は値段は高いけど、解説や年譜が充実している。けど本文用紙の劣化が早い、ような気がする。

古い良き今はなき

ナンシー関大全』/ナンシー関文藝春秋/2003年刊

 どの本を手放してどの本を持っていくか、引越し前の選別作業は時間的物理的限界に迫られてだいたいは「なんとなくの直感」で決まった。珍しく、残した理由をはっきり覚えているのが『ナンシー関大全』。この本を手に取ったとき、私は「古き良き文藝春秋の名残だな」と思って残留組の段ボールに詰めた。しかしまあ「古き良き文藝春秋」って何だ? やっぱりそれも、なんとなくの直感か。

 ナンシー関さんは週刊誌や月刊誌にいくつも連載を持っていた名コラムニストで、2002年に39歳で早逝した。没後ほぼ一年後に刊行されたこの本は、単行本未収録の対談や家族による回想譚、年譜、生い立ちや仕事場のカラー写真等々、盛りだくさん。出版ビジネスにおける追悼本の類が早ければ早いほど売れるとばかりに拙速に編まれることも多いなか、奥付によると2003年7月30日初版。亡くなったのが6月だったから、きっかり一年後を目指していたけど、ちょっと間に合わなくて、でもしっかり作った、という感じ。「ナンシーはここにいる。究極の愛蔵版」というスリーブの文言に欺瞞を感じさせない、丁寧な作りだと思う。

 圧巻なのはもちろん、コラムと消しゴム版画の傑作選だ。サッカーW杯に沸く(湧く)1億2千万人のサッカーファンの様相をクサしたコラムとか、盗撮で捕まった田代まさしの似顔絵に「激撮」の文字を入れた消しハンとか。どこがどうすごいか、ちょっと説明できない。試みとして田村亮子谷亮子)評を少しだけ引用しよう。小さいのに強い「自慢の孫」的柔道着姿で備蓄米のCMに出演していた頃の彼女と、某バラエティー番組で少しばかりセクシー路線の衣装で胸チラする彼女を比較して、こんな風に締めくくる。

ヤワラちゃんがどんな自己認識で(別にそんなものなくてもいいが)どれだけ胸元の開いた服を着ようが、本当はとやかく言う筋合いではない。しかし、タレントだからな。みんなのヤワラちゃんはじゅうどうぎがいちばんにあうよ。頼むよ。しまっとけ。

 そして似顔絵に添えられた「夜のヤワラちゃん」という文字の破壊力よ。「選挙にでそう」という予想が的中したことなんて、もはやオマケでしかない。初出は1999年7月の『週刊文春』、こういう連載を何の気なしに読めたあの頃のあの雑誌は、やっぱり「古き良き」だったなあと思ってしまう。ということは、今はどうなのか。

 いつからか私は、文藝春秋というブランドに嫌な感じを覚えている(だから"古き良き"なんてフレーズが出てしまう)のだが、その正体がどうもはっきりしない。「文春砲」という言葉が流布した頃からか、もう少し前からか、文藝春秋の出版物ではなく、社員の人たちでもなく、あのブランド臭がなんだか嫌だ。きっとナンシー先生ならこの「嫌な感じ」を的確に、それも『週刊文春』誌上で表してくれたんじゃないだろうか。生前の公式サイトには芸能人の名を挙げて「こいつをどうにかしてください」と訴えるメールが日に十通くらい届いていたらしい。わかるなあ、その気持ち。

 オンラインメディアの「ふみはるくん」とかいう名前の公式キャラクターのダサさを、どうにかしてくれないか。社長交替のお家騒動で出回った部署長による長ったらしい連判状を添削して、一文、いや一語に置き換えてくれないか。新卒採用サイトで「文春の名刺を持っていけば一流人に会える」みたいな惹句で若者を集めることの危なっかしさを、諌めてくれないか。

 私はおそらく、権威であることと権威主義的であることを履き違えた結果、ブランドの空洞化が起きている、というような印象を受けている。タレコミや寄稿で体裁は保っているけれど、もしかして自前では絵も描けないし、文章も書けないし、読めてないんじゃないの。その空洞のあたりから何か嫌な臭いが漂ってくるんだけど、どう言い表したものかわからない。ああ、ナンシー先生だったら何て書くかなあ。

目次の欄外にちょっとした消しハンが並んでいるところとか、本として好ましい。どうして文庫化されていないんだろう。

修行の一例

モンテーニュ エセー抄』宮下志朗編訳/みすず書房/2003年刊

 ライター時代に懇意にしていた作家の配偶者のもとに、あるとき匿名の怪文書が届いた。「内部告発」と題されたメールが四通、その作家の異性関係を暴露した内容だった。当然のことながらいったい誰が送ったのかと犯人探しが始まる。その際、私が疑われかけていたことを大分後になって知らされた。

 疑いをかけようとしていたのは名の知れた出版社で高職位にある人だったから、吹けば飛ぶようなフリーライターとしてはたまったものではない。直接会ったときに「あれは私じゃないですよ。ひどいじゃないですか」と問い質すと最初はとぼけていたが、こちらがそれなりの根拠を示すと今度は逆上した。「君は僕を糾弾しにきたのか」、嘲笑するような口調だった。

 その怪文書は一人称が「小生」の気持ちの悪い文章だった。あんなものを書いたと思われていたなんて侮辱もいいところだし、編集者のくせにロクに文章も読めないのか、と思っていた。しかしそうではなかった、彼は私が書いたのではないとわかっていて、単に仲間内から犯人が出たのでは都合が悪いから、フリーライターに被せて切り捨てようとした。逆上する様子を見た途端、そのことを悟った。なんて醜い人なんだろう。

モンテーニュ エセー抄』は、さらにその数年前に同じ編集者から勧められたものだ。読んではみたけれど、正直、内容は理解できなかった。著者のミシェル・ド・モンテーニュは16世紀のフランス人。歴史にも古典にも明るくない私は、社会風俗も固有名詞もほとんどわからない。プラトンだのヘロドトスだの、名前を聞いたことはあってもその思想となると、さて。入門向けの抄録だからそれほどボリュームのある本ではないが、訳者による注釈を行ったり来たりしながらなんとか通読して、もし理解度を数値で表すなら5%未満だったと思う。

 仕事の都合で手に取ったものの、難しくて拾い読みで済ませた本は沢山あって、その大半は引越しを機に処分した。ましてやこの本については、思い出せば不愉快な記憶も伴う。本に罪はないとはいえ、何が捨て難いのか。

もしもわたしの魂が、しっかりと地に足をつけているならば、自分をあれこれと試したりしないで、はっきり心を決めたにちがいない。だが、わたしの魂は、いつだって修行と試みのさなかにあるのだ。(「後悔について」より)

前進もせず、急ぎもせず、窮地にもおちいらず、また、ぶつかることもなければ、くるくる変わることもないならば、それは半分しか生きていない証拠だ。精神がおこなう探究には終わりもなければ、きまった形もない。驚嘆し、追い求め、それでもあやふやであることが、精神の糧となるのだ。(「経験について」より)

 当時の私は週刊マンガ誌の連載を単行本としてまとめた直後で、自覚はなかったけれども、読む人にとってそれはエッセイであるらしかった。それで「エッセイとは何ぞや」と考えていたときに、元祖として勧められたのがモンテーニュだった。

 一般的には随筆もしくは随想と言い換えられるが、モンテーニュの「エセー」については「試論」という訳語もある。そう教えてくれたのも、その編集者だ。試論か、たしかに私の書いたものもそうだったかもしれない。なんだかよくわからないうちに文章を書いて暮らすようになって、あれこれ試してみる以外になかったわけだから。……そんな風に納得して以来、エッセイを読むとき(あるいは書こうとするとき)、意識のどこかで「修行と試み」として読んでいる(あるいは書こうとしている)。そういう影響を受けたことが、この本を処分できなかった理由の一つだと思う。

 そしてまた、こういう古典を人に勧めるだけの素養や分別を持った人が、あのような醜い振る舞いに出ること。その人をはっきりと軽蔑しながらも、同じ人による過去の施しを今も平然と受け容れていること。矛盾を矛盾とも感じず、あやふやにして生きていることを思い出させてくれる、おそらくそれが理由の二つ目だ。

同じ訳者による完全版もあり、白水社から全七巻。さすがにそっちは手が出ません。

草花のように草花を

『植物画プロの裏ワザ』/川岸富士男/講談社/2003年刊

 中学生になった甥っ子が将来の夢を聞かせてくれた。画家になりたいのだという。小さい頃から絵を描くのが好きで、私を含む親戚みんながその絵を褒めてきたのだが、ちょっと褒めすぎたかもしれない。数年前の誕生日に私が水彩色鉛筆を贈ったことを覚えていて、それを使って描いた絵を写真にとって見せてくれる子だ。私が喜ぶとわかっていて見せてくれる。描くこと自体が楽しいのは良い、褒められて嬉しいのも自然なことだ、その二つのうち後者が前者に覆い被さっていないといいのだけど。

 今年の誕生日は実用書『植物画プロの裏ワザ』をあげようかと思っている。川岸富士男さんは草花の水彩画を専門とする画家で、趣味で植物画を描く人に向けて一連の手順やコツが詳細に示されている。私はその作品が好きで、作者の人となりに興味を持って買った。だからこの本を手に実際に絵を描いたことはなく、制作過程の写真や文章を見るだけで満足していた。甥っ子には、いわゆる教科書・実用書として役に立てばもちろん良い、それに加えて川岸さんの経歴も参考になるのではないだろうか。

 画壇の賞を受賞して道を拓いてきた人ではない。あとがきによると「もともと絵が好きで美術大学に入ったものの、プロの絵描きになるつもりはなく、サラリーマンに落ち着いた」。それでも絵を描きたくて、生活の中で無理なく描き続けられる方法を模索する。たまたま入った博物館で「このガラスケースに収まるような作品を描こう」というインスピレーションを得て、描いた絵を和綴じ本にまとめることを思いつく。『翠花』と名付け、一年に一冊のペースで制作した私家本が10冊になったとき、季刊雑誌で紹介される。初めて個展を開いたのは37歳のときだった。

 私は好きな草花しか描かない。たんに美しいとか、珍しいだけで描くと、いい絵が描けないからだ。好きな草花でも、蕾がふくらんでから花が開き、やがて花びらが散るまでを観察し続け、一番その花らしい姿を見せたときにあらためてスケッチしてから本画を描くことにしている。その草花の全体を知ることが本質に近づく第一歩と思うからだ。

 プロの絵描きになることを目的としていたのではない。草花が人に見られることを目的としていないように。川岸さんの絵の美しさは、おそらく、題材の本質と描く人の姿勢が一致していることによるのだと思う。椿の花の描き方を示した頁にはこうも書かれている、「花は長い年月をかけて進化した。描くのにどれほど時間をかけても、かけ過ぎるということはないはずだ」。

 もう十年以上前になるが、個展の席で少し話をしたことがある。会場は代々木上原の器のお店で、当時ライターをしていた私を店主が紹介してくれた。「何を書いているんですか」という質問に、私は少し困って「良い文章を書きたいと思っています」と答えた。川岸さんはおもしろそうに笑って「いいですねえ。それが一番いい」と言ってくれた。意外な反応だった。

 書評とかグルメ記事とか、具体的に答えることができなかったのは、私が自分の専門を見つけられずにいたからだ。絵を描く人の眼に、その迷いが見えていなかったはずがない。「迷っていい」と言ってくれたのだと思っている。甥っ子がやがて絵のことその他のことで迷ったとき、もし私が近くにいたら、ああいう風に言ってあげられるといいなと思う。

甥っ子にあげるのは良しとして、やっぱり手元に持っておきたいので自分用に買い足すことに。