つぎはぎの作法

『ヘンな日本美術史』/山口晃祥伝社平成24年

 いつの選挙戦のことだったか、故安倍晋三さんが「日本を取り戻す!」というスローガンを繰り返すのを聞いて、それっていつの日本ですか、とぼんやり思ったものだった。経済成長していた頃のことか、帝国憲法を掲げていた頃なのか、それよりもっと前か。おそらく当人も党本部も、熟考の結果というよりはテキトーにそれらしいことを言っておこうという感じだったんだろう。それはそうと、あの滑舌の悪さがどうにも「取り戻せない感じ」を醸していて、内容的にも形式的にも「もうちょいマジメにやらんかい」という印象ばかりが残った。

「日本は近代を接続し損なっている、いわんや近代絵画をや。」

 画家・山口晃さんの展覧会が催されると知って公式サイトを開くと、キャッチコピーに目が留まった。接続し損なう、とはうまい言い方だと思う。しかも「日本」と「近代(西洋近代)」のそういう関係を前提としたところから「近代絵画」にフォーカスしている。選挙と美術展では向かうべき対象が違うとはいえ、ふと前述のスローガンを思い出して、日本という一語の存在感をひき比べてしまう。政治家(というか元総理大臣)の云う日本と、画家の云う日本、その解像度の落差自体が「接続し損なっている」ことを示しているように感じる。

 こういう催しのコピーは美術館やスポンサー側が考える場合も多いだろうけれども、これは画家本人の言葉だと直感したのは、『ヘンな日本美術史』という好著があるからだ。平安時代鳥獣戯画から始まって、白描画、洛中洛外屏風画、雪舟河鍋暁斎などを題材として、絵を描く人ならではの絵の見方を示してくれている。鳥獣戯画に対して「わざとふにゃっと描くと云うか、ちょろまかすと云うか、仕上げすぎない」、光明本尊に対しては「鶯谷のグランドキャバレー」。第十二回小林秀雄賞を受賞したのは、絵の批評であるばかりでなく近代美術、ひいては日本の近代への批評として機能しているからだと思う。

 近代日本の法整備は、洋服の寸法を直して一張羅に仕立てた感がありますが、近代日本画は、「和装を通すために語学に長ぜしむる」の感がなくもありません。絵が喋る訳はありませんから、この場合、「美術の文法にのせる」と云うのが語学云々に当たりましょうか。つまり、西洋美術の向こうを張った、多分に対外的な「日本美術」を打ち出したと云う事なのです。
(中略)ただ、「美術」と云う明治に訳された言葉でそれ以前の雪舟北斎をくくると云うのは、足利や徳川の将軍を足利総理大臣、徳川総理大臣と呼び直すような無理がある事を忘れてはいけません。呼び直しによって見えなくなった事が幾つもあるからです。(第五章「やがてかなしき明治画壇」より)

 日本の近代文学を紐解くと、しばしば行き当たるテーマの一つに「近代の超克」というものがある。元は昭和17年文學界』誌上で展開されたシンポジウムで、当時の知識人が集まって明治以降の日本を総括し、いかに西洋近代を乗り越えるかを論じたものだ。戦後は知識人による体制翼賛の代表例として、いわば「負の遺産」「黒歴史」にカテゴライズされた。

 私は20代の半ばに仕事の必要から関連資料を読んだはずだが、内容はほとんど記憶にない。難しかったし、ピンと来なかった。ただ「超克」と言った時点で、超克できない感じはした。相手の土俵でがっぷり四つに組もうとしている、圧倒的に不利な感じ。もちろんそれは、その後の敗戦を知ってこその感覚だっただろう。それでも今になって、「近代の超克」ではなく「近代との接続」を考えてもよかったんじゃないか、という気がしてくる。

 アーティゾン美術館ではジャム・セッションと名付けて現代作家を招き、石橋財団所蔵の絵画をモチーフにしたオマージュ制作を依頼している。その四人目にあたる山口晃さんは、雪舟が描いた四季山水図と、セザンヌが描いた山の絵を相手に「現代美術」を制作、披露していた。接続し損なった継ぎ目に新たな紙を貼って、彩色し、全体を一つの絵と見立てるような。

 美術館を出て東京駅に向かって歩くと、高層ビルと高層ビルを前景として、奥に秋めいた雲が浮かんでいた。近寄ったり遠ざかったり、斜めから見たり屈んで見たり。普段使わない視神経を働かせた後だからか、ビルに遮られた雲がうっすらつながって駅舎の巨大な庇の上空に流れているのが見えた。

アーティゾン美術館の展覧会「ここへきてやむに止まれぬサンサシオン」は11月19日(日)まで。

崩れた本を積み上げる

アンダーグラウンド』/村上春樹講談社文庫/1999年刊

 

 外国人観光客が戻ってきたのはいいけれど、お会計のときに「え、こんな安いの!?」みたいに言われるとなんか、この人たちから見ると日本ってもう先進国じゃないんだろうなって思う……最寄駅近くのカフェのマスターがそんな話をしていた。いつからこうなっちゃったんだろう。どこからこうなっちゃったんだろう。

「結局、前提が違ってたことなんじゃないですかね」

 私の感覚的な物言いに、マスターはウンウンと頷いてくれた。同世代だからかもしれない。1980年前後に生まれた私たちは、たぶん、戦争に敗けた後、軍事力はアメリカに頼って経済に全力投球した結果、日本は奇跡的な復興を遂げて経済大国になりました、という話を聞いて育ったはずだ。

「今はもう、経済はダメだし、軍事力もこれからどうするのって話だし。どっかで軌道修正すればよかったんだよね、きっと」

 バブル崩壊とか、地下鉄サリン事件とか、原発事故とか、きっかけはいろいろあったのにね。でも結局、上のほうの人たちは既得権益があるから、自分たちは逃げ切ろうって感じなんだろうね。……そんな話をして帰ったけれども、ほんとは、前提をアップデートしたいのは私だ。国がどうこう、上の人たちがどうこうではなくて、私自身が、なんかちょっといろいろ整理したい。今のところはそれが、わたしがブログを書く理由なんだろうと思う。

 

 最初からそんなことを考えていたわけではない。引越しをするために、持っていた本を七割方処分した。また読みたい本、好きな作家の本、なんだかよくわからないけど捨てられない本。引越し先の本棚に収まった本を手に取って、どうして処分しなかったんだろうと考える。考えながら書いて、書きながら考えてみれば、何かわかることがあるかもしれない。そんな思いつきでブログを始めた。

 気楽に始めたつもりだったのに、やってみると難しい。

 たとえば森達也の『A3』を読めば、麻原彰晃の裁判はひとことで言えば杜撰だった思うし、村上春樹の『アンダーグラウンド』を読めば、「とにかく早く死刑にしてほしい」という地下鉄サリン事件の被害者の話にうなだれる。頭の中身は矛盾のカタマリだ。言葉で整理する、整理した言葉からあれこれ落っこちて、整理する前よりも散らかっていく。

 先週更新したときは『アンダーグラウンド』のエピローグを少し引用した。

 あなたは誰か(何か)に対して自我の一定の部分を差し出し、その代価としての「物語」を受け取ってはいないだろうか? 私たちは何らかの制度=システムに対して、人格の一部を預けてしまってはいないだろうか? もしそうだとしたら、その制度はいつかあなたに向かって何らかの「狂気」を要求しないだろうか? あなたが今持っている物語は、本当にあなたの物語なのだろうか? あなたの見ている夢は本当にあなたの夢なのだろうか? それはいつかとんでもない悪夢に転換していくかもしれない誰か別の人間の夢ではないのか?(『アンダーグラウンド』エピローグ「目じるしのない悪夢」より)

 戦後日本史上最悪といわれる犯罪の被害者数十名への、世界的に有名な小説家によるインタビュー集。自分にとってこの本は、「地下鉄サリン事件についての貴重な記録」だから捨てられないのか、「村上春樹の本」だから捨てられないのか、ブログを書いてみてもわからなかった。

 でも、もしかするとそれは、同じことなのかもしれない。地下鉄の車両や駅構内にたまたま居合わせたがために、それまでの物語を奪われた人たち。家族や友人や同僚と日常を共有することができず、一人の教祖の差し出した物語を選んだ人たち。致死的な物語について語る小説家。

 私は私で物語を求めている。崩れた前提の瓦礫の中から、使えるものと使えないものを選り分けて、足りないものを補って、立ったり歩いたりできる足場を組み立てる。組み立ててもまた崩れるかもしれないから、なるべく小さいものを一つ一つ積み上げていく。そういう風にブログを続けていけたらいいなと思う。

 

はてなブログの特別お題「わたしがブログを書く理由」にかこつけて、前回と同じ本について書きました)

読む理由、読まない理由

アンダーグラウンド』/村上春樹講談社文庫/1999年刊

 

 酒場や旅先で若い世代の人と雑談する機会に、なんとなく「地下鉄サリン事件って知ってますか?」と話をふってみることがある。自分が15歳の頃に相手が何歳くらいだったか、距離感を測る目安にしたり、「オウム狂想曲」とでもいうような当時の報道合戦を体験しなかった人たちにあの事件がどういう風に伝わっているのかを確認することで、自分の認識に補正をかけたいのだと思う。

 生まれてはいたけれども記憶はない、最近『アンダーグラウンド』を読んだ、という女性がいた。事件の被害者60名弱への、村上春樹さんによるインタビュー集だ。「村上春樹さんの小説はあまり読まないけど、エッセイは好き」、地下鉄サリン事件については「親が話しているのを聞いてはいたけど、詳しいことは知らなかった」という。

「今起きたらどうなんだろう。何も情報がない状態で、ちょっと変な匂いがするくらいで。スマホとかあっても、意味ないですよね。やっぱり、とりあえず会社に行こうとしちゃうんじゃないかなあ」

 深刻な後遺症を負った人もいれば、そうでない人もいる。電車内で濡れた新聞紙の包みを見かけたという話もあり、駅構内で倒れた人を介抱しているうちに自分も具合がおかしくなったという話もあった。救急医療にあたった医師やPTSDの治療に取り組む精神科医の話もあり、地下鉄の路線図や駅構内の略図も載っていた。

 私も同じ本を最近読んだと伝えると「最近ですか?」と聞き返された。偶然ですね、という意味合いだったのかもしれないけれども、私はなぜ最近になるまで読まなかったんだろうかと、その後しばらく考えた。

 文庫本800頁近いボリュームと、予想される内容の深刻さに、尻込みしていたことは間違いない。加えて、「村上春樹が書いた本」として読むべきなのか、「地下鉄サリン事件の資料」として読むべきなのか、自分の興味の向け方がどっちともつかずにいた。事件を知る目的で読むには小説家によるフィルターが邪魔になるような気がしたし、小説家を知る目的で読むのは事件で被害を負った人たちに対してフェアではない気がしたのだと思う。

 結果的には、ある時点でその二つの興味が一致した。組織とか社会システムの中で個人が個人として生きるのは、思った以上に、かなり困難で、ほとんど無理なんじゃないかと実感したタイミングで、私は彼の小説世界をより近しく感じるようになり、地下鉄サリン事件に組織や社会の怖さを見るようになった。

 あなたは誰か(何か)に対して自我の一定の部分を差し出し、その代価としての「物語」を受け取ってはいないだろうか? 私たちは何らかの制度=システムに対して、人格の一部を預けてしまってはいないだろうか? もしそうだとしたら、その制度はいつかあなたに向かって何らかの「狂気」を要求しないだろうか? あなたが今持っている物語は、本当にあなたの物語なのだろうか? あなたの見ている夢は本当にあなたの夢なのだろうか? それはいつかとんでもない悪夢に転換していくかもしれない誰か別の人間の夢ではないのか?(エピローグ「目じるしのない悪夢」より)

 森達也さんの『A3』を読み返した後に『アンダーグラウンド』を読み返すと、二作を合わせ鏡のように感じる。麻原彰晃について知ることで見えてくる社会の姿があり、被害者について知ることで見えてくる教団の姿がある。その間で、私は組織とか社会システムに対する自分のスタンスのようなものを未だに決めかねている。

やっぱりどうも、考えがまとまらない。そのうち書き直すかもしれません。

個人的な教訓

『A3』上・下/森達也集英社文庫/2012年刊

 

 15年以上前に某月刊誌の取材として、某民放の情報番組の打ち合わせを見学したことがある。番組の司会者はスタッフが用意したフリップを指して、「これはどういう意味?」「だったらそう書けばいいじゃない」「もっとわかりやすくして」と檄を飛ばしていた。わかりやすく、もっとわかりやすく。何度も繰り返されるその言葉に、だからこの司会者が「視聴率男」と評されるわけだなと納得しながら、でもまあ、世の中そんなにわかりやすいことばかりでもないだろうに、と思ったものだった。

 記事の中でそういう違和感を表すことは、私の仕事として求められていなかった。自分の感情や考えをなるべく漂白して書いた結果、記事を読んだある知人は「あの俗物っぷりがよく出てたねえ」と言い、また別の知人は「あの人、やっぱり気さくな人なんだねえ」と言った。記事の中では「俗物」という言葉も「気さく」という言葉も使っていない。おそらく、俗物と評した人はもとから彼を批判的に捉えていたのだろうし、気さくと評した人はもとから彼を好意的に捉えていたのだろう。

 人は、見たいものを見る。理解しやすい情報を受け取る。私も身に覚えがある。

 たとえば地下鉄サリン事件。1995年3月20日、都内地下鉄3路線の車内で毒ガスが散布され、乗客と駅員14名が死亡し、6,000名以上が負傷した。同年5月にオウム真理教の教祖・麻原彰晃と教団幹部ら約40名が逮捕された。麻原は自分をトップとする国家建設を企んでいた。教団幹部は麻原に洗脳され、麻原の命令なら何でも実行した。麻原と幹部は、教団を潰そうとする警察の強制捜査を免れるために事件を起こした。……彼らが逮捕されて以降、そういう風に報道されていた。高校生だった私は、まあそうなんだろうなと受けとめていた。わかりやすかったからだ。

 つまり麻原はレセプター(受容体、引用者注)だ。一つ一つのニューロンは、このレセプターが好む情報(神経伝達物質)を選択しながら運んでくる。そこに競争原理が加わり、過剰な忖度も加わり、側近たちはやがて、麻原が好む情報を無自覚に捏造するようになる。でも麻原にはその真偽の測定はできない。そうかそうかとうなづくだけだ。こうしてレセプターは肥え太る。与えられたカロリーのほとんどは、米軍やフリーメイソン創価学会や警察権力などから自分たちは攻撃されているとの危機意識だ。(下巻「31 受容」より)

 2004年2月、東京地裁麻原彰晃に死刑判決を下した。『A3』はその一審判決の傍聴から始まるノンフィクションだ。なぜ教団は地下鉄で毒ガスを撒いたのか、映画『A』『A2』から継承される疑問のうえに、新たな疑問が折り重なっていく。弁護人が意思疎通を図れない被告人は、訴訟能力を有していると言えるのか。紙オムツに大小便を垂れ流す被告人に、なぜ精神鑑定がなされないのか。メディアに登場する「有識者」は何を根拠に詐病だと断定するのか。疑問、煩悶は、元信者との鼎談という形式で『A4または麻原・オウムへの新たな視点』(深山織枝、早坂武禮との共著/現代書館/2017年刊)へと継承される。

 念のため、森達也さんは本書で麻原の減刑を訴えていたのではない。事件の根本的な原因と経緯を明らかにしないことには、同じようなことがまた起きるのではないですか、と問いかけている。

 そして私は、判決や死刑執行を批判をしたいのではない。かつて「わかりやすい話」を受け入れた側の一人として、上記に引用した部分をときどき読み返すために、この本は手元に置いておこうと思っている。「麻原はレセプターだ」という文章の「麻原」という語を、たとえば「視聴者」とか「読者」とか「私」に置き換えて。

麻原彰晃の死刑は2018年7月に執行。「受刑能力がない者への死刑執行は違憲である」として21年に遺族が国を提訴した。

一時停止からの再生

『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』/森達也/角川文庫/平成14年刊

 高校一年生のとき、週に一コマ倫理の授業があった。たとえば「ウソも方便か?」とか「男女間で友情は成立するか?」といったテーマが設定され、生徒は配られた紙に自分の考えを書いて提出する。先生は回収した用紙の中から任意でいくつか読み上げる。書いた本人に意味を確かめたり、生徒同士でガヤガヤと話す場面はあったけれども、刻限に合わせてイエスかノーかの結論を出したりはしなかった。オッサンだと思っていたその先生の年齢に自分が近づいてみると、あれは「いろんな考え方がある」と体感するための時間だったのかなと思う。

「死刑制度は必要か?」というテーマに対して、私はたしか「廃止が望ましい」と書いた。裁判に「絶対」はない、冤罪の可能性がゼロではない以上、殺してしまったら取り返しがつかない。同じように考える人は一定数いたようだったが、中には死刑肯定の意見もあった。覚えているのは「世の中には生きている価値のない人もいると思うから」。1995年のことだ。

 高校入学前に地下鉄サリン事件が起きた。5月にオウム真理教の教祖が逮捕された。裁判はまだ始まっていなかったが、テレビや新聞は数ヶ月間オウム関連の情報で溢れていた。サマナ服やヘッドギアを装着した信者たちの姿。”サティアン”とか”ハルマゲドン”とか”ポア”といった教団用語。モザイクのかかった元信者の証言。

 思いだして欲しい。僕らは事件直後、もっと煩悶していたはずだ。「なぜ宗教組織がこんな事件を起こしたのか?」という根本的な命題に、的外れではあっても必死に葛藤をしていた時期が確かにあったはずだ。事件から六年が経過した現在、アレフと名前を変えたオウムの側では今も葛藤は続いている。でも断言するが、もう一つの重要な当事者であるはずの社会の側は、いっさいの煩悶を停止した。
 剥きだしの憎悪を燃料に、他者の営みへの想像力を失い、全員が一律の反応を無自覚にくりかえし(中略)、「正と邪」や「善と悪」などの二元論ばかりが、少しずつ加速しながら世のマジョリティとなりつつある。(”あとがき”より)

 森達也さんは当初テレビ番組のディレクターとしてオウム真理教接触するが、「彼らの日常に、危険で凶悪という雰囲気をどうしても嗅ぎとることができなかった」。幹部が逮捕された後の信者の日常を映したドキュメンタリー番組の企画は、制作部から却下され、放映するアテのない中でカメラを回し続けた。なぜ教団はサリンを撒いたのか? 「この疑問が解けない限り、僕らの中では地下鉄サリン事件は終わらない」。本書は自主制作映画として1998年に公開された『A』の制作記録だ。

 私は大学生の頃に続編の『A2』を先に観て、情報補完のために本を手に取った。報道のあり方、受け取り方については大いに考えさせられたが、あとがきに記されている「地下鉄サリン事件以降、日本社会はまるで歯止めが外れたように急激に変質した」という指摘については、「そうなのかなあ」とぼんやり受けとめていたように思う。年齢的に、比較対象となる事件前の社会をシビアに体験していなかったからかもしれない。

 2011年の東日本大震災、2020年の新型コロナウィルス蔓延を経て、時々『A』と『A2』のこと、そして高校の教室風景を思い出す。あのとき先生は、やがて開かれる麻原彰晃の裁判を想定していたのだろうか。ある生徒が「生きている価値のない人もいる」と書いたのは、具体的な誰かを想定してのことだったのか。死刑廃止を是とした私や他の生徒たちは、地下鉄サリン事件の犯人にも死刑は適用されるべきではない、と考えていたのだったか。

 今となっては確かめようもなく、もともと鮮明な記憶でもない。ただ、同じ空間にいろんな顔をした人がいて、それぞれいろんなことを考えてるなあ、と感じた時間を懐かしく思う。今の私だって、少なくとも政治家でも官僚でも裁判官でもないのだから、ほとんどの社会的事件に対しては、イエスかノーかの結論を出して固定する必要はないはずだと、自分に言い聞かせてみる。

『A』と『A2』は現在Amazonプライムビデオで配信中。プライム会員は無料で視聴できる。

Amazon.co.jp: Aを観る | Prime Video

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“おふくろの味”の周縁

『料理歳時記』/辰巳浜子/中公文庫/1977年刊

「おばあちゃんの料理で何が好き?」と近所の人に聞かれた甥っ子が「ラーメン」と答えたらしい。麺は市販品だが具やスープを工夫しているようで、特にチャーシューを漬けるタレはここ数年継ぎ足しながら育てているとか。「特製チャーシューメン」と言ってほしかった、と母は笑いまじりに話していた。

 定年近くまで仕事をしていたから、私たちが子供の頃はラーメン用にチャーシューを仕込むような凝り方はしていなかった。今は時間に余裕があって、孫の食事に好きなだけ手間をかけられることが嬉しいらしい。体質的に小麦粉を控えなければならない甥っ子にとって、ラーメンはたまにしか食べられないごちそうであり、おばあちゃんとしては腕の見せどころというわけだ。その特製チャーシューメン、今度食べてみたいなあ、と言いながら私は『料理歳時記』の一節を思い出した。

 時代が移り変り、食べもの、飲みものすべて国際色豊かに刻々と変わるのです。”おふくろの味”も変っていってしかるべきです。味噌汁、糠味噌、ひじき、お煮〆などで留まっている必要もありますまい。おふくろの味とは、特別なものではないのです。むずかしいものでもなく、お金のかかったものではもちろんあるはずがありません。(中略)若いお母さま方! ジュース、ラーメン一つにもおふくろの味が生まれてそして残されるのです。(”手作りのジュース”より)

 辰巳浜子は専業主婦が高じて(妙な言い方だ…)料理研究家として名を残した人だ。私が生まれる前に亡くなっているからその存在感は想像するしかないが、『料理歳時記』は何度読んでも楽しい。五月の風と陽の光、柿の木の葉が銀色に輝き出すと「そろそろ柿の葉ずしをお作りになりませんか、と語りかけているかのよう」……この人は本当に料理を作ることが好きだったんだな、楽しくて楽しくて仕方なかったんだな、と伝わってくる。きっと、そういう主婦が作る料理ほどおいしいものはない。

 私にこの本を教えてくれたHさんも、料理上手の主婦だった。奇縁と言うべきものと私の食いしん坊が重なって、何度となくご自宅へお邪魔してはご馳走になった。たとえばアジフライ。二人のお子さんと一緒にテーブルに着くと、次から次へと揚げたてを出してくれる。まずは塩とレモン、次はウスターソース、そして柴漬けとラッキョウの和風タルタルソースを添えて、ビールを飲みながらサクサクサクサク。八尾くらいは食べただろうか、とにかく軽くてふわっとしたアジフライだった。

 結局のところ主婦の料理が一番ではないか。私がそう確信したのは、あるイタリア料理屋でお土産におにぎりをもらったときだった。シェフのお母さんによる差し入れのお裾分けで、翌朝になっても米粒がピカピカしていて、酒のアテになるくらい塩が効いていた。後日お礼を伝えると、シェフはにかっと笑って「そうだろ、うまかったろ。うまいんだよなあ」と、お店の料理を褒められたときよりも嬉しそうだった。

“おふくろの味”という言葉から私が連想するのは、どういうわけか、そんなような思い出だ。母の得意料理もいろいろあったはずで、それを挙げないのは、もしかすると当の母にとっては不満かもしれないが。私としては具体的に何か一つを挙げるよりは、食べ物の好き嫌いなく育ったこと、食いしん坊に育ったことをもって「ごちそうさま」と伝えたい。

「秋刀魚を食べて何よりも嬉しいのは、あの骨ばなれのいいことです」。なるほどと膝を打ちたくなるような名文がたくさんある。

「おいしい」の正体

『味覚極楽』/子母澤寛/中公文庫/1983年刊

 引越しに向けて本を整理する中で、特に料理関係の本は線引きが難しかった、と前回書いた。処分するか持っていくか、もしなんとなくの基準があったとしたら「類書があるかどうか」だったかもしれない。少なくとも前回の『逃避めし』と今回の『味覚極楽』については「これはちょっと、変わった本だからなあ」と捨てがたく思った覚えがある。

 さまざまな著名人が行きつけのお店やお気に入りの手土産を紹介する企画は、今のメディアでも定番だ。しかし『味覚極楽』の初出は昭和2年東京日日新聞(現・毎日新聞)。○○子爵とか○○元大臣とか、当時は「おおっ」という感じだったかもしれないが、私にはほとんどわからない。懐石料理なら銀座の何某、天ぷらは日本橋の何某等々、お店の名前も同様。著名人への好奇心が刺激されるわけでもなく、グルメガイドとして役立つでもなく、さらにレシピ本的実用性もほとんどない。それなのに読んでおもしろい。そこがちょっと不思議というか、珍しいというか。

 著者の子母澤寛は時代小説家として名を残しているが、当時は一新聞記者だった。相手から話を聞き出す記者としての技術と、言葉を補ったり省いたりしながら話を再構成する作家としての技術と。たとえば初めて読んだとき、私が一番食欲をそそられたのは”冷飯に沢庵”、増上寺のお坊さんの話だった。銀座千疋屋主人が目利きした西瓜とか、中村屋ボースが作るカレーとか、美食らしきものはいろいろ出てくるけれども、何よりも漬物で冷飯を食べたくなって、柴漬けおにぎりをこしらえたものだった。

 改めて読むと円覚寺のお坊さんの話もおいしそうだ。

 うどんのうんと熱い奴へ生醤油をつけて食うのはうまいな。この僧堂ではまず第一の珍味じゃ。冬なんかつゆを多くして食ったら、第一からだが温まるしうまい、うまい。殊にな、禅の寺では「三黙」といって、禅堂と食堂と風呂では、ものもいえんし、音も立てられん。(中略)ところがこのうどんだけは、いくら音を立てて食ってもいいんじゃ。それに、も一つ、飯は三杯と定まっているが、うどんは幾杯食べてもよろしい。みんな喜んでな、わざと音をたててずるずるずるずるやるんじゃよ。こうして自由に物を食うということは何によりもうまい。(”当番僧の遣繰り”より)

 高価な食材、珍しい料理の話も沢山出てくる。でもきっと、このお坊さん方はそういうものを食べてもうまいとは思わなかっただろう。その逆に、名店に通い馴れた俳優や専属料理人を抱えるような子爵は、冷や飯や素うどんのおいしさを知らなかったかもしれない。何をうまいと感じるかは人それぞれ。さて、私は。

 ライター時代に飲食店の取材記事を書くとき、まずはおいしそうなお店を探すことに注力した。それで、なるべくおいしそうに書く。記事を読んでその店に行った、おいしかった、という話を聞くと、少しは説得力のあるものが書けたのかなとホッとしたものだった。当時は当時で一所懸命だったし、以降の自分が特に成長した覚えもないけれども、少しお店や料理を対象化しすぎたかもしれないな、とは思う。もっと別の書き方があったかもしれない。

「味に値打ちなし」

 子母澤寛の馴染みの寿司屋には、本人の手によるそんな色紙が掲っていたという。座右の銘というものか、子母澤のオリジナルか、魯山人あたりの引用か。意味もちょっとよくわからない。味そのものには値打ちはなくて、味覚に値打ちがある、とか……? やっぱりこの本は手元に置いておいて、そのうちまた考えよう。

吉田戦車さんはこの本を「無人島に持っていく一冊」と揚げていた。曰く「何度も読みかえしているのに、ぜんぜん飽きないので」。たしかに。