ライターズブルース

読むことと、書くこと

32年後の「心のノート」

『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』/藤原智美/文藝春秋/2014年刊

 捨てられないノートが4冊ある。小学校高学年の2年間に担任の先生と交わした交換日記だ。教室の後ろのロッカーの上に専用のボックスがあって、一つは提出用、もう一つは返却用。生徒が提出すると、先生が返事を書き入れて翌日に返却してくれる。ノートは予め2冊用意してあって、毎日書こうと思えば毎日書ける仕組みだった。タイトルは「心のノート」。

 黄ばんだ頁を開くと、書かれているのは家族のことやクラスメイトのこと、学校行事やテレビ番組の感想等々、字は下手クソで内容は幼い。書くことがなくてイラストでごまかしている頁もあるものの、日によって一生懸命、考えながら書いた形跡もある。先生の返事は、全体的には心温まるものが多いが、ときどき「本当にそれで良いのですか」とか「少しがっかりしました」といった厳しい内容もあって、なんというか、子供だからといってナメてない。

 最後の頁には、こんな風に書かれている。

「大人の都合で子どもの気持ちが見えなくなっていた時に、自信を失いかけていた時に、このノートのひとことひとことが心の支えでした」

 教師と生徒、大人と子ども、という感じがしない。ただ単に人と人として、言葉を交わしてくれている。私はたぶん、いろんな意味で貴重な体験をさせてもらったのだと思う。

 ネットことばは紙の書き言葉に近いようでありながら、話しことばのようなスピードで文章がつくられていきます。典型はケータイメールです。そこに推敲や熟慮など入りこむ余地はないようにも感じます。またネットことばでは相手の顔も見えなければ、電話のように声も聞こえてきません。これは書きことばと同じなのですが、ことばを書きこむスピードは会話と同じです。会話のようでありながら相手の顔も声も分からないというネットことばの特性を、ぼくたちはまだほんとうに体得してはいないのです。
(「第一章 ことばから狂いはじめた日本」より)

 12年前、地震津波原発事故をきっかけとしてSNSの利用者が増え、企業や自治体や官公庁の公式アカウントが増えた。災害にまつわる「最新情報」をネットでたぐると、情報と同時に嘆きとぼやき、歓声と悲鳴と怒号が聞こえてくる。当時の私はなぜか「インターネットのほうが怖い」と感じた。津波で行方不明になった人の捜索が続いていることも、原発事故の処理のために危険な作業に従事している人たちがいることも、報じられていたのに。

 しかし、そういう生理的な恐怖を感じたのは、私だけではなかったらしい。作家の藤原智美さんはこの本の中で、印刷技術が生まれる以前の社会と以降の社会を比べて、近代国家は憲法を代表とする「書き言葉」によって成立した、と分析している。そして、日常生活で使われる言葉が「書き言葉」から「ネット言葉」に置き換わることによって、人々の意識も、社会や国家のありようも変わる。書きことばを頼りに生きてきた個人にとって「現在の事態は、足もとの地面がまわりから崩れていって、立っている場所がもう残り少なく、つま先立ちでかろうじて落っこちないですむ、といった感じなのです」と。

 印刷技術の発展と流通を止めるものがなかったように、「書きことば」の衰退と「ネット言葉」の興隆を止めるものはない。「書きことば」に頼って生きてきた一人としては、その優位性(おそらくは想像と思考の訓練になること)を「ネット言葉」に移管できるかどうかを試みるしかない。いったい、どうやって?

 そんなことを考えると、ときどき4冊のノートのことを思い出す。ひとりの人として言葉を発し、受け取る言葉の向こうにひとりの人を想起する、その繰り返しが何かの手がかりになるといいけれど。

ノートの提出率は生徒によってまちまちだったけれども、一対一のホットラインを築くという意味では、今でいうスクールカウンセラーのような効果があったかもしれない。熱心なばかりでなく鋭い先生だった、と大人になった今は思う。

いくつかのかなしみ

『生きるかなしみ』/山田太一・編/ちくま文庫/1995年刊

 近所の家の庭で焚き火をするとのことで日の暮れ方から見物に行くと、家主の友人がひとりふたりとやってきて、八時過ぎには十人少々の集まりになった。二、三人ずつの輪ができてはほぐれ、また別の輪に入って酒を酌み交わす。秋の夜長だなあなんて思いながら世間話に加わっていると、不意にこんなことを言われた。

「こっち側の人ですよね?」

 見たところ三十半ば、メガネをかけた細面の男性だった。

「こっち側ってどっち側か、よくわからないけど……」

 前後の話から類推すると、彼は新型コロナウィルスをめぐる騒動のなか、自分で調べて考えるところに基づいて行動した結果、なかなか強い風当たりを受けた様子で、その経緯から「あっち側の人」と「こっち側の人」という考え方をするようになったらしい。

 彼の話に共感するところと、それはどうだろうと思うところと両方あって、私はコロナとは特に関係のない自分の体験を一つ二つ話した後でこう言った。

「世の中のこと大体は、そんなにわかりやすい話じゃないと思う」

 トイレから戻ってくると彼は別の輪に加わっていたから、話はそこで終わった。あなたがこっち側の人で、私があっち側の人だったとしても、私はあなたと話ができると思うよ。私としてはたぶん、そんな風なことを伝えたかったのだけど、どうもあまりうまく言葉にできなかった。

 こういう気分のときは、どの本がいいんだっけ。帰宅して風呂から上がると、本棚から一冊抜き取って頁を開いた。

『生きるかなしみ』はユニークなアンソロジーだ。テーマがテーマだから、親が子供を殺してしまう話、人種差別の話、それから戦争の話、深刻な詩やエッセイが多いと言えば多い。その一方で、メガネをかけた自分の顔が嫌で、人前でメガネをかけることを避けてきた話や、五十を過ぎて初めて好きな男と一緒に暮らして、ふとした瞬間に涙ぐんでしまう話など、同じテーマで他の人が編んだらまず入らないだろうと思うものもある。

 編者の山田太一さんは説く、かなしみの主調底音は「無力」であると。色合いも大きさもさまざまに、元は互いに関係なく書かれた文章の連なりを読んでいくと、たしかにその主調底音が響いてくる。

 心臓とか肝臓を移植出来たりロケットが宇宙で新しいことをしたり独裁者が倒されたりすると、人類は輝かしい力に溢れているようなことを新聞やTVはいうけれど、無論それはジャーナリズムの誇張で、人間は無力である。証明する必要があるだろうか? 早い話が容貌も背丈も性別も選べない。(中略)災害の前にはひとたまりもなく、数日食糧が尽きれば起き上ることもおぼつかない。交通事故などといわなくても指先の怪我ひとつでへとへとになってしまい、悪意中傷にも弱く、物欲性欲にふり回され、見苦しく自己顕示に走り、目先の栄誉を欲しがり、孤独に弱く、嫉妬深く、その上なんだかんだといいながら戦争をはじめて殺し合ってしまう。(中略)
 私たちは少し、この世界にも他人にも自分にも期待しすぎてはいないだろうか?
(「断念するということ」より)

 私にこの本のことを教えてくれたのは、学生時代の先輩だった。頭のいい人で、それに輪をかけて人徳というものを初めから備えて生まれ育ってきたような人だった。親しくしたのはほんの一時期だったけれども、たとえば、私のいないところで彼女が私のことを「○○な人だった」と誰かに話していたら、それがどんなに意外な内容だったとしても「そうか」と受け入れるざるを得ない、私にとっては今もそういう人だ。

 当時20代前半だった彼女は、この本に収められている宇野信夫の「二度と人間に生まれたくない」という短いエッセイの話をしていた。会話の内容は忘れてしまったけれども、苦笑まじりにそのタイトルを繰り返した様子は覚えている、「二度と人間に生まれたくない」。

 その心境は、当時の私にはよくわからなかった。だから本を読んでみたのだが、やっぱり、共感するほどにはわからなかった。今なら、そうだね、と応えるだろう。

 あの夜、「こっち側の人ですよね」と言った彼とは、夏目漱石とか村上春樹とか、小説の話も少しした。もしかすると、この本のことを話せばよかったのかもしれない。こっち側の人もあっち側の人も、無力であることに変わりはない、私はそう思うよと。

世代のせいもあって、山田太一さんのドラマは数えるほどしか観ていないけど、緒形拳鶴田真由が出演していた『いくつかの夜』は印象に残っている。

"気配り"の行き着く場所

『毎日食べたい、しみじみうまい。和食屋の和弁当』/笠原将弘/主婦の友社/平成25年刊

 あるとき会社で昼休みにお茶を汲みにいくと、給湯器の近くに設置された複合機で営業部のSさんが何かの本のコピーをとっていた。私がお弁当を食べ終えてまたお茶を汲みにいくと、まだ作業を続けている。何の気なしに覗き込むと、それは図書館で借りたカレーの料理本で、Sさんは一頁、一頁、つまり全部のコピーをとろうとしているのだった。

「買えば。……と思いますけど」

 私が思わず声をかけると、Sさんは悪びれずに応えた。

「うんうん。ちょっと作ってみてから、買おうかなと思って」

 私的な目的であれば、本のコピーは法律では禁じられていない。会社の備品と消耗品を業務外の目的で利用することはルール違反ではあるけれど、その手のことには良くも悪くも大らかな社風だった。私も、その作業をしていたのが庶務の女性だったら、何も言わなかったに違いない。

 Sさんは成績の良い営業部員であり、従って給与もそれなりの額を受け取っていることを、経理の私は知っていた。つまり「セコいなあ」と思い「恥ずかしくないですか」と言いたかったわけだ。それに対して「別に恥ずかしくない」というのが彼の答えだった。

 なんとなくモヤモヤした気持ちでその日の帰り道を歩きながら思い至ったのは、そもそもあの本はもう本屋では買えないかもしれないな、ということだった。本屋には大抵料理本のコーナーがあって、行く度に新刊が入れ替わっている。売れない本はあっという間に棚から消える。Sさんがコピーをとっていたのは数年前の新刊だったから、街中の書店で見つかるとは限らない。そして料理の本というのは、実用の面からいって、実物を見てから買ったほうが後悔が少ない。 

 そこまで考えると、自分のモヤモヤした気持ちが何に対するものなのかわからなくなった。わからないままそのモヤモヤは重みで下に溜まって塊になって、今も私の中に残っている。

『毎日食べたい、しみじみうまい。和食屋の和弁当』も10年前の本だから、今は街の書店ではまず見かけない。古書と電子書籍なら手に入るけど、勿体ないことだと思う。

 第1章では男子高校生が好みそうな「のっけ弁」、第2章では女子高校生に似合いそうな「三菜和弁当」、第3章ではお花見や花火大会を想定した「四季の行楽和弁当」、そして特別編では「松花堂弁当」まで網羅。詰め方のコツや「三種の神器(焼き海苔、削り節、梅干し)」の使い方を示したコラムがあり、常備菜や「お湯を注ぐだけの汁の素」などのお役立ちレシピもあり。この一冊があれば、あらゆるお弁当シーンに対応できる頼もしさ。

お弁当箱というあの小さな世界に、どれだけおかずを詰め込むか。
どれだけ愛を詰められるか。
そう考えると、お弁当はロマンだ。(中略)
何はともあれ。
お弁当ほどワクワクする食べ物って見つからないなあ。(「はじめに」より)

 短いエッセイの中で「お弁当はロマン」の箇所が太字になっている。こういうさりげない気配りが、どの頁にも行き届いている。この本自体が、理想的なお弁当のようだ。

 たとえば先日、持ち寄りのホームパーティーに招かれた際にこの本を取り出して、「里芋の唐揚げとれんこんチップ」を作ってみた。材料や調味料がシンプルで、レシピがわかりやすいのは言わずもがな、正方形の判型で、頁を開いたまま置いておけるのがありがたい。「料理は気配り」と笠原将弘さんは別の本で書いていたけれど、ほんとにそうだなと思う。料理は気配り。本も気配り。

 そういうものは、会社の複合機でとったコピーの束からは、伝わらないんじゃないかと思う。もしかすると料理本の市場でも、すごく伝わりにくくなっているんじゃないだろうか。私の中のモヤモヤの塊の正体は、たぶんそういうことだ。

今度持ち寄りの機会があったら「スモークサーモンの春菊巻き」を作ってみようかな。簡単で見栄えも良いおかずがたくさん載っているのもありがたい。

先生たちと、先生と呼んでくれた人たちへ

『閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』/江藤淳/文春文庫/1994年刊

 母校で週に一コマの非常勤をしていた頃のことで、一つ悔やんでいることがある。ある学期の最後に江藤淳の『閉された言語空間』をテキストに指定したところ、翌週の提出課題で「陰謀論」との感想を書いてきた生徒がいた。私の講義が不十分だった、あるいは不適切だったということだ。他の著作を指定するべきだっただろうかと、今でも時々思い返す。

「ライティング技法ワークショップ」というのが担当した講座名だったが、私にその機会を与えた先生がいて、遡ればその先生に機会を与えたのが江藤淳だった。作文技術を身につけようと欲する学生にとって、江藤淳の文章は一つの規範になると思ったことはもちろんで、加えて、学期中に一冊その人の本を教材とすることは、たまたま非常勤講師として学舎に紛れ込んだフリーライターなりの敬意の表れでもあった。

 最初の年は『アメリカと私』、翌年は『戦後と私』を、やはり学期の最後に取り上げた。文学と歴史を中心とした数多の著作の中で「○○と私」と題された一群のエッセイは、その平明なタイトルに表れるとおり読みやすい。自分を光源として対象を照らし、対象を光源として自分を照らす、その往還によって著者の姿と対象の姿が立体的に表れてくる……卑近なたとえで噛み砕いてしまえば、私は成人してこのかた酒飲みの味覚しか持ってない、だから自分がどの程度の酒飲みであるかを示さないことには、ある料理がおいしいとかおいしくないとか表現することができない。江藤淳はそういう道理をよく知り、その書き方を突き詰めた人であり、それが最もシンプルに表れているのが「○○と私」と題されたエッセイだったと思う。

 三期目となって、敢えてそのエッセイ群から外れる著作を選んだのは、前後の事情によって私がその講座を受け持つのは最後になると判断したからだ。江藤淳の著作の中で個人的に最も衝撃を受けたのが『閉された言語空間』であり、それを最後の教材としたのは、学習上の便宜よりも個人的な思い入れを優先する向きが強かった。今思う反省点の一つだ。

 

 もう一つの反省点は、紹介の仕方、講義上の焦点を誤ったかもしれないことだ。GHQ占領下の日本で実施された検閲の実態を一次資料から解き明かすというのが本書の枠組みだが、文庫裏表紙の紹介文を抜粋すると、「それは日本の思想と文化とを殲滅するためだった。検閲がもたらしたものは、日本人の自己破壊による新しいタブーの増殖である」……正面どおりにこれを概要としたのでは陰謀論との印象を与えてしまうのも無理はない。

 というのも、戦前の日本では反体制的な言論が弾圧されていた、敗戦によってようやく表現の自由がもたらされた、それが通説であり、私もその通説を受けて育った。両親は戦後のベビーブーム世代で、小学校教員だった母親は戦争の悲惨さについて比較的よく語り、その分野の本を読み、映画を鑑賞した。一方、同じ敷地内の隣家で暮らしていた父方の祖父母から戦争の話を聞いた記憶がない。戦前を生きた人が沈黙し、戦後に生まれた人が語る……そういうものだろうか。それが戦争というものだろうか。そういう、漠然とした違和感を抱えて私は育った。

 ポツダム宣言にも敗戦翌年に交付された憲法にも、表現の自由を保障する条項がある以上、GHQが検閲を行うことは、明らかな矛盾であること。そのために検閲は秘密裏に行われたこと。検閲官として登用された日本人は一万人以上いて、経歴を明かすことなく自治体の首長や企業役員、大学教授等の要職に就いた例が少なくないこと。

 私の漠然とした違和感、両親と祖父母の間に感じた一種の断絶は、こうした背景から生じたものだったか。私がこの本から受けた衝撃を端的に言い表すと、そういうことになる。戦争に敗けるとは、こういうことかという手触りのようなもの。十年以上前のことだから鮮明な記憶ではないけれども、教室でもそういう視点から話をしたと思う。ひとまわり若い生徒たちが、この本の内容をどう受け取るか、私は知りたかった。だから課題として「なんでもいいから感想を書いて」と言ったのだったが。

 久しぶりに再読してみると、課題とするべきは「禁忌と私」、もしくは「私の中のタブー」といったテーマだったように思う。というのも、占領者と被占領者間にあるべきフェアネスという問題ももちろん重要だろうけれども、作文の練習をするうえでより優先するべき問題は「表現の自由」だったはずだ。私はこの本の本当の主旨を見誤り、講座の目的からも若干逸脱した。当時の生徒たちと、江藤先生へのお詫びに代えて、以下にあとがきの一部を引用する。

 日本の読者に対して私が望みたいことは、次の一事を措いてほかにない。即ち人が言葉によって考えるほかない以上、人は自らの思惟を拘束し、条件付けている言語空間の真の性質を知ることなしには、到底自由にものを考えることができない、という、至極簡明な原則がそれである。

初出は1982〜86年の『諸君!』。GHQによる検閲の実態とその影響については、2010年代以降にいくつか後続の研究書が出版されている。

※書籍タイトルに誤記があったため、訂正しました。(2023年10月15日)
(誤)『閉ざされた言語空間』 → (正)『閉された言語空間』

願わくば今よりも広く深く

『河よりも長くゆるやかに』/吉田秋生/小学館文庫/1994年刊

 

 三十を過ぎた頃、母校大学で週に一コマ作文のワークショップを受け持つことになった。人に教えられるほど作文に習熟しているつもりはなかったけれども、私が辞退すれば枠が一つ空くタイミングでのお誘いだった。それにまあ、大学生にもなれば勉強する人はひとりでに勉強するし、育つ人はひとりでに育つ。そう自分に言い聞かせて、流れに身を任せた。

 一学期分のスケジュールを組んで各回のテキストを用意したり、提出された課題を読むことはおもしろかった。それ以上に新鮮だったのは「若いって良いなあ」という気持ちが自然に湧いてきたことだ。自分が学生だった頃は、若いといえば無知で幼稚で、まああまり良いものではないと感じていた。構内の風景、教室の雰囲気は変わらないのに、年齢と立場が変わるだけでこうも違った気持ちになるとは。

 何が良いんだろう。敏感であること。柔軟で軽やかであること。他人や自分に対する構えがもろく、可塑性が高いこと。彼らの書いた文章を読んだり、彼らと話をしながら感じたのはそんなようなことだった。私もかつてはそうだったかな、きっとそうだったんだろう。でもそれは、客体として接する分には清々しいけれども、主体として生きるにはそれなりに苦いことだった。「若いって良いなあ」と感じるということは、自分はもう若くないということか。悲嘆でも賛嘆でもなく、そんな風に実感して納得した。

「人間てさ…人間て年とると苦しいことばっかだと思うか?」
「…別に そうとも限んないだろ」
(「大麻畑でつかまえて」より)

 小学生の頃は『りぼん』と『なかよし』、中学生になると『別マ』と『別フレ』を年子の姉と共有した。高校生になると仲の良かった男の子の影響で『週刊少年ジャンプ』を読むようになり、荒木飛呂彦冨樫義博をコミックスで追いかけた。私のマンガ遍歴はそんなような具合で、少女マンガの知識と経験は浅くてまだらだ。吉田秋生も長らく、名前は知っているけれども読んだことはない作家の一人だった。

 人に勧められて初めて手に取ったのが『河よりも長くゆるやかに』の文庫本、奥付を見ると2011年11月付第25刷。大学で非常勤をしていた時期に買ったものと思われる。妙なことに、この漫画に対する第一の感想は「大人だなあ」というものだった。

 というのも主人公は男子高校生で、主な舞台は男子校だ。エロ本の貸し借りや「根性ゲーム・くさい靴下」で盛り上がり、自生の大麻を発見しては大騒ぎ。男子校の中のことはよく知らないが、きっとこんな感じなんだろうと思わせる説得力がある。がさつで下品なばかりではない。親の離婚と死別、姉との二人暮らし。米軍基地近くのバーでのアルバイト。女子校に通うガールフレンドと、その女友達との折衝。私が「大人だなあ」と感じたのは、おそらくそのあたりだったと思う。

 同級生と橋の上から河を眺めての会話の一部を、上記に抜き書きした。彼もまた少々複雑な家庭環境を生きていて、「この河だって上流のほうはきれーなんだろうに、こんな汚れちゃって」と呟く。それに対して主人公は「でも海に近くなるじゃん、汚れるけど、深くて広くてゆったり流れるじゃん」と返す。大人になるということは、コントロールできない物事との付き合い方を学ぶことだ、少なくとも当時の私はそう認識していた。今はどうなんだろう?

 学生さんたちに若さを感じたり、初めて読んだ吉田秋生の漫画に大人だと感じたり。四十をとうに越した今から振り返ると、齢をとることに今より敏感だった三十当時の私も、十分に若くて未熟だった。今の私の若さと未熟さも、きっと、十年後くらいの私が発見するだろう。

初出は1983〜85年の『プチフラワー』。れっきとした少女漫画誌だったはずだが、各話タイトルの一つに「愛と青春の朝立ち」ってのはどうなのか。

 

つぎはぎの作法

『ヘンな日本美術史』/山口晃/祥伝社/平成24年刊

 いつの選挙戦のことだったか、故安倍晋三さんが「日本を取り戻す!」というスローガンを繰り返すのを聞いて、それっていつの日本ですか、とぼんやり思ったものだった。経済成長していた頃のことか、帝国憲法を掲げていた頃なのか、それよりもっと前か。おそらく当人も党本部も、熟考の結果というよりはテキトーにそれらしいことを言っておこうという感じだったんだろう。それはそうと、あの滑舌の悪さがどうにも「取り戻せない感じ」を醸していて、内容的にも形式的にも「もうちょいマジメにやらんかい」という印象ばかりが残った。

「日本は近代を接続し損なっている、いわんや近代絵画をや。」

 画家・山口晃さんの展覧会が催されると知って公式サイトを開くと、キャッチコピーに目が留まった。接続し損なう、とはうまい言い方だと思う。しかも「日本」と「近代(西洋近代)」のそういう関係を前提としたところから「近代絵画」にフォーカスしている。選挙と美術展では向かうべき対象が違うとはいえ、ふと前述のスローガンを思い出して、日本という一語の存在感をひき比べてしまう。政治家(というか元総理大臣)の云う日本と、画家の云う日本、その解像度の落差自体が「接続し損なっている」ことを示しているように感じる。

 こういう催しのコピーは美術館やスポンサー側が考える場合も多いだろうけれども、これは画家本人の言葉だと直感したのは、『ヘンな日本美術史』という好著があるからだ。平安時代鳥獣戯画から始まって、白描画、洛中洛外屏風画、雪舟河鍋暁斎などを題材として、絵を描く人ならではの絵の見方を示してくれている。鳥獣戯画に対して「わざとふにゃっと描くと云うか、ちょろまかすと云うか、仕上げすぎない」、光明本尊に対しては「鶯谷のグランドキャバレー」。第十二回小林秀雄賞を受賞したのは、絵の批評であるばかりでなく近代美術、ひいては日本の近代への批評として機能しているからだと思う。

 近代日本の法整備は、洋服の寸法を直して一張羅に仕立てた感がありますが、近代日本画は、「和装を通すために語学に長ぜしむる」の感がなくもありません。絵が喋る訳はありませんから、この場合、「美術の文法にのせる」と云うのが語学云々に当たりましょうか。つまり、西洋美術の向こうを張った、多分に対外的な「日本美術」を打ち出したと云う事なのです。
(中略)ただ、「美術」と云う明治に訳された言葉でそれ以前の雪舟北斎をくくると云うのは、足利や徳川の将軍を足利総理大臣、徳川総理大臣と呼び直すような無理がある事を忘れてはいけません。呼び直しによって見えなくなった事が幾つもあるからです。(第五章「やがてかなしき明治画壇」より)

 日本の近代文学を紐解くと、しばしば行き当たるテーマの一つに「近代の超克」というものがある。元は昭和17年文學界』誌上で展開されたシンポジウムで、当時の知識人が集まって明治以降の日本を総括し、いかに西洋近代を乗り越えるかを論じたものだ。戦後は知識人による体制翼賛の代表例として、いわば「負の遺産」「黒歴史」にカテゴライズされた。

 私は20代の半ばに仕事の必要から関連資料を読んだはずだが、内容はほとんど記憶にない。難しかったし、ピンと来なかった。ただ「超克」と言った時点で、超克できない感じはした。相手の土俵でがっぷり四つに組もうとしている、圧倒的に不利な感じ。もちろんそれは、その後の敗戦を知ってこその感覚だっただろう。それでも今になって、「近代の超克」ではなく「近代との接続」を考えてもよかったんじゃないか、という気がしてくる。

 アーティゾン美術館ではジャム・セッションと名付けて現代作家を招き、石橋財団所蔵の絵画をモチーフにしたオマージュ制作を依頼している。その四人目にあたる山口晃さんは、雪舟が描いた四季山水図と、セザンヌが描いた山の絵を相手に「現代美術」を制作、披露していた。接続し損なった継ぎ目に新たな紙を貼って、彩色し、全体を一つの絵と見立てるような。

 美術館を出て東京駅に向かって歩くと、高層ビルと高層ビルを前景として、奥に秋めいた雲が浮かんでいた。近寄ったり遠ざかったり、斜めから見たり屈んで見たり。普段使わない視神経を働かせた後だからか、ビルに遮られた雲がうっすらつながって駅舎の巨大な庇の上空に流れているのが見えた。

アーティゾン美術館の展覧会「ここへきてやむに止まれぬサンサシオン」は11月19日(日)まで。

崩れた本を積み上げる

『アンダーグラウンド』/村上春樹/講談社文庫/1999年刊

 外国人観光客が戻ってきたのはいいけれど、お会計のときに「え、こんな安いの!?」みたいに言われるとなんか、この人たちから見ると日本ってもう先進国じゃないんだろうなって思う……最寄駅近くのカフェのマスターがそんな話をしていた。いつからこうなっちゃったんだろう。どこからこうなっちゃったんだろう。

「結局、前提が違ってたことなんじゃないですかね」

 私の感覚的な物言いに、マスターはウンウンと頷いてくれた。同世代だからかもしれない。1980年前後に生まれた私たちは、たぶん、戦争に敗けた後、軍事力はアメリカに頼って経済に全力投球した結果、日本は奇跡的な復興を遂げて経済大国になりました、という話を聞いて育ったはずだ。

「今はもう、経済はダメだし、軍事力もこれからどうするのって話だし。どっかで軌道修正すればよかったんだよね、きっと」

 バブル崩壊とか、地下鉄サリン事件とか、原発事故とか、きっかけはいろいろあったのにね。でも結局、上のほうの人たちは既得権益があるから、自分たちは逃げ切ろうって感じなんだろうね。……そんな話をして帰ったけれども、ほんとは、前提をアップデートしたいのは私だ。国がどうこう、上の人たちがどうこうではなくて、私自身が、なんかちょっといろいろ整理したい。今のところはそれが、わたしがブログを書く理由なんだろうと思う。

 

 最初からそんなことを考えていたわけではない。引越しをするために、持っていた本を七割方処分した。また読みたい本、好きな作家の本、なんだかよくわからないけど捨てられない本。引越し先の本棚に収まった本を手に取って、どうして処分しなかったんだろうと考える。考えながら書いて、書きながら考えてみれば、何かわかることがあるかもしれない。そんな思いつきでブログを始めた。

 気楽に始めたつもりだったのに、やってみると難しい。

 たとえば森達也の『A3』を読めば、麻原彰晃の裁判はひとことで言えば杜撰だった思うし、村上春樹の『アンダーグラウンド』を読めば、「とにかく早く死刑にしてほしい」という地下鉄サリン事件の被害者の話にうなだれる。頭の中身は矛盾のカタマリだ。言葉で整理する、整理した言葉からあれこれ落っこちて、整理する前よりも散らかっていく。

 先週更新したときは『アンダーグラウンド』のエピローグを少し引用した。

 あなたは誰か(何か)に対して自我の一定の部分を差し出し、その代価としての「物語」を受け取ってはいないだろうか? 私たちは何らかの制度=システムに対して、人格の一部を預けてしまってはいないだろうか? もしそうだとしたら、その制度はいつかあなたに向かって何らかの「狂気」を要求しないだろうか? あなたが今持っている物語は、本当にあなたの物語なのだろうか? あなたの見ている夢は本当にあなたの夢なのだろうか? それはいつかとんでもない悪夢に転換していくかもしれない誰か別の人間の夢ではないのか?(『アンダーグラウンド』エピローグ「目じるしのない悪夢」より)

 戦後日本史上最悪といわれる犯罪の被害者数十名への、世界的に有名な小説家によるインタビュー集。自分にとってこの本は、「地下鉄サリン事件についての貴重な記録」だから捨てられないのか、「村上春樹の本」だから捨てられないのか、ブログを書いてみてもわからなかった。

 でも、もしかするとそれは、同じことなのかもしれない。地下鉄の車両や駅構内にたまたま居合わせたがために、それまでの物語を奪われた人たち。家族や友人や同僚と日常を共有することができず、一人の教祖の差し出した物語を選んだ人たち。致死的な物語について語る小説家。

 私は私で物語を求めている。崩れた前提の瓦礫の中から、使えるものと使えないものを選り分けて、足りないものを補って、立ったり歩いたりできる足場を組み立てる。組み立ててもまた崩れるかもしれないから、なるべく小さいものを一つ一つ積み上げていく。そういう風にブログを続けていけたらいいなと思う。

 

はてなブログの特別お題「わたしがブログを書く理由」にかこつけて、前回と同じ本について書きました)