ライターズブルース

読むことと、書くこと

新しい本、古い本。新しい言葉、古い言葉。

『文車日記−私の古典散歩−』/田辺聖子/新潮文庫/昭和53年刊

 たまには最近買った本の話を。と思ったわけではないけれど、小池昌代さんの訳による『百人一首』(河出文庫)がおもしろい。正月に甥っ子や両親とこたつを囲んでカルタ遊びをした後、本屋で見かけて何気なく買って以来、枕元に置いて寝る前にパラパラと楽しんでいる。

 小倉百人一首を解説した本は昔からいくつもあって、少年少女向けのマンガもあり、検索機能の充実したウェブサイトもある。小池昌代さんの本では、何といっても現代の詩人による訳詩がステキだ。たとえば私が好きな一首〈わが庵は都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり〉、これが以下のように訳されている。

わが庵は/みやこの東南/こんなものさ/のんきなものさ/いいじゃないか/なのに世間の人々ときたら/世を憂しの宇治山/だなんて言う/はあ 勝手なことを(引用者注:「/」は改行)

 意味内容だけではなく詩情というものを訳すると、こんな具合になるのか。こうして住んでますよ、といった意味の「しかぞ住む」を、こんなものさ、のんきなものさ、いいじゃないか、と広げると、ぐっと大らかな感じがしてくる。

 訳詩に続く鑑賞文もおもしろい。たとえば〈これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関〉、ひっきりなしに人が行き交う関所の光景が目に浮かぶような歌であるが、作者の蝉丸は盲目だったという伝説がある。「いったい、どんな音がたっていたのだろうか」。光景を暗転させると音が、音ばかりでなく空気や匂いが広がっていく。

 訳詩と鑑賞文に導かれて元の歌を辿ると、五感と言語能力をフル稼働させて、たった三十一文字にさまざまな情趣を含ませた歌人の姿がぼんやり浮かぶ。すごいなあ。紙も墨も貴重だったからだろうか、一字一字が支える質量が現代の言葉とは違う。

 

 飽き足りずに最近『田辺聖子の小倉百人一首』(角川文庫)を買った。百人一首は本来、撰者である藤原定家が百首でもって作り上げた歌のクロスワードパズルであり、一首ずつ解釈しても仕方がない、という説があるそうだ。古典を愛好する著者はこの新説に賛同し、「名歌なのだろう、と中世以来、漠然とみんな思ってきたが、百人一首の中には、ずいぶん阿保らしいような愚作や駄歌がいっぱいある。私もそこが不思議だったのだ」……むーん、奥深いものなんだなあ。

 田辺聖子さんといえば小説もエッセイもおもしろい、散文の名手であるから、この本でも散文ならではのパワーが炸裂。一番天智天皇から始まって徐々に時代が下っていく歴史背景を伝えつつ、ところどころで現代の「与太郎青年」と「熊八中年」が登場。「坊さんがそんな、色っぽいことしてもええんですか」と茶々を入れたり「千年前の人の話と思えまへん」と共感したり。こちらも枕元に置いて、小池昌代さんの訳詩と行ったり来たりしながら、少しずつ読み進めている。

 

 百人一首はもともと母が好きだったおかげで、私が子どもの頃にも毎年お正月には家族でカルタ遊びをした。ときには遠くにある札をパシッと取らなければならないから、身体能力に優れた姉にはいつも敵わない。それでもお気に入りの歌がいくつかあって、その札だけは自分で取ろうと意地になったものだった。

 お気に入りといっても、歌の意味がわかるはずもなく、花鳥風月のめでたさや男女の恋の機微を解する年頃でもない。響きがいいとか覚えやすいとか、ただ単になんとなく。でも、それはそれで良かったのだ。

 昔の学生たちは「方丈記」や「平家物語」の冒頭の一章など、まる暗記させられたものでした。リズム感のある名文なので、若者はすぐおぼえてしまいます。みずみずしい若いあたまに刻みつけられた記憶は、一生消えません。
 そのうち二十代、三十代、四十代と生きるにつれて、その文章の意味を、年ごとに深く汲みとるようになります。わけも分らず暗記していたものがたえず新しい意味をもって生き返り、その生涯の血肉となります。古典というものはそういうものです。(「ゆく河の流れ」より)

 引用した『文車日記-私の古典散歩-』は、田辺聖子さんが愛する古典への思いを綴ったエッセイ集で、題材は万葉集古事記平家物語徒然草といった有名どころはもちろん、落語や江戸時代の戯画まで幅広い。年代順に並べて啓蒙する教科書的なところがまるでなく、歌を、物語を、ひたすらいつくしみ、いにしえの人々に思いを馳せている。

 この作家の他の本は、また読みたくなったら図書館で借りられるだろうと思って、引越しの際に手放した。このエッセイだけ手元に残したのは、いつかは何か古典を読みたくなるかもしれない、そのときはこの本が助けになるだろうと思ったからだ。いまだに現代語訳がなければ意味も拾えない門外漢のままだけど、著者によると百人一首を暗誦すれば「ふしぎと古文の文法がすらりと頭に入ってしまう」らしい。ほんとかなあ。

 甥っ子の中学校では、近く百人一首大会が催されるそうで、練習をしたいからと週末にカルタ遊びに召集された。甥っ子の手前、なるべく下の句まで聞いてから札を取ろうと思う。お気に入りの歌以外は。

手前の『ときめき百人一首』(河出文庫)は中学生向けの入門書。甥っ子用のつもりだったけど、文法とか修辞の解説がわかりやすく、自分用になりそうな予感。

修行と教育、もしくは指導

『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』(上)(中)(下)/ゲーテ/山崎章甫訳/岩波文庫

 編集者と原稿のやりとりをしていると、たまに「だったら自分で書けば」と思うことがあった。従ったほうが記事が良くなると思えば従うし、注文を受けての原稿だからなるべく意向に沿うように努めるけれども、山に登ろうとしている人に向かって海に行く道を教えるような指摘は少々対応に困る。自分で書けば、とはもちろん言えないから、海より山のほうが楽しくないですかーとそそのかしたり、海に行くと見せかけて山に登ったり。

 大学の非常勤で作文のワークショップを受け持つことになったとき、最初に考えたのはそのことだった。要するに、学生が書いた文章に対して良いとか悪いとか、感想を言うだけだったら誰でもできる。編集者とライターだったらともかく、講師が学生に「だったら自分で書けば」と思わせてはいけない。

 それで指導方針のようなものを考えたときに、まずはその学生が何を書こうとしているか、どんな文章を目指しているかをなるべく正確に読み取ろうと思った。それを最大最善のものとしてイメージして、目の前の文章を比べたときに、足りないところ、余計なところを検討して、より良く目的地に辿り着けそうなルートを提案する。そういうつもりで提出された文章を読んでみると、どの学生が書いたどんな文章もおもしろかった。

 たまに、目的地自体が誤っていると感じることもあった。たとえば、ただ単にカッコつけたいだけの文章。そういうときは「カッコいいね」と言った後で、「でも、この書き方だったらもっと別の内容も書けると思うよ」と新たな目的地を提案した。

 そういうやり方で、うまくいったと思えるときもあれば、そうでないときもあった。そもそも文章の書き方なんて、私が教えてほしいくらいなんだけどなあと、いつも思っていた。

 一言でいえば、あるがままの自分を残りなく育て上げること、それがおぼろながらも、幼い頃からのぼくの願いであり、目標だった。いまもこの考えは変わらない。それを実行する手段がいくらかはっきりしてきただけだ。(中・第5巻第3章より)

『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』は、ドイツ教養小説の元祖として教わって、学生時代に一度読んだきり。覚えているのは、演劇に魅入られた若者が旅に出ていろいろ経験する、そんな程度のあらすじで、愛読したとか味読したとは、とても言えない。でも、上に引用した箇所だけは妙に印象に残っていた。「あるがままに育てる」という言い方は、語義に照らすと矛盾があるように見えて、不思議な説得力がある。

 最近、転職活動を始めた友人と話しているときに「修行」という言葉が出てきて(私もここ数年は転職を繰り返しているから、修行みたいなもんでさあ……という具合に)、何の気なしに頁をめくりながら思い出したのは非常勤時代のことだった。私があの頃やろうとしていたのは、たぶん、学生たちが書こうとしている文章を「あるがまま」に書かせることだったんだなあと。

 自分の文章に対しても同じことができたらいいのかもしれないが、自分が何を書こうとしているのかを見極めることは、どういうわけか、他人の文章と比べてかなり難しい。ここ数年の自分の転職歴も「あるがままの自分」を育てようとしてのことだと、言って言えないこともないけれど、自分の「あるがまま」を見分けることは、さらにもっと難しい。

 あるがままの自分を育てるってどういうことなのかなあと、読みながら考えてみたけれども、結局わからなかった。ブログを書きながら考えれば何かわかるかなと思ったけれども、今もわからないままだ。それに、どちらかというと今は、上に引用した箇所よりも物語の結末に惹かれる。

「この最高の幸福の瞬間に、あの頃のことを思い出させないでください」
「あの頃のことを恥ずかしく思う必要はありませんよ。素性を恥じる必要がないのと同じです。あの頃も楽しかったじゃありませんか」
(第8巻第10章)

 怒りや屈辱、失意も悔悟も経験した主人公に、旅の道連れが言う台詞だ。書くことや読むことをおもしろいと思ってもらえれば、それだけでいいんじゃないか。非常勤時代の最後のほうでは、そんな風に考えていたことを思い出す。

キリスト教の世界観に馴染みがないと、ヨーロッパの近代小説はイマイチ入り込めないなあと思っていたけれど。昔よりおもしろく読めたのは、それなりの修行の成果、ということにしておこう。

 

レシピ本大賞さんへ

『土井善晴さんちの「名もないおかず」の手帖』/土井善晴/講談社+α文庫/2015年刊

 レシピ本大賞というものが気になっている。今年はどの本が受賞するんだろうかと気にしているのではなくて、そのあり方が気になる。本屋大賞と比べて知名度も影響力も低い(ように見える)し、毎年9月の発表・授賞式もいまひとつ盛り上げりに欠ける(ように見える)のは、どうしてなんだろうかと。

 本屋大賞の設立は2004年。全国の書店員が「一番売りたい本」に投票するという選考方式は、従来の文学賞にはない明るさと新しさがあった。第一回を小川洋子さんの『博士の愛した数式』が受賞して「やっぱり書店員さんは良い小説を選ぶなあ」と思ったものだ。以降、特に気をつけてウォッチしていなくても本屋に行けば自然と「今年はこの本が受賞したんだな」と目に入るし、個人的には、毎年2回発表される芥川賞直木賞より「読んでみようかな」とか「あらすじくらいは知っておかないとな」という気にさせられる。

 一方、レシピ本大賞の設立は2014年。私がその存在を知ったのは、ここ2、3年のことで、受賞のオビが巻かれた本をいくつか店頭で手に取ってみたけれども、どういうわけかピンと来ない。購買意欲を刺激されない。調べてみると、こちらも書店員有志によって運営されているそうで、レシピ本にも賞を設けて市場を活性化させようという狙いは理解できる。しかしながら本屋大賞のように「なるほどなあ」と思えないのはなぜなんだ。

 実行委員の方がこのブログを見る可能性を鑑みて(ゼロではない)、いくつか提言をしてみたい。

 一つ目、部門が多すぎやしませんか。大賞と準大賞と入賞があって、それとは別にエッセイ、コミック、お菓子、子ども向け、プロが選んだ……去年から新たに「ニュースなレシピ賞」まで新設したのは、いかがなものかと思います。一口にレシピ本といってもいろいろあって一概に優劣をつけがたいことはお察ししますが、結局どれが大賞を受賞したのかわからない、店頭で目立たない。結果的に去年と同じ著者が部門を跨いで受賞しているのを見ると「またこの人か」と思ってしまいます。たとえば、単身自炊部門、四人家族部門、プロ部門、この三つでいかがでしょう。

 二つ目、実用書ならではの選考方法を取り入れませんか。一次選考は投票制で各部門3点ずつに絞る、二次選考では複数の選考委員がレシピを実践して、食べながら会議して決定する。料理や食事、話し合いの様子を動画で配信したり、写真を店頭ポップに使ったり、レシピ本らしい賞として育てていってほしいと思います。

 三つ目、ノミネートも書店員による推薦制にしてはいかがですか。現在は出版社からのエントリーを募っているようですが、残念ながら一部の出版社では「今が旬の料理研究家」にドシドシ本を作らせる粗製濫造の傾向が見られます。「出版社が売りたい本」ではなく「書店員が売りたい本」にこだわってください。私が言うのもナンですが、料理人にとってレシピはたぶん、修行、勉強、研究の賜物です。「ニュースなレシピ」などと宣伝して一過性の流行を作るのではなく、「ずっと売り続けたい本」を選考の基準にしていただいたほうが、著者と読者に益することと思います。以上。

 ……ちなみに私が「単身自炊部門賞」に推すとしたら、まずは『土井善晴さんちの「名もないおかず」の手帖』だ。土井さんのレシピは塩と砂糖、醤油とか味噌とか、だいたいどこの家にでもある調味料で作れる。特にこの本は、トマトと卵だけとか、キャベツとシラスだけとか、レンコンと卵だけとか、材料も二つ三つでできる料理がたくさん載っている。作り方はどれも簡単で、もちろんおいしい。青菜からレンコンまで、目次は食材のあいうえお順になっているから、野菜を余らせがちな単身世帯では持っていれば間違いのない一冊だと思う。

「名もないおかず」とは、身近な材料で作る毎日のおかずのことです。青菜を1わ買ってきたら、さあ、どうやっておいしく食べようか、ということ。料理名ではなく、素材ありきです。素材から始まるおかず作りの本、どうぞキッチンに置いて活用なさってください。(まえがき「名もないおかずとは」より)

 レシピ本大賞とは関係ないけど、ついでに提言をもう一つ。料理本の棚にブックストッパーを並べて、一緒に売ってみてはいかがでしょう。

『「名もないおかず」の手帖』は単行本と文庫版があって、私は知人からもらった文庫版を活用している。文庫ってかさばらないのはいいけど、開いたまま置いておけないのですね。そこでブックストッパーの出番。クリップ部分でページを挟んで重しで固定しておけば、本を見ながら料理ができる! 料理本と一緒に並べておけば、きっと売れると思うんだけど、どうかなあ。

ブックストッパー、ブックキーパー、ブックホルダー…いろんな呼称があるけど、私はトモエ算盤社製を愛用しています。二個あると両側から挟めて、より安定する。

追悼文についての覚書き

『友よ、さらば 弔辞大全Ⅰ』/開高健・編/新潮文庫/昭和61年刊
『神とともに行け 弔辞大全Ⅱ』/開高健・編/新潮文庫/昭和61年刊

 15年前に少々変わったなりゆきで、物故した陶芸家の追悼文を書いたことは前回に記した。当時その種類の原稿を書いたことのなかった私がまず参考にしたのが、開高健の編集による『友よ、さらば』『神とともに行け』だった。明治から昭和にかけての追悼文の選集で、たとえば昭和17年萩原朔太郎への追悼を三好達治が書き、昭和39年には三好達治への追悼を中野重治が、昭和54年には中野重治への追悼を佐多稲子が書いている。勝者も敗者もない懸命なリレーのようでもあり、時の奔流に言葉が浮かびあがった一瞬を捉えた写真集のようでもある。

 亡くなった人を悼む言葉に優劣をつけるなんて外道のすることだよなあと思いながらも、読めば心にすっと入ってくる文章とそうでもない文章があることは、どうすることもできない。当時の私は外道上等と開き直って、その良し悪しを分析したものだった。その結果、良い追悼文には「怒り」がある、と思ったことも前回に書いた。

 たとえば菊池寛直木三十五が亡くなる数日前まで囲碁を打ち、その勝敗を互いに記した表を家の壁に貼っていた。通夜の晩に誰かがそれを片付けてしまったことに気づいて、「自分はむやみに腹が立って、社員や女中を怒鳴りつけて探させた」。

 あるいは東条耿一。ハンセン病の隔離施設で共に闘病した北条民雄を看取った際、「私は周章てふためいて、友人たちに急を告げる一方、医局への長い廊下を走りながら、何者とも知れぬものに対して激しい怒りを覚え、バカ、バカ、死ぬんじゃない、死ぬんじゃない。と呟いていた」。

 私に確信に近いものを与えたのは佐多稲子から壷井栄へ贈られた言葉だ。

 壷井栄さん、三十数年のつきあい、ありがとう。あなたとおしゃべりをするときはもう失われました。そのことであなたとのおつきあいはもう終るのでしょう。けれども私のいる間は、あなたとのつながりはいろいろな形で残りましょう。私はそのことでむしろ苦しい。あなたと共にあった私は、私の中に残るにしても、あなたのうちにあった私は、永久に消えたことをおもうからです。(中略)
 あなたが私を語ってくれることはもう無いのです。私は不満です。

 佐多稲子という人は激しい感情をよくよく自制した文章を書く人だ、そういう人が敢えて選んだに違いない「不満」という言葉に、私は「怒り」に近いものを感じた。それを手がかりとして仮説を立て、自分の仕事を進める頼みとしたのだったが。

 良い追悼文には「怒り」がある……とも限らないかなあ、と今は思う。

 たとえば梶井基次郎が死んで、自らも病床にあった三好達治が寄せた詩も、心にすっと入ってくる、--「僕は考へる ここを退院したなら 君の墓に詣らうと」。林芙美子の死に「幻滅」という言葉を使った平林たい子の文章も良い、--「私達は、思いがけず二人とも文壇の人間になったが、私たちの夢はこんなことではなかった。もっともっと、崇高ですばらしい筈だった」。この本に入っているものではないけれど、思い出してみれば、甘粕事件で殺された伊藤野枝について書いた辻潤の文章も好きだ。江藤淳の遺書に応答した石原慎太郎の弔辞も、忘れられない。

 良い追悼文の条件なるものを外道なりに考え直してみると、率直であること、個人的であること、だろうか。15年前の私が「怒り」をキーポイントと捉えたのは、おそらくそれが元来個人的な感情であり、率直さをもって発露されるものだからかと思う。

 そしてそれは、もしかすると追悼文に限ったことではないのかもしれない。どんな目的の文章であれ、率直に、個人的に書くこと。それができたなら、もし次に誰かの追悼文を書く機会が訪れたとしても、アワアワと参考書を紐解くような真似はしなくて済むと思うのだけど。今はまだこの二冊は捨てられない。

『友よ、さらば』には55編、『神とともに行け』には50編所収。編者あとがきによると弔辞というものの特質は「たった一回しか書けない」こと。なぜなら「人はたった一回しか死ねない」。

 

うつわについての覚書き

『自分で焼ける 何でも焼ける 決定版 七輪陶芸入門』/吉田明/主婦の友社/平成14年刊

 誰かを指して器が小さいと言えば悪口になるし、器が大きいと言えば褒め言葉になる。でも、必ずしも大きい方が良いとも限らないんじゃないか。私がそう思うのは、若い頃に自分の器を無理矢理広げるようなことをしたという実感があるからだ。

 たとえば15年前、雑誌に吉田明さんという陶芸家の追悼文を書いた。経緯としては、私がお世話になっていた福田和也さんという人がいて、吉田さんはその福田さんが懇意にしていた。福田さんは自分が追悼文を書くべきところを、なぜか私に「書きなさい」と言った。当時の私は作家ものの器なんて一つも買ったことがなく、当然、陶芸のことは何も知らない。取材に同行して窯場にお邪魔したことはあったけれども、故人との面識はその一度きりだった。

 そしてまた、吉田明さんという人は明らかに「規格外の人」だ。素人にできるのは粘土を成形して乾燥させて、せいぜい釉薬をかけるくらいのことで、焼成は業者任せが当たり前だった陶芸の世界で、「七輪陶芸」というものを発明した。バーベキューで使うような七輪に、乾燥させただけの粘土の塊を突っ込んで、通風口からドライヤーで熱風を送り込む……理には叶っているのだろうけれども奇想天外な焼き方は、吉田さんが思い付かなければ誰もやらなかったんじゃないか。七輪陶芸は「規格外」の一例であり、吉田さんの器を扱っていたお店の主人は陶芸家と呼ぶことをためらい「天才」という言葉を使っていた。

そのとき、残った灰の中に1個のぐい呑みを入れたままにしておいたら、次の朝、うっすらと木炭の灰が溶けているではないか。灰が溶けているということは、温度が1200度にはなっているということである。七輪ではせいぜい800度ぐらいにしかならないと思っていた私は驚いた。1200度以上の高温が保てるなら、誰でも簡単に、好きなときにやきものが焼ける……そう思って、私はこの『七輪陶芸入門』をつくることにした。(「あとがき」より)

 追悼文を引きうけてしまった私は、吉田さんの最後の窯場で遺作展が催されると知って、新潟県十日町市に出かけた。おっかなびっくり買った茶碗や湯呑みを持って、福田さん行きつけのバーに行くと「これ、ほんとに吉田が作ったの?」と一蹴された。以前に八王子の窯場を火事で全焼したことがあると聞いて、八王子の図書館に行って新聞の縮刷版から記事をコピーした。それを持ってまたバーに行くと、福田さんは出火原因を巡って吉田さんらしいエピソードを聞かせてくれた。そういう風にして「取材」を進めた。

 追悼文を書くのは初めてのことで、私は他の人が書いた追悼文をいくつか読んで、その良し悪しについて考えた。結果、良い追悼文には「怒り」があると思った。その人がいないことの理不尽に対する怒り。やり場のない、不快で無益で無償の感情。吉田さんの死が早すぎることは理解しながらも、私自身には怒りと呼べるほどの強い感情はない、福田さんの怒りを代弁するのが自分の役割だと、当時はそういうつもりで原稿を書いたのだったが。

 私にも怒りはあったな、と今は思う。というのも、福田さんは私が原稿を引きうけた後、唐津風の絵皿と粉引の耳杯をくれた。吉田さんの器を一つも持たずにその追悼文を書くのはさすがに無理だと思ったんだろう。こんなのもらったくらいで書けるかよ、ナメてんじゃねーよ、と私は思った。自分が書きたくないからって人に押し付けてんじゃねーよ、と思いながら私は書いた。実際、もらった器は原稿を書くうえでは何の役にも立たなかった。福田さんの怒りと私の怒りと、どちらが原稿に資したかは、よくわからない。

 そういう風にして書いたこと、自分の器を広げたことを、良かったとも悪かったとも思わない。ただ、器というものはたぶん、大きくすることはできても小さくすることはできないし、無理矢理大きくすれば歪んだり割れたりする。それが私の実感だ。

 最近「金継ぎスターターセット」というものを買って、初めて金継ぎをやってみた。少し前に割ってしまった別の作家の器を修復するためだったが、吉田さんの絵皿も、もらったときから端が少し欠けていたのを思い出して、ついでに補修した。おそらく福田さんは、四、五枚の組皿の一つが欠けてしまって、それを私にくれたんだと思う。……ったく、ナメやがって。そう思いながら今では、私はその絵皿を気に入っている。直す前よりずっと。

手前の絵皿と奥の耳杯がもらいもので、右側のぐいのみと茶碗は自分で買った。使い続けることが吉田さんへの手向けになればいいと思う。

お知らせ

微熱で頭がぼーっとするため今週の更新はおやすみします。風邪かな、花粉かな。

見にきてくださった方、ごめんなさい。

花屋で雪柳をみかけるとだいたい毎年買ってしまう。今年のも枝ぶりがなかなか。

中間報告

『新版 エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』/ハンナ・アーレント/大久保和郎訳/みすず書房

 学生の頃、ある講義の課題として以下のテーマが与えられた。

第二次世界大戦における極限状況下で、表現者たちは表現し得たか」

 学生の立場としては、イエスかノーかを答えて、その根拠を挙げる形で規定字数(たしか2000字)のレポートを書かなければならない。頭ではそう理解していても、私はその答えを自分の中に見つけられなかった。「何を表現したか」ではなく「表現し得たか否か」が問われていることの意味を考えながらも、イエスかノーかの二択の前でどうにも足が竦んだ。

 講義ではブレヒトツェランといった亡命作家の詩や文章が読み上げられた。また別の回では「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」というアドルノの評論が紹介された。要するに、人間の文化そのものがアウシュヴィッツに代表される機械的な大量殺戮に至る契機を内包している、ということを理解しようとする自分がいる一方で、「友愛の地を準備しようとしたぼくたち自身は、友愛をしめせはしなかった」という詩に心を動かす自分がいる。その間に整合性を見出すことができない。

 課題は、課題だからどうにかやっつけたけれども、何をどう書いたのかは覚えていない。単位はもらったけれども、自分は結局この講義を理解できていなかったんだなと感じた。あのとき何を書けば正解だったんだろう。正解とは言えないまでも、自分で納得できるような答えが、いつか見つかるだろうか。

 

イェルサレムアイヒマン』は、その講義で指定されていたテキストの一つだ。ユダヤ人を強制収容所へ移送する実務を担ったナチ親衛隊元中佐を被告とする裁判の傍聴記で、シオニズムについても、イスラエル建国の経緯についても、この講義で初めて知った私にはなかなかの難物だった。

 虐殺に積極的に加担した人物が、ユダヤ人も故国を持つべきだというシオニズム思想に傾倒していたことはまだしも理解できる(ヨーロッパからユダヤ人を排除するという点で両者は一致する)。しかし彼がそのイスラエルという国の法廷で裁かれ、死刑に処されたという事実関係のねじれに頭がついていかない。ドイツ哲学を専攻していた先輩曰く「アーレントの文章は、読みにくい」、その言葉を慰めとしたものだった。

 理解はできなくても「理解し難いものがそこにあるな」と感じることは、それでも少しは意味のあることだったかもしれない。というのも、その後の社会生活で何度か「あの本に書かれていたのは、もしかするとこういうことだったかもしれないな」と感じる場面があったからだ。

 たとえば、絶版になった自著の電子データについて出版社に問い合わせると「データの譲渡料は十万円です」と返ってくる。同じ人に図書館の複本問題について聞いてみると「著者の利益を守ることは出版社の義務ですから」と返ってくる。著者である私には矛盾して聞こえるけれども、出版社という組織のなかで働く人にとっては矛盾でも何でもないらしい……ということがしばしば起きた。矛盾しませんか、と指摘すると出所のしれない大義名分や美辞麗句が返ってきて、私は「あ、アイヒマンっぽい」と連想した。連想することによって心のバランスをいくらか保つことができた。

 彼の語るのを聞いていればいるほど、この話す能力の不足が思考する能力--つまり誰か他の人の立場に立って考える能力--の不足と密接に結びついていることがますます明白になってくる。アイヒマンとはコミュニケーションが不可能だった。それは彼が嘘をつくからではない。言葉と他人の存在に対する、したがって現実そのものに対する最も確実な防壁[すなわち想像力の完全な欠如という防壁(独語版)]で取り囲まれていたからである。(中略)
 アイヒマン自身にしてみれば、これは気分の変化というだけのことであった。そして、その時々の気分を昂揚させてくれる決まり文句をあるいは自分の記憶の中で、あるいはそのときの心のはずみで見つけることができるかぎりは、彼は至極満足で、〈不整合〉などといったようなことには一向に気がつかなかった。(「第3章 ユダヤ人専門家」より)

 学生時代の講義では配布されたコピーを参照し、その後図書館で本を手に取ったものの、私には読めそうもないなと諦めた。いま手元にあるのは2017年に刊行された『新版 エルサレムアイヒマン』だ。相変わらず「アーレントの文章は読みにくい」が、それがどういう種類の読みにくさであるか、少しはわかるような気がする。この人はたぶん、理解しがたい事柄を、理解しがたいものとして表そうとしているんだと思う。

 絵は人に見られることで完成すると、ある画廊の人が言っていた。文章も、人に読まれることによって完成するだろうか。もしそうだとしたら、「表現者たちは表現し得たか?」というあの課題に対する答えは、彼らの書いたものを私が読んで感受しきったときに「イエス」となるはずだ。まだその途上にいる今は、「表現者たちは、表現しつつある」としか言えない。

イスラエルの法廷がアイヒマンを死刑とした罪状には「人道に対する罪」も含まれていた。現在は南アフリカイスラエルを、集団殺人の罪で国際司法裁判所に提訴している。