一度読んだだけでは消化不良で、そのうちまた読もうと思ったものの、棚に挿したまま長いこと開かなかった本がたくさんある。たとえば『殺人者たちの午後』。原題は”Life after Life”、終身刑のことを英語では”life ”と表すらしい。死刑制度が廃止されて久しいイギリスでは殺人に対しては終身の禁固刑しか存在しない、つまりこの本は、人を殺して終身刑を下された受刑者十名へのインタビュー集。一読して処分できなかったのも、その後十年以上頁を開かなかったのも、理由は同じで、読めば何かが理解できるとか、楽しい気分になる本ではないからだ。
一歳半の自分の息子を、殴り、熱湯をかけ、壁に叩きつけたという男がいる。十年服役して仮釈放されたが「世界中の人がひとり残らず許すと言ったって、俺は自分を許せない」。離婚した元妻がくれた封筒をずっと持っていて、開けたことはないけれども、中には自分と息子を写した写真が入っている。火事になったら他の何をおいてもあれだけは絶対に持って逃げる。……こういう話を読むと、死刑と比べて終身刑が軽いとは、必ずしも言えないと思う。
一方で、同居していた女友達を口論の末に締め殺したという女がいる。十一年服役して仮釈放されたが「とても腹が立っている」。住み込みの家政婦の仕事を見つけたのに、保護観察官の指導に従って前科を打ち明けたところ、雇ってもらえなかったからだ。その四年後、彼女はクリスチャンとなって教会で結婚式を挙げた。夫も教会の仲間も、自分の前科を知ったうえで受け入れてくれている、今後は刑務所から出てきた女の子たちのための施設を運営したい、神様に自分の人生を委ねれば「もっともっと幸せになれるんじゃないかしら」。……タフだなあと驚く一方で、ふと殺された人を思い、残酷だなあとも思う。
人を殺した人へのインタビュー集ではあるが、その後の”Life”はさまざまだ。再読してみると、十人十様ばらばらであることも、消化不良の原因だったかと思う。
森達也さんの『死刑』も、一読した後ずっと棚に挿しっぱなしになっていた。著者はドキュメンタリー作家としてオウム真理教を取材する過程で死刑囚と接触するようになり、日本の死刑制度に興味と疑問を抱く。本書は弁護士や刑務官、政治家、被害者の遺族、受刑者など、関係各所へ取材をした「死刑をめぐるロードムービー」。
私にとって特に興味深かったのは、十八歳の少年が二十代女性と生後十一ヶ月の娘を殺害した事件だ。2000年に地裁で無期懲役の判決が出た後、加害者少年と被害者の夫、双方の発言が報道された。当時学生だった私は、被害者とその家族を侮辱するような少年の言葉に憤り、「この手で殺したい」という被害者の夫の言葉に深く頷いた記憶がある。
著者によると地下鉄サリン事件以降、厳罰化を求める世論に押される形で「死刑判決が増えた」。上記の少年も、控訴と上告を経て2012年に死刑が確定している。要するに私は、彼に死刑を求める「世論」の側にいたわけだ。でも、最高裁の判決が報道された頃には「そうか」としか思わなかった。まあそうだろうなと。
その後の少年(元少年)の様子は、本書で初めて知った。拘置所の中で聖書や小説を読み、教誨師との交流を経て「自分以外の人が自分を大切に思ってくれている。そんな体験を通して、自分も何かしないといけないと気付かされた」。三十歳を過ぎて死刑が確定すると「森さんとは、もっとたくさん会っておきたかったです」、面会に来なかったことを著者が謝ると「すみません、気にしないでください」と返す。……つい、殺さなくてもいいんじゃないか、と思ってしまう。かつての自分の憤りを忘れて。
内閣府の2020年の世論調査によると「死刑もやむをえない」という人は約八割、「死刑は廃止するべき」という人は約一割だそうだ。残りの一割は「わからない・一概に言えない」。私はどうなんだろう?
理屈で考えれば死刑はダメだと思う。でも、もしまた残虐な事件が起きて、加害者の悪態や遺族の慟哭を聞けば「死刑がふさわしい」とか「死刑になっても仕方がない」と思うのかもしれない。それで、塀の中での加害者の様子を知れば、また「殺さなくても……」と思ったり。我ながらいい加減だ。今のところ私は、被害者でも加害者でも遺族でもなく、裁判官でも弁護士でも刑務官でもないけれども、もし裁判員として招集されでもしたら、きっとものすごく困る。
死刑制度が廃止されたイギリスと存置されている日本と、比べてどちらが良いとも悪いとも思わない。人を殺した人にもいろんな人がいて、死刑だろうと終身刑だろうとすべてのケースにフィットするはずがない。制度から取りこぼされる「いろいろ」は、制度の外で拾っていくしかないのかなあと、今はそんな風に考えている。