ライターズブルース

読むことと、書くこと

人を殺してしまった後には

『殺人者たちの午後』/トニー・パーカー/沢木耕太郎 訳/飛鳥新社/2009年刊
『死刑』/森達也/角川文庫/2013年刊

 一度読んだだけでは消化不良で、そのうちまた読もうと思ったものの、棚に挿したまま長いこと開かなかった本がたくさんある。たとえば『殺人者たちの午後』。原題は”Life after Life”、終身刑のことを英語では”life ”と表すらしい。死刑制度が廃止されて久しいイギリスでは殺人に対しては終身の禁固刑しか存在しない、つまりこの本は、人を殺して終身刑を下された受刑者十名へのインタビュー集。一読して処分できなかったのも、その後十年以上頁を開かなかったのも、理由は同じで、読めば何かが理解できるとか、楽しい気分になる本ではないからだ。

 一歳半の自分の息子を、殴り、熱湯をかけ、壁に叩きつけたという男がいる。十年服役して仮釈放されたが「世界中の人がひとり残らず許すと言ったって、俺は自分を許せない」。離婚した元妻がくれた封筒をずっと持っていて、開けたことはないけれども、中には自分と息子を写した写真が入っている。火事になったら他の何をおいてもあれだけは絶対に持って逃げる。……こういう話を読むと、死刑と比べて終身刑が軽いとは、必ずしも言えないと思う。

 一方で、同居していた女友達を口論の末に締め殺したという女がいる。十一年服役して仮釈放されたが「とても腹が立っている」。住み込みの家政婦の仕事を見つけたのに、保護観察官の指導に従って前科を打ち明けたところ、雇ってもらえなかったからだ。その四年後、彼女はクリスチャンとなって教会で結婚式を挙げた。夫も教会の仲間も、自分の前科を知ったうえで受け入れてくれている、今後は刑務所から出てきた女の子たちのための施設を運営したい、神様に自分の人生を委ねれば「もっともっと幸せになれるんじゃないかしら」。……タフだなあと驚く一方で、ふと殺された人を思い、残酷だなあとも思う。

 人を殺した人へのインタビュー集ではあるが、その後の”Life”はさまざまだ。再読してみると、十人十様ばらばらであることも、消化不良の原因だったかと思う。

 

 森達也さんの『死刑』も、一読した後ずっと棚に挿しっぱなしになっていた。著者はドキュメンタリー作家としてオウム真理教を取材する過程で死刑囚と接触するようになり、日本の死刑制度に興味と疑問を抱く。本書は弁護士や刑務官、政治家、被害者の遺族、受刑者など、関係各所へ取材をした「死刑をめぐるロードムービー」。

 私にとって特に興味深かったのは、十八歳の少年が二十代女性と生後十一ヶ月の娘を殺害した事件だ。2000年に地裁で無期懲役の判決が出た後、加害者少年と被害者の夫、双方の発言が報道された。当時学生だった私は、被害者とその家族を侮辱するような少年の言葉に憤り、「この手で殺したい」という被害者の夫の言葉に深く頷いた記憶がある。

 著者によると地下鉄サリン事件以降、厳罰化を求める世論に押される形で「死刑判決が増えた」。上記の少年も、控訴と上告を経て2012年に死刑が確定している。要するに私は、彼に死刑を求める「世論」の側にいたわけだ。でも、最高裁の判決が報道された頃には「そうか」としか思わなかった。まあそうだろうなと。

 その後の少年(元少年)の様子は、本書で初めて知った。拘置所の中で聖書や小説を読み、教誨師との交流を経て「自分以外の人が自分を大切に思ってくれている。そんな体験を通して、自分も何かしないといけないと気付かされた」。三十歳を過ぎて死刑が確定すると「森さんとは、もっとたくさん会っておきたかったです」、面会に来なかったことを著者が謝ると「すみません、気にしないでください」と返す。……つい、殺さなくてもいいんじゃないか、と思ってしまう。かつての自分の憤りを忘れて。

 内閣府の2020年の世論調査によると「死刑もやむをえない」という人は約八割、「死刑は廃止するべき」という人は約一割だそうだ。残りの一割は「わからない・一概に言えない」。私はどうなんだろう?

 理屈で考えれば死刑はダメだと思う。でも、もしまた残虐な事件が起きて、加害者の悪態や遺族の慟哭を聞けば「死刑がふさわしい」とか「死刑になっても仕方がない」と思うのかもしれない。それで、塀の中での加害者の様子を知れば、また「殺さなくても……」と思ったり。我ながらいい加減だ。今のところ私は、被害者でも加害者でも遺族でもなく、裁判官でも弁護士でも刑務官でもないけれども、もし裁判員として招集されでもしたら、きっとものすごく困る。

 

 死刑制度が廃止されたイギリスと存置されている日本と、比べてどちらが良いとも悪いとも思わない。人を殺した人にもいろんな人がいて、死刑だろうと終身刑だろうとすべてのケースにフィットするはずがない。制度から取りこぼされる「いろいろ」は、制度の外で拾っていくしかないのかなあと、今はそんな風に考えている。

来週出店する一箱古本市に向けてリストを作成中。上記の二冊は、並べて置いてみるつもり。

ひと箱古本市の準備(その2)

フェア「男と女と、フェミニズム」を検討中。

 先週に引き続き出店の準備を進めながら、一つ気がかりなことがあった。案内文に次のように書いてある、「栞とペンを用意するので、出品する本のコメントを書いてください」。10時くらいに集合して、11時オープンまでの間に書き込むらしい。

 こういうとき、字のキレイな人がうらやましい。私は、栞のような小さな紙に、膝の上で、読める字を書ける自信がまったくない。迷った末、会場となるブックカフェを訪問して相談してみると、あらかじめ栞を分けてくださるという。ありがたい。

「何枚くらい、使いますか?」
「今、箱に詰めてあるのが、50冊くらいなんですけど……」
 もう少し入りそうだから60枚くらい、というつもりだったが、
「えっ、そんなに」
 どうやら多過ぎるらしい。みなさん、どれくらいお持ちになるのか。2、30冊くらい?
「そうですね、あの、お持ちいただく分には構わないんですが」
 店員さんは申し訳なさそうな顔で続けた。
「なんというか、そんなに売れるものではないので……」
 そうだった。本は、基本的に売れない。

 学生時代にアルバイトをした大型書店には、いろんな本がたくさん置いてあった。でも一日に一冊も出ない本のほうが圧倒的に多くて、本って売れないんだなあ、としみじみ実感したものだ。それなのに、初めての出店につい楽しくなって、一箱に入るだけ詰め込むつもりでいた。往復の送料のことも考えないと。

 本は売れない、売れないゾ。さて、どうしたら売れるかなあと、箱の中から「イマイチ」と思う本を除いたり、本棚に残すつもりだった本を「売れたらまた買えばいっか」と箱に入れてみたり。

 出品予定のカテゴリーその2は、名付けて「男と女と、フェミニズム」。ブックカフェにもその方面のコーナーがあったのを参考に、以下のように組み直してみた。

 

『これからの男の子たちへ』/太田啓子/大月書店/2020年刊
ひとつめは、「男子ってバカだよね」問題。
ふたつめは、「カンチョー放置」問題。
みっつめは、「意地悪は好意の裏返し」問題。

 

『男たちへ』/塩野七生/文春文庫/1993年刊
セックスは、九十歳になっても可能だと思うこと。

 

『女たちよ!』/伊丹十三/新潮文庫/平成17年刊
頭はいいけどばかなところがあり
ばかではあるが愚かではなく

 

『再び女たちよ!』/伊丹十三/新潮文庫/平成17年刊
つまり自分自身と深くつきあうことだけが、他人を愛する道へつながるんじゃないか。

 

『女子の生きざま』/リリー・フランキー/新潮OH!文庫/2000年刊
「靴の汚い女はアソコが臭い」という偏見の中にも真理のキラリと光る標語があります。

 

『女の絶望』/伊藤比呂美/光文社文庫/2011年刊
えろきもの。西田敏行。年経りて何事にも動じず、ぶよぶよに肥え果てたるも、いとえろし。

 

『女の一生』/伊藤比呂美/岩波新書/2014年刊
漢と書いて「おんな」と読む。

 

『別冊NHK100分de名著 フェミニズム』/加藤陽子・鴻巣友季子・上間陽子・上野千鶴子/NHK出版/2023年刊
男は男に認められることによって男になるが、女は男に認められることによって女になる。

 

 栞には、本文から「この一文に引っかかる人なら、きっとこの本をおもしろく読んでくれるだろう」という箇所を抜き書きして、その頁数を書いておこうと思う。なるべく読める字で。それでその頁に挟んでおけば、立ち読みくらいはしてもらえるだろうか。

ブックカフェの近くの公園でお花見気分。当日は雨が降ったら中止だし、あんまり暑いのも嫌だし。ほどよく曇りだといいなあ。

ひと箱古本市の準備(その1)

「出版の明日はどっち?」フェアを検討中

 引越しから二年近く経って本棚に本が入りきらなくなってきたので、一箱古本市というものに参加してみることにした。一箱古本市は東京の谷根千谷中・根津・千駄木)から発祥してここ二十年くらいでほつほつと全国に広がった本のフリーマーケットだ。私も通りがかって覗いてみたことはあるけれども、出店するのは初めて。とりあえず折りたたみ式の椅子を買ってみたり、しばらく使ってないレジャーシートを広げてみたり。

 単に除却したい本を不規則に並べたのではつまらないから、いくつかカテゴリー分けをしてみようかと思う。カテゴリーその1は、名付けて「出版の明日はどっち?」。たとえば……。

 

『まちの本屋 知を編み、血を継ぎ、地を耕す』/田口幹人/ポプラ社/2015年刊

 独自のヒットを生みだしてきた盛岡駅構内のさわや書房フェザン店、店長によるエッセイ。「僕たちにとっては全国で売れている本であるかどうかは関係ないのです。他所で売れていても、僕たちの店で売れるとは限らないからです」

 

『私は本屋が好きでした あふれるヘイト本、つくって売るまでの舞台裏』/永江朗/太郎次郎社エディタス/2019年刊

 表現の自由を標榜する業界でモラルハザードが起きてしまうのはなぜなのか。差別主義的な本が流通する「川上から川下まで」を取材。「『出版界はアイヒマンだらけ』というのが率直な感想である」

 

『「本が売れない」というけれど』/永江朗/ポプラ新書/2014年刊

統計データや関係各所へのインタビューから「出版不況」の実態を読み解くルポルタージュ「いちど破滅してしまって、焼け野原になって、何もないところからまた始めればいいんだよ」

 

『”ひとり出版社”という働きかた』/西山雅子/河出書房新社/2015年刊

 出版における「小商い」は可能か? ひとりで出版社を立ち上げた10名へのインタビュー集。「本を絶版にしないで100年続けられること。その10分の1がようやく経とうというところ」(ミシマ社・三島邦弘さん)

 

『電子書籍で1000万円儲かる方法』/鈴木みそ・小沢高広(うめ)/学研パブリッシング/2014年刊

 Kindleセルフ出版のパイオニア、二人の漫画家による対談。既得権益を守ろうという動きが、結果的に自分たちの首を絞めているということに、いいかげん気が付いたほうがいいと思います」(小沢)

 

『本屋になりたい この島の本を売る」/宇田智子/ちくまプリマー新書/2015年刊

 東京の大手書店を退職し、沖縄で古本屋を開業した主によるエッセイ。「紙と紙の交換は、たぬきの葉っぱの化かしあいのようなものかもしれません。紙そのものに価値があるのではなく、価値があると信じる人がいるから価値が生まれるという点では、古本もお金も同じです」

 

『書籍出版経営の夢と冒険 普及版出版経営入門──その合理性と非合理性』/ハーバート・S・ベイリーJr./箕輪成男・編訳/出版メディアパル/2018年刊

 プリンストン大学出版局を率いた経営者による出版社経営の解説書。「ところで新しい技術のおかげで、次のことがはっきりしてきた。出版社が売っているのは本そのものではなく、本にふくまれるイメージであるということである」

 

『高校図書館デイズ 生徒と司書の本をめぐる語らい』/成田康子/ちくまプリマー新書/2017年刊

 高校の図書室を訪れる生徒たちと司書による、本をめぐる交歓。「これまで私に話してくれた生徒たちは、その本のなかに自分が自分であるというかけがえのない存在理由を見出しているようにも、私には思えます。だから話したくなるのだと思います」

 

 私自身は学生時代に渋谷の大型書店でアルバイトをして、たまたま本を出すことになってフリーライターを十年少々やった後、電子書籍関連の会社で一年少々経理をして、ここ数年はまったくの外野から出版業界を眺めている。のらりくらりした立場で、一つだけ確信を持っているのは、本の価値はすごく相対的だということ。

 誰かにとってはお金に代えられない大切な本も、他の人にとってはタダ以下の紙の束だ。音楽や映画と比べても、その差は著しいと思う。出版業界でお金が回っていないとしたら、本と人のマッチングがうまくいかず、ひとつひとつの本が潜在的な価値を発揮できていないからだろう。

 現に、せっかく出店するのだからポップでもつけてみようかと思って、印象的な箇所を抜き書きしてみたけれど。表紙だけで手に取ってもらって、先入観なしに読んでもらったほうがいいような気もするし。そもそも私、字が汚いし。読んでおもしろいと思ってくれる人に手渡すことができるかどうか、さっそくマッチングの難しさを体験しつつある。

「あおぞらほんの市」は鎌倉山惣commonさんで4月27日(土)開催予定。裏の竹林で筍を掘ったりもできるらしい。軍手も持っていこう。

産業と信仰心についての覚書き

『誰が音楽をタダにした? 巨大産業をぶっ潰した男たち』/スティーヴン・ウィット/関美和・訳/ハヤカワノンフィクション文庫/2018年刊

『誰が音楽をタダにした?』は1990年代から2010年代にかけて、音楽の流通形態がCDからストリーミング配信へと移り替わっていった舞台裏を描いたノンフィクション。日本語訳が出た頃に書店で手に取ったけれども、早川書房ならそのうち文庫にしてくれるだろうと思って、結局買わなかった覚えがある。当時の私は電子書籍関連の会社で契約社員をしていた。時給は東京都の最低賃金に近く、買いたい本は他にもあって、それきり忘れてしまった。

 最近になってようやく読んでみると、あの頃ケチケチしないで買えばよかったと思ったり、いや、読むのが今でよかったと思ったり。少し複雑な気持ちになってしまうのは、かつて自分が身を置いていた出版業界と、音楽業界を比べてしまうからだと思う。

 たとえば以下引用中の「mp3」を「EPUB」に、「CD」を「紙の本」に、「デジタルジュークボックス」を「電子書籍」に置き換えると、音楽業界と出版業界で同じようなことが起きていたと類推できる。ある地点までは。

「自分がなにをやってのけたか、わかってる?」最初のミーティングのあとにアダーはブランデンブルクに聞いた。「音楽産業を殺したんだよ!」
 ブランデンブルクはそう思っていなかった。mp3は音楽産業にぴったりだと思っていたのだ。ただその経済的なメリットを理解してもらえるかどうかの問題だった。でもアダーにはわかっていた。デジタルジュークボックスが普及しないのは、ライセンスをもらえないからだ。音楽産業はデジタルジュークボックスがCDの売上を食うことを懸念していて、アダーはそうではないことをこの2年間だれにも説得できずにいた。レコード会社の考え方を、アダーはブランデンブルクに説明した。CDの高い利益率、著作権への頑なな姿勢、インターネット全般と特に未来の録音技術への無関心、というよりそれをあえて知ろうとしないこと。(中略)音楽会社はCDと固く結ばれていた。結婚のように、病める時も健やかなる時も。(「第4章 mp3を世に出す」より)

 ある地点で、音楽業界はCDに見切りをつけて定額制もしくは広告制の配信事業に舵を切った。アメリカと日本では多少差があるにせよ、少なくとも日本の出版業界は、全国の書店数が年々減少していく中で未だに電子と紙の本をほぼ同価格でバラ売りしている。その違いは、何なんだろう?

 

 電子書籍関連の会社に勤めていた当時のことを思い出すと、一番憂鬱だったのは会議の議事録を作成することだった。出版社から出向中の役員は、出版社が損をしないように。書店から出向中の役員は、書店が損をしないように。そんな話ばかり。テーブルの隅でキーボードを打ちながらつくづく思った。ここには「著者」も「読者」もいないんだなと。

 その少し前までフリーライターをしていた私は、不毛だなあと思いながら、議事録は丁寧に作った。やらなきゃいけないことは他にもあるし、そもそも内輪向けなんだから、ほどほどでいいのに、その加減がわからない。正確で簡潔で読みやすい議事録を目指してしまう。こんなものに時間をかけるなんて、ライターとしても会社員としてもクソだ、と思いながら。

 その後、出版と関係のない会社でも同じような経験をした。どういうわけか私は、文章に関わることでいい加減なことをすると、自分で自分をダメにしてしまうような気がする。これはもう、ある種の信仰心のようなものなんだろう。

 出版社や書店から出向していた彼らは彼らで、別の何かを信仰していたのかもしれない。経済的な豊かさとか、組織内での立ち位置とか、社会的な名声とか。私が無自覚だったように彼らも無自覚で、私が私の信仰をどうすることもできなかったのと同じように、彼らの信仰を否定しても仕方がない。……今ではそんな風に納得している(おおむね)。

 

 それでこの本に登場する人たちも、それぞれがそれぞれの内側に信仰心(のようなもの)を抱えているように見える。たとえばCDの10分の1以下までデータを圧縮する技術(mp3)を開発した研究者は、やっぱりテクノロジーを信奉していたんだろうな、とか。あるいは史上最多の音源をネット上にリークしたCD工場の労働者とっては、海賊版ブームを影で牽引することは一種の自己実現だったんだろう、とか。

 私にとって興味深かったのは、CD全盛期に数々のレーベルを買収して音楽業界に君臨したプロデューサーだ。自分の報酬や権力を固持する一方で、一度引き取ったミュージシャンとは、相手が落ち目になっても長く付き合う。市場調査のつもりで孫と一緒にユーチューブを見たり、それをきっかけに配信事業に活路を見出したり。なんというか、自分のこだわりをちょっと脇に置くようなことをところどころでしている。エグゼクティブの余裕というものか、作曲家を志して挫折した過去の教訓というものか、わからないけれども。

 自分の信仰心(のようなもの)を相対化して、時には他の誰かの信仰心(のようなもの)に譲る。もし今後、日本の出版産業を方向転換させる人が出てくるとしたら、そういう人なんじゃないだろうか。その方向が良かれ悪しかれ

原題は”HOW MUSIC GOT FREE”、サブタイトルは”The End of an Industry, the Turn of the Century ,and the Patient Zero of Piracy”。ところで私は、今でもCDやラジオを愛用している。パソコンやスマホにこれ以上依存したくないから。

 

お知らせ(ブログタイトルの変更)

 ブログを始めてだいたい一年になります。だからというわけではないけど、タイトルを改めました。

(旧)捨てられない本

(改)ライターズブルース

 当初は、何を書くか毎回考えるのは大変そうだなと思ったことと、ちょうど引越しで大量に本を処分した後だったので、手元に残った本について書くことにしました。だいたい週一回、50冊分くらいやってみた結果、本棚の整理、それと連動した頭の整理になった気がします。

 引越しで手元に残した本(捨てられない本)はまだまだあって、それらについては今後も書いていくつもりですが、同時に、最近買った本についても書きたいと思うことが増えてきました。「引越しで捨てられなかった本」という制限を外して、自分が何を書こうとしているのか考え直してみて、タイトルを改めることにしました。より漠然としたタイトルになってしまったので、「ブログの一言説明」欄に「読むことと、書くこと」と入れてあります(それでもまあ、だいぶ漠然としていますが…)。

 

──以下は「このブログについて」と重複します──

 じつはブログを始めるよりも、ドメインを取得したのが大分前になります。そのときは、フリーライターという仕事を辞めて数年経って、そろそろ何か書こうかなあとぼんやり考えてはいたものの、何を書くかは決めていなくて、ただなんとなく「ライターを続けていたら書けなかったことを書くことになるんだろうなあ」と思いました。それで「writersblues.jp」というドメイン名にしました。

 ブログタイトルも最初から「ライターズブルース」にしておけばよかったようなものですが、「捨てられない本」について書くことによって、ライター時代に考えていたこととか、それを辞めようと思った理由のようなものについても振り返ることができたので、まあそれはそれでよしとしようかと。

 今後も基本的には何かの本を一冊、題材とするつもりです。どうやら私は、良い原稿を書こうとした結果、書く仕事を辞めることになったわけで、そういう人が読みながら考えて、考えながら書けば、それはたぶん「ブルース」と称するもの(上手下手は別として)になるんじゃないかなあと、相変わらずぼんやり思っているところです。

2024年3月

こんな具合にぼんやりと。

20年越しの「編集」考

『圏外編集者』/都築響一/朝日出版社/2015年刊
同/ちくま文庫/2022年刊

 文学フリマというイベントが初めて開催された年、私が在籍していた大学のゼミでも、作品集を出品しよう、ということになった。自分たちの書いた小説(のようなもの)を一冊にまとめるにあたって、タイトルをどうするか、表紙デザインや本文レイアウトを誰が担当するか、小説以外にどんな記事を入れるか等々、いわゆる編集という作業を学生同士であれこれ話し合いながら進めた。

 学期末になると、教授が招いた四、五人の編集者が講評をしてくれた。質疑応答の際に挙手をして「編集の仕事って、結局のところ何ですか?」と質問したのは、なんとなーくソレをやってみたけれども、ソレがなんであるか、わからなかったからだ。

「著者と伴走することだと思います」

「いろいろな作業をするので一口には言えない」

「締め切りを設定して、進行管理すること」

 そっかナルホド、と納得できる答えは得られなかった。相手はプロの編集者だし、こちらはただの学生だし。きっと私の質問の仕方がまずかったんだな、と思った。あれから二十年以上経つ。

 就職が決まらないまま卒業して、フリーライターという肩書きで十年少々世渡りをして、それを廃業して数回の転職をして。今になって思うのは、もしかすると彼らだって「編集とは何か」なんて、わかっていなかったんじゃないか。

この本は「売れる企画を作る」のにも「取材をうまくすすめるコツ」にも、まして「有名出版社に入る」のにも、ぜったい役立たない。がんばればがんばるほど業界から遠ざかってしまった僕のように(2015年のいま、持っている連載は2つしかなくて、ひとつは月刊、もうひとつは季刊誌という有り様だ)、むしろ自分が人生を賭けてもいいと思える本を作ることが、そのまま出版業界から弾き出されていくことにほかならない2015年の日本の現実を、「マスコミ志望の就活」とかに大切な人生の一時期を浪費している学生たちに知ってほしいだけだ。給料もらって上司の悪口を言いながら経費で飲んでる現役編集者たちに、出口を見せてあげたいだけだ。(「はじめに」より)

『圏外編集者』は刊行当時に店頭で手に取ったものの、結局買わなかった本だ。その頃の私は、出版業界というものを対象にライター根性を発揮してあれこれ調べまわった挙句、「不毛地帯」との結論に至りつつあった。そもそも都築響一さんは、私から見れば「ギョーカイど真ん中」の人であり(朝日新聞で書評を書いていたし、都内のちょっと変わったクラブやラウンジの内装やら何やらで名前を聞いたりもした)、そういう人が圏外に弾き出されていく現状を、もうこれ以上は知りたくない、お腹イッパイ、という心境だった。

 最近、散歩がてら訪れたブックカフェの本棚で、再びその本と目が合った。ここ数年は出版と関係のない仕事をしていたからか、ある種の懐かしさを感じて頁をめくってみると……。

──毎朝毎晩、服や靴選びに凝りまくるファッショニスタ(笑)だって、毎晩の夕飯に選び抜いたワインがないとダメ、みたいな食通だって少数派だ。多数派の僕らは、どうしてそういう少数派を目指さなくちゃならないのだろう。

──ふつうは泊まれない一流ホテルや旅館の本がいくらでもあって、ふつうに泊まれるラブホテルの本が一冊もない。テレビを見ても、雑誌を読んでも、紹介されているのは自分の小遣いでは一生泊まれないような宿ばかり。

──難しい現代詩は読んでもわからない。でも夜中に国道を走っていて、ヘッドライトに浮かんだ『夜露死苦』や『愛羅武勇』なんてスプレー書きを見てドキッとしたり。

 ……頁をめくる手が止まらない。買って帰ってその日の夜に読み切って、布団の中で考えた。編集ってたぶん、既存の何かに対して、その価値を上書きしてパッケージングすることだ。何にどんな価値を見出すか、それを「編集のセンス」と呼び、商品として流通させるためのやりくりを「編集のスキル」と呼ぶんだと思う。

 狭くてごちゃごちゃした東京の若者の部屋を撮りまくった写真集も。吉祥寺のラブホテルの屋上に設られた「自由の女神像」みたいなB級観光スポットのガイドブックも。ラッパーのリリックや死刑囚の俳句を集めた詩集も。都築響一さんって「ギョーカイど真ん中」というより「編集ど真ん中」の人だったんだなあ。

 ブックカフェ「惣common」では新品も古本も同じ値段で売っている、「読書を通した経験や感動は変わらない」から。本棚は独自のテーマで分類されていて、『圏外編集者』は「はたらくを考える」という棚に挿さっていた。ここにも「編集」がある。

テラス席は北向きで、建物の影が本を読むのにちょうど良い。本から目を上げると竹林が、ソファに首を預けると青空が。読み終わった本は七掛で買い取ってくれるそうなので、また行こう。

男の◯◯、女の◯◯

『女の絶望』/伊藤比呂美/光文社文庫/2011年刊

 兄や姉と一緒に『ルパン三世』の再放送を見ていた頃、オープニングソングで「お~とこには~じぶんの~セェカァイがぁある!」というBメロに差し掛かると、子ども心に「女にはないのかなあ」と思ったものだった。二十代になると、カラオケで『男の勲章』を熱唱する先輩に「女の勲章って何だと思います?」と絡んだりもした。

 男の美学を歌った歌はあるけれども、女の美学を歌った歌はない(私が知らないだけかもしれないが)。「男の隠れ家」という雑誌はあるけど、「女の隠れ家」という雑誌はない。塩野七生さんのエッセイにも、「男のロマンという言葉があるけれども、同じことを女がやると、どういうわけかロマンにならない」と書いてあった。

「女の◯◯」の◯◯に当てはめて、しっくりくる言葉ってなんだろうかと、漠然とした疑問を抱えて生きてきたからだろうか。本屋で『女の絶望』という文庫本を目にしたときは、「まさか」という気持ちと「もしかして」という気持ちが入り混じって、中身を確認せずにはいられなかった。

 一頁目には「出囃子/カルメン前奏曲」の文字。「ええ、いっぱいのお運びでありがとうございます」という寄席風の口上。語り手は「伊藤しろみ」、地元の新聞で身の上相談の回答を書いている。毎週さまざまな相談が寄せられるが、海千山千を自負する「しろみさん」には、やはり女性からの相談が多い。夫婦の悩み、育児の悩み、セックスの悩み、不倫、更年期、親の介護……。

 結婚して四十年になる妻だった。夫は家庭的で、暴力もなく、浮気もせず、稼ぎもまあまあ、でも妻には、目に見えない不満がふつふつとたまっていた。
「休日など二人でどこかへ出かけて、疲れて帰ってきたときに、自分が立ち上がってお茶を入れる奴隷根性に絶望しています。それをごくあたりまえの事のようにのほほんとしている夫のことも憎らしくてたまりません」
 ね、ここですよ。絶望、と。
 この言葉だ、見つけたと思った。
 女の、女たちの、悩みを、不満を、不安を、しとつに集めて表現する言葉。
 ずっといいたかったンだが、心ン中から出てこなくて、ずっともやもやしていた言葉だ。(「皐月─おんなのぜつぼう」より)

「人」にわざわざ「しと」と江戸弁のルビをふり、オチには駄洒落を添える。詩人の肩書きを持つ著者が、言葉のテクニックを駆使して「女の絶望」を、軽く、軽く、ころがしていく。あまりに軽すぎて、数年前に手に取ったときは内容が頭に残らなかった。文章が上手すぎて残らない、そんなバカなことがあるだろうかと、不思議に思ったものだった。

 著者の伊藤比呂美さんは実際に、西日本新聞で「比呂美の万事OK」という人生相談を担当している。長寿連載で同名の単行本もあるが、あとがきによると本書はあくまでもフィクション。「伊藤しろみ」は「伊藤比呂美」ではなく、悩む人々もその他の登場人物も、架空の存在だという。

 しかしながら、心配のあまり「しろみさん」が直接電話をかけた女性が数年後、講演会に手作りのお弁当を差し入れしてくれたとか、回答欄で自分の苦境をグチると、手紙に二千円のお見舞金を同封してきた読者がいたとか。時には「ハッキリ言えば傷つけてしまうかもしれないなあ」とためらったり、「きれいごといってんじゃねえよ」と自分で自分に突っ込んだり。どうも、まったくのフィクションとは思えない。

 ここに登場する女たちに、「自分が女でなければ、と思ったことがありますか」と質問したら、たぶん全員「イエス」と答えると思う。生理で下着や服やシーツを汚してしまったとき。痴漢に遭ったとき。差別的な職場や家庭に身を置いているとき。人間関係がこじれたとき。男になりたいとか、男に生まれたかったと思うのではなく、「女でなければ」と思ってしまう。自分で自分の性を呪ってしまう。この世にはたしかに「女の絶望」と言って然るべきものがあるようなのだ。

「一抹の実を核につくった架空の存在、あるいは夢のまた夢。夢から醒めれば、ここに、しとりの、五十過ぎの、疲れたおばさんが、佇んでおります。あたくしです」──新聞の連載では採用できなかった手紙が、たくさんあったに違いない。あの手紙は忘れられない、あの手紙にも答えたかった。いや、回答するのではなく、一緒に悩んだり文句を言ったり、笑い合ったりしたい。……数年ぶりに再読してみると、技巧的な文章の根っこには、そういう汲めども尽きぬ思いが湧いて流れているように感じる。

 こんなに丁寧に転がしてもらえるなら、絶望も、悪くないかもなあ。勲章とか、ロマンとか、美学も隠れ家も、私は別に要らないや。

西日本新聞で連載中の「万事OK」、直近の相談内容は「夫の信仰が嫌い。言動が不快で憂鬱」……回答が気になる。デジタル版の無料トライアル、申し込んでみようかな。