ライターズブルース

読むことと、書くこと

お客さんには、なれるけど

『本屋になりたい この島の本を売る』/宇田智子/ちくまプリマー新書/2015年刊
 『増補 本屋になりたい この島の本を売る』/宇田智子/ちくま文庫/2022年刊

 フリーライターをしていた頃、「編集者はお客さまなんだから」とたしなめられたことがある。相手はファンドマネージャーを辞めて作家を名乗るようになった人で、編集者に対する私の態度がよほど傍若無人に見えたんだと思う。彼にとってはたしかに編集者が「お客さま」だったんだろう。でも私は、編集者を客だと思っている物書きの書く文章なんて読みたくない、と思っていた。それで「私の客は読者です」と啖呵を切ったはいいけれど、じゃあ読者って誰なんだろう、どんな顔をしてどこにいるんだろう……考えてみるとよくわからない。雲を掴むとか霞を食うという慣用表現があるけれども、雲とか霞は目に見えるからまだマシかもしれないなあ、なんて思ったものだった。

 飲食店はいいな、と思ったりもした。食べるほうは作る人の顔が見えて、作るほうは食べる人の顔が見える。お金を直接やりとりして「ごちそうさまでした」「ありがとうございます」が言える。あるとき、厨房で働く人にそんな話をすると、「俺は物書きっていいなって思う。とんかつ揚げたって、なんにも残らないもん。物書きは残るでしょ」と返ってきた。隣の芝生は青く見える、ということかもしれない。

 ライターを辞めて電子書籍関連の会社に勤めていた頃は、出版社の人たちの会話を聞きながら「この人たちにとって客って誰なんだろう?」と考えたりもした。図書館向けの電子書籍事業だったから、直接の顧客は図書館だったはずだ。でも、彼らの話に出てくるのは図書館の利益よりは出版社の利益。結局、会社員や会社役員にとっての客って、給与報酬を得るところの会社なのかなあと思ったり。

 その後いくつか会社を転々としたけれど、私自身は雇用主であるところの会社を自分の「客」だとは、どうしても思えなかった。だって、会社員が会社を客扱いしたら、その会社の商品やサービスに金を払う人の立場はどうなるの、なんてつい考えてしまって。

 元ファンドマネージャー氏に啖呵を切ってから十数年経つのに、私はいまだに、私の客が誰なのかわからない。わからないけど、たとえばこんな風だといいなあと思うのは──。

「本屋の棚はお客さんのためにある」とさきほど書いた。これをさらに進めて、「お客さんが棚をつくる」とも言える。(中略)
 たとえば、お客さんが本を買ったとき。新刊書店なら、売れた本は一週間から一ヶ月ほどでまた入荷して棚に補充される。古本屋は、同じ本の在庫が何冊もあるとは限らない。一冊しかなければ、売れた本は棚から消える。また入ってくるかどうかはわからない。お客さんが本を買うことで、古本屋の品揃えはどんどん変わっていく。
 お客さんは古本屋に本を売ってくれることもある。こうなると、ますます「お客さんが棚をつくる」感じが強くなる。料理が好きな人からの買取で店の料理本コーナーが急に充実したり、雑誌のバックナンバーが一気に揃ったり。思いがけない買取によって、店主にも予想のつかない棚がつくられていく。(増補版「二章 本を売る」より)

『本屋になりたい』は、書店最大手に就職して八年間勤務した後、退職して、沖縄の市場で古本屋を経営している店主によるエッセイ。開店までのこと、買取のこと、値づけのこと、本の手入れ、棚作り等々、小さな古本屋の「いろは」が綴られている。

 等身大とか身の丈なんて言葉を使うのもためらわれるほど、あっさりした文章で、でも、ところどころでドキッとするようなことが書いてある。「世の中にはこんなにたくさん本があるのだから、これ以上は必要ないような気がした」とか、図書館で本を借りるということは「期限内に読む気があるということ」だから著者としては嬉しいとか、紙(古本)と紙(お金)の交換は「たぬきの葉っぱの化かしあいのようなもの」とか。

 ここに出てくる「お客さん」という言葉は、とても自然だ。きっと「お客さん」と相対する「自分」がしっかりしているからなんだろうなと、読みながら思う。私がいまだに私の客がわからないということは、裏を返せば、自分自身の弁えとか心得とか、そういうものがなってないということなんだろう。

 今のところ私自身は古本屋を開業しようと企図しているわけではないけれど、先月ひと箱古本市へ出店しようと思ったときに、参考にしたというか、励まされたのもこの本だった。良い本だから、もし売れたら自分用にまた買うつもりで出品リストに加えたのだったが。 

 準備をしているうちに、新書版の後に文庫版が出ていることがわかった。大幅加筆されているらしい、となるとつい買ってしまう。そして古本市は雨天中止となり、もとの新書版を売る機会は逃し、かくして手元にまた本が増えていく……。私はどうも、客になったり読者になったりするのは、けっこう得意みたいなんだけどなあ。

高野文子さんの挿絵より。文庫では市場の建替工事や感染症の流行をめぐるあれこれが加筆されている。沖縄の市場の古本屋の店主の日常……NHKで朝ドラにしたらおもしろそう、坂元裕二さんの脚本で。

本屋ごっこ未遂譚

『女たちよ!男たちよ!子供たちよ!』/伊丹十三/文藝春秋/昭和54年刊

 学生時代にアルバイトをしていた本屋では従業員向けの割引制度があって、会計の際にレジでネームプレートを見せると、一割引きにしてくれた。当時の私はこれがとっても嬉しくて、それにテナントビルの地下一階から五階を占める大型書店には欲しい本がいくらでもあって、退勤後に本を買って帰るとその日のバイト代がほとんどチャラになってしまったり。これじゃなんのためのアルバイトだかわからないなあと思ったものだった。

 あれから二十年以上経った今も、似たようなことをしている。少しでも本を減らそうと思って一箱古本市へ出店する予定だったのに、あいにく雨で中止に。それだけならともかく、準備過程でなんやかやと調べ物をしているうちに、つい読みたい本を何冊か買って、結局本が増えてしまったのだ。まったく、私は何のための何をしていたのだったか。

 

 たとえば、塩野七生の『男たちへ』の隣に伊丹十三の『女たちよ!』を並べようと思った。それぞれいつ書かれたものだろう、何の雑誌に連載されてたんだろうと調べてみると、『女たちよ!』には続編があることが判明した。その名も『女たちよ!男たちよ!子供たちよ!』。

 伊丹十三といえば俳優であり映画監督であり、女優・宮本信子の夫。『女たちよ!』(と『再び女たちよ!』)は、マルチタレントならではの文明批評とでも言おうか、スパゲティの茹で方やマッチの擦り方を語りつつ「男は野暮でなければいけない」とか「自分と深く付き合うことだけが他人を愛する道だ」といった名言が随所に光っていた。同じ著者が書いた育児エッセイがあると知って、これは読んでおかなければなるまいと、ついネット古書店で取り寄せてしまったのだ。

 これが滅法おもしろかった。付箋を貼った箇所を抜き書きしてみると──

・まあ、男らしさに憑かれた人っていうのは、みんな可哀想、というか、下等なんだけどさァ(93頁)

・およそ表現の仕事というものは、何をどう表現するかもさることながら、その表現自体が、一つにはメディア論になっており、つまり、テレビでいうなら、番組自体が「テレビとは何か」という問いかけを含んでおり、なおかつ、表現自体が組織論にもなっておらねば何の価値もあるまい。(101頁)

・女だから主婦ってああなるんじゃないのよ。ほんとに主婦をやってごらん。あなただって主婦になっちゃうのよ。すべての日本の父親は、一と皮剥けば、実は中身は母親なのよ。(122頁)

 本を減らすつもりだったのに増えてしまって、しかし増えた本がおもしろかったんだから、まぁいっか。いいのかなあ……?

 そんな話をしたら、シェア型書店への出店を勧めてくれる人がいた。シェア型書店とは、運営側は本棚を区画割りして、月に数千円~数万円で貸し出す。出店者は借りた区画に自分が売りたい本を置き、本の売上は一割程度のマージンを差し引いて返ってくる仕組み。「あなたも本屋になってみませんか?」というわけだ。私もネット上で広告を見かけたことがある。

 自分が読んでおもしろかった本を選んで、小さな売り場を組み立てることは、恥ずかしい反面おもしろい。これは一種の表現行為なんだなと、古書市の準備をしながら実感した今では、シェア型書店に出店する人の気持ちが、少しはわかる。でも経済活動として俯瞰すると、本屋というよりテナントビジネス(不動産業)なんじゃないかなあ。オーナーは棚を貸し出すことで確実に売上が上がるだろうけれども、店子にとって、本の売上から賃料を支払って残る収益は……。

 そのシェア型書店、最近また神保町にオープンしたらしい。本をめぐる経済活動が多様化することは、きっといいことなんだろう。本屋が一軒もない地域で地元の人たちが本を持ち寄って、そういう書店を作って地域交流の場になった、という記事を見かけたこともある。でも私は、たとえば生徒を「アーティスト」と持ち上げるような講師に、月謝を払って絵や音楽を教わりたいとは思わないだよなあ。

 シェア型書店なるものに行ったことがないので、実際に行ってみたら気が変わるかもしれない。そのうち機会があったら足を運んでみようとは思う。今のところは、本屋と「本屋ごっこ」は区別しなさいと、私の中の伊丹十三が言っている。

 私の中の伊丹十三矢吹申彦氏の挿絵より)。中止になった一箱古本市は、次回は十月に予定しているらしい。出店できるかどうかはともかく、せいぜいおもしろい本を読んでおきたいものだ。

人を殺してしまった後には

『殺人者たちの午後』/トニー・パーカー/沢木耕太郎 訳/飛鳥新社/2009年刊
『死刑』/森達也/角川文庫/2013年刊

 一度読んだだけでは消化不良で、そのうちまた読もうと思ったものの、棚に挿したまま長いこと開かなかった本がたくさんある。たとえば『殺人者たちの午後』。原題は”Life after Life”、終身刑のことを英語では”life ”と表すらしい。死刑制度が廃止されて久しいイギリスでは殺人に対しては終身の禁固刑しか存在しない、つまりこの本は、人を殺して終身刑を下された受刑者十名へのインタビュー集。一読して処分できなかったのも、その後十年以上頁を開かなかったのも、理由は同じで、読めば何かが理解できるとか、楽しい気分になる本ではないからだ。

 一歳半の自分の息子を、殴り、熱湯をかけ、壁に叩きつけたという男がいる。十年服役して仮釈放されたが「世界中の人がひとり残らず許すと言ったって、俺は自分を許せない」。離婚した元妻がくれた封筒をずっと持っていて、開けたことはないけれども、中には自分と息子を写した写真が入っている。火事になったら他の何をおいてもあれだけは絶対に持って逃げる。……こういう話を読むと、死刑と比べて終身刑が軽いとは、必ずしも言えないと思う。

 一方で、同居していた女友達を口論の末に締め殺したという女がいる。十一年服役して仮釈放されたが「とても腹が立っている」。住み込みの家政婦の仕事を見つけたのに、保護観察官の指導に従って前科を打ち明けたところ、雇ってもらえなかったからだ。その四年後、彼女はクリスチャンとなって教会で結婚式を挙げた。夫も教会の仲間も、自分の前科を知ったうえで受け入れてくれている、今後は刑務所から出てきた女の子たちのための施設を運営したい、神様に自分の人生を委ねれば「もっともっと幸せになれるんじゃないかしら」。……タフだなあと驚く一方で、ふと殺された人を思い、残酷だなあとも思う。

 人を殺した人へのインタビュー集ではあるが、その後の”Life”はさまざまだ。再読してみると、十人十様ばらばらであることも、消化不良の原因だったかと思う。

 

 森達也さんの『死刑』も、一読した後ずっと棚に挿しっぱなしになっていた。著者はドキュメンタリー作家としてオウム真理教を取材する過程で死刑囚と接触するようになり、日本の死刑制度に興味と疑問を抱く。本書は弁護士や刑務官、政治家、被害者の遺族、受刑者など、関係各所へ取材をした「死刑をめぐるロードムービー」。

 私にとって特に興味深かったのは、十八歳の少年が二十代女性と生後十一ヶ月の娘を殺害した事件だ。2000年に地裁で無期懲役の判決が出た後、加害者少年と被害者の夫、双方の発言が報道された。当時学生だった私は、被害者とその家族を侮辱するような少年の言葉に憤り、「この手で殺したい」という被害者の夫の言葉に深く頷いた記憶がある。

 著者によると地下鉄サリン事件以降、厳罰化を求める世論に押される形で「死刑判決が増えた」。上記の少年も、控訴と上告を経て2012年に死刑が確定している。要するに私は、彼に死刑を求める「世論」の側にいたわけだ。でも、最高裁の判決が報道された頃には「そうか」としか思わなかった。まあそうだろうなと。

 その後の少年(元少年)の様子は、本書で初めて知った。拘置所の中で聖書や小説を読み、教誨師との交流を経て「自分以外の人が自分を大切に思ってくれている。そんな体験を通して、自分も何かしないといけないと気付かされた」。三十歳を過ぎて死刑が確定すると「森さんとは、もっとたくさん会っておきたかったです」、面会に来なかったことを著者が謝ると「すみません、気にしないでください」と返す。……つい、殺さなくてもいいんじゃないか、と思ってしまう。かつての自分の憤りを忘れて。

 内閣府の2020年の世論調査によると「死刑もやむをえない」という人は約八割、「死刑は廃止するべき」という人は約一割だそうだ。残りの一割は「わからない・一概に言えない」。私はどうなんだろう?

 理屈で考えれば死刑はダメだと思う。でも、もしまた残虐な事件が起きて、加害者の悪態や遺族の慟哭を聞けば「死刑がふさわしい」とか「死刑になっても仕方がない」と思うのかもしれない。それで、塀の中での加害者の様子を知れば、また「殺さなくても……」と思ったり。我ながらいい加減だ。今のところ私は、被害者でも加害者でも遺族でもなく、裁判官でも弁護士でも刑務官でもないけれども、もし裁判員として招集されでもしたら、きっとものすごく困る。

 

 死刑制度が廃止されたイギリスと存置されている日本と、比べてどちらが良いとも悪いとも思わない。人を殺した人にもいろんな人がいて、死刑だろうと終身刑だろうとすべてのケースにフィットするはずがない。制度から取りこぼされる「いろいろ」は、制度の外で拾っていくしかないのかなあと、今はそんな風に考えている。

来週出店する一箱古本市に向けてリストを作成中。上記の二冊は、並べて置いてみるつもり。

ひと箱古本市の準備(その2)

フェア「男と女と、フェミニズム」を検討中。

 先週に引き続き出店の準備を進めながら、一つ気がかりなことがあった。案内文に次のように書いてある、「栞とペンを用意するので、出品する本のコメントを書いてください」。10時くらいに集合して、11時オープンまでの間に書き込むらしい。

 こういうとき、字のキレイな人がうらやましい。私は、栞のような小さな紙に、膝の上で、読める字を書ける自信がまったくない。迷った末、会場となるブックカフェを訪問して相談してみると、あらかじめ栞を分けてくださるという。ありがたい。

「何枚くらい、使いますか?」
「今、箱に詰めてあるのが、50冊くらいなんですけど……」
 もう少し入りそうだから60枚くらい、というつもりだったが、
「えっ、そんなに」
 どうやら多過ぎるらしい。みなさん、どれくらいお持ちになるのか。2、30冊くらい?
「そうですね、あの、お持ちいただく分には構わないんですが」
 店員さんは申し訳なさそうな顔で続けた。
「なんというか、そんなに売れるものではないので……」
 そうだった。本は、基本的に売れない。

 学生時代にアルバイトをした大型書店には、いろんな本がたくさん置いてあった。でも一日に一冊も出ない本のほうが圧倒的に多くて、本って売れないんだなあ、としみじみ実感したものだ。それなのに、初めての出店につい楽しくなって、一箱に入るだけ詰め込むつもりでいた。往復の送料のことも考えないと。

 本は売れない、売れないゾ。さて、どうしたら売れるかなあと、箱の中から「イマイチ」と思う本を除いたり、本棚に残すつもりだった本を「売れたらまた買えばいっか」と箱に入れてみたり。

 出品予定のカテゴリーその2は、名付けて「男と女と、フェミニズム」。ブックカフェにもその方面のコーナーがあったのを参考に、以下のように組み直してみた。

 

『これからの男の子たちへ』/太田啓子/大月書店/2020年刊
ひとつめは、「男子ってバカだよね」問題。
ふたつめは、「カンチョー放置」問題。
みっつめは、「意地悪は好意の裏返し」問題。

 

『男たちへ』/塩野七生/文春文庫/1993年刊
セックスは、九十歳になっても可能だと思うこと。

 

『女たちよ!』/伊丹十三/新潮文庫/平成17年刊
頭はいいけどばかなところがあり
ばかではあるが愚かではなく

 

『再び女たちよ!』/伊丹十三/新潮文庫/平成17年刊
つまり自分自身と深くつきあうことだけが、他人を愛する道へつながるんじゃないか。

 

『女子の生きざま』/リリー・フランキー/新潮OH!文庫/2000年刊
「靴の汚い女はアソコが臭い」という偏見の中にも真理のキラリと光る標語があります。

 

『女の絶望』/伊藤比呂美/光文社文庫/2011年刊
えろきもの。西田敏行。年経りて何事にも動じず、ぶよぶよに肥え果てたるも、いとえろし。

 

『女の一生』/伊藤比呂美/岩波新書/2014年刊
漢と書いて「おんな」と読む。

 

『別冊NHK100分de名著 フェミニズム』/加藤陽子・鴻巣友季子・上間陽子・上野千鶴子/NHK出版/2023年刊
男は男に認められることによって男になるが、女は男に認められることによって女になる。

 

 栞には、本文から「この一文に引っかかる人なら、きっとこの本をおもしろく読んでくれるだろう」という箇所を抜き書きして、その頁数を書いておこうと思う。なるべく読める字で。それでその頁に挟んでおけば、立ち読みくらいはしてもらえるだろうか。

ブックカフェの近くの公園でお花見気分。当日は雨が降ったら中止だし、あんまり暑いのも嫌だし。ほどよく曇りだといいなあ。

ひと箱古本市の準備(その1)

「出版の明日はどっち?」フェアを検討中

 引越しから二年近く経って本棚に本が入りきらなくなってきたので、一箱古本市というものに参加してみることにした。一箱古本市は東京の谷根千谷中・根津・千駄木)から発祥してここ二十年くらいでほつほつと全国に広がった本のフリーマーケットだ。私も通りがかって覗いてみたことはあるけれども、出店するのは初めて。とりあえず折りたたみ式の椅子を買ってみたり、しばらく使ってないレジャーシートを広げてみたり。

 単に除却したい本を不規則に並べたのではつまらないから、いくつかカテゴリー分けをしてみようかと思う。カテゴリーその1は、名付けて「出版の明日はどっち?」。たとえば……。

 

『まちの本屋 知を編み、血を継ぎ、地を耕す』/田口幹人/ポプラ社/2015年刊

 独自のヒットを生みだしてきた盛岡駅構内のさわや書房フェザン店、店長によるエッセイ。「僕たちにとっては全国で売れている本であるかどうかは関係ないのです。他所で売れていても、僕たちの店で売れるとは限らないからです」

 

『私は本屋が好きでした あふれるヘイト本、つくって売るまでの舞台裏』/永江朗/太郎次郎社エディタス/2019年刊

 表現の自由を標榜する業界でモラルハザードが起きてしまうのはなぜなのか。差別主義的な本が流通する「川上から川下まで」を取材。「『出版界はアイヒマンだらけ』というのが率直な感想である」

 

『「本が売れない」というけれど』/永江朗/ポプラ新書/2014年刊

統計データや関係各所へのインタビューから「出版不況」の実態を読み解くルポルタージュ「いちど破滅してしまって、焼け野原になって、何もないところからまた始めればいいんだよ」

 

『”ひとり出版社”という働きかた』/西山雅子/河出書房新社/2015年刊

 出版における「小商い」は可能か? ひとりで出版社を立ち上げた10名へのインタビュー集。「本を絶版にしないで100年続けられること。その10分の1がようやく経とうというところ」(ミシマ社・三島邦弘さん)

 

『電子書籍で1000万円儲かる方法』/鈴木みそ・小沢高広(うめ)/学研パブリッシング/2014年刊

 Kindleセルフ出版のパイオニア、二人の漫画家による対談。既得権益を守ろうという動きが、結果的に自分たちの首を絞めているということに、いいかげん気が付いたほうがいいと思います」(小沢)

 

『本屋になりたい この島の本を売る」/宇田智子/ちくまプリマー新書/2015年刊

 東京の大手書店を退職し、沖縄で古本屋を開業した主によるエッセイ。「紙と紙の交換は、たぬきの葉っぱの化かしあいのようなものかもしれません。紙そのものに価値があるのではなく、価値があると信じる人がいるから価値が生まれるという点では、古本もお金も同じです」

 

『書籍出版経営の夢と冒険 普及版出版経営入門──その合理性と非合理性』/ハーバート・S・ベイリーJr./箕輪成男・編訳/出版メディアパル/2018年刊

 プリンストン大学出版局を率いた経営者による出版社経営の解説書。「ところで新しい技術のおかげで、次のことがはっきりしてきた。出版社が売っているのは本そのものではなく、本にふくまれるイメージであるということである」

 

『高校図書館デイズ 生徒と司書の本をめぐる語らい』/成田康子/ちくまプリマー新書/2017年刊

 高校の図書室を訪れる生徒たちと司書による、本をめぐる交歓。「これまで私に話してくれた生徒たちは、その本のなかに自分が自分であるというかけがえのない存在理由を見出しているようにも、私には思えます。だから話したくなるのだと思います」

 

 私自身は学生時代に渋谷の大型書店でアルバイトをして、たまたま本を出すことになってフリーライターを十年少々やった後、電子書籍関連の会社で一年少々経理をして、ここ数年はまったくの外野から出版業界を眺めている。のらりくらりした立場で、一つだけ確信を持っているのは、本の価値はすごく相対的だということ。

 誰かにとってはお金に代えられない大切な本も、他の人にとってはタダ以下の紙の束だ。音楽や映画と比べても、その差は著しいと思う。出版業界でお金が回っていないとしたら、本と人のマッチングがうまくいかず、ひとつひとつの本が潜在的な価値を発揮できていないからだろう。

 現に、せっかく出店するのだからポップでもつけてみようかと思って、印象的な箇所を抜き書きしてみたけれど。表紙だけで手に取ってもらって、先入観なしに読んでもらったほうがいいような気もするし。そもそも私、字が汚いし。読んでおもしろいと思ってくれる人に手渡すことができるかどうか、さっそくマッチングの難しさを体験しつつある。

「あおぞらほんの市」は鎌倉山惣commonさんで4月27日(土)開催予定。裏の竹林で筍を掘ったりもできるらしい。軍手も持っていこう。

産業と信仰心についての覚書き

『誰が音楽をタダにした? 巨大産業をぶっ潰した男たち』/スティーヴン・ウィット/関美和・訳/ハヤカワノンフィクション文庫/2018年刊

『誰が音楽をタダにした?』は1990年代から2010年代にかけて、音楽の流通形態がCDからストリーミング配信へと移り替わっていった舞台裏を描いたノンフィクション。日本語訳が出た頃に書店で手に取ったけれども、早川書房ならそのうち文庫にしてくれるだろうと思って、結局買わなかった覚えがある。当時の私は電子書籍関連の会社で契約社員をしていた。時給は東京都の最低賃金に近く、買いたい本は他にもあって、それきり忘れてしまった。

 最近になってようやく読んでみると、あの頃ケチケチしないで買えばよかったと思ったり、いや、読むのが今でよかったと思ったり。少し複雑な気持ちになってしまうのは、かつて自分が身を置いていた出版業界と、音楽業界を比べてしまうからだと思う。

 たとえば以下引用中の「mp3」を「EPUB」に、「CD」を「紙の本」に、「デジタルジュークボックス」を「電子書籍」に置き換えると、音楽業界と出版業界で同じようなことが起きていたと類推できる。ある地点までは。

「自分がなにをやってのけたか、わかってる?」最初のミーティングのあとにアダーはブランデンブルクに聞いた。「音楽産業を殺したんだよ!」
 ブランデンブルクはそう思っていなかった。mp3は音楽産業にぴったりだと思っていたのだ。ただその経済的なメリットを理解してもらえるかどうかの問題だった。でもアダーにはわかっていた。デジタルジュークボックスが普及しないのは、ライセンスをもらえないからだ。音楽産業はデジタルジュークボックスがCDの売上を食うことを懸念していて、アダーはそうではないことをこの2年間だれにも説得できずにいた。レコード会社の考え方を、アダーはブランデンブルクに説明した。CDの高い利益率、著作権への頑なな姿勢、インターネット全般と特に未来の録音技術への無関心、というよりそれをあえて知ろうとしないこと。(中略)音楽会社はCDと固く結ばれていた。結婚のように、病める時も健やかなる時も。(「第4章 mp3を世に出す」より)

 ある地点で、音楽業界はCDに見切りをつけて定額制もしくは広告制の配信事業に舵を切った。アメリカと日本では多少差があるにせよ、少なくとも日本の出版業界は、全国の書店数が年々減少していく中で未だに電子と紙の本をほぼ同価格でバラ売りしている。その違いは、何なんだろう?

 

 電子書籍関連の会社に勤めていた当時のことを思い出すと、一番憂鬱だったのは会議の議事録を作成することだった。出版社から出向中の役員は、出版社が損をしないように。書店から出向中の役員は、書店が損をしないように。そんな話ばかり。テーブルの隅でキーボードを打ちながらつくづく思った。ここには「著者」も「読者」もいないんだなと。

 その少し前までフリーライターをしていた私は、不毛だなあと思いながら、議事録は丁寧に作った。やらなきゃいけないことは他にもあるし、そもそも内輪向けなんだから、ほどほどでいいのに、その加減がわからない。正確で簡潔で読みやすい議事録を目指してしまう。こんなものに時間をかけるなんて、ライターとしても会社員としてもクソだ、と思いながら。

 その後、出版と関係のない会社でも同じような経験をした。どういうわけか私は、文章に関わることでいい加減なことをすると、自分で自分をダメにしてしまうような気がする。これはもう、ある種の信仰心のようなものなんだろう。

 出版社や書店から出向していた彼らは彼らで、別の何かを信仰していたのかもしれない。経済的な豊かさとか、組織内での立ち位置とか、社会的な名声とか。私が無自覚だったように彼らも無自覚で、私が私の信仰をどうすることもできなかったのと同じように、彼らの信仰を否定しても仕方がない。……今ではそんな風に納得している(おおむね)。

 

 それでこの本に登場する人たちも、それぞれがそれぞれの内側に信仰心(のようなもの)を抱えているように見える。たとえばCDの10分の1以下までデータを圧縮する技術(mp3)を開発した研究者は、やっぱりテクノロジーを信奉していたんだろうな、とか。あるいは史上最多の音源をネット上にリークしたCD工場の労働者とっては、海賊版ブームを影で牽引することは一種の自己実現だったんだろう、とか。

 私にとって興味深かったのは、CD全盛期に数々のレーベルを買収して音楽業界に君臨したプロデューサーだ。自分の報酬や権力を固持する一方で、一度引き取ったミュージシャンとは、相手が落ち目になっても長く付き合う。市場調査のつもりで孫と一緒にユーチューブを見たり、それをきっかけに配信事業に活路を見出したり。なんというか、自分のこだわりをちょっと脇に置くようなことをところどころでしている。エグゼクティブの余裕というものか、作曲家を志して挫折した過去の教訓というものか、わからないけれども。

 自分の信仰心(のようなもの)を相対化して、時には他の誰かの信仰心(のようなもの)に譲る。もし今後、日本の出版産業を方向転換させる人が出てくるとしたら、そういう人なんじゃないだろうか。その方向が良かれ悪しかれ

原題は”HOW MUSIC GOT FREE”、サブタイトルは”The End of an Industry, the Turn of the Century ,and the Patient Zero of Piracy”。ところで私は、今でもCDやラジオを愛用している。パソコンやスマホにこれ以上依存したくないから。

 

お知らせ(ブログタイトルの変更)

 ブログを始めてだいたい一年になります。だからというわけではないけど、タイトルを改めました。

(旧)捨てられない本

(改)ライターズブルース

 当初は、何を書くか毎回考えるのは大変そうだなと思ったことと、ちょうど引越しで大量に本を処分した後だったので、手元に残った本について書くことにしました。だいたい週一回、50冊分くらいやってみた結果、本棚の整理、それと連動した頭の整理になった気がします。

 引越しで手元に残した本(捨てられない本)はまだまだあって、それらについては今後も書いていくつもりですが、同時に、最近買った本についても書きたいと思うことが増えてきました。「引越しで捨てられなかった本」という制限を外して、自分が何を書こうとしているのか考え直してみて、タイトルを改めることにしました。より漠然としたタイトルになってしまったので、「ブログの一言説明」欄に「読むことと、書くこと」と入れてあります(それでもまあ、だいぶ漠然としていますが…)。

 

──以下は「このブログについて」と重複します──

 じつはブログを始めるよりも、ドメインを取得したのが大分前になります。そのときは、フリーライターという仕事を辞めて数年経って、そろそろ何か書こうかなあとぼんやり考えてはいたものの、何を書くかは決めていなくて、ただなんとなく「ライターを続けていたら書けなかったことを書くことになるんだろうなあ」と思いました。それで「writersblues.jp」というドメイン名にしました。

 ブログタイトルも最初から「ライターズブルース」にしておけばよかったようなものですが、「捨てられない本」について書くことによって、ライター時代に考えていたこととか、それを辞めようと思った理由のようなものについても振り返ることができたので、まあそれはそれでよしとしようかと。

 今後も基本的には何かの本を一冊、題材とするつもりです。どうやら私は、良い原稿を書こうとした結果、書く仕事を辞めることになったわけで、そういう人が読みながら考えて、考えながら書けば、それはたぶん「ブルース」と称するもの(上手下手は別として)になるんじゃないかなあと、相変わらずぼんやり思っているところです。

2024年3月

こんな具合にぼんやりと。