ライターズブルース

読むことと、書くこと

貰うことと、受けとること

『万能! にんにくみそ床レシピ』/松田美智子/河出書房新社/2014年刊

 何度か利用した通販サイトで「水抜き不要のぬか床容器」なるものを発見したのは一年くらい前だった。冷蔵庫内の幅と奥行きを測ってサイト記載の寸法を確認、「買ったけど使わない」なんてことにならないだろうかとじっくり検討して、購入したのが年末。使い始めて五ヶ月目、この頃やっと馴染んできたというか、この分なら続けられそうだという気がしてきた。

 といっても私が漬けているのはぬかみそではなく、にんにくみそだ。ぬか漬けは、発酵済みのぬか床を買って試したことがあるけれど、寒い時期はあまり食べたいと思わなくなる。にんにくみそなら肉も魚も野菜も漬けられるし、漬けた食材を焼いたり煮たり揚げたり、冬場の温かい料理にも使える。

 用意するのは味噌1キロとニンニク1玉と酒1/3カップ。味噌と酒を合わせたものを容器に敷いて、皮と芽を除いたニンニクを埋め込んで、二週間寝かせたら準備完了。あとは肉でも魚でも野菜でも好きなものを漬ける。味噌は好みのものを二種類混ぜると良いとか、最初は牛肉を漬けるとみそ床の旨味が増すとか、コツやアレンジレシピは松田美智子さんの本に載っている。

 お歳暮でいただく牛肉のみそ漬けを心待ちにし、みそ床に興味を持ち、いただきもののみそ漬けのみそに別の肉を漬けたのが最初です。”もったいない”から始まり、自分の好みの味に仕立ててみたくなり、しょうがを入れたり、別のみそを加えたり、余ったにんにくを足しながら育てています。漬けた素材から出る旨みでどんどんみそ床の味が上がります。そして、今ではみその塩分とにんにくの殺菌作用で、1~2ヶ月忘れていても、かびることも腐ることもなく、我が家のおかずを助けてくれる強い味方です。(「私とにんにくみそ床」より)

 じつはこの本、十年くらい前にある人から貰った、保存容器に入ったにんにくみそと一緒に。本を見ながらいろいろ漬けたり、漬かったにんにくを刻んで薬味にしたり、みそをお餅に塗って焼いて食べたりと、あれこれ楽しんでいたのだが。不精者の私は半年くらいでダメにしてしまったのだ。

「よくある質問Q&A」には書いてある、みそ床が水っぽくなったらペーパータオルで水気を吸いとりましょうとか、味が薄くなってきたら味噌とにんにくを足しましょうとか。そのとおりに実践すればよかったものを。重い腰を上げたときには、ペーパータオルでは対処できないくらいじゃぶじゃぶになっていた。もったいない気持ちと申し訳ない気持ちで処分した後、本だけが手元に残った。

 もう一度、自分でちゃんと漬けてみよう。でも、私はどうせまたダメにしてしまうかもしれないなあ。……たまに頁を開いては思い留まることの繰り返しだった。「水抜き不要のぬか床容器」を発見するまでは。

 容器が二重になっていて、内側の容器の底には穴があって、そこから水分が自動的に抜ける? サイトで見たときは半信半疑だったけれども、実際に牛肉を漬けてみると、翌日には透明の外容器の底に1ミリくらい茶色い水が溜まっていた! あとは把手のついた内容器を外して、外容器の水を捨てるだけ。漬ける食材によって水が落ちる量とスピードが違うのも、実験みたいでおもしろい。これなら私にも続けられそう。いや、今度こそ続けるぞ。

 

 にんにくみそ床とこの本をくれたHさんは、もともとは大学の先生の奥さんとして面識を得た。その頃は「先生の奥さん」として接していたのだが、その後十年くらいを境に先生とは疎遠になり、Hさんとは親しくなった。それからまた十年以上経って、今はもう、どう説明したら良いかわからない。

 いろいろなことを教わって、いろいろなものを貰った。このブログで題材とした「捨てられない本」も、少なくとも十冊はHさんに勧められるか貰うかした本だ。言葉ではお礼を言うけれども、お返しをできた試しがない。私が知っているようなことはなんでも知ってるし、私が買えるようなものはなんでも持っているから。

 お返し以前の問題として、受けとることすら十分にできていない。その好例がにんにくみそ床だ。きっと良い味噌や良いニンニクで仕込んでくれたに違いなく、我ながら情けないことをしたものだといまだに思う。

 最近、近所の人に唐辛子の苗を分けてもらった(私は人からよくものを貰う)。ベランダに鉢植えを置いて、秋に無事収穫できたら、みそ床にぶちこんで「にんにく唐辛子みそ床」にするつもりだ。うまくいったらHさんに報告しよう。報告できるように、みそ床をダメにしないように、苗を枯らさないように。でも、今まで手にした植物はぜんぶ枯らしてきたからなあ。自信はあまりない。

容器付属のヘラも、表面がボツボツしていて使いやすいし、斜めに入れるとうまく引っかかって、そのままフタできる。去年の買い物ベストスリーに入る、このままちゃんと使いこなせれば。

ジャズの屈託、私の屈託

『ポートレイト・イン・ジャズ』/和田誠・村上春樹/新潮文庫/平成16年刊

 ジャズという音楽には気ちがいじみた愛好家がたくさんいて、派閥を形成して隠語で通じあったりウンチクを競いあったりしている、という勝手なイメージを長いこと抱いていた。歴史もフクザツそうだし、うっかり近づくと面倒なことになりそうだから、ビル・エヴァンズとかセロニアス・モンクとか、お気に入りのアルバムはいくつかあっても、それはそのピアニストが好きなのであって「ジャズが好きなわけではない」、そう思うことにしてきた。

 数年前、アメリカのテレビドラマを観ていたらバックグランドに流れているピアノのメロディーが妙に気になって、頭から離れなくて、調べてみたらオスカー・ピーターソン・トリオの演奏する”The Shadow of Your Smile”。その曲が入っているアルバムを買って何度か聴いているうちに、こういうのもっと聴きたいなあと思って、他の盤や他のトリオ、サックスが加わったカルテットやソロ等々に徐々に手が伸びていった。「ジャズっていいなあ」と素直に頷けるようになったときには四十歳を過ぎていたのだから、遅蒔きもいいところだと思う。

 

『ポートレイト・イン・ジャズ』という本を手に取ったのも、ほんの数年前だ。和田誠さんが描いたミュージシャンの肖像画村上春樹さんがエッセイを寄せた画文集で、絵も文章も、見飽きないし読み飽きない。それぞれの分野で独創的な仕事をなしてきた人たちによって、こういう本が成り立つこと自体、ジャズという音楽の豊かさなんだろう、たぶん、きっと。

 とても楽しい本だけど、でもあまり不用意に開かないことにしている。読めば聴きたくなるディスクガイド的側面もあって、実際にこの本に誘われて買ったアルバムがいくつかある。買わなければよかったと思うものは、一つもない。ただ、村上春樹さんによる解説があまりにピタリとハマり過ぎていて、そういう風にしか聞こえなくなってしまうのだ。

 たとえば『ELLA AND LOUIS AGAIN vol.2』。エラ・フィッツジェラルドルイ・アームストロングの「ハッピーでスインギーな」共演アルバムだが、特筆されているのはエラのソロ曲だ。「舞台でいえば、熱唱を終えたルイが拍手に送られて楽屋にさがり、エラがひとり静かにステージ中央に歩み出て、照明がすうっと暗くなる」……そういう演出をしたプロデューサーの手腕を褒めつつ、オスカー・ピーターソンによる伴奏が「なかなかいける」。

 よく聴き込むと、エラとピーターソンの「思い出のたね」にはいくつかの聴かせどころがあることがわかる。とくに「隣のアパートメントから聞こえるピアノの爪弾きが……」というところですっと裏に入ってくるピアノのパッセージは、いつ聴いても「いいなあ」と思う。芸である。小説なら文句なしに直木賞をあげたい演奏だ。(「エラ・フィッツジェラルド」より)

 これはと思ってCDを買い、耳を澄ませてみると……。たしかに直木賞っぽい! ほんとにもう、そういう風にしか聞こえない。それで何が困るというわけではないけれども。「この音楽はなんだろう?」という心持ちで耳を傾け、自分のペースでその音楽を咀嚼して体に馴染ませてから、誰かに伝えるために言葉を見繕うというプロセスが、ごっそり失われてしまう気がするのだ。

 もちろん本が悪いわけではない。「よく聴き込むと」とさりげなく前置きされているが、それがどれほどの回数と集中力であったか。そういう経験を積んでこなかった、ジャズという音楽を何度も素通りしてきた私が悪いのだ。

 

 先月、友達の友達がビッグバンドでサックスを吹くからと誘われて、ライブに行ってきた。アマチュアと聞いていたからあまり期待しないようにしていたのだが、冗談のような木戸銭で入れてもらったことが申し訳なくなるくらい、すてきなステージだった。

 奏者がみんな楽しそうでよかったとか、複雑そうな和音が気持ち良く響いていてスゴイと思ったとか、スタンダードナンバーから新譜まで選曲がおもしろかったとか。終演後、友達の友達に感想を伝えると、楽器のことやバンドの成り立ちのこと、「ベーシストは良い人が多い」とか「トランペットは高い音をまっすぐ出すのが難しい」とか、興味深い話をいろいろと聞かせてくれた。

「ほんとにジャズが好きなんだね」
 誘ってくれた友人にそう言われると、ついクセで「いや、そんなことは……」と否定したくなったけれども。
「うん、そうみたい」
 いい加減、素直に肯定しないといけない。全然詳しくないけどね、と付け足さずにはいられなかったにしても。

 そのときサックス奏者が勧めてくれたカウント・ベイシー楽団の『BASIE IN LONDON』を、最近よく家でかけている。『ポートレイト・イン・ジャズ』にもカウント・ベイシーの頁があることを思い出したけれども、その頁を開くのは、もう少し自分の耳で聴いてからにしようと思う。

和田誠さんによるオスカー・ピーターソン像。村上春樹さんによる評は……。これから初めて聴く人もいるかもしれないから、引用は差し控える。

見ることと描くこと

『〈オールカラー版〉美術の誘惑』/宮下規久朗/光文社新書/2015年刊

 二、三ヶ月前、ワインを飲みながら絵を描くというワークショップに参加した。美大生が講師をする体験型アートショップというもので、その日は6号のキャンバスにパレットナイフを使って、一種のポップアートを制作する回だった。見本では人の顔や犬の顔が描かれていたけれども、好きな題材で良いと言われたので、私は酒瓶を十八本とグラスを一つ描いた。

 誘ってくれた友人は「うまい」と言ってくれたけれども、「誰でもすてきな絵が描けます」というのがそこの謳い文句で、作業自体も約三時間。上手下手はあまり関係ない。もし差があるとしたら、高校の美術の授業でアクリル画を描いた経験のためかと思われた(友人はアクリル絵具自体が初めてと言っていた)。

 印象派の画集の中から好きな絵を一点選んで模写する、というのがその授業の最初の課題で、私はなんとなくゴッホの「跳ね橋」を選んだ。まず十二分割くらいのグリッドを引いたトレーシングペーパーを画集の上にあてて、それをガイドとしてキャンバスに鉛筆で下絵を描く。続いて黄土色の絵具を使って下絵をなぞり、茶色、焦茶色を徐々に重ねていく。もう塗れるところがなくなったところで、今度は青系の絵の具を一色、二色と足していく。……思い出しながらそんな話をすると、友人は「ずいぶん本格的だったんだね」。

 他の高校に通ったことがないから比べようがないけれども、言われてみればそうかもしれない。お手本の画集には鮮やかな色が印刷されているから、つい最初からその色を使いたくなるのだが、週に一回、最初の二ヶ月くらいは茶系と青系の絵具だけで輪郭をなぞる、という風に教わった。当時の私はそれを、画材に慣れるためと解釈していたけれども。

 あれはどうも、絵を描くというよりは絵を見る時間だったのかもしれない。絵の描き方とか道具の使い方を覚える以前に、一つの絵にじっくり向き合う訓練。少なくとも私にとってはそういう意味で貴重な体験だったんだなと、二十五年経った今はそう思う。

 

 ワークショップをきっかけに、友人は絵具を買って自宅で絵を描いているらしい。「教えてよ」と言われたけれども、とてもそんなことはできない。「良い絵を描こうと思ったら、良い絵をなるべくたくさん見たほうがいいと思うよ」なんて月並みなことを言って、がっかりさせてしまった。

 がっかりさせたままでは申し訳ないから、何か参考になるような、参考にはならなくても絵を見たいとか絵を描きたいという気持ちになるような本がないかなと思って、本棚から抜き取ったのが『美術の誘惑』。

 産経新聞の連載をまとめたエッセイ集で、中国の山水画や現代美術、東北の供養絵額や刺青の写真集など題材は幅広く、一編は短い。西洋美術を専門とする著者の主著とは言えないだろうけれども、私はこの本が好きだ。その理由はおそらく、一人娘を若くして亡くしたという、一見絵画とは関係のない個人的な体験が綴られていること。美術はどんな人の心をも救うことができると信じて、美術史の仕事に打ち込んできたけれども、「そんな信念は吹き飛んでしまった」。

 美術はあらゆる宗教と同じく、絶望の底から人を救い上げるほどの力はなく、大きな悲嘆や苦悩の前ではまったく無力だ。しかし、墓前に備える花や線香くらいの機能は持っているのだろう。とくに必要ではないし、ほとんど頼りにはならないが、ときにありがたく、気分を鎮めてくれる。そして出会う時期によっては多少の意味を持ち、心の明暗に寄り添ってくれるのである。(「エピローグ 美術の誘惑」より)

 人にとってもっとも大事な画像は「美術作品ではなく死別した家族の遺影にほかならない」と、美術作品の価値を否定しながら、美術作品について語る。遠野に伝わる供養絵額は「死者が、亡くなった後も平穏で幸福な暮らしをしてほしいという奉納者の願望なのだ」。職業的な義務感で立ち寄った展覧会で、その画家が息子を亡くしたことを知り、「その寡黙な画面には大きな悲しみが塗り込められていた」。自分の心を一枚の絵に託すという人の営みが、ささやかな奇跡のようなものとして伝わってくる。

 新書だからサイズは大きくないけれども、図版はすべてカラーで掲載されている。近くの美術館で見られそうなものも、少しある。始めたばかりの友人の趣味がいつまで続くかはわからないし、この本に興味を持ってくれるとは限らないけれども。久しぶりに描いてみて私もおもしろかったから、そのお礼になるかどうか、そのうち近くの美術館にでも誘ってみようかと思っている。

絵を描くのは楽しいけれども、飾る場所もしまう場所もあんまりないのが難点。比べて本は、一冊一冊はかさばらないから、とつい増えすぎてしまうのが難点。

お客さんには、なれるけど

『本屋になりたい この島の本を売る』/宇田智子/ちくまプリマー新書/2015年刊
 『増補 本屋になりたい この島の本を売る』/宇田智子/ちくま文庫/2022年刊

 フリーライターをしていた頃、「編集者はお客さまなんだから」とたしなめられたことがある。相手はファンドマネージャーを辞めて作家を名乗るようになった人で、編集者に対する私の態度がよほど傍若無人に見えたんだと思う。彼にとってはたしかに編集者が「お客さま」だったんだろう。でも私は、編集者を客だと思っている物書きの書く文章なんて読みたくない、と思っていた。それで「私の客は読者です」と啖呵を切ったはいいけれど、じゃあ読者って誰なんだろう、どんな顔をしてどこにいるんだろう……考えてみるとよくわからない。雲を掴むとか霞を食うという慣用表現があるけれども、雲とか霞は目に見えるからまだマシかもしれないなあ、なんて思ったものだった。

 飲食店はいいな、と思ったりもした。食べるほうは作る人の顔が見えて、作るほうは食べる人の顔が見える。お金を直接やりとりして「ごちそうさまでした」「ありがとうございます」が言える。あるとき、厨房で働く人にそんな話をすると、「俺は物書きっていいなって思う。とんかつ揚げたって、なんにも残らないもん。物書きは残るでしょ」と返ってきた。隣の芝生は青く見える、ということかもしれない。

 ライターを辞めて電子書籍関連の会社に勤めていた頃は、出版社の人たちの会話を聞きながら「この人たちにとって客って誰なんだろう?」と考えたりもした。図書館向けの電子書籍事業だったから、直接の顧客は図書館だったはずだ。でも、彼らの話に出てくるのは図書館の利益よりは出版社の利益。結局、会社員や会社役員にとっての客って、給与報酬を得るところの会社なのかなあと思ったり。

 その後いくつか会社を転々としたけれど、私自身は雇用主であるところの会社を自分の「客」だとは、どうしても思えなかった。だって、会社員が会社を客扱いしたら、その会社の商品やサービスに金を払う人の立場はどうなるの、なんてつい考えてしまって。

 元ファンドマネージャー氏に啖呵を切ってから十数年経つのに、私はいまだに、私の客が誰なのかわからない。わからないけど、たとえばこんな風だといいなあと思うのは──。

「本屋の棚はお客さんのためにある」とさきほど書いた。これをさらに進めて、「お客さんが棚をつくる」とも言える。(中略)
 たとえば、お客さんが本を買ったとき。新刊書店なら、売れた本は一週間から一ヶ月ほどでまた入荷して棚に補充される。古本屋は、同じ本の在庫が何冊もあるとは限らない。一冊しかなければ、売れた本は棚から消える。また入ってくるかどうかはわからない。お客さんが本を買うことで、古本屋の品揃えはどんどん変わっていく。
 お客さんは古本屋に本を売ってくれることもある。こうなると、ますます「お客さんが棚をつくる」感じが強くなる。料理が好きな人からの買取で店の料理本コーナーが急に充実したり、雑誌のバックナンバーが一気に揃ったり。思いがけない買取によって、店主にも予想のつかない棚がつくられていく。(増補版「二章 本を売る」より)

『本屋になりたい』は、書店最大手に就職して八年間勤務した後、退職して、沖縄の市場で古本屋を経営している店主によるエッセイ。開店までのこと、買取のこと、値づけのこと、本の手入れ、棚作り等々、小さな古本屋の「いろは」が綴られている。

 等身大とか身の丈なんて言葉を使うのもためらわれるほど、あっさりした文章で、でも、ところどころでドキッとするようなことが書いてある。「世の中にはこんなにたくさん本があるのだから、これ以上は必要ないような気がした」とか、図書館で本を借りるということは「期限内に読む気があるということ」だから著者としては嬉しいとか、紙(古本)と紙(お金)の交換は「たぬきの葉っぱの化かしあいのようなもの」とか。

 ここに出てくる「お客さん」という言葉は、とても自然だ。きっと「お客さん」と相対する「自分」がしっかりしているからなんだろうなと、読みながら思う。私がいまだに私の客がわからないということは、裏を返せば、自分自身の弁えとか心得とか、そういうものがなってないということなんだろう。

 今のところ私自身は古本屋を開業しようと企図しているわけではないけれど、先月ひと箱古本市へ出店しようと思ったときに、参考にしたというか、励まされたのもこの本だった。良い本だから、もし売れたら自分用にまた買うつもりで出品リストに加えたのだったが。 

 準備をしているうちに、新書版の後に文庫版が出ていることがわかった。大幅加筆されているらしい、となるとつい買ってしまう。そして古本市は雨天中止となり、もとの新書版を売る機会は逃し、かくして手元にまた本が増えていく……。私はどうも、客になったり読者になったりするのは、けっこう得意みたいなんだけどなあ。

高野文子さんの挿絵より。文庫では市場の建替工事や感染症の流行をめぐるあれこれが加筆されている。沖縄の市場の古本屋の店主の日常……NHKで朝ドラにしたらおもしろそう、坂元裕二さんの脚本で。

本屋ごっこ未遂譚

『女たちよ!男たちよ!子供たちよ!』/伊丹十三/文藝春秋/昭和54年刊

 学生時代にアルバイトをしていた本屋では従業員向けの割引制度があって、会計の際にレジでネームプレートを見せると、一割引きにしてくれた。当時の私はこれがとっても嬉しくて、それにテナントビルの地下一階から五階を占める大型書店には欲しい本がいくらでもあって、退勤後に本を買って帰るとその日のバイト代がほとんどチャラになってしまったり。これじゃなんのためのアルバイトだかわからないなあと思ったものだった。

 あれから二十年以上経った今も、似たようなことをしている。少しでも本を減らそうと思って一箱古本市へ出店する予定だったのに、あいにく雨で中止に。それだけならともかく、準備過程でなんやかやと調べ物をしているうちに、つい読みたい本を何冊か買って、結局本が増えてしまったのだ。まったく、私は何のための何をしていたのだったか。

 

 たとえば、塩野七生の『男たちへ』の隣に伊丹十三の『女たちよ!』を並べようと思った。それぞれいつ書かれたものだろう、何の雑誌に連載されてたんだろうと調べてみると、『女たちよ!』には続編があることが判明した。その名も『女たちよ!男たちよ!子供たちよ!』。

 伊丹十三といえば俳優であり映画監督であり、女優・宮本信子の夫。『女たちよ!』(と『再び女たちよ!』)は、マルチタレントならではの文明批評とでも言おうか、スパゲティの茹で方やマッチの擦り方を語りつつ「男は野暮でなければいけない」とか「自分と深く付き合うことだけが他人を愛する道だ」といった名言が随所に光っていた。同じ著者が書いた育児エッセイがあると知って、これは読んでおかなければなるまいと、ついネット古書店で取り寄せてしまったのだ。

 これが滅法おもしろかった。付箋を貼った箇所を抜き書きしてみると──

・まあ、男らしさに憑かれた人っていうのは、みんな可哀想、というか、下等なんだけどさァ(93頁)

・およそ表現の仕事というものは、何をどう表現するかもさることながら、その表現自体が、一つにはメディア論になっており、つまり、テレビでいうなら、番組自体が「テレビとは何か」という問いかけを含んでおり、なおかつ、表現自体が組織論にもなっておらねば何の価値もあるまい。(101頁)

・女だから主婦ってああなるんじゃないのよ。ほんとに主婦をやってごらん。あなただって主婦になっちゃうのよ。すべての日本の父親は、一と皮剥けば、実は中身は母親なのよ。(122頁)

 本を減らすつもりだったのに増えてしまって、しかし増えた本がおもしろかったんだから、まぁいっか。いいのかなあ……?

 そんな話をしたら、シェア型書店への出店を勧めてくれる人がいた。シェア型書店とは、運営側は本棚を区画割りして、月に数千円~数万円で貸し出す。出店者は借りた区画に自分が売りたい本を置き、本の売上は一割程度のマージンを差し引いて返ってくる仕組み。「あなたも本屋になってみませんか?」というわけだ。私もネット上で広告を見かけたことがある。

 自分が読んでおもしろかった本を選んで、小さな売り場を組み立てることは、恥ずかしい反面おもしろい。これは一種の表現行為なんだなと、古書市の準備をしながら実感した今では、シェア型書店に出店する人の気持ちが、少しはわかる。でも経済活動として俯瞰すると、本屋というよりテナントビジネス(不動産業)なんじゃないかなあ。オーナーは棚を貸し出すことで確実に売上が上がるだろうけれども、店子にとって、本の売上から賃料を支払って残る収益は……。

 そのシェア型書店、最近また神保町にオープンしたらしい。本をめぐる経済活動が多様化することは、きっといいことなんだろう。本屋が一軒もない地域で地元の人たちが本を持ち寄って、そういう書店を作って地域交流の場になった、という記事を見かけたこともある。でも私は、たとえば生徒を「アーティスト」と持ち上げるような講師に、月謝を払って絵や音楽を教わりたいとは思わないだよなあ。

 シェア型書店なるものに行ったことがないので、実際に行ってみたら気が変わるかもしれない。そのうち機会があったら足を運んでみようとは思う。今のところは、本屋と「本屋ごっこ」は区別しなさいと、私の中の伊丹十三が言っている。

 私の中の伊丹十三矢吹申彦氏の挿絵より)。中止になった一箱古本市は、次回は十月に予定しているらしい。出店できるかどうかはともかく、せいぜいおもしろい本を読んでおきたいものだ。

人を殺してしまった後には

『殺人者たちの午後』/トニー・パーカー/沢木耕太郎 訳/飛鳥新社/2009年刊
『死刑』/森達也/角川文庫/2013年刊

 一度読んだだけでは消化不良で、そのうちまた読もうと思ったものの、棚に挿したまま長いこと開かなかった本がたくさんある。たとえば『殺人者たちの午後』。原題は”Life after Life”、終身刑のことを英語では”life ”と表すらしい。死刑制度が廃止されて久しいイギリスでは殺人に対しては終身の禁固刑しか存在しない、つまりこの本は、人を殺して終身刑を下された受刑者十名へのインタビュー集。一読して処分できなかったのも、その後十年以上頁を開かなかったのも、理由は同じで、読めば何かが理解できるとか、楽しい気分になる本ではないからだ。

 一歳半の自分の息子を、殴り、熱湯をかけ、壁に叩きつけたという男がいる。十年服役して仮釈放されたが「世界中の人がひとり残らず許すと言ったって、俺は自分を許せない」。離婚した元妻がくれた封筒をずっと持っていて、開けたことはないけれども、中には自分と息子を写した写真が入っている。火事になったら他の何をおいてもあれだけは絶対に持って逃げる。……こういう話を読むと、死刑と比べて終身刑が軽いとは、必ずしも言えないと思う。

 一方で、同居していた女友達を口論の末に締め殺したという女がいる。十一年服役して仮釈放されたが「とても腹が立っている」。住み込みの家政婦の仕事を見つけたのに、保護観察官の指導に従って前科を打ち明けたところ、雇ってもらえなかったからだ。その四年後、彼女はクリスチャンとなって教会で結婚式を挙げた。夫も教会の仲間も、自分の前科を知ったうえで受け入れてくれている、今後は刑務所から出てきた女の子たちのための施設を運営したい、神様に自分の人生を委ねれば「もっともっと幸せになれるんじゃないかしら」。……タフだなあと驚く一方で、ふと殺された人を思い、残酷だなあとも思う。

 人を殺した人へのインタビュー集ではあるが、その後の”Life”はさまざまだ。再読してみると、十人十様ばらばらであることも、消化不良の原因だったかと思う。

 

 森達也さんの『死刑』も、一読した後ずっと棚に挿しっぱなしになっていた。著者はドキュメンタリー作家としてオウム真理教を取材する過程で死刑囚と接触するようになり、日本の死刑制度に興味と疑問を抱く。本書は弁護士や刑務官、政治家、被害者の遺族、受刑者など、関係各所へ取材をした「死刑をめぐるロードムービー」。

 私にとって特に興味深かったのは、十八歳の少年が二十代女性と生後十一ヶ月の娘を殺害した事件だ。2000年に地裁で無期懲役の判決が出た後、加害者少年と被害者の夫、双方の発言が報道された。当時学生だった私は、被害者とその家族を侮辱するような少年の言葉に憤り、「この手で殺したい」という被害者の夫の言葉に深く頷いた記憶がある。

 著者によると地下鉄サリン事件以降、厳罰化を求める世論に押される形で「死刑判決が増えた」。上記の少年も、控訴と上告を経て2012年に死刑が確定している。要するに私は、彼に死刑を求める「世論」の側にいたわけだ。でも、最高裁の判決が報道された頃には「そうか」としか思わなかった。まあそうだろうなと。

 その後の少年(元少年)の様子は、本書で初めて知った。拘置所の中で聖書や小説を読み、教誨師との交流を経て「自分以外の人が自分を大切に思ってくれている。そんな体験を通して、自分も何かしないといけないと気付かされた」。三十歳を過ぎて死刑が確定すると「森さんとは、もっとたくさん会っておきたかったです」、面会に来なかったことを著者が謝ると「すみません、気にしないでください」と返す。……つい、殺さなくてもいいんじゃないか、と思ってしまう。かつての自分の憤りを忘れて。

 内閣府の2020年の世論調査によると「死刑もやむをえない」という人は約八割、「死刑は廃止するべき」という人は約一割だそうだ。残りの一割は「わからない・一概に言えない」。私はどうなんだろう?

 理屈で考えれば死刑はダメだと思う。でも、もしまた残虐な事件が起きて、加害者の悪態や遺族の慟哭を聞けば「死刑がふさわしい」とか「死刑になっても仕方がない」と思うのかもしれない。それで、塀の中での加害者の様子を知れば、また「殺さなくても……」と思ったり。我ながらいい加減だ。今のところ私は、被害者でも加害者でも遺族でもなく、裁判官でも弁護士でも刑務官でもないけれども、もし裁判員として招集されでもしたら、きっとものすごく困る。

 

 死刑制度が廃止されたイギリスと存置されている日本と、比べてどちらが良いとも悪いとも思わない。人を殺した人にもいろんな人がいて、死刑だろうと終身刑だろうとすべてのケースにフィットするはずがない。制度から取りこぼされる「いろいろ」は、制度の外で拾っていくしかないのかなあと、今はそんな風に考えている。

来週出店する一箱古本市に向けてリストを作成中。上記の二冊は、並べて置いてみるつもり。

ひと箱古本市の準備(その2)

フェア「男と女と、フェミニズム」を検討中。

 先週に引き続き出店の準備を進めながら、一つ気がかりなことがあった。案内文に次のように書いてある、「栞とペンを用意するので、出品する本のコメントを書いてください」。10時くらいに集合して、11時オープンまでの間に書き込むらしい。

 こういうとき、字のキレイな人がうらやましい。私は、栞のような小さな紙に、膝の上で、読める字を書ける自信がまったくない。迷った末、会場となるブックカフェを訪問して相談してみると、あらかじめ栞を分けてくださるという。ありがたい。

「何枚くらい、使いますか?」
「今、箱に詰めてあるのが、50冊くらいなんですけど……」
 もう少し入りそうだから60枚くらい、というつもりだったが、
「えっ、そんなに」
 どうやら多過ぎるらしい。みなさん、どれくらいお持ちになるのか。2、30冊くらい?
「そうですね、あの、お持ちいただく分には構わないんですが」
 店員さんは申し訳なさそうな顔で続けた。
「なんというか、そんなに売れるものではないので……」
 そうだった。本は、基本的に売れない。

 学生時代にアルバイトをした大型書店には、いろんな本がたくさん置いてあった。でも一日に一冊も出ない本のほうが圧倒的に多くて、本って売れないんだなあ、としみじみ実感したものだ。それなのに、初めての出店につい楽しくなって、一箱に入るだけ詰め込むつもりでいた。往復の送料のことも考えないと。

 本は売れない、売れないゾ。さて、どうしたら売れるかなあと、箱の中から「イマイチ」と思う本を除いたり、本棚に残すつもりだった本を「売れたらまた買えばいっか」と箱に入れてみたり。

 出品予定のカテゴリーその2は、名付けて「男と女と、フェミニズム」。ブックカフェにもその方面のコーナーがあったのを参考に、以下のように組み直してみた。

 

『これからの男の子たちへ』/太田啓子/大月書店/2020年刊
ひとつめは、「男子ってバカだよね」問題。
ふたつめは、「カンチョー放置」問題。
みっつめは、「意地悪は好意の裏返し」問題。

 

『男たちへ』/塩野七生/文春文庫/1993年刊
セックスは、九十歳になっても可能だと思うこと。

 

『女たちよ!』/伊丹十三/新潮文庫/平成17年刊
頭はいいけどばかなところがあり
ばかではあるが愚かではなく

 

『再び女たちよ!』/伊丹十三/新潮文庫/平成17年刊
つまり自分自身と深くつきあうことだけが、他人を愛する道へつながるんじゃないか。

 

『女子の生きざま』/リリー・フランキー/新潮OH!文庫/2000年刊
「靴の汚い女はアソコが臭い」という偏見の中にも真理のキラリと光る標語があります。

 

『女の絶望』/伊藤比呂美/光文社文庫/2011年刊
えろきもの。西田敏行。年経りて何事にも動じず、ぶよぶよに肥え果てたるも、いとえろし。

 

『女の一生』/伊藤比呂美/岩波新書/2014年刊
漢と書いて「おんな」と読む。

 

『別冊NHK100分de名著 フェミニズム』/加藤陽子・鴻巣友季子・上間陽子・上野千鶴子/NHK出版/2023年刊
男は男に認められることによって男になるが、女は男に認められることによって女になる。

 

 栞には、本文から「この一文に引っかかる人なら、きっとこの本をおもしろく読んでくれるだろう」という箇所を抜き書きして、その頁数を書いておこうと思う。なるべく読める字で。それでその頁に挟んでおけば、立ち読みくらいはしてもらえるだろうか。

ブックカフェの近くの公園でお花見気分。当日は雨が降ったら中止だし、あんまり暑いのも嫌だし。ほどよく曇りだといいなあ。