ライターズブルース

読むことと、書くこと

批評的であるということ(その一)

『洲之内徹ベスト・エッセイ1』/洲之内徹/椹木野衣 編/ちくま文庫/2024年刊

 御社は新しい本を作ることより今ある本を売ることを考えたほうがいいと思いますよ、と新潮社の人に言ったことがある。もう十年以上前のことだ。新潮社といえば歴史も知名度もある出版社で、フリーライターという当時の私の立場でそんなことを口走るのは、生意気を通り越して滑稽だったに違いない。本を作る部署で働く人に対して失礼でもあったと思う。でも、私はいたって大真面目だった。

 そのとき頭にあったのは「気まぐれ美術館」シリーズのことだ。私は学生の頃にその新潮文庫を三点買った。文庫になっていない単行本があと三点あって、いつ文庫化するんだろうと思っていたら、いつの間にか文庫も単行本もすべて絶版とされていた。好きな作家の本が絶版になったことはもちろん残念だけれども、それ以上に「なんで?」という疑問のほうが大きかった。

 洲之内徹は銀座の画廊主で、愛蔵した美術品はその死後に百点以上が「洲之内コレクション」という名前で宮城県美術館に収蔵された。入れ替えをしながら常設展示されており、他の美術館の企画展に貸し出されたこともある。つまり彼のエッセイは書店以外にも販路があり、新しい読者を得る窓口があったはずだ。そういう本の在庫を切らさず持ち続けることが、歴史も知名度もある出版社の存在意義というものではないのか?

「気まぐれ美術館」シリーズの扱いを巡って、言ってみれば私は新潮社という出版社への不信感を抱いたわけだ。それをそのまま若手のいち社員に伝えたのは、やっぱりまあ、愚かなことだったと思うけれども。

 

「気まぐれ美術館」シリーズは長いこと古書以外に入手できない状態が続いていたが、今年の春に筑摩書房が『洲之内徹ベスト・エッセイ1』というタイトルで文庫を刊行した。椹木野衣さんによる巻末解説も読みたいし、刊行をささやかに讃えたい気持ちも湧いて、見かけてすぐに買った。

 でも、読み始めるとそんなことはどうでもよくなる。現役の美術評論家洲之内徹をどう位置付けしているかとか、ちくま文庫の編集部の方針とか、本を買ったもともとの動機は読んでいるうちに霞んでいく。

 たとえば「月ヶ丘軍人墓地(一)」。名古屋市内の静かな住宅地の坂道の途中に、「日の丸と軍艦旗とをぶっちがい十文字に掲げた」墓地の入り口が唐突に現れる。旗をくぐって墓地に入ると、百体ほどの軍人像が列になって並んでいる。当時(1982年)著者が撮影したと思われる写真が白黒で掲載されているが、一種異様な光景だ。

 像は高さ一メートル前後で、台座(墓石)には戒名ではなく軍隊の階級名と名前が彫られている。著者は墓守と会って話を聞き、図書館で戦史を読む。彼ら(第三師団歩兵第六聨隊)は上陸から数日後には敵地に取り残され、「二百名がたった十名になってしまった」、「第三師団は消滅してしまった」。

 それにしても、と私は考える。死んだこの男たちにとって、当時の合言葉みたいだった「お国の為」とか「聖戦」とか「八紘一宇」とかはいったい何だったろう。本当にそう信じて戦場へ行った兵士がこの中に果して何人いただろうか。しかし、信じていようといまいと、死は眼前に待構えている。その避けるわけにはゆかない暴力的な死を自分に納得させるためにはその合言葉を信じるほかなかったろう。母親はまた、そうして死んだ息子の死を無駄死だと思いたくなければ、そうするしかなかったろう。愛国主義といい、軍国主義といい、ありようはそういうものだったかもしれない。(「月ヶ丘軍人墓地(一)」より)

 この「ありよう」という言葉にヒヤリとする。自分がもろに影響を受けて育ったはずのいわゆる「戦後民主主義教育」を、いわゆる「自虐史観」として一刀両断する気はない。でも欠けているものがあったとすれば(どんな教育も万全ではない)、この「ありよう」ではなかったか。そういう予感にとらわれる。それがそのまま今の自分自身の欠落として感じられてくる。

 思うに、小説と比べるとエッセイは、時とともに古びやすい。ある人間が何を前提として生きているか、小説では登場人物を描く際に必然的にその条件が描かれる(そうでないと物語が成立しない)けれども、エッセイではそこのところを省略して書かれる(少なくとも同時代においてはそれで成立する)からだと思う。

 では、洲之内徹のエッセイはどうして古びないのか? はっきりしたことは言えない。ただ、彼は同時代に生きた多くの人とは、何か決定的に違うものを前提として生きていたのではないか、という気がする。

 

 新たに編集されたこのエッセイ集には、初期から晩年までの文章がわりと満遍なく収められている。画商としての洲之内、作家としての洲之内、復員兵としての洲之内……編集にあたった椹木野衣さんは、異なる角度から照明を当てることで立体としての「洲之内徹」が浮かび上がるような、そんな選び方をしたのかもしれない。

 それから、批評家としての洲之内。洲之内徹について語ろうとするとき、避けて通りづらいものとして「批評」という言葉がある。椹木野衣さんも巻末の解説で触れているが、かつて小林秀雄が「今一番の批評家」と洲之内を評価したことに由来するらしい。

 批評とは何か。私は二十代の頃にお世話になった人が「批評家」を肩書きとしていた関係で、この言葉について自分なりに考えたことがあるけれども、納得できる結論には至っていない。次巻以降を読みながら、整理していきたいところではある。

 しかし少なくとも、小林秀雄賞を擁する新潮社が洲之内徹の本を絶版にしたことは、批評的ではなかった。批評の賞を運営する出版社として風上にもおけないことだった、と改めて思う。

ちくま文庫の二巻目は八月九日に発売予定とのこと。新潮文庫版のときより表紙の絵が大きいし、書店で平積みにしたら目を引くんじゃないだろうか。

古典のろのろ歩き

『新源氏物語』一 改版/田辺聖子/新潮文庫/2015年刊
『方丈記』/鴨長明/浅見和彦 校訂・訳/ちくま学芸文庫/2011年刊

 源氏物語といえばイケメン貴公子があちこちで女をたぶらかしては泣いたり泣かせたりするお話でしょ、私は別にいいや、と敬遠していたのだが。お正月を過ぎた頃、今年のNHK大河の放映に合わせて本屋で各種関連本が平積みになっているのを見て、なにげなく手に取ったのが田辺聖子さんによる『新源氏物語』だった。

 頁を開くと「光源氏光源氏と、世上の人々はことごとしいあだ名をつけ、浮わついた色ごのみの公達、ともてはやすのを、当の源氏自身はあじけないことに思っている」……え、なんかゴメン。「彼は真実のところ、まめやかでまじめな心持の青年である」……そうなの? 知らなかった。「世間ふつうの好色者のように、あちらこちらでありふれた色恋沙汰に日をつぶすようなことはしない」……誤解してたかもしれないな、ちゃんと読んだことないから。

 以来、気が向いたときに少しずつ読み進めて、半年過ぎる頃ようやく上巻を読了した。いかに気の向かない日が多かったことか。そう、今のところ「やっぱりそういうお話じゃん!」。原典を大胆に翻案して冒頭に「空蝉の巻」を持ってきた田辺聖子さんの手腕にまんまと乗せられたというか、私は別に、と思っていたのに源氏の口説きにほだされてしまう女性心理を体感したというか。

 どうもこれは「源氏、ステキ!」と胸をときめかせながら読むお話ではなく、「この姫君の気持ち、わかるわ~」と自分好みの姫に肩入れしながら楽しむお話なのかもしれない。しかしながら私の「推し」は朝顔の姫、「源氏と契った女人たちがそれぞれに苦しむさま」を聞いて「自分はちがう人生をえらぼう」と決意している人だ。必然的に、物語にはあまり登場しないのである。

 せっかくだから最後まで読もうと中巻を買ったのは先月のこと。今のところベッドサイドに放置されている。一方で先週買った『方丈記』はさっさと読み終わってしまった。源氏物語と比べてぐんと短いせいもあるけど、たぶん好みの問題なんだろう。

 

「ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」という出だしで有名な方丈記は、源氏物語より二百年くらい後、平安時代から鎌倉時代に移りゆく乱世に書かれた随筆だ。ちくま学芸文庫版では、原文を通しで載せた後、全体を十三の章に分け、原文と現代語訳と解説がセットで進行する。京都の市街図や近郊図、史跡の写真などの資料も多く、概要しか知らない初心者にはありがたい。おかげで鴨長明という人がすっかり好きになってしまった。

 まず構成が上手。序文に続いて「四十余りの春秋をおくれる間に、世の不思議を見る事、ややたびたび」と都の火災、大風、遷都、飢饉、大地震を描写し、「世の中、ありにくく、我が身と栖との、はかなく、あだなるさま、またかくごとし」。簡素な庵での侘び住まいに安寧を見出す、という流れが自然だ。

 方丈というのは縦横三メートルくらいの広さを指すそうで、「方丈記」は著者がそのくらいの庵に起居したことに由来する。東日本大震災感染症の流行で混乱する都下に暮らしたせいだろうか、光源氏のきらびやかな都暮らしよりは、長明の侘び住まいに共感したり憧れたり。

 もし、念仏もの憂く、読経まめならぬ時は、みづから休み、みづからおこたる。さまたぐる人もなく、また、恥づべき人もなし。ことさらに無言をせざれども、独りをれば、口業を修めつつべし。必ず、禁戒を守るとしもなくとも、境界なければ、何につけてか破らん。(中略)
 もし、余興あればしばしば松の響に秋風楽をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる。芸はこれつたなけれども、人の耳をよろこばしめむとにはあらず。ひとり調べ、ひとり詠じて、みづから情(こころ)をやしなふばかりなり。

 訳文・解説の浅見和彦さんによると、鴨長明という人は頭脳明晰で行動力もあるが、人付きあいが苦手だったらしい。下鴨神社禰宜の家に生まれ、その筋の要職に推されたこともあるけれども、親戚に邪魔されて出世の道を閉ざされてしまったとか。なんかまあ、不器用な感じだ。

 古文の教科書には序文しか載ってなかったから、最後に大どんでん返しがあることは読んでみて初めて知った。侘び住まいの良さを語り尽くした後で、「姿は聖人にて、心は濁りに染めり」。俗世を逃れて執着を捨てたつもりでも、この庵での暮らしに執着している自分の心は濁っている、と言っている。人の世に生まれて人の世を厭うなら死ねばいい、なのになぜ生きるのか? 人付きあいが嫌なら人に読ませる文章なんて書かなければいい、なのになぜ書くのか? この人はたぶん、そういう境地で筆を置いたんじゃないだろうか。

 

 ところで『新源氏物語』上巻で私が好きだったのは「海はるか心づくしの須磨の巻」。手を出してはいけない人に手を出したことがお上に知れて、光源氏都落ち。うらさびしい須磨の海ばたの暮らしで己の罪深さに慄く、というくだりだ。まあ結局はこの地でも新しい恋とやらが待っているのだけど。

 方丈記にはさまざまな漢籍や和歌からの引用が織り交ぜられているそうで、福原(現・神戸市)に赴いた際の描写は、この「須磨の巻」に類似しているとか。長明さんもやっぱりこの箇所が好きだったのかもしれないな。上巻だけでも読んでおいてよかった、中巻も少しずつ読んでみるか。気が向いたときに。

日野(現・京都市伏見区)には庵は残っていないが「方丈石」という石碑が立っているらしい。京都に行く機会があったら寄ってみたい。

コロナ文学(仮)

『私たちの世代は』/瀬尾まいこ/文藝春秋/2023年刊
『戒厳令下の新宿 菊地成孔のコロナ日記 2020.6─2023.1』/菊地成孔/草思社/2023年刊

 例の感染症の流行によって、従来ありえたはずの学校生活を失った子どもたち。『私たちの世代は』は、渦中の彼らの生活とその後を描いた小説だ。現在中学二年生の甥っ子はまさにそういう「世代」。読めば自分の身に重ねて思うところがあるかもしれない、読書感想文を書きやすいかもしれない、そう思って試しに読んでみたけれど。

 主人公が二人いて、時制も少し複雑だ。たとえば小学生の「私」から、就職活動をしている「私」に切り替わって、さらに小学生の「わたし」に切り替わる……小説をある程度読み慣れていれば、二人の主人公の邂逅に自然と興味を惹かれる構成になっているけれども、甥っ子の読解力でついていけるだろうか。気がかりで、結局本人には勧めなかった。

 それでよかったんだと思う。なにしろ私自身が、あの時期に甥っ子がどういう風に暮らしていたかをよく知らない。学校が休校になったとか、タブレット端末を使って授業をしているとか、報道や姉の話で多少聞いていたけれども、本人から聞いた話ではない。それなのに「アナタもこういう経験したでしょう、こういう話を読めば共感するでしょう」みたいなノリにならなくてよかった。

感染症って、便利なこともあるよね」
 スーパーでパンと飲み物を買い込んで清塚君の家に向かう途中でママは言った。
「どうして?」
 この暑い中マスクをしないといけないし、スーパーに行っても他人と一メートルは距離を空けないといけないし、一人しか店内には入れないし、面倒なことだらけだ。
「買ったもののほうが安心だからって、料理しなくても堂々と言い訳できるし、こんなに人がいない中歩けるなんて開放的だし、学校の友達の家に親までもがしょっちゅう行けるしさ」
「でも、感染症なんかなかったら、何だって自由にできるじゃん」
 わたしが言うと、
「そう? こんな事態じゃなかったら、清塚君の家になんてママ行けてないよ。ちょっとラッキー」
 とママは笑った。(『私たちの世代は』第一章より)

 読みながら思い出したのは、エッセイ『戒厳令下の新宿 菊地成孔のコロナ日記』だ。ライブハウスやコンサートホールはほぼ閉鎖、開演できたとしてもマスク必須、会話も拍手も禁止。フツウに考えれば、ミュージシャンにとって望ましい状況ではなかったはずだが。たとえば、渋谷のスタジオでライブ配信を終えて外に出た瞬間、「踊り出したくなる程舞い上がった」。

 誰もいなかったからである。
 それは映画のセットのようだった。端的に懐かしい。これは昭和の渋谷だ。(中略)コンビニがなく、公衆電話がたくさんあり、歩きタバコが吸い放題で、終電を過ぎると、ほとんど誰もいなくなり、やっている店は大通りにはない。そんな光景が、コロナによっていきなり現出した。
 それまで7時間以上パルコに閉じこもっていたので、エレヴェーターのドアが開いた時には、「うわああああああああ」と口に出してしまった。(中略)
 コロナが僕に与えたものは、概ね全て楽しいものだった。しかし、もし、真綿で首を締められるような、誰にでも共感してもらえるであろうこの閉塞感が、もしネガティヴなものとして僕の中に堆積しているとしたら、コロナはこの一瞬をもって、それを全て清算したと言えるだろう。僕には、空気が綺麗に見えた。(『戒厳令下の新宿』令和3年1月28日分より)

 方や小説で、方やエッセイ。小説に出てくるのは小学生の女の子とその母親、エッセイを書いているのは中年の音楽家。類似を見出すのは、おかしなことかもしれない。でも、たとえば小説の「ママ」が働く店にこの音楽家が飲みにきてもおかしくない気がするし、菊地成孔が担当するワークショップにこの親子が参加していてもおかしくない気がする。現在進行形の事象が介在してこその、不思議な感覚だ。

 ところで、感染症の流行によって私が体験した「良いこと」は、足の親指の巻き爪が治ったことだ。中学校の指定ローファーを履いていた頃から右も左も270度くらい巻いていたのだが、通勤で山手線に乗るのが嫌になって、片道四十五分くらい歩いて往復していたら、いつのまにか治っていた。それはまあ「ちょっとラッキー」だったかな。でも全体的にはやっぱり、うんざりすることのほうが多かった気がする。「概ね全て」楽しかった、とはとても言えない。

 要するに私は、次に「何か」が起きたら、この本の彼らのように生きてみたい、という誘惑に駆られているんだと思う。大地震なのか、致死的な疫病か、他の何かかはわからない。不可避の厄災の中で、不安と恐怖と混乱と、怒りや悲しみに自分を乗っ取られない方法。

 楽天的、というのではない。逞しさ、かな。それから人に優しい、とか。どう思う?……甥っ子といつか、そんな話ができるだろうか。できるかもしれないし、できないかもしれない、とりあえず私の宿題だ。

コロナ文学(仮)としては、東海林さだおさんの『マスクは踊る』(文春文庫)もおもしろかった。買って読んだはずなのに、見つからない。どこ行ったんだろう。

14歳の彼へ

個人的14歳向け課題図書

 中学二年生の甥っ子に、姉が手を焼いているらしい。学校のプリントを失くしたとか宿題を放ったらかしにしているとか、親としてヤキモキする気持ちはわかる。一方で祖父母や叔母(私)の前でそういう話をされて、余計にふて腐れる甥っ子の気持ちも。こういうとき、どちらか一方に肩入れすると話がこじれがちだ。
「夏休みの宿題、読書感想文だったら私が見てあげようか」
 話の方向を少しずらすつもりで言ってみると、
「……よろしくお願いします」
 私や姉が中学生だった頃と比べれば、全然素直じゃん。かわいいなあ。

 そんなわけで、差し当たって甥っ子にオススメの本をいくつか見繕う、というのが私の宿題になったのだが、やってみると難しい。何に興味があるんだろう? どのくらい読めるんだろう? おもしろいな、もっと読みたいなと思ってもらえたら嬉しいけど、その逆に陥る可能性もある。自分が中学生の頃に読んだ本を思い出してみたり、本屋でライトノベルコーナーを物色してみたり。

 あまり多くを望んではいけない、自分にも、甥っ子にも。最低限の目標として、世の中にはいろんな本があるよと伝えられるように、フィクション三冊と非フィクション三冊を選んでみた。

 

『海がきこえる』新装版/氷室冴子/徳間文庫/2022年刊

 男子高校生の恋と友情を描いた青春物語。姉の情報によると「彼女がほしい」お年頃、その手の小説も一つは入れておこうと思って。私は中学生の頃(30年前)にハードカバーで読んだ記憶がある。もっと最近の小説のほうがいいかもしれないけど、新装版が出ているということは今の少年少女にも通じるだろうと期待して。

 東京と地方。大人と子ども。男の子と女の子。久しぶりに読んでみると、その間にあるもののグラデーションが鮮やかだ。付きあう付きあわないとか、やるやらないとか、結果や白黒より大事なものがあるよと、叔母としては言っておきたい(直接は言わないけど)。

『天使のナイフ』新装版/薬丸岳/講談社文庫/2021年刊

 ミステリー(謎解き小説)を一つは入れようと思って選んでみた。私が中学生の頃は、学校の近くの古本屋で赤川次郎とか内田康夫とかアガサ・クリスティーの文庫本を100円200円で買って読み耽ったものだった。おかげでとりあえず語彙は増えた。語彙が増えると読める本が増える。

 薬丸岳さんは少年犯罪を題材とした作品を多く書いている。デビュー作『天使のナイフ』は少年三人の凶行によって妻を失くした男性が主人公で、正邪の判断が難しいところを描きながら倫理観が保たれている。もちろん「あっと驚く結末」もあり。いわゆるミステリーの中では、中学生の読書感想文としてアリだと思う。

『時をかける少女』新装版/筒井康隆/角川文庫/2006年刊

 古すぎるか? SFを一つ入れようと思ったけれども、私自身が若い頃にその分野の小説を読んでこなかったから、中学生が楽しめそうな作品が他に思い浮かばなかった。加えて、筒井康隆さんは女性より男性に人気の作家というイメージがある。もしかするとSFというジャンル自体も。一応、甥っ子と私の性差も考慮に入れてみた結果。

 意識したわけではないけど、フィクション三作はどれも文庫の新装版だ。加えて、アニメ、映画、ドラマ化されている。機会があったら(本人が観たいと言えば)、原作と映像作品を比べてみるのもおもしろいかもしれない。

 

『フェイクニュースがあふれる世界に生きる君たちへ 増補新版 世界を信じるためのメソッド』/森達也/ミツイパブリッシング/2019年刊

 メディアリテラシーの啓蒙書。甥っ子がスマホばかりいじっていると姉がこぼしていた、今のご時世ではそれも仕方ないんだろうけど。「ニュースは間違える」「ニュースを批判的に読み解こう」「きみが知らないメディアの仕組み」「真実はひとつじゃない」「フェイクニュースに強くなるために」……目次に目を通すだけでも、何かの足しになれば良い。

 内容はともかく、ふりがなや挿絵入りの体裁は小学校高学年向けに見える。自尊心を損なわないように、紹介するときには同じ著者のノンフィクション『A』もすすめておこう。

『〈オールカラー版〉美術の誘惑』/宮下規久朗/光文社新書/2015年

 美術史家による美術エッセイ。新聞連載の新書版だから、語彙の面では少し難しいかもしれない。でも一章は六頁と短く、古今東西の美術作品がカラーでたくさん載っている。図版を眺めるだけでもいいし、「おや」と思う絵があったらその章だけ読めばいい。

 一年くらい前は「画家になりたい」と言っていた甥っ子が、最近はあまり描かなくなっているらしい。興味関心があちこちに向くのは当たり前で、私自身、中一のときの夢がなんだったかなんてとうに忘れてしまったけど。描くばかりでなく、絵を見る楽しみもあるよと伝えておきたい。

『高校図書館デイズ 生徒と司書の本をめぐる語らい』/成田康子/ちくまプリマー新書/2017年刊

 高校の図書館司書が生徒の話を聞き書きした体裁のエッセイ。好きな本の話を中心に、吹奏楽部や山岳部といった部活の話もあり、受験の話もあり。二年後、三年後の高校生活を想像するときに、ちょっと参考になるかもしれない。

 しかしまあ、読んでいる子は読んでいる。寺山修司とかドストエフスキーくらいは驚かないけど、漢字辞典が一番好きだとか、旅行ガイドで仮想旅行を楽しんでいるとか。石原吉郎の詩集を愛読している高校二年生なんて、私は迂闊に本を勧めたりできないぞ。甥っ子がそんな風に育ったら……それはそれでおもしろいか。

 

 最後に番外編。

『14歳の君へ どう考えどう生きるか』/池田晶子/毎日新聞社/2006年刊

 彼は当の「14歳」であるし、ベストセラー『14歳からの哲学』の平易バージョンということで、手に取ってみたものの、勧めるべきかどうか決めかねている。「誰かに好かれることよりも、自分が誰かを好きになることのほうが大事だ」とか「社会とは複数の人間の集まりを指す言葉で、それ以上でも以下でもない」とか。たとえば学校の人間関係で悩んだときに、こういう考え方ができるといいなとは思うけど。

 中学生の頃、もし私が親戚からこのタイトルの本を勧められたら「ウザイ」と思ったに違いない。要するに、デリカシーの問題だ。こういう本は、親の本棚に挿さっているのをこっそり抜き取って半信半疑で拾い読みするくらいが丁度いいんじゃないかなあ。そう言って、姉に渡そう。

人にすすめる本を選んでみると、自分の読書の癖や偏りが見えてくる。たとえば、自己啓発書の系統がどうも苦手らしい。「私」という主語がない文章、視点や立ち位置が不透明な文章は読むのも書くのも苦手。なんでだろうなあ。

教科書を閉じて

『新詳説 国語便覧』/東京書籍/1995年刊
『司馬遷』/武田泰淳/中公文庫/2022年刊

 私が高校生だった頃の国語の教科書は「現代文」と「古文・漢文」の二種類だった。それが二、三年前に大幅に改変されたらしい。

 小説を読んで登場人物の心情を読み取るとか、そういう問題が解けても何の役にも立たなくない? もっと実用的な教育をしよう……国としてはどうやらそんなことを企図して「論理国語」だの「文学国語」だの、新たな科目を設置した。それに対して教育現場からは「漱石も鴎外も読ませないのかッ」と怒りの声が沸き、企業側からは「実用的な文章はAIでもできちゃうからな~」と困惑の声が囁かれているとか。

 しかしまあ、科目名や教科書が変わろうが変わるまいが、高校の国語の授業なんてまともに聞いてる生徒のほうが珍しいんじゃないの、と私は思ってしまう。少なくとも高校生だった頃の私にとって、国語の授業は単に「読書の時間」だった。与えられた教科書にはざっと目を通したけれども、あとはその時々で読みたい本を読んで、それがなければ副読本の「便覧」を眺めて過ごした。

 便覧には動植物の写真とか宮廷の模式図や衣装、年表、地図、家系図等々がフルカラーで載っている。近現代の文学者についても写真やエピソードを交えて紹介されていて、教科書よりずっとおもしろかった。おもしろいばかりでなく、慣用句や四字熟語や故事成語の解説もあり、手紙に添える時候の挨拶やレポート・小論文の構成まで網羅されていて、意外と実用的だ。

 当時の編著者の方々に(もしくは今そういう仕事にあたっておられる方々に)伝えたいのは、じつはこの「国語便覧」、私は今も活用している。おもしろそうと思って手に取ったけど難しくて理解できない本に出会ったときに、何かと便利なのだ。

 たとえば最近は「国語便覧」を片手に武田泰淳の『司馬遷』を読んでいる。司馬遷といえば中国前漢時代の歴史家で、その「史記」といえば現代日本語訳の文庫版で全八巻くらいの大作だ。それを対象とした武田泰淳の評論は、文庫一冊とはいえ中身は壮大で、私のような門外漢には敷居が高い。でも「国語便覧」の年表や地図、人物相関図を眺めながらだったら、どうにかついていける(気がする)。

 じつは学生時代に一度読んだことがある。そのときの感想は、「わからないのにおもしろい。おもしろいのにわからない」。いつか「史記」を読めばわかるだろうかと思いつつ、大作古典文学に臆して手が出なかった。どうしておもしろいと思ったんだろう? たとえば以下。

 史記的世界は要するに困った世界である。世界を司馬遷のように考えるのは、困ったことである。ことに世界の中心を信じられぬ点、現代日本人と全く対立する。中心を信じるか、信じないか、これで両者永久に相遭えぬこととなる。日本は世界の中心なりと信じている日本人、かつその持続を信じている日本人からすれば、武帝を信じられぬ司馬遷如きは、不忠きわまりない。宮刑では足りぬ、死刑に処しても良いのである。(「Ⅴ 結語」より)

司馬遷』の出版は昭和十七年、つまり上記引用中の「現代日本人」とは戦争真っ只中の日本人のことだ。日中戦争に従軍した武田泰淳は、戦地で「史記」のことを考えている。歴史を記すことによって時の絶対者(司馬遷の時代には漢の武帝武田泰淳の時代には大日本帝国)を相対化した司馬遷に思いを馳せている。

 宮刑(去勢)によって辱められた司馬遷を、冒頭では「生き恥さらした男である」、結語では「死刑に処しても良い」。学生時代の私は、「史記的世界」とは何であるかは理解できなくとも、武田泰淳の言葉が敬愛から発せられていることは理解できた。それがおもしろかったのだ。

 便覧片手に再読してみると、武田泰淳がまず「史記」の構成に着目していること、構成を意識して読みなさいと言っていることはわかる。帝王の記録を時系列で記した「本紀」12篇、有力者を一族ごとに記した「世家」30篇、歴史的事実を分類した「表」10篇、思想家から暗殺者まで異能の人々を記した「列伝」70篇。

 正直、王とか諸侯一族よりいろんな身分の人がたくさん出てくる「列伝」がおもしろそうだ。でも、泰淳によると「本紀」は太陽で、「列伝」はその周囲を運行する遊星らしい。太陽は宇宙の大きさを示し、遊星群は天体図を示す……となると、やっぱり「本紀」から読まないとマズイかな。読みたい本は他にもあるけど、ためしに「本紀」の一巻だけ、便覧片手に読めるかどうか、大きな本屋で探して立ち読みしてみようかなあ。

 ちなみに『司馬遷』を再読しようと思ったのは、村上春樹さんの短編集『一人称単数』からの連想だ。──中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円を、思い描く──というフレーズが妙に頭に残って、ふと「その円ってたとえば武田泰淳が書いてたことだったりするか?」と思いついたのだ。少なくとも「史記的世界」では、太陽が誕生と死滅を繰り返し、その周囲には無数の遊星群が広がっている(らしい)。

 今はわからなくても、いつかわかるかもしれないし。わからなくても、おもしろいなら読んでみればいい。高校を卒業して四半世紀経つけど、「読書の時間」は今も続いている。

便覧記載の司馬遷像と、武田泰淳。教科書は文科省の検定が必須だけど、便覧等の副読本は関係ないはず。文科省の方針にイマイチ乗れない教材出版社や教員の方々は、大いに活用したら良いと思う。

「私」と「誰か」の相関と互換

『一人称単数』/村上春樹/文春文庫/2023年刊

 一人称単数の短編小説を、村上春樹さんは過去にいくつも書いている。この短編集に収録された八編には「”僕”もしくは”私”が語る物語」という以外にも、それが小説家・村上春樹である(と思わせる)という共通点があるけど、それだって過去にいくつか例がある。だから最初に読んだときは、どうしてこの短編集に限ってわざわざ『一人称単数』というタイトルにしたのかがわからなかった。今も、わかりはしないけど。

「クリーム」は、同じピアノ教室に通っていた女の子から手の込んだすっぽかしを喰らう話で、表題作「一人称単数」は、バーでたまたま隣あった女性から身に覚えのない吊し上げを喰らう話だ。読むと私はどうしても、ずっと昔に匿名の「誰か」から嫌がらせを受けたときのことを思い出す。高校の美術の授業で描いた絵が切られていたときのことを。

 二センチ程度の小さな傷だったから、一つだったら何かのアクシデントだと思った(思い込もうとした)かもしれない。でも自画像とモンドリアンの模写と、二つに同じような切り傷が入っていたのは、悪意によるものだったと認めるしかない。

 当時はもちろん頭にきたし、傷ついたし、周囲の人たちに対して疑心暗鬼になったりもした(と思う)。でも結局のところ、どうすることもできなかった。誰かがすごーく私のことを嫌っているんだな、まあ私だって嫌いな人はいるからな、だからといって匿名で嫌がらせをしたりはしないけど……。そんな風に考えて、つまりこれは「私」の問題ではなく、その行為に及んだ「誰か」の問題なんだ、と結論した。

 でも、どうなんだろう。本当にそれは「私」の問題じゃなかったのか?

 白状すると、中学生のときは下駄箱に入れておいたはずの体育館ばきがゴミ箱から出てきたことがあった。大学の通学に使っていた自転車が二度に渡ってパンクしていたのは、偶然だったとは言い切れない。そんな風に「誰か」から嫌がらせを受けるってことは、何か「私」に問題があったんじゃないの? 今これを読んでいる「誰か」がそう思ったとしても仕方ない、とも思う。

 私はそこで彼女に何か反論をするべきだったのだろうか? 「それはいったいどういうことなのですか?」、そう具体的な説明を要求するべきだったのだろうか? 彼女が口にしたことは、私にしてみれば、どう考えても身に覚えのない不当な糾弾だったのだから。
 しかしなぜかそれができなかった。どうしてだろう? 私はたぶん恐れていたのだと思う。実際の私でない私が、三年前に「どこかの水辺」で、ある女性──おそらくは私の知らない誰か──に対してなしたおぞましい行為の内容が明らかになることを。そしてまた、私の中にある私自身のあずかり知らない何かが、彼女によって目に見える場所に引きずり出されるかもしれないことを。(「一人称単数」より)

 自己同一性という概念があるけれど、この短編集のテーマはもしかすると自己”非”同一性のようなものかもしれないなあ、と思ってみたりする。「私」の不確かさ。「私」に主体性があるとすれば、「誰か」にも主体性があること。その歪みに、何か大事なものがある、とでもいうような。

 念のため、すっぽかしとか吊し上げを喰らう話ばかりではない。早逝したサックス奏者が夢に出てきて、”僕”のためだけに特別な一曲を吹いてくれる、という楽しい話もある(チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ)。……夢といえば、高校を卒業する間際にこんな夢を見た。私は私の描いた絵をカッターで切り付けた「誰か」を走って追いかける。校舎の突き当たりまで追い詰めて、罵倒しながらパイプ椅子でメッタメタのボコボコにする夢だ。私としてはそんな凶暴な復讐を望んではいなかった、というかその頃にはほとんど忘れたように日常生活を送っていたけれども。目覚めたときの爽快感は忘れられない。

 この短編集で私が一番好きなのは「神宮球場とスワローズと村上春樹」が登場する随筆風の物語だ(”ヤクルト・スワローズ詩集”)。”僕”が膨大な数の負け試合を目撃し続けることで「今日もまた負けた」という世界のあり方に自分の体を慣らしていったように、私は匿名の誰かの嫌がらせを何度か受けることで「誰かが私を嫌っていたとしても仕方ないではないか」という気の持ちようを身につけたんだと思う。それは決して楽しい経験ではなかったけれども、今ではすっかり私の一部になっている。

 あのときの「誰か」がいつかどこかでこれを読むかもしれない、その可能性はゼロではないから、一応書いておく。私の知らない「私」がその「誰か」を傷つけたんだと思うし、それに夢でメッタメタのボコボコにしたから、私はもう怒ってないし傷ついてもいないよ。

サマセット・モームの“First Person Singular”(一人称単数)という短編集は、電子書籍専門レーベル(グーテンベルク21)から二分冊で出ている(「人間的要素」「十二人目の妻」)。研究者とか書評家が比較・分析してくれたらおもしろいかもしれないけど。私には「作家本人を思わせる語り手」というくらいしか共通項は見つけられなかった。

 

弟子時代の遺物(その三)

『コスモポリタンズ』/サマセット・モーム/龍口直太郎 訳/ちくま文庫/1994年刊

 お世話になっていた先生の自宅からサマセット・モームの文庫本を十冊くらい引きとった経緯については、以前書いた。代表作とされる長編小説と、晩年に書かれたエッセイ集と、いくつかの短編集と。先生の書架には学術本も稀覯本の類もあっただろうに、それなりに長く弟子でいたはずの私の手元には世界的ベストセラー作家の文庫本ばかり残ったことを「我ながら欲もなければ学もない」と、そのときは書いたけれども。

 最近になってふと、それはそれでもっともなことだったかもしれないという気がしてきた。モームという作家が繰り返し描いてきたのは、矛盾した人間の姿だ。たとえば株の仲買人だった男が仕事も家族も捨てて、狂ったように絵を描きはじめる(月と六ペンス)。あるいは不貞の果てに駆け落ちをした放埒な女性が、子どもを亡くした悲しみを抱きかかえて生きている(お菓子と麦酒)。

 私がお世話になった先生もメチャクチャな人だった。指導者らしい助言をする一方で、「アナタはもう友達だもんね」と悪戯の片棒を担がせたり。私が親の小言を愚痴ると「俺の娘になればいいじゃん」と宣い、男女の口説き文句のようなことを口走ったかと思えば、「書き出しってキツイよねえ」と同業者同士のような弱音を吐いたりした。

 私がモームの文章に親しむようになったのも、先生が蔵書をすべて置き去りにして家出をした結果だ。でもそれを「もっともなこと」だと思えるのは、相応の時間と距離を経たからであって、当時の私が聞いたら「冗談じゃない」と怒るかもしれない。

 置き去りにされたのは蔵書だけではなかった。たとえば荷物が詰められたままのリモワのスーツケース。私は本以外の私物にはあまり触れないようにしていたが、一生かかっても飲みきれないくらいの漢方薬の束と、一生かかっても使いきれないくらいの付箋の山が出てきたことは、スーツケースを開けたご家族の会話から聞こえてきた。

 二台のスーツケースから合計三台の電動シェーバーが出てくると、その場にいた誰もが首を傾げた。うち一台は動かなくなっていたが、故障ではなく、詰まっていたゴミをブラシで掻き出すと、やがて低い振動音が鳴り響いた。さらに掻き出すとそれが高音に変わっていった。
「きったねえなあ。一回も洗わなかったのか」
「ちょっと前に『センセイの鞄』って小説がありましたけど……」
「現実なんて、こんなものですよ」

 ご家族とそんな話をした。呆れながら。笑いながら。

 私は先生の家族も、ひとりひとり好きだった。家族の絆とか社会倫理とか、そういうものとは関係なく、それぞれに知的で、個性的で、楽しい人たちだった。先生がいずれ帰ってきたら、いない間に起きたこと、交わされた会話を、第三者の口から語って聞かせることが自分の役割だと思っていた。その機会がついに訪れなかったことは、私にとってまったく意外なことだった。

 小説とか芝居とかいうもので、人生の真実に反していることがあれほど多いというのは、おそらく止むをえないことなのであろうが、それは作者がその登場人物をまったく矛盾のない人間に仕立ててしまうからなのだ。作者としては、人物を自己矛盾だらけの人間にするわけにはいかないのだろう。もしそんなことをすれば、そういう人物は読者の理解を超えてしまうからである。しかし現実において、われわれ人間の大半は自己矛盾のかたまりではないだろうか? 矛盾だらけのさまざまな性質をごっちゃに束ねたもの──それが人間なのである。(中略)人々が、自分たちの受けた第一印象はきまって正しいなどと語ると、私はただ肩をすぼめるほかないのだ。たぶんかれらは洞察力が乏しいか、虚栄心が強いかのどちらかであるにちがいないと思う。私個人としては、人々と長くつきあえばつきあうほど、ますますその人間がわからなくなってくると感じる。(『困ったときの友』)

 モームの短編集のうち、私が読んだなかで一番好きなのは『コスモポリタンズ』。一世紀前に活躍した作家だから、いま出ている短編集は傑作選のようなものが多いけれども、こちらは「コスモポリタン」という雑誌に連載された一連の作品集だ。

 なんと言っても一つ一つが短いのが良い。文庫本10頁くらいのショートショートが30編、登場するのは詐欺師や外交官、漁師や隠棲者などなど。舞台となるのはロンドンやニューヨーク、ボルネオや京城、神戸などなど。医者として、諜報員として、世界各地を渡り歩いた作家だけに、創作とも実話ともつかない語り口が魅力的だ。

 虫も殺さないような好人物が、何事もなげに殺人に近い行為に及ぶ話。騒々しくて派手派手しい男が、たまたま居合わせた女性の名誉を守るためにひっそり自己犠牲を忍ぶ話。……モームだったら、あのメチャクチャだった先生をどんな風に描いただろうかと、考えるともなく考える。私だって良い弟子だったか悪い弟子だったか、わかったもんじゃないよなあと思いながら。

コスモポリタンズ』は和田誠さんによる装画もすてきだと思う。でも岩波文庫の短編集(上下巻)も、翻訳の行方昭夫さんによる解説が親切で捨てがたい。