ライターズブルース

読むことと、書くこと

転載1「先生の黙──陶工、吉田明を悼む」

en-taxi」VOL.25(扶桑社、2009年3月刊)への寄稿記事を加筆修正のうえ転載します。

 ライター稼業を始めて数年経つが、自分の書いたものを読み返すことはほとんどない。もちろん書いている間は何度となく読み返すが、いったん手を放れてしまえばそれきり。何が書いてあるかはだいたい知ってるし、読んで直したくなってももう直せないからだ。

 床に積まれた本の山を崩して、五年前の雑誌を探す。「en-taxi」四号、吉田明という陶芸家を特集した号だ。学生時代からお世話になっている福田和也先生に誘われて青梅の工房を訪れ、吉田明さんの手ほどきに従って粘土をいじった。そしてコラムともエッセイともつかない短い原稿を書いた。

 あの日、吉田さんは水を張った大きなバケツに新聞紙やエロ本を浸して、それを煙突状に組んで股下くらいの高さの窯を作った。下方に送風口があって、改造したドライヤーで熱風を送ると、顔の高さまで火柱が上がった。それを囲んで酒を飲み、やがて燃えカスの中からいくつかの塊が出てきた。その一つを差しだされても、数時間前に自分がこしらえたぐい呑みだとはわからなかった。灰がそのまま肌になった部分とそうでない部分。石が溶けてガラス質になった部分とそうでない部分。底に刻んだ自分の名、とても文字には見えないただの瑕、それだけに見覚えがあって、ぎょっとした。火ばさみを箸のように操る吉田さんが、いつの時代のどこの国の人ともわからなくなった。

 今回はその吉田さんの、追悼文を書かなければならない。何かの参考になればと思って古雑誌を引っぱりだしたものの、そのまま鞄に突っこんで東京駅に向かう。駅の売店でワンカップとドライ明太を買って新幹線に乗り、柏崎に着くまで鞄に入れっぱなしだった。

 あのとき私は、器のことも吉田さんのことも、何もわからないまま書いた。書いたというより、頼まれた字数を埋めた。何を書けばいいのかわからないまま、逃げきった。そういう原稿を読み返すのが恥ずかしくて、いたたまれなくて、頁を開くことができない。追悼文を書くために遺作展に向かう、この行為自体も、結局は字数を埋めるための方便なのかもしれない。

 

 訃報を知ったのは二月に入ってからだった。十二月に亡くなって、六十歳だったという。銀座のバーで福田先生から聞かされても、お葬式は、などと間抜けな反応しか示せずにいた。

「あいつ、死にやがって」

 先生の剣幕を目の前に飲み続けて、帰る頃には私が追悼文を書くことになっていた。「先生は?」と聞くと、「書かない」。

 遺作展のホームページによると、柏崎の駅前から会場まではバスが出ているらしい。現地に着いてみると三時間に二本、時刻表どおりだとすれば、五分前に出たばかりだ。タクシーの運転手に停留所の名を告げたが、知らないという。無線で場所を確認してもらって、駅前を抜けるとすぐに、田んぼの水面が黒々と曇天を映しだす。

 ギャラリー「風の座(かぜのくら)」は普通の民家だった。東京の戸建てではあまり見ない、大勢の来客を前提とした広い玄関で靴を脱いで上がると、十五畳の床の間付きの和室と、八畳くらいの洋室に分けて、作品が展示されていた。そのほとんどに値札が付いている。三嶋の模様が入った大皿が十万五千円、椿の絵皿が五万二千五百円、いくつかはそれなりの値段がついていたが、数千円台のものが一番多い。しかも買えばその日に持って帰れるという。こんな値段でいいのか。遺作展に来たのは追悼文を書くためで、買うためではない。しかし、買えると思ったが最後、物色に走る。

 私は今まで器というものに凝ったことがない。通りがかった骨董屋や骨董市で時間を潰すことはあっても、結局は買わない。一人暮らしを始めるときでさえ、実家で余っていたものをもらって、足りないものは近所の商店街の器屋で一番安いものを求めた。大して料理もしないのに器に凝るなんて、かえってみっともない。それに、自分で選べる器なんて欲しくなかった。

 このあたりは比較的高額だな、それだけネウチがあるってことか? 物色をしても、ついそんな風に考えてしまう。これでは器を見ているのか値札を見ているのかわからない。和室と洋室を三回くらい行ったり来たりして、飯茶碗二つと湯呑みを一つ、恐る恐る選んでみた。受付の女性に器を包んでもらいながら「じつは」と来意を明かして、雑誌に掲載するための写真撮影を願い出る。

「陶芸センターには行かれましたか? 日帰りですか、車がないとちょっと難しいかもしれないけど。廃校になった体育館の床を抜いて、窯を作ったんです。雪が降っても焼けるように、煙の抜け道を作って」

 説明を聞きながら想像しようとして、やめた。どうせ吉田さんが作る窯だ、理解できるわけがない。このギャラリーでも、作品を売るだけでなく七輪陶芸のワークショップをやっていたそうだ。

「移ってきたばかりの頃は、高いと言われましたね。この辺りではそうなんでしょう、知られてないから。先生は茶碗はあまり作っていなかった。でもここに来てからは、お米がおいしいって、茶碗を沢山作って、地元の人たちに配ったんです。だからこの辺の人たちは、みんな持ってますよ」

 青梅の窯場を訪れたとき、手製のカレーライスや大根焼きをふるまってくれたことを思い出す。火バサミを片手に、ときどきガラムを吸っていたことも。

「前の晩に、咳をしていたんです。明日病院に行くよって、電話で仰ってたんですけど。”雪螢”を窯に入れた後に倒れて、病院に運ばれて、そのまま」

 その遺作は床の間に展示されていた。茶碗一つと湯呑み一つ、白地に波のような線が走り、ところどころにぽんぽんと、丸く黒っぽい釉薬が置かれている。既に買われて、遺作展のために借り受けたものだという。

 帰りのバスが走り出すと、雨が降ってきた。雪蛍と聞いて、最初は綿虫のことかと思ったけれども。舞い上がる火の粉は、雪の上では蛍のようだったか。夕闇の車窓に二度三度、コイン精米機の灯りが過ぎていった。

 

 福田先生が根城と呼んでいるバーは銀座六丁目にあって、早めの時間に行くと二回に一回は先生がいる。デジタルカメラの液晶画面で写真を見せながら遺作展の報告をした。

「ずいぶん作風が変わったね、ボディラインに力がない。本当に吉田が作ったの? お弟子さんじゃなくて?」

 そんなこと聞かれても、私には答えられない。柏崎まで行ってきたんだから、少しは労ってくれてもよさそうなものだが。

「仕方ない。あいつは本当にすごかったんだもの。魯山人以降、指を折れるのは吉田だけ。窯のことは自在でしょ。骨董のクセをよく掴んでいたし、そこに新しい意匠を加えたのも見事だった」

 吉田さんはいくつか、漢字の印を押した三嶋の器を作っている。白い化粧土の上に、花模様の印を押すのが一般的な三嶋で、漢字の印は吉田さんのオリジナルだという。

「他にも、耳盃(じはい)を粉引で仕上げたり。あいつは何でもできたから。三嶋だって、唐津だって、何でもできた。一番巧かったのは何だろう、黄瀬戸もよかったし、織部もよかった。だけど陶芸の世界って、七十、八十にならないと評価されないから」

 世間の評価というものを気にしていたのだろうか。あの太々しさで?

「うん、あいつは本当にかわいくないよ。個展会場で、こんなでかい鍋でどぶろく振る舞ってるんだもん。あれは捕まっても文句言えなかった」

 先生は遺作展には行かないんですか。

「行かない。だって欲しいものないでしょ、行かなくたってわかる。八王子の窯で焼いたのが一番よかった。あとは、七輪で焼いたぐい呑みも、いくつか買ったけど」

 吉田さんは八王子、青梅、日の出町、それから十日町に窯場を持った。年譜を見れば二十六歳から四十六歳まで、八王子時代が一番長い。

 遺作展には青梅と日の出町時代の作品も少しあったけれども、半分以上は十日町で焼かれたものだった。青梅時代の赤絵の組皿と、七輪で焼いたぐい呑みだけ、非売品の札がついていた。

「赤絵だって、全然違うでしょ、俺が持ってるのと。アナタもうちに来たときに見たことあると思うけど」

 私に器の良し悪しはわからないが、たしかにあの赤はすごかった。思えば赤という色は厄介で、私はそれを高校の美術の先生から教わった。モンドリアンの模写をしたとき、黄と青はともかく赤だけはダメ出しされて、何度も塗り直したけれども結局諦めた思い出がある。福田先生が持っている吉田さんの赤絵は、塗り直す余地のない、どこまでも突き抜けた赤だった。私がそう言うと、中華とかのせると意外と合うんだよ、と先生は得意気だ。

「八王子の窯は火事でダメになっちゃった。あいつの持っていた釉薬も、全部ダメになった。それからだ、縄文とか七輪に走ったのは」

 ギャラリー「風の座」で聞いた話によると、吉田さんが青梅から十日町に越してきたのは三年前、能登半島珠洲の土を目指す過程で妻有の土に出会ったからだという。妻有の土には鉄分が多く、妻有焼と名付けてライフワークに掲げるほど、吉田さんは入れこんでいた。

「あいつ、すぐ土に逃げるんだ。珠洲の土なんて、どうってことないのに」

 私が買った器は三つとも妻有で焼かれたものだ。先生は、まず買わないだろう。私だって追悼文を引き受けていなければ買わなかったかもしれない。三つで丁度一万円だったことを告げると、

「いまだに、そんな値段なのか」

 先生はバーカウンターに突っ伏した。

 

 それでも、私が買った湯呑みは間違いなく吉田さんのものだ。灰色の刷毛目を引いた側面に、薄墨色ででかでかと「TUMARI」と描かれているのだ。はっきり言ってダサい。いまどきローマ字なんて、中学校の粘土の授業でも流行らないのではないか。吉田さんだ、そう思ったら買っていた。

 飯茶碗を二つ買ったのも正解だった。白っぽいのと灰色の、最初は交互に使ってみて、次の日からいつも白っぽいのを使っている。なんとなくそっちのほうが気に入った。ギャラリーで手に取ったときの印象は逆だった。左手で持つものだから、軽い方を使うだろうと思っていた。

 何が気に入ったのか。たとえばこの先自分が失明したとして、手元にこの茶碗があったら、いくらかありがたいだろうと思う。釉薬の凹凸に触れれば、その色を思い出すことができるかもしれない。卵の液体をまとった米が二粒、底の窪みに嵌ったのを箸で掬いあげる。粘膜を器具で触れられて、その感触を通して自分の体温を知るようなおかしみが湧く。違う箸を使えば、もっと違う手応えが得られるだろうか。

 浅草の箸屋の名前を思い出そうとして、ちょっと待てよと思う。箸を買って、椀を買う自分が想像できる。これだけのことで、出会った、などと思いたがるのは浅はかというものか。だけど出会いは、選べなかったはずだ。

 福田先生が最初に吉田さんの器に出会ったのは、仙川の「うつわや」だったと聞いている。今の私くらいの年齢で、定職に就かずに骨董に狂っていた時期のことで、しかもそれきり骨董を買わなくなったというのだから、よっぽどのことだ。お店は五年前に代々木上原に移転したらしい。ホームページで所在地を確かめて訪ねてみることにした。

 看板らしい看板は見当たらないが、通りに面した大きなガラス窓のおかげですぐにわかった。そっとお店に入ると、年配の女性に声をかけられた。

「葉書をご覧になっていらしたんですか? それともどなたかのご紹介?」

 隠すことなど何もないという風なショートカット。先生に吉田さんの器を売った人だ、店主のあらかわゆきこさんだと直感する。遺作展に行ったときと同様、取材の用意なんて何もしてない。しどろもどろ、吉田さんの名前を出すと、一瞬だけ愛想が消えた。

「そう。吉田さん、お亡くなりになりました」

 葬儀は十日町で、納骨は青梅で、お骨は自作の水差しに。淡々とそう話してくれた。他のお客さんが途切れたタイミングで、吉田さんを特集した五年前の雑誌を鞄から取りだして、福田先生が「うつわや」に触れている箇所を指し示した。

「へえ、全然知らなかった。福田さんも、言ってくださればいいのに。追悼文、福田さんはお書きにならないの? 書けばいいのに。あなたが書くの? 大変でしょう」

 そうなんです、ほんとに。器というものの値段はどのように決まるんでしょうか。吉田さんの器は安すぎると、福田先生は思ってるみたいなんですけど。プロを相手に初対面で聞いていいことではないと思ったけれども、窮状を打ち明けた勢いに任せて質問を重ねる。

「……吉田さんはとにかくたくさん作るから。普通陶芸家って、あんなに多作じゃないのよ。あの人は陶芸家とは違う、中学生の頃から窯を作って、あちこち窯場に行って研究して、窯ぐれっていうのかしら」

 聞き返すと、帳場の奥から陶芸辞典を出してきて、開いて見せてくれた。「江戸時代に始まった語で最初は渡り職人を指称した。彼らは一定の住居もなく諸窯を渡り歩き、技術さえ優秀ならば私人としての欠点などは自他共に問題としなかった」、窯ぐれ。

「昔の職人はそうやって修行したのよね。今はあんなことをする陶芸家はいないし、もう出てこないと思う。天才でしょう」

 天才の作ったものが、凡人の作ったものより安いというのは、何なんだろう。ものの値段の不確かさと理不尽さは、私も最初の本の印税を手にしたときに実感したけれども。吉田さんの器は、売れなかったということか。

「死んでから評価が高まる人よね。たくさん出る、人気があるという類ではなかった。名前のある人がポンと大作を買っていく感じ。福田さんが買ってくださって、吉田さんも嬉しかったと思う。だけど、福田さんは特殊。奥様がすごいでしょう、ご自宅でご馳走になったことがあるけど、それはもう」

 引越しのときや正月に何度か、私もごちそうになった。昆布巻きからサンドイッチまで、今までに食べたどれよりもおいしかった。おいしいでしょう、凝ってるでしょうという嫌味が全然なくて、堂々としているのだ。

「そうそう。吉田さんの大皿にも、サラダをぐわっと盛りつけて。なかなか、ああは使えない」

 先生が吉田さんの器を買わなくなったことを、あらかわさんはどう思っているのだろうか。

「私もやっぱり、八王子時代がベストだと思う。一番得意だったのは朝鮮もの、粉引もいいけど、三嶋かな。釉薬のことはよくわからないけど、あれが全部無くなってしまったのは、大きかったでしょうね。それと、最初の奥様。奥様も、染付けの、いい作家でした……」

 暇乞いすると、今年の六月に新宿のギャラリー「柿傳」で、来年の今ぐらいには「うつわや」で、遺作展が催されると教えてくれた。

 

 火事のことは一九九一年一月二十四日の読売新聞朝刊の多摩面に載っていた。規模としては工房と倉庫合わせて二百五平方メートルを全焼したらしい。「この日は、八王子市内で開かれていた『吉田明新春昨陶展』の最終日。吉田さんは打ち上げパーティの席で知らせを聞いて駆けつけたが、倉庫に保管していた作品約六百点、美術書、道具類はすべて焼けた後だった。(中略)今年は多摩地区を始め、大阪、山形など全国各地で個展を開く予定だったが、『創作のメドが立たない』とガックリ。『でも人生なんでもゼロからスタートですよ』と、今後の創作に意欲を燃やしていた」。

 もしや火事で奥さんを亡くしたのではないか、そう気になって調べてみたのだが。「人生」を語る吉田さんの様子に、ふっと笑いが込みあげる。しかしそれを報告すると、福田先生は予想外に険しい表情だった。

「火元は? 何て書かれてた?」

 読売新聞では、朝鮮式床暖房から。毎日新聞では、作業所のコンセントの接触不良で。そんな風に書いてありました。

「……あのとき、初日のパーティーで吉田がどぶろくと手料理を振る舞うことになってたんだ。だけど、いつまでたっても来ないんだよ。後で聞いたら、家で奥さんに包丁突きつけられて、出られなかったって」

 初日? 思わずそう聞き返す。

「うん。皆であいつを待っている間、とんでもない話がボロボロ出てきた、”デカメロン”みたいにね。人間は最悪。うちのカミさんは女の敵だって言ってるけど、吉田はほんと、最悪。人のこと言えないけど」

 個展の初日が刃傷沙汰で、最終日が火事とは。窯ぐれ、覚えたばかりの言葉を思い出す。

「その後のことは、俺もよく知らないんだ。自分の仕事が上り調子になってきて、しばらく会ってなかったから」

 吉田ひろこさんという染付け作家の消息は、私の力不足で調べきれなかった。ただ、先生がギャラリー「柿傳」で久しぶりに会ったとき、吉田さんは別の女性と一緒だったという。その女性が喪主を務めたのだろうか。

「知らない。だけどラオスの布きれとか、どうするんだろ。向こうの人が織った、すごいきれいなのを集めてたよ」

 陶芸以外のことにも、興味はあったのか。

「だって気が散りまくってたでしょ。青梅の庭だって、瓦だとか自分で焼いたタイルを並べたのに、自分でくっつけた重機でその上に乗りあげて、割っちゃうんだもの」

 気が散りやすいのは先生も同じだろう。同じことができない、といつも言っている。

「まあね。だけどあいつほどじゃない。一つの窯で腰据えて、自分の作品みっちり焼いてればよかったのに」

 吉田さんは陶芸の実用書をいくつか出している。最後の著書は『10分陶芸;つくって、焼いて、使うまで、最速10分!』(双葉社)。私がタイトルを告げると、

「わはは、そんなに急がなくてもいいよね」

 ウケている。大半の陶芸家は、何十万円もする電気窯を使う。吉田さんは七輪陶芸なんてものを発明して、陶芸家も業者も全部を敵に回した。先生は吉田さんのことを誰かに説明するとき、必ず上機嫌でこのエピソードから始める。

 ちなみに七輪陶芸ではドライヤーを使って火力を上げるのがポイントだったのに対して、十分陶芸では電子レンジが立役者。普通に作れば、小さなぐい呑みでも二、三時間はかかる乾燥の工程を、電子レンジの解凍機能を使って五分に短縮したのだ。あとがきによると「最も苦しめられたのが、この電子レンジである。そもそも、機能がよくわからない。器をあらゆる場所に置いて、何度も何度も『チン』してみた。(中略)技術というものは、普及しなければ意味がないからだ」。吉田さんは、やっぱり吉田さんだ。でも「十分陶芸」なんて聞けば、バカにする人もいるだろう。とても巨匠とは思えない。

「どう付き合えばいいのか、わからなかったんだ。だから青梅に行った、リリーさんとアナタを誘って。だって、買えなくなっちゃったんだもの。買えないよ、ほんとにすごい奴だと思ってるから、買えなかった」

 あのとき先生だって、吉田さんの手ほどきに従って粘土をいじっていたではないか。ぐい呑みの底に「俗」の号を刻み付けて。焼きあがった黒陶をせっせと磨いて。あごに炭を付けたまま。

「全部買っちゃったんだもの。俺が一番いいのを持ってる。一番いいのを、一番たくさん買った。赤絵だって三嶋だって、俺が持ってるやつが一番いい」

 自慢には聞こえなかった、何かに向かって抗議する声だった。もし生きていたら、再び先生が買いたくなるようなものを吉田さんは作っただろうか。

「……ないだろうな。陶工としては、八王子で終わってた。だけど俺は今でも、吉田の器で飯食ってる。家にいるときはいつも、あいつの器で飯を食っている」

 認められていなかった、それを吉田さん自身はどう思っていたのか。世間とは折り合いがついていなかったのか。

「……つかなかったと思うよ。あいつ、かわいそうだよ。何でもできたんだもの。ほんとに、かわいそう」

 ギャラリー「風の座」で聞いた陶芸センターのことは、「十日町市」「妻有焼」で検索すると、すぐにわかる。出かける前に「吉田明」で検索したときは出てこなかった。ホームページを見る限り、地域振興の一環でしかない。

「七十、八十で、文化勲章でも芸術院賞でも獲らせて、うんとくだらない威張り方させてやりたかった。そういうの喜ぶ奴だった。俗物だったから」

 追悼文、本当に書かないんですか。

「書かない」

 いつか、書くことと書かないことだけが物書きの武器だと教えてくれた。たしかに、書くことと書かないことは似ている、と思う。選ぶことと、選ばないこと。買うことと、買わないこと。先生が逃げているのか、闘っているのかも、見分けがつかない。

「陶芸の世界では、何でも、反対のことが正しいんだ。間違ったことが正しいことなんだ」

 五年前の原稿で、私は吉田さんのこの言葉だけを書き留めた。わからないことは、わからないままに。

 以上、「en-taxi」25号(2009年3月発売号)に掲載された「不確かさと理不尽さの合間」を加筆修正のうえ転載しました。大きな変更点は以下二つ。
1、記事タイトル
 この雑誌では毎号巻末近くに「The Last Waltz」という追悼コーナーがあって、その特別篇という体裁だった。つまり、当時はタイトルで断らなくても追悼文であることは一目瞭然だったが、転載ではそうはいかない。内容がわかりやすいように「先生の黙(もだ)──陶工、吉田明を悼む」と変更した。
 なお掲載号の「The Last Waltz」では拙稿の他に、杉山正樹(文芸評論家・編集者)の追悼を片岡義男さんが、ジョン・アップダイク(小説家)の追悼を新元良一さんが、清野徹(コラムニスト)の追悼を坪内祐三さんが、それぞれ1000字前後で書いておられた。
2、青梅の工房を訪問した時期の正誤
 同じ雑誌で吉田明さんの特集を組んだ時期について、執筆当時は「四年前」としていたが、改めて整理したところおよそ五年前(2003年の12月発売号)だったことが判明した。どうして四年前と思いこんでいたのか、わからない。自分のミスを今さら糊塗するようで気がひけたが、事実関係は正確に越したことはないので訂正した。
──その他の変更点、原稿に手を入れながら思い出したことなど、以下に有料記事として追記しました。2000字くらいの編集後記、大したことは書いてません。それでもよければ、どうぞ投げ銭感覚でご購入ください。

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荒稽古のあと始末

「en-taxi」SPRING 2009 VOL.25
「en-taxi」SUMMER 2009 VOL.26
「en-taxi」AUTUMN 2009 VOL.27

 2月は以下三本の雑誌記事をワープロソフトに打ちこんで、あれこれ手を加えていた。
・「en-taxi」VOL.25掲載、「不確かさと理不尽さの合間」
・「en-taxi」VOL.26掲載、「師と師の師の間に」
・「en-taxi」VOL.27掲載、「我が石原慎太郎の慎太郎」
 昨年亡くなった福田和也さんのことを数回に渡って書いたところ、「回想録を出したら」とか「関係者に取材して評伝を書いたら」と言ってくれる人がいる。たしかにまだ書いてないこと、書くべきことがあるような気はする一方で、どういう形で書いたらいいか、どういう形で公表するべきか、具体的なイメージがまとまらない。今の自分に書けるだろうか、という疑問もある。

 なにしろ疎遠になって15年近く経つ。近年の(晩年の)福田和也という人のことは著書や伝聞によってしか知らないし、親しかった頃の記憶もところどころぼやけて褪色している。まずは当時の自分に聞いてみるか、という気持ちで昔の原稿を引っぱり出したわけだ。

 

en-taxi」は2003年に創刊した「超世代文芸クオリティマガジン」、要は少々変わった文芸誌だった。創刊時は編集同人として柳美里福田和也坪内祐三リリー・フランキーが名を連ねていた(敬称略)。その後、柳美里さんが抜けて重松清さんが加わり、2015年に休刊した。私は福田さんの門下生だったために、2010年頃まではいろいろ書かせてもらっていた。

 書かせてもらったという言い方は謙遜ではないが、より率直に言えば、ずいぶんな荒稽古をつけられた。「出獄した角川春樹さんをお迎えして句会をやるから俳句を20個作りなさい」と言われたときは天を仰ぎ、「石原慎太郎さんと立川談志さんの対談をするから構成をやって」と言われたときも天を仰いだ。比喩ではない、人間、困ったときは空中に視線を泳がせるのはどういうわけだろう? ある門下生は「佐藤和歌子福田和也と寝て仕事をもらっている」とウワサしていたそうだが、バカ言ってんじゃねーよ、だったらテメエが書いてみろ、と思ったものだった。

 福田さんとの距離が一番近かったのが2009年で、その時期に「書かせてもらった」上記三本の原稿を、私自身は荒稽古の極みとして記憶している。概要としては、懇意にしていた陶芸家が亡くなって、その追悼文を書けと言われたのが一本目(先生が書かないのになんで私が?)。江藤淳の没後10年特集を組むからアナタも何か書きなさいと言われたのが二本目(先生の先生について書くなんて荷が重いわ~)。ブルジョワジーを特集するから石原慎太郎について書いてみない? と言われたのが三本目(ハイハイ、わかりましたよ)。

 酒の誘いだろうと原稿の依頼だろうと先生に言われたことは断らない、福田さんが私を弟子と呼ぶようになった頃から、私はそう決めていた。人の家でごちそうになるときに、これは食べたくないとかあれが飲みたいとか、ワガママを言わないのと同じで、差しだされたら選り好みしないでいっさいがっさい飲む。それが「弟子」としての礼儀だと思っていた。

 そのため、呼び出されたら深夜だろうと銀座のバーに向かい、正月二日の二十三時にご自宅へお邪魔したこともある(ご家族には迷惑だっただろう)。原稿も、引きうけた後で途方に暮れて、〆切間近になってから半ばヤケクソで書きだしたものだった。

 

 昔の自分の原稿を読み返すことは、私はあまり好きじゃない。写真に映った自分の顔を見たり、録音された自分の声を聞くのと同じようなもので、端的に言って恥ずかしいからだ。だいぶ時間が経ったから冷静に読めるかと思ったけれども、やっぱり今回もダメだった。当時は書けたつもりだったけど思ったより書けてないなとガッカリしたり、今の自分には書けないなと感心したり。いろいろな感情が渦を巻いて、チクチクと羞恥心を刺激する。

 読み返すだけでは収まらず手を入れようと思ったのは、この文章は福田和也ただ一人に向けて書かれている、と感じたからだ。原稿料をもらう以上はその雑誌の読者にとっておもしろい原稿を書くのがスジというもので、その要件は、編集同人である福田和也がおもしろいと思う原稿を書けばおおむね満たされるだろう。そういう、当時の自分の射程感覚が誤っていたとは思わない。その一方で「en-taxi」に限らず、ライター時代に書いた原稿はだいたい全部そうだったな、先生に喜んでもらうために書いてたんだな、とも思う。私にとってそれくらい大きい存在だった。

 批評家としての福田和也が後世どのように評価されるかはわからないが、100人の現役作家の主要作品を百点満点で採点した『作家の値うち』を例に挙げれば、少なくとも読み巧者だったことは否定し得ないと思う。文章表現の道を志した二十代の若者(私)にとって、そういう人を読み手として想定し得たことは、幸運なことだった。やがて師弟関係が破綻して、その若者が自分の文章を見失った(そしてライター業を廃業した)ことは、そのツケが回ってきたからだとも言える。因果応報、あのときああすればよかったという後悔は、思いつく限りでは一つもないけれども。

 2009年当時、福田和也ただ一人に向けて書かれたテキストを、不特定多数(少数)の未知なる読者に向けて開くとしたら。そういう試みとして、昔の原稿に手を入れてみた。

 

 そんなわけで来週以降、冒頭にあげた三本の記事を三回に分けて転載します。記事自体は無料で公開して、編集後記のようなものを有料(300円)に設定する予定です。前回購入ボタンをつけたとき(2024年12月27日付)と同様、投げ銭的な性質になると思います。

 福田和也という人について、ある程度まとまった形で書くとしたら、なんらかの形で「商品」にするべきだと思うけど(対価が発生しない状態では完遂できない気がする)、どういう形が良いのかが、まだ見えてこない。今回の投げ銭(的なもの)の結果が参考になるかもしれない。

 たとえば、三本の記事にはそれぞれ福田さんが登場しますが、一本目では「先生/福田先生」、二本目では「福田和也/福田」、三本目では「F先生」という具合に距離感に微妙な違いがあります。全部読んで全部「購入」してくれたらもちろん嬉しいけど、購入者数のばらつきを見て、どういう距離感が好ましいとか、そんなようなことを参考にしたいなと。

 あとは、福田さんについてまとまった形で書くのがいつになるかはわからないけど、思うように書けなくて投げ出したくなったときに、どこかの誰かが「購入」してくれたら、やっぱり書こうと顔を上げることができるかもしれないな、とか。

 なるべく横書きのwebテキストという体裁に馴染むように手を入れたつもりですが、それぞれ約二十枚(8000字くらい)だから、普段のブログ(2000~3000字くらい)と比べて長すぎるかもしれない。ご興味のある方は、時間に多少余裕があるときに遊びにきてください。

 おっと、はてなブログ今週のお題が「思い出の先生」とのことです。卒業シーズンだからでしょうね。福田さんは私にとって「思い出の先生」なのかなあ、どうなんだろう?

創刊号に何か挟まってると思ったら、サイン会のポラロイド写真だった。坪内さんとリリーさんと、中央が私(当時23歳)。手に何か持ってると思ってよく見たら、ブックファーストのエプロンだ。このときこの店でバイトしてたんだな、仕事中に何やってんだか。

講談社で連載した原稿を新潮社から単行本化した話

『悶々ホルモン』/佐藤和歌子/新潮社/2008年刊
文庫版『悶々ホルモン』/佐藤和歌子/新潮社/2011年刊

 母校で週に一コマの非常勤講師をしていた頃、「ワカコ先生の本が市立図書館で点字本になっていましたよ」と言って実物を見せてくれた生徒さんがいた。私を喜ばせようと思って、わざわざ借りて持ってきてくれたんだと思う。それなのに私は、「アナタは目が見えるんだから借りちゃダメじゃん」などと茶化してしまった。あのとき、お礼くらいはちゃんと言えただろうかと今になって気になっている。

 白い表紙の中央の点字を指でなぞってみたけれど、私にはそれが自著のタイトルかどうかさえわからなかった(もしかすると著者名だったかもしれない)。紙の束をぱらぱら捲りながら、自分に識別できない凹凸が連なっているのを見て、「あ、怖い」と思った。モニターの文字を目で追いながら原稿を書いて、校正が入ったゲラを目で確認しながら鉛筆で印をつけて、その間ずっと、目が見えない人に読まれる可能性を想定していなかった。

 文書を点字にすることを「点訳」と言うらしい、手間も時間もかかるだろう。せっかく点訳してくれたのに、貸出実績が伸びなくて、担当職員をがっかりさせているかもしれないな。借りて読んでくれた人にとって、少しでもおもしろいと思える箇所があったらいいけれど。ある日突然、誰かから「あの本には視覚障害者を差別する表現がありました」と糾弾されたら、私はもう、頭を下げることしかできない。ああ、怖い……そんな風に怖気付いて、そういう自分を隠そうとして茶化してしまった。

 でも、生徒さんが帰って一人になってからふと、やっぱりあの本はああいう形で出してよかったんだな、と思った。連載していた雑誌の編集部と揉めて、単行本は別の出版社から出した、その過程に100%の自信があったわけではない。あのときどうすればよかったんだろうと、心のどこかにずっと残っていた疑問が、思いもよらない形で晴れていくのを感じた。

 

 講談社に就職した大学の同期生から「一緒に何かやりませんか」と連絡を受けたのは、お互いが二十五、六の頃だった。彼女は「モーニング」編集部に勤めていて、巻末の文字ものの連載枠が空くとのことで、企画を出せば会議にかけてくれるという。在学中に友人と呼べるほど親しくしていたわけではない、私の書くものに興味を持ってくれているんだな、と素直に嬉しかった。

 想定される読者層(20~30代会社員、男女比7:3)に共通の関心事項は何だろうと考えて、ぱっと思いついたのは「食べ物」。自分の属性(20代半ば女性フリーライター)で何を書けば興味を持ってもらえるだろうかと考えて、題材は「ホルモン」に絞った。

 漫画雑誌の巻末で、ぱっと見、どの程度の文字量だったら読む気になるだろう。企画を通してもらった後はデザイナーさんに相談して、先にレイアウトを組んでもらった。白黒印刷では写真は使えないから、いわゆるグルメ情報とは別の何かで訴求しなければならない。キャラクターとかストーリー性を出すことができたら、漫画雑誌の読者に受けいれてもらえるだろうか。……そんなことを意識しながら書いていった。

 二、三ヶ月過ぎた頃に、ネットでレビューを書く人が現れた。どうやら読んでもらえているらしい。他の編集部員が取材に付き合ってくれたり、お店の情報を教えてくれたり、好意的な反応を示してくれたことにも励まされた。

 たとえ巻末の見開き一頁だろうと、あの雑誌の連載枠が欲しい漫画家はたくさんいる。もし私がつまらない原稿を書いたら、担当編集者が「友達のよしみでダメなライターに仕事を与えるダメな編集者」ということになってしまう。機会を与えてくれた彼女に私は感謝していたし、そのお礼になることと言ったら、おもしろい原稿を書くことだけだと思っていた。

 

 いずれ単行本にしましょう、という話が出たのは連載開始から半年くらい経った頃だった。そのときは文芸第二だか第三だか、講談社内でエッセイやノンフィクションを担当している部署を紹介されるものと思い込んで、「ぜひお願いします」と答えた。文芸の部署ではなく「モーニング」編集部から出すつもりらしいと判明したのは、一年間の連載が終了する間際だった。

 私が懸念したのはISBNのことだ。出版社から刊行される書籍には13桁のISBNが2本入る。流通ラインに乗った書籍はその識別番号によって分類され、配本され、書店に並ぶ。「モーニング」編集部が出した単行本は、コミックスの売り場に届けられるはずだ。私が書いたのは漫画ではなく文章だ、コミックスの売り場に並んでも手に取ってもらえないのではないか? ああいうものを読んでくれる読者の元に届かないのではないか?

 私が懸念を伝えると、「著者が売り方に注文つけるなんて非常識ですよ」と一蹴された。漫画の部署の経費で作ったコンテンツが文芸の部署の売上として勘定されては堪らない、というのが講談社の「常識」らしい。そんなことは本を手に取る読者には関係ない、エッセイの本だからエッセイのコーナーに置いたほうが売れると思う、と私は食い下がったが、折り合いはつかなかった。

 本にするのは止めましょう、とお断りしてしばらく経った頃、新潮社の文芸編集者に拾われて本になったのが『悶々ホルモン』だった。移籍(?)にあたって新潮社から講談社にいくらかのお金が渡ったはずだが、担当者に一任したため詳細は知らない。私は原稿の加筆と修正に専念して、装丁にもほとんど注文をつけなかった。結果、イメージした以上にチャーミングな本になって、重版も何度かしてもらえた。不満も後悔もまったくない。

 あのときどうすればよかったんだろう、と心にひっかかっていたのは、大学の同期生であり連載時の担当編集者だった彼女のことだ。
「サトウさんレベルの著者がそんなこと言ってたら、やっていけなくなりますよ」
 ああいうことを彼女は、思うのは勝手だけれども言ってはいけなかったし、私は言わせてはいけなかった。編集者も著者も「表現の自由」の側に立つ職種だ、脅しや恫喝の言葉によって本を作るべきではない。

 そもそも私が、当たり障りのない原稿、可もなく不可もない原稿を書いていたら、特に執着されず、講談社内の文芸の部署を紹介してくれたかもしれない。彼女にあんなことを言わせなくて済んだかもしれない。あのとき、どうすればよかったんだろう。

 

 点訳された『悶々ホルモン』(と思われる本)を手にとって、ようやく、あれはあれでよかったんだなと思えたのは、そのとき自分が一人きりだったからだ。私には識別できない点字を指でなぞって、読んでくれたかもしれない読者のことを考えて、怖い思いをしているのは私一人だ。連載時の編集者も単行本の編集者も、ここにはいない。彼らは大勢の著者を担当し、たくさんの本を作って、やがて退職する。私はその後にも、ここに一人で立っている。だから、出版社のオーダーに従うことと、潜在的な読者に向き合うことが、もし二律背反した場合は、後者を優先して然るべきだ。お世話になった編集者を傷つけたとしても。

 あの本を読んでくれた人は、こういう裏話は知りたくないかもしれない。そう思って、今回のブログを更新するべきかどうか、かなり迷った。でも現に今、脅しや恫喝の言葉を浴びているライターや作家がいるかもしれない。そういう人にとって、何かの参考になればいいなと思う。

 もしがっかりさせてしまっていたら、ごめんなさい。

 それと、点字本を持ってきて見せてくれた生徒さん、あのときはどうもありがとう。

単行本をぱらぱらすると、下のほうで牛や豚が行ったり来たり、ナカザワマコトさんのイラストがパラパラ漫画みたいになっています。文庫本には、雑誌で東海林さだおさんとお話ししたときの記事を収録しました。どっちも、良い本を作ってもらえたと思う。

 

墓前報告、の報告

もっと実績を上げている人はたくさんいるだろうけど。誰かの何かの参考になれば幸いです。

 なるべく定期的に読んだり書いたりする時間を設けようと思って、あとはわりと無目的にブログを始めて、地味にちまちまやってきた。昨年末、『ユリイカ』の依頼を受けて書いた原稿が不掲載となったことも、その原稿をここで公開したことも、偶発的な成り行きによるもので、昨日までに92人が購入(という名の投げ銭)してくれたことに驚いている。収支報告は以下のとおり。
  販売金額:27,600円(300円×92人)
  販売手数料:▲4,140円(27,600円×15%)
  振込手数料:▲300円
  手取り:23,160円

 アクセス解析をしたところ、1月6日から7日にかけてX(旧ツィッター)上でリンクが拡散されていた様子を確認した。当該記事(2024年12月27日付)単独でのアクセス数は昨日時点で7,491件、結果的には『ユリイカ』臨時増刊号(総特集 福田和也)に掲載されるより多くの人に読んでもらえたと思う(もちろん、読んでつまらなかったとか、眉をひそめた人もいるだろうけど)。

 92人が300円の支払いのために決済手続きをしてくれたこと、私にない能力を持っている人たちが自分のSNSアカウントで記事を共有してくれたこと、いろんな人が少しずつ手を貸してくれたおかげで、このような報告ができることを心から感謝している。どうもありがとうございます。

 特に、プロの書き手(あるいは出版社から何らかの報酬を得ているであろう人)の幾人かがおおむね好意的な(少なくとも批判的ではない)反応を示してくれたのは意外だった。経験上、こういう記事をおもしろがってくれる読者はある程度いるだろうと予測する一方で、出版業界周辺からは黙殺されるだろう、反応があったとしても「破門された元弟子による私的復讐」みたいに揶揄されるだけだろうと思っていたから。関係者にとっては、雑誌の原稿料を公に晒す「めんどくさい著者」の存在は黙殺したほうが無難というもので、いくらかリスキーかもしれない行動をとってくれた方に、敬意を表したい。

 フリーライターを廃業した理由はその気になれば二ダースは挙げられる、と以前書いたが、要するにこういうこと(原稿料が安いとか編集者が**だとか)を、書きたいと思ったときにいつでも書ける自分でいるために辞めたんだな、と納得もしている。

 そんなわけで『ユリイカ』の明石くん、いろいろどうもありがとう。お礼に宣伝文の一部を添削してあげよう。

原文:福田和也の人生はその著作のなかに収められるのではない、残された人々が今日もつづけていくのだ。
(人は誰しも自分の人生を生きるのであって、誰かの人生を他の誰かが続けることはできない。雑誌の宣伝文だから、ある程度の誇張表現は仕方ないとしても、虚言や妄想の類は慎んだほうが良い。一方で、慕っていた先生の不在に耐えがたい、という心情は理解と同情に値する。故人の著書『ろくでなしの歌』へのオマージュを込めて、以下のように添削した)
添削例:福田和也が歌ったメロディーは、その著作の中だけに響くのではない、残された人々が今日も歌いつづける。

 二十数年前、ゼミの合評会で私が他の学生(特に男子生徒)の作品をこき下ろすと、福田先生はうつむいて、笑いを堪えていたものだった。私はなにも男子生徒をいじめたかったわけではない、学生同士が遠慮や忖度をし合っていたのでは、先生が講評しにくいだろうと思ってのことだった。いろいろ教えてくれたり、酒を飲ませてくれる人に対して、私はそういう尽くし方をした。

 もろもろの報告と、花と酒とカツサンドを携えて、昨日墓参りに行ってきた。プリントアウトした販売実績データを線香と一緒に焚きあげた。「福田和也という人は知らないけどおもしろかった」という感想は、たぶん、ご本人が聞いたら一番喜ぶと思う。

福田和也の墓に酒とカツサンドを供える弟子が、少なくとも一人はいたという記録のために撮影しました。転載は固くお断りします。また故人の冥福を祈り、所在地その他の詮索は慎んでいただくようお願いいたします。

 報告は以上。以下は、お礼になるかどうかはわからないけど、福田和也という人物を考えるうえで参考になりそうな情報を二つばかり追記する。

 一つ目は、家出直後の原稿の荒廃についての具体例。記事の大部分が他人の著作からの引用、という状態が数週間続いたことは以前記した(2024年1月19日付投稿)。単行本化はされていないが、2012年1月から2月の『週刊新潮』をあたれば実態を確認できる。

 もっとひどかったのが、月刊『文藝春秋』の連載「昭和天皇」。山田風太郎の『戦中派不戦日記』の一部を書き写したと思われる箇所が2〜3頁くらいあって、出典の記載もなかった(著作権の侵害に該当するかもしれない)。単行本で訂正がなされたかどうかは確認していないが、『文藝春秋』2012年3月号(2月10日前後発売)と『新装版 戦中派不戦日記』講談社文庫版、100頁~109頁)で照合できるはずだ。

 上記二件について、著者を擁護するつもりはまったくない。その一方で、こういう原稿を掲載した編集部、担当編集者も怠慢だったと思う。お金を払って雑誌を買う読者に対して。

 前掲『ユリイカ』増刊号には編集者あるいは元編集者15人が名を連ねているが、私の知る限り半数以上は、福田さんの家出とその後の「仕事ぶり」を黙認していた。置き去りにされた荷物(蔵書その他の資料を含む)を代理で引き取りにきた編集者は、一人もいなかった。

 参考情報二つ目は、処女作『奇妙な廃墟』の成立に、配偶者が果たした役割について。

 仏文学者の平坂純一さんによると、故・西部邁氏は「福田は細君にドイツ語を任せ、デビュー作を書いている」と話していたという(『情況』2024年Autumn号掲載、「衒学的な、あまりに衒学的な」)。この記事を読んで私が思い出したのは、『奇妙な廃墟』の序章に記された、詩人パウル・ツェランと哲学者ハイデガーの邂逅譚だ。コラボトゥール(ナチズムに加担したフランス文学者)を論じた本書において、「アリバイ」と位置付けられている重要なエピソードを、著者に知らせたのは当時の妻の弘美さんだった、と以前聞いた覚えがあったからだ。

 マルティン・ハイデガーパウル・ツェランは、ナチスユダヤ民族に加えた蛮行をはさんで正反対の位置にありながら、ジェノサイドと全体主義の本質を前にして、虐殺と圧制にみちた現実よりもさらなる深淵への到達を詩作=思索する者の課題とすることにおいて一致して結びついた。この結びつきはもとよりハイデガーが許されたとかツェランが癒されたといったことからは最も遠いことである。しかし、それでもなお、かれらの結びつきは、「アウシュヴィッツ」後の時代における最も建設的な関係であるし、文芸にとっての希望でなければならない。(中略)
 ここでハイデガーツェランが到達した地点が、小論がコラボ作家を論じる位置であり、またいうならば一種のアリバイである。(『奇妙な廃墟』/2002年ちくま学芸文庫版/45~46頁)

 ここで言う「アリバイ」という言葉は、不在証明というよりは免罪符という意味合いに近いと私は理解している。ヒューマニズムの観点から抹殺されてきた作家の作品を、文学として評価することへの免罪符だ。

 今回ブログを更新するにあたって、私の記憶に間違いないか、弘美さんにメールで確認したところ「たしかにそうです」との返信を受け取った。また、ハイデガーツェランを「森の樹木と語ることのできる詩人」と評価していたというエピソード(同、43頁)は、いささか意訳であることに加えて、下記二点を教示してくれた。

・直訳すると「ハイデッガーは、かつて、私に、シュバルツバルトでのツェランは植物と動物について、ハイデッガー自身よりも、より多くの知識を持っていた、と述べた」となるが、「付け加えると、パウル・ツェランは、”学識ある詩人”でもあった─さらに全く驚くべき、自然に対する知識を有した人間であった」という前文を受けての意訳だった。

・上記エピソードを記したH・G・ガダマーの著書”Wer bin Ich und wer bist Du?”については『奇妙な廃墟』序章の注記33に出典が記載されているが、出版社名「Suhrkamp」は不完全で、より正確には「Suhrkamp Verlag」である。

 福田和也の遺作となった『放蕩の果て 自叙伝的批評集』(草思社/2023年刊)第一部の「妖刀の行方──江藤淳」では、処女作の執筆当時の生活についても記されているが、そこに弘美さんの名はない。妻に支えられて執筆したこと、その妻から自分がいかにして逃げたかを書くことができたなら、「自叙伝的批評集」となり得たかもしれない。

 

報告と御礼、お詫びと訂正、などなど

現在のアクセス数は496、購入が20。だいたい25人のうち1人が購入してくれたらしい。

【報告と御礼】
 12月27日付の投稿について、20人の方が購入(という名の投げ銭)してくれました。収支報告は以下のとおり。
 販売額:6,000円(300円×20人)
 販売手数料:▲900円(6,000円×15%)
 振込手数料:▲300円
 手取り:4,800円
 購入してくださった方、SNS等でリンクを転載してくださった方へ、心から御礼申し上げます。どうもありがとうございました。
 福田和也さんの墓前に供える花とお酒と、まい泉カツサンドくらいは買えそうです。お墓の所有管理者ではないため所在地を明かすことはできませんが、なるべく今月中に、場所の特定に結びつかない程度の写真を撮ってご報告したいと思います。

 

【お詫びと訂正】
 アクセス解析をしたところ、田中純氏のブログ内に追記として、当ブログへリンクが貼られていることを確認しました。

https://before-and-afterimages.jp/news2009/2024/12/27/『ユリイカ』福田和也特集/

 また1月4日に近所の図書館で当該『ユリイカ』を拝見したところ、田中氏のご指摘のとおり「『福田和也のオトモダチ』による文集」という表現は適切ではなかったことがわかりました。お詫びします。以上を踏まえて、前回の投稿を以下のように訂正しました。
訂正前:公平性云々は方便で、「福田和也のオトモダチによる文集」には適さないというのが本音かもしれない。
訂正後:公平性云々は方便で、なんとなく載せたくないというのが本音かもしれない。

 

【『ユリイカ』臨時増刊号(総特集 福田和也)の感想、もしくは印象】
 古屋健三さん(大学時代の指導教授)の談話と、佐々木秀一さん(処女作『奇妙な廃墟』の担当編集者)の寄稿がおもしろかった。また、修論の抜粋と単行本未収録原稿が掲載されているのは資料的価値があると思う。それ以外は拾い読みした程度で、気が向いたらそのうちまた図書館で読んでみようと思う。
 今あまり気が向かないのは、私が知っている福田和也という人は、だいぶ前に死んでいたからだろう。つい最近死んだと認識している人たちのノリには付いていけない、もちろんその認識が正しいのだとしても自分はこの葬列には加われない……というのが拾い読みの感想、というか印象だった。

 

重松清さんへの御礼と補足】
 重松清さんが福田さんへの弔辞の中で私の名前を挙げてくださっていたことは人伝てに聞いており、『ユリイカ』増刊号でその内容を確認した。この場を借りて御礼申し上げます。
 雑誌『en-taxi』との関わりについて補足すると、私は依頼を断ったことは一度もなく(一度に三本書いたこともある)、自分から「書かせてほしい」と言ったのは一度だけだ(相手にされなかったことは2024年9月22日付投稿で記した)。五年くらい続いた連載が終わったときは打ち上げもなかった。その後に編集同人に加わった重松さんとは一度も面識がないだけに、「誌面を支えてくれた」とのお言葉が嬉しかった。

 

【拙稿への反省と補足】
 12月27日と30日に更新した内容について、直接的に間接的にいくつか反響をいただいたが、そのうち多いのが「よくあることじゃないか」というものだった(上述した田中純氏のブログにも「家庭内のいざこざは誰にでも起こりうること」とある)。どうも意図したことが伝わっていない、私の書き方がまずかったのだろうという反省の意味で、以下に少し補足する。
 不倫や別居や離婚自体はよくあることだろうけれども、私が問いたかったのは、学生を巻き込む必要がどこにあったのか、ということだ。大学の構内で配偶者をストーカーだと偽り、学生たちを盾にして逃げるという行いは、教員がやっていいことではなかったと思う。どんな事情があったとしても。もし家出後の福田さんが、大学教授という定職や批評家という肩書きを捨てて、私小説か自伝的エッセイあたりを書いていたなら、それがどんなにくだらない内容だったとしても、私は温かい気持ちで見送ることができただろう。
 少なくとも私は、いきなり羽交締めにされる経験をしたのは後にも先にもあのときだけで、それなりに怖い思いをした。「大変だったね」とか「かわいそうに」という声は特になく、それはまあ別にいいけれども、「よくあること」と言われるのはいくらか心外だった。
 どこがまずかったんだろうと読み返してみたけれども、自分で自分の原稿を客観視するのは難しい。もう少し時間を置けば具体的な改善点が見えてくるかもしれないが、今のところ「誰か病院に連れてってあげたら」というのが自分の原稿に対する感想だ。
 ちなみに一番嬉しかったのは「愛がある」という感想。それはそれで意外だったが、言われてみればそうかもしれない。

 

【その他備忘】
 いろいろ思い出したことがある一方で、時間の経過とともに忘れかけていることもあり、福田さんとの個人的な関わりについて年末年始に整理してみた。自分自身の備忘のためであり、ブログで公開する必要はないと思うが、そもそもブログ自体がやる必要もないのであって。
 大半の人にはつまらないだろうけれども、福田さんの人となりについて知りたいという人には、少しだけ参考になる箇所があるかもしれないので、一応以下に記録を残します。

・1999年4月 大学入学
・2000年9月 福田ゼミに所属
・2003年3月 『en-taxi』創刊、短いコラムを寄稿。単位が足りず留年
(福田さんが馬込から旗の台に転居して、そのお手伝いに行ったのは多分この前後)
・2003年4月 拙著『間取りの手帖』を上梓
(この頃に『文藝春秋』で福田さんと鹿島茂さん、松原隆一郎さんによる鼎談書評が始まり、2年間くらいその構成を担当させてもらった)
(渋谷のブックファーストでアルバイトをしていたのもこの頃。レジにお子さんを連れた福田さんが現れたことがあり、福田さんの奥さんが現れたこともあった)
・2003年9月 大学卒業、以降はフリーライター
(品川区戸越に引越して、大井町とんかつ屋「丸八」に誘われたのがこの頃。戸越と旗の台は近いので、度々ご自宅に招いてもらったり、銀座で飲んだ帰りのタクシーに同乗させてもらったりした)
・2004年6月 『en-taxi』6号に「角川春樹句会」を寄稿。以降、連載化
(連載の他には、対談や座談会の構成したり、その時々の特集に寄稿したり。重松清さんが弔辞で言及していた石原慎太郎×立川談志の対談は、2006年か07年頃だったと記憶している)
・2007年1月 『週刊モーニング』の巻末に「悶々ホルモン」を連載
(6回目か7回目が掲載された後、福田さんから電話がかかってきて「アナタの好きなホルモン焼きに案内してほしい」と呼び出された。私が焼いたミノを食べながら、原稿をホメてくれた)
・2008年2月 師弟関係に亀裂が生じた
2023年12月8日付投稿に関連)
・2008年6月 京都の肉割烹「安参」に連れていってもらう
(「悶々ホルモン」単行本用の番外編のため。内心悩んでいたが、原稿は努めて陽気に書いた覚えあり)
・2008年10月 師弟関係の変質を受け入れた
(福田さんが旗の台から目黒区内に転居したのがこの頃。奥さんの手伝いに行って、帰宅した福田さんと鉢合わせし、ギョッとされた覚えあり)
・2009年3月 陶芸家・吉田明さんの追悼文を『en-taxi』に寄稿
・2009年6月 『en-taxi』の江藤淳特集に「師と師の師の間に」を寄稿
・2009年9月 『en-taxi』のブルジョワジー特集に「我が石原慎太郎の慎太郎」を寄稿
(上記三本は、いわば福田さんの「無茶ぶり」。福田さんはいずれの原稿もホメてくれたが、素直に喜べなかった記憶あり。江藤淳特集については、奥さんが「福田は良いお弟子さんを持ちました」と言ってくれた。慎太郎の慎太郎については、アモーレの澤口さんが「あの雑誌で気を吐いているのはお前だけだ」と言ってくれた。そっちのほうが嬉しかった)
・2010年3月 師弟関係が破綻
(当時の私から見た福田さんは、やってることは醜悪だし、書いてるものはつまらないし、「アタマおかしいんじゃないの」という感じだった。今後は表面上のお付き合いに留めましょう、と申し入れた覚えあり。現実はなかなかうまくいかなかったが)
・2010年4月 母校大学で非常勤講師として週に一コマのワークショップを出講
(福田さんは酒井信さんを誘ったが断られて、その代打として私に話が回ってきたのが1月頃だった)
・2010年10月 怪文書事件発生
2023年6月30日付2023年8月11日付の投稿に関連あり)
・2010年11月 福田ゼミの謝恩会開催
(99年入学組の幹事として関わった。「最後のご奉公」のつもりだった)
・2010年12月 『en-taxi』「角川春樹句会」最終回
・2011年3月 東日本大震災発生
(たしかその翌日に神保町の東京堂書店で、坪内祐三さんと福田さんのトークライブが開催された。打ち上げ後に福田さんをご自宅へ送る際、なぜか戸越のカラオケボックスに立ち寄った記憶あり。福田さんとサシで飲んだのはこれが最後だったと思う)
・2011年12月 福田さんの「放蕩」の実態がご家族に露見し、年末に家出
・2012年1月 ご家族からの連絡を受けて、捜索に協力
2024年12月27日付投稿参照。奥さんを大学へ案内したのは、2月の第一週か第二週、学期最後の授業の日だった。夫の勤務先へ行くのは本当に「気が進まない」ことだったに違いなく、最低限のマナーとして「教室内には立ち入らない」と事前に打ち合わせていたことを追記しておく)
・2012年2月か3月 福田さんのお子さんと文藝春秋の飯窪氏との面会に同席
(私が見た限り、福田さんのご家族が一番心配していたのは、家出以降の原稿がたとえようもなく荒れていったことだった。2024年1月19日付投稿参照)
・2012年3月 青山ブックセンターで福田さんのサイン会
(店の前で福田さんのお父上を出迎えて、会場まで案内した。私がお父上と対面したのはこの一度きり、小柄で、足元が覚束なかった記憶あり。私自身も列に並び、著書『村上春樹12の長編小説』にサインをもらったが、ため書きには福田さんのお子さんの名前を指定した。お子さんの名前を書く福田さんの手は震えていた)
・2012年5月頃 蔵書を中心に、福田さんが置いていった荷物の片付けを手伝う。
2023年5月12日付2023年5月19日付2024年6月16日付投稿参照)
(非常勤講師として母校大学に出講したのは2012年春学期が最後。福田さんからは何の連絡もなし)
・2012年9月 『病気と日本文学 近現代文学講義』刊行
(学生時代に録音した音源を元に構成した講義録。制作の途中で家出騒ぎが発生して、担当してくれた洋泉社の雨宮さんにも迷惑をかけた覚えあり。最終章に単行本のための「特別講義」を設けたが、レコーダーを回しても福田さんは意味のあることをほとんど喋らなかったため、指定された教材と断片的な言葉を手掛かりとして九割方は私がでっちあげた)
(以降、福田さんとの個人的な関わりは一切なし)

『病気と日本文学 近現代文学講義』/福田和也/洋泉社/2012年刊
10年前の講義をテキスト化したもの。文字起こしをしながら、「福田先生こそ病気なんじゃないの」と震撼した覚えあり。

 

続・恩師の背中

『放蕩の果て 自叙的批評集』/福田和也/草思社/2023年刊

 いずれ忘れてしまうだろうから、今のうちに書いておこう。九月の末、福田和也さんの葬儀が済んだ頃にこんな夢を見た。
「死ぬのが怖い、行ったら戻れない」
 どこかの公園だか河川敷だか、西陽に染まった野っ原で先生が泣いている。
「仕方ないじゃないですか。私は大丈夫ですから」
 そう言って背中をさすってあげる夢だ。ロロピアーナのジャケット越しに触れた背中は、まだ肉が付いていた頃の、私が知っている福田先生の背中だった。

ユリイカ』から寄稿依頼があったのはその一ヶ月後くらい、世に出ている追悼文の類に目を通しながら、さて何を書こうかと考えた。前回更新した内容、つまり、なりふり構わず逃げ去った「恩師の背中」を書こうと思ったのは、そのほうが雑誌全体がおもしろくなると思ったからだ。卒業生による寄稿は七、八本予定されていたから、恩師を後ろから斬りつける原稿が一本くらいあったほうが全体として盛り上がる……少なくとも私が学生だった頃の福田さんなら、そういう意図をホメてくれただろう。

 思い出すままにキーボードを打って、三、四時間で七、八枚くらいになった。残すべき要素に優先順位をつけて、一時間くらいかけて指定字数(五枚弱)まで削った。原稿料は一枚あたり千円とのことだから合計四千数百円、私が供出できる時間はこのくらいが限度だ。ちなみに今回使ったネタは、寿司に喩えるなら穴子イクラとかウニとかトロではないし、私の好きな〆鯖でもない。

 掲載見送りとされた理由については、編集長の明石くん(福田ゼミの後輩)でないと本当のところはわからない。私が理解した範囲では「公平性に欠ける」ということらしい。本文中に書いた騒動の日、奥さんが福田先生に暴力を振るって、それが発端となって先生は逃げたと聞いている、私の書き方は奥さん側に有利な方へ偏っている、とのことだった。

 元はといえば、福田さんが**や**を滞納して、彼女と称する女性との遊興に散財していたと露見したことが「発端」だったと私は思うが、「奥さんにも原因がある」とか「物書きは何をやっても許される」とか言う人もいるだろう。夫婦の揉め事を第三者が公平に描くなんて土台無理な話で、私は「いろいろあったうちの一つ」、つまり「恩師の背中」を書いた。そのように伝えたが、とにかくこのままでは掲載できないとのことだった。

 2012年以降の福田さんが尋常でない痩せ方、老け方をしていったのは、関係者でなくとも周知の事実だ。原稿の荒れ方も尋常じゃなかった。2011年末の家出は自殺行為だったと言っていいと思うが、衰弱していく様子を間近で見てきたであろう明石くんが、いまだに「奥さんに有利(先生に不利)」という言い方をしていることに私は驚いた。

 それ以上に難儀だったのは、彼が使う「公平」という言葉にほとんど意味を見出せないことだった。私が思う公平性は、たとえば自分が編集の仕事で人並みの給料を貰っているなら、外部に原稿を発注する際は一枚あたり最低四千円の原稿料を用意することだ。それができないなら、原稿の内容について著者と対等に交渉できる立場ではない。アンタにとってはメシのタネでも、こっちにとっては仕事にも何にもなりゃしないんだから。

 それでももし明石くんの意を汲むとすれば、たとえば編集後記に次のような文言を付け加えれば済む話だ、「◯頁の佐藤和歌子さんのエッセイで書かれた騒動について、編集部ではかくかくしかじかとの情報を得ています。公平性に欠けるのではと懸念しましたが『読者の判断に委ねたい』との著者の意向を尊重し、そのまま掲載することとしました」。あるいはタイトルを「短編小説・恩師の背中」にするとか、(私自身は小説と称するほどクリエイティブな原稿を書いたとは思わないけど)彼のほうから提案があればそのくらいは譲歩したかもしれない。

 要するに、カネが出せないならアタマ使え。あたしの時間を奪うな。自分で何とかしろ。……こういうこと言わなきゃわかんない人って、たいがい、言ってもわかんないんだよな。それに公平性云々は方便で、福田和也のオトモダチによる文集」には適さないというのが本音かもしれない。なんとなく載せたくないというのが本音かもしれない。(2025年1月6日訂正)

 さきほど青土社の公式サイトを確認したところ、前に見たときにはあった執筆者の名前がまた一つ消えていた。しかも定価が2,640円から3,080円に上がっている。やれやれ。

 年の最後に、福田さんの遺作『放蕩の果て 自叙的批評集』の一節を引用する。

 確かに、私は江藤さんから妖刀を譲り受けた。いい気になって、振り回していた時期もあった。
 しかし、この十年ほど妖刀の姿を見ていない。(中略)
 一体、今妖刀は何処にあるのだろう。
 誰か知っている人がいたら、教えてもらえないだろうか。(「妖刀の行方──江藤淳」より)

 そんな妖刀なんてものが本当にあったとしたら、先生が出ていったあの家に置いてきたんじゃないですかね。もしまた夢に出てきたら、そう教えてあげよう。

前回、「購入」機能を初めて使ってみたところ10人の方が「投げ銭」してくれました。どうもありがとう。目標の20人に届いたら、福田先生の墓参りに行って当ブログで報告します。
それでは、良いお年を。

 

場外追悼・福田和也

本日発売の『ユリイカ』増刊号に掲載予定だった記事をお届けします。縦書きの印刷物を想定して書いたからブログの体裁では少し読みにくいかもしれない。でもまあ経緯が経緯なので加筆修正はしていません。

恩師の背中

佐藤和歌子

 私の最初の単行本はヘンテコな間取り図ばかりを載せたヘンテコな本だった。学生時代に作っていたフリーペーパーが編集者の目に留まって本を出すことになって、それがヒットしてフリーライターになったんですよと話すと、「調子に乗っちゃったんだね」と今でも言われる。実際には調子に乗るどころではなかったのだが。

 二刷の知らせを受けたときは素直に嬉しかったけれども、三刷、四刷になると「コワイ、キモチワルイ」。売れる前と売れた後で私は何も変わらないのに、いろんな人がいろんなことを言い出す。本が売れたんだからニコニコしてなきゃいけないのに、当時の私はいつでも泣きたい気持ちだった。

 実際に泣き出してしまったことがある。夏のゼミ合宿の二日目の講評会の席で、寝不足だったり前夜の酒が残っていたり、気がつくと涙が止まらなくなっていた。

「いきなり読者が増えるってキツイよね」

 その夜の飲み会で、福田先生はそう声をかけてくれた。

「でも、本が売れるっていいことだから。本屋さんも喜ぶし、印刷屋さんも喜ぶ。絶対、いいことだから」

 教え子が出した本が自分の本より売れて、教え子を慰める先生がどこの世界にいるだろうか。それが福田先生だった。

 それから二十年の間にはいろいろなことがあって、先生とは疎遠になり、フリーライターは廃業した。「いろいろ」のうちの一つを書くとしたら、やっぱりあれか。

 福田先生の行方がわからないとの連絡をご家族から受けたのは、二〇一二年の三が日が明けた頃だった。高齢のご両親の入院が重なるなか、長子である先生と連絡が取れず、ご家族は困憊しきっていた。私は「一緒に土下座してあげますから」というメールを先生に送ったが、音沙汰なし。「本当は気が進まないんですけど」という奥さんを、先生の勤務先(したがって私の母校)である大学に案内することになったのは、学期末が迫る寒い日の午後だった。

 教室は二階で出入り口は二箇所、片方で奥さんが、片方で私が待ち伏せた。日が落ちて終業時刻を少し過ぎると、私が待ち構えていたほうの扉から先生が出てきた。

「お迎えにあがりました」

 私は先生の右腕をしっかり抱えた。しかし先生は、事態を察するやそれを振りほどいて教室の中に戻ってしまった。

「どうしましょう」

「待つしかないですね」

 五分くらい経っただろうか。扉が開くと今度は学生が大勢出てきて、私と奥さんを取り囲み、取り押さえた。

「あなたたち、不審者ですよ!」

 どうやら先生は「ストーカーに待ち伏せされていて帰れない」などと説明したらしい。「その人は先生の奥さんです」と私は怒鳴ったが、福田先生を守ろうという彼らにもみくちゃにされて身動きがとれない。先生はその間に逃走した。

 遠巻きに見守る学生の中に顔見知りを見つけて助けを求め、やっと解放された私と奥さんが校舎の裏手に向かうと、先生はタクシーに乗り込むところだった。出発しようとするタクシーに奥さんが体当たりをして、運転手に怒鳴られた。「この人ストーカーです、助けてくださーい」と先生が叫び、「夫婦喧嘩ですから、お構いなく!」と私も叫ぶ。奥さんだけは抑えた声で「話し合いましょう」と呼びかけていた。

 結局、もう一台タクシーを呼んで先生の車を追いかけたが、信号待ちで巻かれてしまってその日の追跡は諦めた。辻堂駅から上りの東海道線に乗ると、暖房は効いているのに膝が震えだした。先生は学生を騙して、利用して、逃げた。奥さんか私か、学生さんが怪我をしてもおかしくなかった。

「あれは、書けなくなりますね」

 私がそう言って奥さんが頷いたのだったか、奥さんが言ったことに私が頷いたのだったか、思い出せない。ただ、先生は奥さんから逃げたのではない、自分自身から逃げている、と思ったことは覚えている。別居するにしろ離婚するにしろ、もう少しマシなやり方がある。

 逃げたこと自体を非難するつもりはない、私だってライター業から逃げた。でも、自分自身に対して批評的でない人に、批評の文章が書けるだろうか? 批評家という洋服を着ている限り、批評からもっとも遠い場所にいる。やがて疎遠になった福田和也という人を、私はそのように眺めていた。

 以上。掲載見送りとなった経緯については次回、「続・恩師の背中」とでもしてなるべく年内に書いてみます。

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(以下は2025年1月6日追記)

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