ライター稼業を始めて数年経つが、自分の書いたものを読み返すことはほとんどない。もちろん書いている間は何度となく読み返すが、いったん手を放れてしまえばそれきり。何が書いてあるかはだいたい知ってるし、読んで直したくなってももう直せないからだ。
床に積まれた本の山を崩して、五年前の雑誌を探す。「en-taxi」四号、吉田明という陶芸家を特集した号だ。学生時代からお世話になっている福田和也先生に誘われて青梅の工房を訪れ、吉田明さんの手ほどきに従って粘土をいじった。そしてコラムともエッセイともつかない短い原稿を書いた。
あの日、吉田さんは水を張った大きなバケツに新聞紙やエロ本を浸して、それを煙突状に組んで股下くらいの高さの窯を作った。下方に送風口があって、改造したドライヤーで熱風を送ると、顔の高さまで火柱が上がった。それを囲んで酒を飲み、やがて燃えカスの中からいくつかの塊が出てきた。その一つを差しだされても、数時間前に自分がこしらえたぐい呑みだとはわからなかった。灰がそのまま肌になった部分とそうでない部分。石が溶けてガラス質になった部分とそうでない部分。底に刻んだ自分の名、とても文字には見えないただの瑕、それだけに見覚えがあって、ぎょっとした。火ばさみを箸のように操る吉田さんが、いつの時代のどこの国の人ともわからなくなった。
今回はその吉田さんの、追悼文を書かなければならない。何かの参考になればと思って古雑誌を引っぱりだしたものの、そのまま鞄に突っこんで東京駅に向かう。駅の売店でワンカップとドライ明太を買って新幹線に乗り、柏崎に着くまで鞄に入れっぱなしだった。
あのとき私は、器のことも吉田さんのことも、何もわからないまま書いた。書いたというより、頼まれた字数を埋めた。何を書けばいいのかわからないまま、逃げきった。そういう原稿を読み返すのが恥ずかしくて、いたたまれなくて、頁を開くことができない。追悼文を書くために遺作展に向かう、この行為自体も、結局は字数を埋めるための方便なのかもしれない。
訃報を知ったのは二月に入ってからだった。十二月に亡くなって、六十歳だったという。銀座のバーで福田先生から聞かされても、お葬式は、などと間抜けな反応しか示せずにいた。
「あいつ、死にやがって」
先生の剣幕を目の前に飲み続けて、帰る頃には私が追悼文を書くことになっていた。「先生は?」と聞くと、「書かない」。
遺作展のホームページによると、柏崎の駅前から会場まではバスが出ているらしい。現地に着いてみると三時間に二本、時刻表どおりだとすれば、五分前に出たばかりだ。タクシーの運転手に停留所の名を告げたが、知らないという。無線で場所を確認してもらって、駅前を抜けるとすぐに、田んぼの水面が黒々と曇天を映しだす。
ギャラリー「風の座(かぜのくら)」は普通の民家だった。東京の戸建てではあまり見ない、大勢の来客を前提とした広い玄関で靴を脱いで上がると、十五畳の床の間付きの和室と、八畳くらいの洋室に分けて、作品が展示されていた。そのほとんどに値札が付いている。三嶋の模様が入った大皿が十万五千円、椿の絵皿が五万二千五百円、いくつかはそれなりの値段がついていたが、数千円台のものが一番多い。しかも買えばその日に持って帰れるという。こんな値段でいいのか。遺作展に来たのは追悼文を書くためで、買うためではない。しかし、買えると思ったが最後、物色に走る。
私は今まで器というものに凝ったことがない。通りがかった骨董屋や骨董市で時間を潰すことはあっても、結局は買わない。一人暮らしを始めるときでさえ、実家で余っていたものをもらって、足りないものは近所の商店街の器屋で一番安いものを求めた。大して料理もしないのに器に凝るなんて、かえってみっともない。それに、自分で選べる器なんて欲しくなかった。
このあたりは比較的高額だな、それだけネウチがあるってことか? 物色をしても、ついそんな風に考えてしまう。これでは器を見ているのか値札を見ているのかわからない。和室と洋室を三回くらい行ったり来たりして、飯茶碗二つと湯呑みを一つ、恐る恐る選んでみた。受付の女性に器を包んでもらいながら「じつは」と来意を明かして、雑誌に掲載するための写真撮影を願い出る。
「陶芸センターには行かれましたか? 日帰りですか、車がないとちょっと難しいかもしれないけど。廃校になった体育館の床を抜いて、窯を作ったんです。雪が降っても焼けるように、煙の抜け道を作って」
説明を聞きながら想像しようとして、やめた。どうせ吉田さんが作る窯だ、理解できるわけがない。このギャラリーでも、作品を売るだけでなく七輪陶芸のワークショップをやっていたそうだ。
「移ってきたばかりの頃は、高いと言われましたね。この辺りではそうなんでしょう、知られてないから。先生は茶碗はあまり作っていなかった。でもここに来てからは、お米がおいしいって、茶碗を沢山作って、地元の人たちに配ったんです。だからこの辺の人たちは、みんな持ってますよ」
青梅の窯場を訪れたとき、手製のカレーライスや大根焼きをふるまってくれたことを思い出す。火バサミを片手に、ときどきガラムを吸っていたことも。
「前の晩に、咳をしていたんです。明日病院に行くよって、電話で仰ってたんですけど。”雪螢”を窯に入れた後に倒れて、病院に運ばれて、そのまま」
その遺作は床の間に展示されていた。茶碗一つと湯呑み一つ、白地に波のような線が走り、ところどころにぽんぽんと、丸く黒っぽい釉薬が置かれている。既に買われて、遺作展のために借り受けたものだという。
帰りのバスが走り出すと、雨が降ってきた。雪蛍と聞いて、最初は綿虫のことかと思ったけれども。舞い上がる火の粉は、雪の上では蛍のようだったか。夕闇の車窓に二度三度、コイン精米機の灯りが過ぎていった。
福田先生が根城と呼んでいるバーは銀座六丁目にあって、早めの時間に行くと二回に一回は先生がいる。デジタルカメラの液晶画面で写真を見せながら遺作展の報告をした。
「ずいぶん作風が変わったね、ボディラインに力がない。本当に吉田が作ったの? お弟子さんじゃなくて?」
そんなこと聞かれても、私には答えられない。柏崎まで行ってきたんだから、少しは労ってくれてもよさそうなものだが。
「仕方ない。あいつは本当にすごかったんだもの。魯山人以降、指を折れるのは吉田だけ。窯のことは自在でしょ。骨董のクセをよく掴んでいたし、そこに新しい意匠を加えたのも見事だった」
吉田さんはいくつか、漢字の印を押した三嶋の器を作っている。白い化粧土の上に、花模様の印を押すのが一般的な三嶋で、漢字の印は吉田さんのオリジナルだという。
「他にも、耳盃(じはい)を粉引で仕上げたり。あいつは何でもできたから。三嶋だって、唐津だって、何でもできた。一番巧かったのは何だろう、黄瀬戸もよかったし、織部もよかった。だけど陶芸の世界って、七十、八十にならないと評価されないから」
世間の評価というものを気にしていたのだろうか。あの太々しさで?
「うん、あいつは本当にかわいくないよ。個展会場で、こんなでかい鍋でどぶろく振る舞ってるんだもん。あれは捕まっても文句言えなかった」
先生は遺作展には行かないんですか。
「行かない。だって欲しいものないでしょ、行かなくたってわかる。八王子の窯で焼いたのが一番よかった。あとは、七輪で焼いたぐい呑みも、いくつか買ったけど」
吉田さんは八王子、青梅、日の出町、それから十日町に窯場を持った。年譜を見れば二十六歳から四十六歳まで、八王子時代が一番長い。
遺作展には青梅と日の出町時代の作品も少しあったけれども、半分以上は十日町で焼かれたものだった。青梅時代の赤絵の組皿と、七輪で焼いたぐい呑みだけ、非売品の札がついていた。
「赤絵だって、全然違うでしょ、俺が持ってるのと。アナタもうちに来たときに見たことあると思うけど」
私に器の良し悪しはわからないが、たしかにあの赤はすごかった。思えば赤という色は厄介で、私はそれを高校の美術の先生から教わった。モンドリアンの模写をしたとき、黄と青はともかく赤だけはダメ出しされて、何度も塗り直したけれども結局諦めた思い出がある。福田先生が持っている吉田さんの赤絵は、塗り直す余地のない、どこまでも突き抜けた赤だった。私がそう言うと、中華とかのせると意外と合うんだよ、と先生は得意気だ。
「八王子の窯は火事でダメになっちゃった。あいつの持っていた釉薬も、全部ダメになった。それからだ、縄文とか七輪に走ったのは」
ギャラリー「風の座」で聞いた話によると、吉田さんが青梅から十日町に越してきたのは三年前、能登半島の珠洲の土を目指す過程で妻有の土に出会ったからだという。妻有の土には鉄分が多く、妻有焼と名付けてライフワークに掲げるほど、吉田さんは入れこんでいた。
「あいつ、すぐ土に逃げるんだ。珠洲の土なんて、どうってことないのに」
私が買った器は三つとも妻有で焼かれたものだ。先生は、まず買わないだろう。私だって追悼文を引き受けていなければ買わなかったかもしれない。三つで丁度一万円だったことを告げると、
「いまだに、そんな値段なのか」
先生はバーカウンターに突っ伏した。
それでも、私が買った湯呑みは間違いなく吉田さんのものだ。灰色の刷毛目を引いた側面に、薄墨色ででかでかと「TUMARI」と描かれているのだ。はっきり言ってダサい。いまどきローマ字なんて、中学校の粘土の授業でも流行らないのではないか。吉田さんだ、そう思ったら買っていた。
飯茶碗を二つ買ったのも正解だった。白っぽいのと灰色の、最初は交互に使ってみて、次の日からいつも白っぽいのを使っている。なんとなくそっちのほうが気に入った。ギャラリーで手に取ったときの印象は逆だった。左手で持つものだから、軽い方を使うだろうと思っていた。
何が気に入ったのか。たとえばこの先自分が失明したとして、手元にこの茶碗があったら、いくらかありがたいだろうと思う。釉薬の凹凸に触れれば、その色を思い出すことができるかもしれない。卵の液体をまとった米が二粒、底の窪みに嵌ったのを箸で掬いあげる。粘膜を器具で触れられて、その感触を通して自分の体温を知るようなおかしみが湧く。違う箸を使えば、もっと違う手応えが得られるだろうか。
浅草の箸屋の名前を思い出そうとして、ちょっと待てよと思う。箸を買って、椀を買う自分が想像できる。これだけのことで、出会った、などと思いたがるのは浅はかというものか。だけど出会いは、選べなかったはずだ。
福田先生が最初に吉田さんの器に出会ったのは、仙川の「うつわや」だったと聞いている。今の私くらいの年齢で、定職に就かずに骨董に狂っていた時期のことで、しかもそれきり骨董を買わなくなったというのだから、よっぽどのことだ。お店は五年前に代々木上原に移転したらしい。ホームページで所在地を確かめて訪ねてみることにした。
看板らしい看板は見当たらないが、通りに面した大きなガラス窓のおかげですぐにわかった。そっとお店に入ると、年配の女性に声をかけられた。
「葉書をご覧になっていらしたんですか? それともどなたかのご紹介?」
隠すことなど何もないという風なショートカット。先生に吉田さんの器を売った人だ、店主のあらかわゆきこさんだと直感する。遺作展に行ったときと同様、取材の用意なんて何もしてない。しどろもどろ、吉田さんの名前を出すと、一瞬だけ愛想が消えた。
「そう。吉田さん、お亡くなりになりました」
葬儀は十日町で、納骨は青梅で、お骨は自作の水差しに。淡々とそう話してくれた。他のお客さんが途切れたタイミングで、吉田さんを特集した五年前の雑誌を鞄から取りだして、福田先生が「うつわや」に触れている箇所を指し示した。
「へえ、全然知らなかった。福田さんも、言ってくださればいいのに。追悼文、福田さんはお書きにならないの? 書けばいいのに。あなたが書くの? 大変でしょう」
そうなんです、ほんとに。器というものの値段はどのように決まるんでしょうか。吉田さんの器は安すぎると、福田先生は思ってるみたいなんですけど。プロを相手に初対面で聞いていいことではないと思ったけれども、窮状を打ち明けた勢いに任せて質問を重ねる。
「……吉田さんはとにかくたくさん作るから。普通陶芸家って、あんなに多作じゃないのよ。あの人は陶芸家とは違う、中学生の頃から窯を作って、あちこち窯場に行って研究して、窯ぐれっていうのかしら」
聞き返すと、帳場の奥から陶芸辞典を出してきて、開いて見せてくれた。「江戸時代に始まった語で最初は渡り職人を指称した。彼らは一定の住居もなく諸窯を渡り歩き、技術さえ優秀ならば私人としての欠点などは自他共に問題としなかった」、窯ぐれ。
「昔の職人はそうやって修行したのよね。今はあんなことをする陶芸家はいないし、もう出てこないと思う。天才でしょう」
天才の作ったものが、凡人の作ったものより安いというのは、何なんだろう。ものの値段の不確かさと理不尽さは、私も最初の本の印税を手にしたときに実感したけれども。吉田さんの器は、売れなかったということか。
「死んでから評価が高まる人よね。たくさん出る、人気があるという類ではなかった。名前のある人がポンと大作を買っていく感じ。福田さんが買ってくださって、吉田さんも嬉しかったと思う。だけど、福田さんは特殊。奥様がすごいでしょう、ご自宅でご馳走になったことがあるけど、それはもう」
引越しのときや正月に何度か、私もごちそうになった。昆布巻きからサンドイッチまで、今までに食べたどれよりもおいしかった。おいしいでしょう、凝ってるでしょうという嫌味が全然なくて、堂々としているのだ。
「そうそう。吉田さんの大皿にも、サラダをぐわっと盛りつけて。なかなか、ああは使えない」
先生が吉田さんの器を買わなくなったことを、あらかわさんはどう思っているのだろうか。
「私もやっぱり、八王子時代がベストだと思う。一番得意だったのは朝鮮もの、粉引もいいけど、三嶋かな。釉薬のことはよくわからないけど、あれが全部無くなってしまったのは、大きかったでしょうね。それと、最初の奥様。奥様も、染付けの、いい作家でした……」
暇乞いすると、今年の六月に新宿のギャラリー「柿傳」で、来年の今ぐらいには「うつわや」で、遺作展が催されると教えてくれた。
火事のことは一九九一年一月二十四日の読売新聞朝刊の多摩面に載っていた。規模としては工房と倉庫合わせて二百五平方メートルを全焼したらしい。「この日は、八王子市内で開かれていた『吉田明新春昨陶展』の最終日。吉田さんは打ち上げパーティの席で知らせを聞いて駆けつけたが、倉庫に保管していた作品約六百点、美術書、道具類はすべて焼けた後だった。(中略)今年は多摩地区を始め、大阪、山形など全国各地で個展を開く予定だったが、『創作のメドが立たない』とガックリ。『でも人生なんでもゼロからスタートですよ』と、今後の創作に意欲を燃やしていた」。
もしや火事で奥さんを亡くしたのではないか、そう気になって調べてみたのだが。「人生」を語る吉田さんの様子に、ふっと笑いが込みあげる。しかしそれを報告すると、福田先生は予想外に険しい表情だった。
「火元は? 何て書かれてた?」
読売新聞では、朝鮮式床暖房から。毎日新聞では、作業所のコンセントの接触不良で。そんな風に書いてありました。
「……あのとき、初日のパーティーで吉田がどぶろくと手料理を振る舞うことになってたんだ。だけど、いつまでたっても来ないんだよ。後で聞いたら、家で奥さんに包丁突きつけられて、出られなかったって」
初日? 思わずそう聞き返す。
「うん。皆であいつを待っている間、とんでもない話がボロボロ出てきた、”デカメロン”みたいにね。人間は最悪。うちのカミさんは女の敵だって言ってるけど、吉田はほんと、最悪。人のこと言えないけど」
個展の初日が刃傷沙汰で、最終日が火事とは。窯ぐれ、覚えたばかりの言葉を思い出す。
「その後のことは、俺もよく知らないんだ。自分の仕事が上り調子になってきて、しばらく会ってなかったから」
吉田ひろこさんという染付け作家の消息は、私の力不足で調べきれなかった。ただ、先生がギャラリー「柿傳」で久しぶりに会ったとき、吉田さんは別の女性と一緒だったという。その女性が喪主を務めたのだろうか。
「知らない。だけどラオスの布きれとか、どうするんだろ。向こうの人が織った、すごいきれいなのを集めてたよ」
陶芸以外のことにも、興味はあったのか。
「だって気が散りまくってたでしょ。青梅の庭だって、瓦だとか自分で焼いたタイルを並べたのに、自分でくっつけた重機でその上に乗りあげて、割っちゃうんだもの」
気が散りやすいのは先生も同じだろう。同じことができない、といつも言っている。
「まあね。だけどあいつほどじゃない。一つの窯で腰据えて、自分の作品みっちり焼いてればよかったのに」
吉田さんは陶芸の実用書をいくつか出している。最後の著書は『10分陶芸;つくって、焼いて、使うまで、最速10分!』(双葉社)。私がタイトルを告げると、
「わはは、そんなに急がなくてもいいよね」
ウケている。大半の陶芸家は、何十万円もする電気窯を使う。吉田さんは七輪陶芸なんてものを発明して、陶芸家も業者も全部を敵に回した。先生は吉田さんのことを誰かに説明するとき、必ず上機嫌でこのエピソードから始める。
ちなみに七輪陶芸ではドライヤーを使って火力を上げるのがポイントだったのに対して、十分陶芸では電子レンジが立役者。普通に作れば、小さなぐい呑みでも二、三時間はかかる乾燥の工程を、電子レンジの解凍機能を使って五分に短縮したのだ。あとがきによると「最も苦しめられたのが、この電子レンジである。そもそも、機能がよくわからない。器をあらゆる場所に置いて、何度も何度も『チン』してみた。(中略)技術というものは、普及しなければ意味がないからだ」。吉田さんは、やっぱり吉田さんだ。でも「十分陶芸」なんて聞けば、バカにする人もいるだろう。とても巨匠とは思えない。
「どう付き合えばいいのか、わからなかったんだ。だから青梅に行った、リリーさんとアナタを誘って。だって、買えなくなっちゃったんだもの。買えないよ、ほんとにすごい奴だと思ってるから、買えなかった」
あのとき先生だって、吉田さんの手ほどきに従って粘土をいじっていたではないか。ぐい呑みの底に「俗」の号を刻み付けて。焼きあがった黒陶をせっせと磨いて。あごに炭を付けたまま。
「全部買っちゃったんだもの。俺が一番いいのを持ってる。一番いいのを、一番たくさん買った。赤絵だって三嶋だって、俺が持ってるやつが一番いい」
自慢には聞こえなかった、何かに向かって抗議する声だった。もし生きていたら、再び先生が買いたくなるようなものを吉田さんは作っただろうか。
「……ないだろうな。陶工としては、八王子で終わってた。だけど俺は今でも、吉田の器で飯食ってる。家にいるときはいつも、あいつの器で飯を食っている」
認められていなかった、それを吉田さん自身はどう思っていたのか。世間とは折り合いがついていなかったのか。
「……つかなかったと思うよ。あいつ、かわいそうだよ。何でもできたんだもの。ほんとに、かわいそう」
ギャラリー「風の座」で聞いた陶芸センターのことは、「十日町市」「妻有焼」で検索すると、すぐにわかる。出かける前に「吉田明」で検索したときは出てこなかった。ホームページを見る限り、地域振興の一環でしかない。
「七十、八十で、文化勲章でも芸術院賞でも獲らせて、うんとくだらない威張り方させてやりたかった。そういうの喜ぶ奴だった。俗物だったから」
追悼文、本当に書かないんですか。
「書かない」
いつか、書くことと書かないことだけが物書きの武器だと教えてくれた。たしかに、書くことと書かないことは似ている、と思う。選ぶことと、選ばないこと。買うことと、買わないこと。先生が逃げているのか、闘っているのかも、見分けがつかない。
「陶芸の世界では、何でも、反対のことが正しいんだ。間違ったことが正しいことなんだ」
五年前の原稿で、私は吉田さんのこの言葉だけを書き留めた。わからないことは、わからないままに。
以上、「en-taxi」25号(2009年3月発売号)に掲載された「不確かさと理不尽さの合間」を加筆修正のうえ転載しました。大きな変更点は以下二つ。
1、記事タイトル
この雑誌では毎号巻末近くに「The Last Waltz」という追悼コーナーがあって、その特別篇という体裁だった。つまり、当時はタイトルで断らなくても追悼文であることは一目瞭然だったが、転載ではそうはいかない。内容がわかりやすいように「先生の黙(もだ)──陶工、吉田明を悼む」と変更した。
なお掲載号の「The Last Waltz」では拙稿の他に、杉山正樹(文芸評論家・編集者)の追悼を片岡義男さんが、ジョン・アップダイク(小説家)の追悼を新元良一さんが、清野徹(コラムニスト)の追悼を坪内祐三さんが、それぞれ1000字前後で書いておられた。
2、青梅の工房を訪問した時期の正誤
同じ雑誌で吉田明さんの特集を組んだ時期について、執筆当時は「四年前」としていたが、改めて整理したところおよそ五年前(2003年の12月発売号)だったことが判明した。どうして四年前と思いこんでいたのか、わからない。自分のミスを今さら糊塗するようで気がひけたが、事実関係は正確に越したことはないので訂正した。
──その他の変更点、原稿に手を入れながら思い出したことなど、以下に有料記事として追記しました。2000字くらいの編集後記、大したことは書いてません。それでもよければ、どうぞ投げ銭感覚でご購入ください。