
フランスは借金でイギリスは相続、ドイツは山でロシアは信仰、アメリカは逃避か幽霊なのだという。国文学とされる小説はそういうことをテーマにしている、という話。
「日本は自殺です。ご存知のとおり、芥川龍之介や三島由紀夫といった作家が自殺しているだけでなく作品自体が、やっぱり自殺なんですね。夏目漱石の『こころ』から村上春樹の『ノルウェイの森』に至るまで、自殺が非常に重要なモチーフになっている。江藤さんがああいう形で亡くなられたということは、日本文学もまだ大丈夫、ということかもしれませんけど」
教員がそこで言葉を切ると、教室の空気が固まった。前の年に「江藤さん」が自殺したこと、その教員が「江藤さん」を恩師と仰いでいたことを知らない学生はいない。そうですね、日本文学はまだ大丈夫、などと頷けるものではない。じっと目を伏せたまま次の言葉を待つ。
「……では、次回はドストエフスキーの『賭博者』を読んできてください。『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』と比べるとだいぶ短い、でもこの作家のエッセンスが凝縮されている短編で……」
二〇〇〇年秋、某私立大学の講義光景だ。教員の名前は福田和也。江藤淳の推薦によってその四年前に助教授に就任した。彼が運営するゼミでは学期中に三回、二十枚から四十枚程度の小説を提出し、翌週はその合評会をする。それ以外の週は、国内外の短編小説を読み、ひとりひとり意見や感想を述べる。三島由紀夫の「橋づくし」や佐藤春夫の「美しき町」、チェーホフの「ともしび」やゴーゴリの「外套」等々。
福田は週刊誌や論壇誌等に多数の連載を抱える評論家だった。文芸評論を主軸としながら時事や歴史、美食や旅行記など、執筆範囲は幅広く、毎月のように新刊を出していた。文学や思想をテーマにした大教室の講義は二,三百名が履修する人気科目だったが、曲がりなりにも小説を書いて提出しようという学生はそれほど多くない。ゼミの出席者は回を追うごとに減り、学期末まで残るのは十数名だった。高校時代から福田の著書に親しみ、彼の下で学ぶために入学してきた者。文学部の受験に失敗し、仮面浪人中の者。新人賞に応募して小説家になりたいと志望する者も、少しはいた。
「僕のゼミは、あのキャンパスで他に行くところがない学生さんが集まってくるんですよ」
十年前に新設された学部で、経営学や情報分析学といった新手の研究領域に目もくれず、小説という古典的な表現手法を学ぼうという学生たちのことを、福田自身はそのように語っていた。冗談でもあり、事実でもあった。
ある学生は理工学部を志望して一浪し、失敗した。唯一合格した環境情報学部に入学したものの、どの講義をとるべきかがわからない。たまたま覗いた大教室の講義内容に惹かれて、その教員の講義もゼミもまとめて履修申告した。福田和也も江藤淳も一冊も読んだことがない、まさに「他に行くところのない学生」だ。
講義中に語られる文豪の逸話や、テキストとして指定される小説は、文学的知識のない彼女にも十分魅力的だった。知識を補えばよりおもしろいだろうと、その教員の近著を手に取った。『作家の値うち』『日本人の目玉』『ろくでなしの歌』、それから『江藤淳という人』。
──江藤淳本人の著書を読む前に、福田による江藤論を読んだのは、果たして正しいことだったんだろうか? 「愛弟子によるかくも深き追悼」といういオビの巻かれたその本には、江藤淳の生前に書かれた評論が四本、江藤と福田の対談が一本、江藤淳の没後に書かれた追悼が九本収められている。生前の江藤淳を知らず、著書を読んだこともない者が、その追悼の言葉に涙することは正しいことだったんだろうか?──追って江藤淳の著書を手に取ったとき、その学生はそんな疑問を抱いた。「福田和也が語る江藤淳像」に囚われているように感じて、本を閉じた。いつか読むべき時が来たら読もう、今はその時ではないという直感に従って。
その後、彼女は新卒採用の内定が取れないまま卒業し、フリーライターを名乗るようになった。そういう元教え子を、福田は「弟子」として周囲に紹介し、学生時代に輪をかけてふんだんに酒を飲ませた。あるとき、酔っ払った彼女はこんなことを口走った。
「いつか私が本当にいい文章を書いたら、みよしさんのあの絵、くれますか」
福田の著書の扉絵に使われた「白樺」という鉛筆画のことだ。学生数人で引越しの手伝いに行ったとき、彼女は玄関に架けられたその絵にじっと見入っていた。
「いつか先生が亡くなったときに、あの絵を持っていたいんですよ」
またあるときは、こう言った。
「いずれ先生が亡くなったら、私が『とんかつ忌』で追悼句を詠んであげますからね」
つまり彼女は、福田和也が死んだときのことを日常的に想定し続けていた。それを本人や家族の目に触れるところで言ったり書いたりもした。失礼でもあったろうし、非常識でもあったかもしれない。しかし、彼女にとっては自然なことだった。自然とそうしてきたことの背景に、江藤淳の死があった。そのときが来たら追悼文を書かなければならない、「そのとき」はいつどんな形で訪れるかわからない。それが、福田和也から最初に教わった戒めだったからだ。
彼女は長い間、江藤淳の著書を開かなかった。しかし、そのようにして彼女の中に江藤淳はいた。彼女というのは、もちろん私のことだ。
私はいわゆる戦後民主主義教育というものによって育てられました。そういう学校教育を受けたというだけでなく、母親が三十年以上公立小学校の教員を務めてきたので、同世代の中でも、強くその下に育ったと言っていいと思います。子供の頃、少なくとも衣食住に不安を覚えたことはなく、私立大学への進学を快く許されたのも、母が自分の給料で三人の子供に学資保険をかけてきたからです。
母は昭和二十二年、山形の農家の六人きょうだいの末っ子として生まれました。兄弟姉妹のなかで大学に通ったのは母一人です。早くに親と死に別れることになったとしても、教育を身につけておけば生きていけるだろうと、母の母は飼っていた牛を売ってその学費に充てたと聞いています。
山形の大学でも「ノンポリはバカにされる時代だった」から、学生運動には「人並みに参加した」そうです。教育学部を出て教員免許を取れば「引く手数多」で、三つの自治体の採用試験に合格して、そのなかから横浜市を選んだという話を聞くと、今とはずいぶん違う時代だったんだな、と思います。母は母で「若い人が必要とされない時代はおかしい。今の人はかわいそう」と言いますが、昭和四十年代からつい最近まで母が公務員として勤めていたおかげで、その子供としてずいぶん時代の恩恵を受けたはずだと、私は私で思います。
右と左というものがあるらしいと、子供心に知ったのは、両親と、隣の家に住んでいた祖父との関係が少し複雑に見えたからです。長男の父が「どこの馬の骨ともわからない娘」と恋愛結婚をする、しかもその娘は仕事を続けるつもりだということで、当初は反対されたそうです。結局両親の希望が叶ったのは、どういう経緯によるものだったのか、詳しくは聞いていません。
祖父は、国民の祝日には必ず門柱に日の丸を出す人でした。隣の家といっても敷地の中に二軒建っていて、つまり門や郵便受けは一つだったので、父も母もこれが恥ずかしかったようです。あからさまに悪口を言ったり、表立って祖父と争うようなことはありませんでしたが、ときどき「うちのおじいちゃんはちょっと、時代錯誤なところがあるからね」と頷きあっていたように記憶しています。
両親は共産党員ではありませんでしたが、友人の中に党員がいたのだと思います。祖父の家では日経新聞を、私たちの家では毎日新聞をとっていましたが、それとは別に、家の中には赤旗新聞がありました。週に一度か二度、歩いて五分くらいの場所にあるアパートのポストに取りに行くのです。祖父に内緒で購読するために、ポストだけを借りているらしいとわかったのは、小学校の後半でした。
孫の私は祖父のことをどう見ていたのかと言えば、やはり最初は親の言うことを鵜呑みにしていたように思います。古い人だから、封建的で、時代錯誤なところがあるのは仕方ないけど、悪い人ではないのだと。
「こわいおじいちゃん」ではあったけれども、ちょっとおもしろいところもありました。
新興宗教の勧誘が、祖父の玄関先に上がりこんできたときのことです。
「このままでは世界は救われません」
「救われなくて結構!」
一人暮らしの老人をカモにするつもりだったんだろうけど、うちのおじいちゃんはそうはいかないわよ、とその様子を可笑しそうに伝えてくれたのは母です。祖母の死後は、母が毎年お節料理を作って親戚を迎え、普段も母が作る夕食を祖父は毎日のように食べました。簡単に言えば祖父は「右」で両親は「左」だったけれども、それよりは穏やかに生活することを優先して、祖父も両親も、どこかで線を引いてそこからはみ出さないようにしていたのだと思います。
大正十五年に生まれ、平成十年に死んだ祖父の口から、戦争の話を聞いたことはありません。どういう風に話しかければいいのかわからなかったし、両親の手前、触れてはいけない話題であるようにも感じました。
母は比較的よく戦争の話をしました。「絶対にいけない」「日本人も中国や朝鮮でひどいことをした」、従軍慰安婦問題について「日本政府はきちんと謝罪しなければいけない」とも言いました。日の丸や君が代は、よくないものだ、恐ろしいものだと教えられました。「日の丸や君が代のために大勢の人が死んだ」。旗や歌のために人が死ぬことがあるのかと、その意味はよくわかりませんでした。近所で祝日に日の丸を出す家は他になく、どうして祖父だけがそれをするのかも。今でも本当にわかっているのかと問われれば、正直、自信がありません。
戦争を生きたはずの祖父が何も語らず、戦後に生まれたはずの母が多くを語ることは、子供心にもヘンでした。食べるものがなかったり、上から爆撃をされるのは嫌なので、戦争をしたいとか、戦争に巻き込まれたいとは思いません。だけど母のようにダメだダメだと繰り返すことで防げるものだとは思えませんでした。いつからか、母が戦争を語るとき、私は話半分で聞くようになっていました。
家から歩いて二十分くらいのところに川崎市平和館という施設があり、小学校や中学校の授業や行事で何度か連れて行かれされました。県立高校の修学旅行では広島の平和記念館にも行きました。とにかく想像を絶する事態だったということはわかります。しかし想像が許されていない以上、そこで自分が何を思えばいいのか、わかりません。何か言えば、全部間違いになるような気がしました。その都度、感想文のようなものを書かされたはずですが、自分が何を考え、何を書いたのか、覚えていません。
──以下、江藤淳「日本と私」より引用(『江藤淳コレクション2』所収/ちくま学芸文庫/2001年刊)
引越しの日には、トラックが朝早く来た。
家内と私は、荷物のあいだにうずくまって食パンをかじりながら、運送屋が本をつめた箱を積み込むのを眺めていた。十二月も半ばすぎで、今にも雪が降りそうな寒い日だった。
こうやって見ていると、本のほかにはこれという荷物がないのにはおどろかないわけにはいかない。家内の実家と友人の家とにわけてあずけておいたのこりの荷物は、もう牛込のアパートに運びこんであるが、家内の整理ダンスと洋服ダンス、それに少しガタの来た三面鏡をのぞけば、書架が三つとはげちょろけの鎌倉彫の机があるだけだ。あとは本である。
世帯を持ってから七年半になるのに、なにも道具らしいものがたまらなかったのは、金もなかったからだが、留守番ばかりして歩いていたせいでもある。先方の家具をつかわせてもらっていれば、別に自分のものをそろえる必要もなかった。それに私はなにも欲しいとは思わなかった。欲しいと思うことがなぜか自分に似合わないと思っていたからだ。その結果、商売がら欲しいといわないでも送って来る本だけがたまって、奇妙な引越し荷物ができている。
(中略)
わかっていることは、家ができても家具がはいっても、あるいはハウス・ウォーミングをやってみても、心の渇きが少しもみたされないということである。原稿を書くという知的作業に没頭しようとしても、それが少しも切実なことに感じられない。切実なことはどこかほかの場所にあり、本当はそのことだけが気にかかっているのに、それがなんであるかがわからないのである。
──以下、福田和也『俗ニ生キ俗ニ死スベシ 俗生歳時記』より引用(筑摩書房/2003年刊)
自分が、貪欲である事、欲深い事は認める。
結局、口で吸い、指でふれ、舌で味わうほどのものは、すべてを抱きしめようとしてきた。明確な了見もなく、もとより審美眼など持ち得ないままに。
生きていく上での領分についても、一貫して貪欲であったと思う。
一家を構えて、子供を持ち、その成長と子供との暮らしを楽しみながら、同時に街に住む碌でなしとしての生活も満喫してきた。
(中略)
酒は、随分と呑んだ。旨い物も沢山食った。
我が国のみならず世界的に酒食の秩序が崩れた、その不幸とドサクサの幸運を一身にして、ありとあらゆる場所の旨いものを食った。パリ、リヨン、ローマ、ヴェネツィア、ヴェローナ、ナポリ、ミュンヘン、ウィーン、ブダペスト、上海、紹興、香港、京都、大阪、東京……
たしかに色々なところに行ったし、色々な街に行き、たくさんの人たちと出会った。
買い物もした。
高い時計やよい鞣しの革だけでなく。
皿を買った、壺を買った、漢の俑も、北斉の壺も、北宋の茶碗も、明の皿も、みんな買った。デューラーの版画も買った、ハイデガーの手紙も買った、みんなみんな買った。
でも、売った物も少なくはない。
よい音楽を聴いた。いろいろなコンサートに行った。
音楽家たちとも、知り合った。
楽器は出来るようにはならなかった。
そして、本を書いた。
いくつかの本は売れ、残りはあんまり売れなかった。
でも、かなり稼いだ。
少しだけ、いい本を書いた、と思ってはいる。
昭和七年に生まれた江藤淳と、昭和三十五年に生まれた福田和也。二人の批評家の仕事を比較するとしたら、参照するべき作品、引用するべき文章はもっと他にあるはずだ。しかし私は、それをしたいわけではない、そういう「文芸評論」を自分が書けるとは思わない。ただ、このギャップはなんなんだろう? 二人の文章を読んで自分が感じた間隙に目を凝らす。
福田和也によれば、江藤淳は「喪失」し続けた人だ。幼少期に母を失い、祖父が奉職した海軍は沈み、一家の経済は敗戦によって没落し、批評家としての仕事を共に築きあげた妻をついに失った。『成熟と喪失』『一族再会』『妻と私』といった代表作を読めば、噛みしめるように「喪失」が描かれている。しかし、敢えて世間的な物差しで測れば、いろいろなものを得たこともあった人だと言うことはできる。
多くの人から尊敬され、鎌倉と軽井沢に家を持ち、数億の資産を遺した。居住まいのきちんとした人だったそうで、社会的な地位に相応して「高い時計やよい鞣しの革」を身につけることもあっただろう。自宅に泥棒が入った際、ローランサンの絵と妻の絵を一緒に盗まれて、まんざらでもなさそうだった、という話も聞いた。だけどそれらも「心の渇き」を満たしはしなかったのか。
最初に引用した「日本と私」は、アメリカでの二年間の生活を終えて帰国した頃、三十三歳の文章だ。その四年後に書かれた「場所と私」によると、その間に軽井沢に別荘を建てている。家を建てたが、連れて来たかった老犬は死に、ゴルフに誘いたかった父は足腰が立たないほどに老衰し、「おそらく生きているうちにここには来られないであろう。いや、正確にいえば来ないであろう」。
鎌倉市西御門には、四十九歳のときに建てた旧江藤邸が今もある。流行作家ならともかく批評家が建てられる家じゃない、とは聞いていた。新年会には毎年、五、六十人もの編集者が集まったとも。その前に立って、大きさと、門構えや庭木の感じの良さを確かめながら、この家の中で死んだのか、と思う。
文章は明晰すぎるほど明晰だ。こんな文章が書けて、しかも多くの読者を得ることができたなら、それだけでいいじゃないかとさえ思う。保守派の論客として知られた人だが、たとえば「ミスター・エトウ・イズ・オン・ヴァケーション」など、軽妙洒脱なエッセイもお手のものだ。近所の子供神輿と往き逢って、「時節柄、絵馬の絵柄は戯画に題材を求めたものが多かったが、なかでも『風魔』というのが迫力があって、氏神さまもさぞお喜びであろうと思われた」という文章に触れると、ペシミストだったとは思えない。明るさ、素直さを感じる。
こういう人が、どうして「喪失」し続けなければならなかったのか。
私が知っている福田和也は、たしかに贅沢な人だ。贅沢が好きだし、それを味わう術を体得しているように見える。銀座のバーでは彼のためにクリュッグが冷やされており、大井町のとんかつ屋に行けば注文する前からお新香やハムサラダが出迎える。ゼミの学生相手にフランク・ミュラーの文字盤のルーレットを回してみせたかと思えば、敬愛する写真家から貰ったカジュアルな腕時計に、ワニ皮のベルトを合わせて楽しんでいる。その一方で、税務署の取り立てを憂いたり、誰か一千万貸してくれないかなあ、などと呟く。時計やカメラを質に入れて、その利息を払いに質屋に通い、それでも流れてしまったものもあるらしい。
福田は大学院時代、古谷健三に師事し、また批評文の質としては「江藤淳よりも保田與重郎に遥かに近い」と自認している。二人の文章を読んで、言い表し難いギャップを感じるのは当然至極のことかもしれないが。
『江藤淳という人』を読むと、江藤淳を語る言葉に福田自身を表すかのような箇所がいくつも見つかる。たとえば「江藤先生の好意、親切は常に具体的であった。先生は書く場所のない者に場所を与え、職の無い者に職を与え、金の無い者に金を与え、つての無い者に人を紹介した」。私は福田和也によって書く場所を与えられた、何人も編集者を紹介された。その「親切の有り様は先生の、人格というよりも、批評家としての姿勢から発するものだった。けだし、かような振る舞いこそが先生の批評だと思う。(中略)安全地帯で無責任な分析を連ねることではなく、情勢の渦中で、ペンを持って戦うこと」。
福田はデビュー作『奇妙な廃墟』で対独協力者としてフランス文学史から抹殺された作家を論じている。それが、戦後憲法の成立過程やGHQによる検閲の実態をたった一人で精査した江藤淳によって評価されたのは、福田が言うように「問題意識の通底があった」からだろう。当事者であり続けること、なかったことにされたものをたしかにあったと言い続けることが、二人の批評家の、批評家としての一番の根本だと思う。
だからこそ、表された生活のイメージ、失ったものと得たものへの認識のギャップにたじろぐ。たしかに戦争があったな、と思う。すべてをそのためだとするのは乱暴だし、戦争ではなく戦後、もしくは敗戦と呼んだほうが正確かもしれない。本人の性格とか資質とか、時代と言ったのでは済まされない何か。祖父の沈黙や母の饒舌からは感じられなかったものが、そこに横たわっている。手で触れることはできないけれども、風とか音とか、波動と分類されるようなものとして、今それを感じる。
「この喪失感とこの悲しみにまさる強烈な思想を私は誰からも、何によってももらわなかった」(江藤淳『戦後と私』新潮文庫)
江藤淳が欺瞞と断じた戦後民主主義教育によって育てられた私は、どうしてそのように感じることができるのだろう? 手前勝手な思い込みに過ぎないのか。そう言われたとしても、一つとして反証をあげることはできないけれども。
私にとって戦後民主主義教育の象徴と言ってもよい母は、しかし優秀な教員でもあった。「ゆとり教育」なる方針に従って授業時間が削られたときは、「子供なんて最初は空っぽなんだから詰め込まないとダメなのよ」と嘆いた。小学校では「個性尊重」ではなく「とにかく読み書き算数」が重要で、一斉テストでは受け持つクラスの平均点が学校や市の平均を上回ることを誇りにしていた。病院内の学校や特殊学級の生徒に教えるのは「教育の原点」だと言い、「明日死ぬ子もいる。だけどその子たちに教育が必要じゃないかといえば、そんなことはない。読んだり書いたり歌ったりすること自体に価値がある」と言った。
その言葉は、欺瞞ではなかったと思う。少なくとも「安全地帯」から発せられたものではなかった。自分の仕事に信念と畏れを持っていた。卒業した生徒のその後の活躍が私の耳に入ってくることもあって、国から報酬をもらうだけの仕事はした人だと思う。戦争や国、政治の話を、いまだに母と交わす気にはなれないことも事実ではあるけれど。
私は江藤淳の自殺の上に生きている。いろんな意味でそう思う。その矛盾と、書くことへの畏れを、両方とも手放したくないと思う。昭和五十五年に生まれた者として。
以上、『en-taxi』SUMMER 2009 VOL.26(2009年6月発売号)に掲載された「師と師の師の間に」を加筆修正のうえ転載しました。大きな変更点は以下の三つ。
1、記事タイトル
もとは江藤淳の没後十年特集への寄稿であり、福田和也が江藤淳を「先生」と呼んでいたことも、筆者にとって福田和也が「先生」だったことも、その雑誌の大方の読者には説明不要だった。転載ではその背景が無化するため、タイトルだけで記事のテーマが伝わるように「先生の先生へ──没後十年に江藤淳を思う」と変更した。
参考までに、「批評の明滅、批評家の命脈」と題されたその特集の目次は以下のとおり。
・「愛のかたち」福田和也
・江藤淳の思い出Ⅰ 元『文藝春秋』編集長・白川浩司氏インタビュー
・江藤淳の思い出Ⅱ 元『新潮』編集長・坂本忠雄氏インタビュー
・「古い仲間」石原慎太郎
・「”愚痴とスリルと誇り”の歓喜──時評家としての江藤淳」前田塁
・「エドウィン・マクレラン氏の死と〈先生の不在〉」山田潤治
・「先生とアメリカと私」茂田眞理子
・「師と師の師の間に」佐藤和歌子
・「憤怒と大人と滅亡と」藤原敬之
2、第一ブロックの書き直し
冒頭から最初の空行までの第一ブロックを、ほぼ全面的に書き直した。福田和也と江藤淳の関係、筆者と福田和也の関係を示すという意図は継承しているが、初出時は「私」という一人称で語られていたところを「ある学生」の目線から語り直すことを目論んだ。全体の構成に対してそのほうが効果的だろうと見込んだためだが、改稿がうまくいったかどうか、確信はない。
3、最後の文章の削除
初出時は末尾に以下の一文があった。
「最後に、文中両氏への敬称を省いたことをお詫びする。」
第一ブロックを書き直した結果、全体に対して不要になったと判断して削除した。
──その他、手を入れながら思い出したこと、江藤淳の自殺と福田和也について改めて考えたことなど、以下に有料記事として追記しました。2000字程度の編集後記、ご興味とお時間のある方は、例によってどうぞ「投げ銭感覚」でご購入ください。










