ライターズブルース

読むことと、書くこと

弟子時代の遺物(その一)

『お菓子と麦酒』/サマセット・モーム/厨川圭子訳/角川文庫/平成20年刊

 引越しから半年以上経ってようやく本の収納場所を定めて、ジャンルや判型、作家ごとにざっくり整理してみると、サマセット・モームの文庫本が十冊くらいある。全体量と比べれば好きな作家の一人にモームを加えなければならないように思うが、じつは自分で買ったものは一冊もない。すべてF先生宅から貰い受けたものだ。

 F先生は大学の先生で、私は二十歳から三十過ぎまでの間に三回、引越しの手伝いをした。といっても作業は主に、不要とされた本の山から欲しい本を持ち帰ることだった。それに三回目については、家出をしたF先生の遺物整理をご家族に提案してのことだったから、いわゆる「引越しの手伝い」と言って良いかどうかは自信がない。ともかくそういう経緯で、モームの文庫本が私の手元に一揃いある。

 講義でも著書でもF先生がモームに触れていた記憶はなく、にも関わらずその文庫本は折皺や付箋がたくさん付いた状態で、書架の中でも手に取りやすいところに置き去りにされていた。まとめて引き取ったのは、家出に至った先生の心境に少しでも近寄ろうという気持ちが、幾らかはあったのかもしれない。

 サマセット・モームと言えば、画家ゴーギャンをモデルに書かれた『月と六ペンス』が有名だが、作家本人の一番のお気に入りは『お菓子と麦酒』だったという。発表は1930年、56歳のときの作品で、ヒロインのモデルは最愛の女性だったと言われている。モームらしい(イギリス人らしい)皮肉は健在で、たとえば「ロイの経歴は文学志望の若人の模範になるであろう。私と同時代の作家で、ロイほどの乏しい才能をもって、ロイほどの高い地位にのしあがった者は他に思いあたらない」。この尖ったペンで最愛の女性を描くと、どういうことになるか。

“夜明けのように清純でした。青春の女神ヒーピーのようでした。ティーローズのようでした”(中略)

“じつにいい人だった。一度も不機嫌な彼女を見たことがない。欲しいとひとこと言えば、すぐ何でもくれる人だった。彼女が他人の悪口を言っているのを聞いたことは一度もない。美しい心の持ち主だったよ”

 回りくどい悪口と平明な賛辞、この対比が鮮やかだ。何より、好きな女を描いた小説のタイトルが”Cakes and Ale”、微笑ましいではないか。私はたしかにこの作家が好きだ、人としてチャーミングだと思う。

 作中ではこの女性が家出というか、駆け落ちをする。作家である夫は、再婚した女性の秘書的手腕によって高い地位に到達するが、文学的評価を受けるのは最初の妻と暮らした頃に書かれた作品である、というのが物語のポイントの一つになっている。F先生の著書も、後世に残るとすれば最初の結婚生活で書かれたものだろう。

 先生は批評家をもって任じていたが、自分自身に対して批評的でない人に批評の文章は書けない。当時の私はそのように考え、先生が一度は家に帰るように、自分のことや家族のことに向き合うように、わりといろんなことをした。嫌がられるようなこともしたし、裏切るようなこともした。

 不肖の弟子だったと、認めざるを得ない。実際、手伝いと称しては資料になりそうな本をあれこれ持ち帰ったものの、その半分も活用しなかった。そしてライター稼業を廃して、自分自身が引越しをする段になると、貰い受けた本の大部分に見切りをつけた。F先生の書架には学術的な本も稀覯本の類もあったに違いないが、私の手元に一番多く残ったのは世界的ベストセラー作家の文庫本だ。我ながら欲もなければ学もない、情けないを通り越して清々しい。

2023年5月19日追記:記事タイトルに(その一)を加えました。本文を数箇所改めました。

この顔で"Cakes and Ale"と韻を踏んじゃうところが好き。(写真は『月と六ペンス』の見返し)