ライターズブルース

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『〈オールカラー版〉美術の誘惑』/宮下規久朗/光文社新書/2015年刊

 二、三ヶ月前、ワインを飲みながら絵を描くというワークショップに参加した。美大生が講師をする体験型アートショップというもので、その日は6号のキャンバスにパレットナイフを使って、一種のポップアートを制作する回だった。見本では人の顔や犬の顔が描かれていたけれども、好きな題材で良いと言われたので、私は酒瓶を十八本とグラスを一つ描いた。

 誘ってくれた友人は「うまい」と言ってくれたけれども、「誰でもすてきな絵が描けます」というのがそこの謳い文句で、作業自体も約三時間。上手下手はあまり関係ない。もし差があるとしたら、高校の美術の授業でアクリル画を描いた経験のためかと思われた(友人はアクリル絵具自体が初めてと言っていた)。

 印象派の画集の中から好きな絵を一点選んで模写する、というのがその授業の最初の課題で、私はなんとなくゴッホの「跳ね橋」を選んだ。まず十二分割くらいのグリッドを引いたトレーシングペーパーを画集の上にあてて、それをガイドとしてキャンバスに鉛筆で下絵を描く。続いて黄土色の絵具を使って下絵をなぞり、茶色、焦茶色を徐々に重ねていく。もう塗れるところがなくなったところで、今度は青系の絵の具を一色、二色と足していく。……思い出しながらそんな話をすると、友人は「ずいぶん本格的だったんだね」。

 他の高校に通ったことがないから比べようがないけれども、言われてみればそうかもしれない。お手本の画集には鮮やかな色が印刷されているから、つい最初からその色を使いたくなるのだが、週に一回、最初の二ヶ月くらいは茶系と青系の絵具だけで輪郭をなぞる、という風に教わった。当時の私はそれを、画材に慣れるためと解釈していたけれども。

 あれはどうも、絵を描くというよりは絵を見る時間だったのかもしれない。絵の描き方とか道具の使い方を覚える以前に、一つの絵にじっくり向き合う訓練。少なくとも私にとってはそういう意味で貴重な体験だったんだなと、二十五年経った今はそう思う。

 

 ワークショップをきっかけに、友人は絵具を買って自宅で絵を描いているらしい。「教えてよ」と言われたけれども、とてもそんなことはできない。「良い絵を描こうと思ったら、良い絵をなるべくたくさん見たほうがいいと思うよ」なんて月並みなことを言って、がっかりさせてしまった。

 がっかりさせたままでは申し訳ないから、何か参考になるような、参考にはならなくても絵を見たいとか絵を描きたいという気持ちになるような本がないかなと思って、本棚から抜き取ったのが『美術の誘惑』。

 産経新聞の連載をまとめたエッセイ集で、中国の山水画や現代美術、東北の供養絵額や刺青の写真集など題材は幅広く、一編は短い。西洋美術を専門とする著者の主著とは言えないだろうけれども、私はこの本が好きだ。その理由はおそらく、一人娘を若くして亡くしたという、一見絵画とは関係のない個人的な体験が綴られていること。美術はどんな人の心をも救うことができると信じて、美術史の仕事に打ち込んできたけれども、「そんな信念は吹き飛んでしまった」。

 美術はあらゆる宗教と同じく、絶望の底から人を救い上げるほどの力はなく、大きな悲嘆や苦悩の前ではまったく無力だ。しかし、墓前に備える花や線香くらいの機能は持っているのだろう。とくに必要ではないし、ほとんど頼りにはならないが、ときにありがたく、気分を鎮めてくれる。そして出会う時期によっては多少の意味を持ち、心の明暗に寄り添ってくれるのである。(「エピローグ 美術の誘惑」より)

 人にとってもっとも大事な画像は「美術作品ではなく死別した家族の遺影にほかならない」と、美術作品の価値を否定しながら、美術作品について語る。遠野に伝わる供養絵額は「死者が、亡くなった後も平穏で幸福な暮らしをしてほしいという奉納者の願望なのだ」。職業的な義務感で立ち寄った展覧会で、その画家が息子を亡くしたことを知り、「その寡黙な画面には大きな悲しみが塗り込められていた」。自分の心を一枚の絵に託すという人の営みが、ささやかな奇跡のようなものとして伝わってくる。

 新書だからサイズは大きくないけれども、図版はすべてカラーで掲載されている。近くの美術館で見られそうなものも、少しある。始めたばかりの友人の趣味がいつまで続くかはわからないし、この本に興味を持ってくれるとは限らないけれども。久しぶりに描いてみて私もおもしろかったから、そのお礼になるかどうか、そのうち近くの美術館にでも誘ってみようかと思っている。

絵を描くのは楽しいけれども、飾る場所もしまう場所もあんまりないのが難点。比べて本は、一冊一冊はかさばらないから、とつい増えすぎてしまうのが難点。