源氏物語といえばイケメン貴公子があちこちで女をたぶらかしては泣いたり泣かせたりするお話でしょ、私は別にいいや、と敬遠していたのだが。お正月を過ぎた頃、今年のNHK大河の放映に合わせて本屋で各種関連本が平積みになっているのを見て、なにげなく手に取ったのが田辺聖子さんによる『新源氏物語』だった。
頁を開くと「光源氏、光源氏と、世上の人々はことごとしいあだ名をつけ、浮わついた色ごのみの公達、ともてはやすのを、当の源氏自身はあじけないことに思っている」……え、なんかゴメン。「彼は真実のところ、まめやかでまじめな心持の青年である」……そうなの? 知らなかった。「世間ふつうの好色者のように、あちらこちらでありふれた色恋沙汰に日をつぶすようなことはしない」……誤解してたかもしれないな、ちゃんと読んだことないから。
以来、気が向いたときに少しずつ読み進めて、半年過ぎる頃ようやく上巻を読了した。いかに気の向かない日が多かったことか。そう、今のところ「やっぱりそういうお話じゃん!」。原典を大胆に翻案して冒頭に「空蝉の巻」を持ってきた田辺聖子さんの手腕にまんまと乗せられたというか、私は別に、と思っていたのに源氏の口説きにほだされてしまう女性心理を体感したというか。
どうもこれは「源氏、ステキ!」と胸をときめかせながら読むお話ではなく、「この姫君の気持ち、わかるわ~」と自分好みの姫に肩入れしながら楽しむお話なのかもしれない。しかしながら私の「推し」は朝顔の姫、「源氏と契った女人たちがそれぞれに苦しむさま」を聞いて「自分はちがう人生をえらぼう」と決意している人だ。必然的に、物語にはあまり登場しないのである。
せっかくだから最後まで読もうと中巻を買ったのは先月のこと。今のところベッドサイドに放置されている。一方で先週買った『方丈記』はさっさと読み終わってしまった。源氏物語と比べてぐんと短いせいもあるけど、たぶん好みの問題なんだろう。
「ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」という出だしで有名な方丈記は、源氏物語より二百年くらい後、平安時代から鎌倉時代に移りゆく乱世に書かれた随筆だ。ちくま学芸文庫版では、原文を通しで載せた後、全体を十三の章に分け、原文と現代語訳と解説がセットで進行する。京都の市街図や近郊図、史跡の写真などの資料も多く、概要しか知らない初心者にはありがたい。おかげで鴨長明という人がすっかり好きになってしまった。
まず構成が上手。序文に続いて「四十余りの春秋をおくれる間に、世の不思議を見る事、ややたびたび」と都の火災、大風、遷都、飢饉、大地震を描写し、「世の中、ありにくく、我が身と栖との、はかなく、あだなるさま、またかくごとし」。簡素な庵での侘び住まいに安寧を見出す、という流れが自然だ。
方丈というのは縦横三メートルくらいの広さを指すそうで、「方丈記」は著者がそのくらいの庵に起居したことに由来する。東日本大震災や感染症の流行で混乱する都下に暮らしたせいだろうか、光源氏のきらびやかな都暮らしよりは、長明の侘び住まいに共感したり憧れたり。
もし、念仏もの憂く、読経まめならぬ時は、みづから休み、みづからおこたる。さまたぐる人もなく、また、恥づべき人もなし。ことさらに無言をせざれども、独りをれば、口業を修めつつべし。必ず、禁戒を守るとしもなくとも、境界なければ、何につけてか破らん。(中略)
もし、余興あればしばしば松の響に秋風楽をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる。芸はこれつたなけれども、人の耳をよろこばしめむとにはあらず。ひとり調べ、ひとり詠じて、みづから情(こころ)をやしなふばかりなり。
訳文・解説の浅見和彦さんによると、鴨長明という人は頭脳明晰で行動力もあるが、人付きあいが苦手だったらしい。下鴨神社の禰宜の家に生まれ、その筋の要職に推されたこともあるけれども、親戚に邪魔されて出世の道を閉ざされてしまったとか。なんかまあ、不器用な感じだ。
古文の教科書には序文しか載ってなかったから、最後に大どんでん返しがあることは読んでみて初めて知った。侘び住まいの良さを語り尽くした後で、「姿は聖人にて、心は濁りに染めり」。俗世を逃れて執着を捨てたつもりでも、この庵での暮らしに執着している自分の心は濁っている、と言っている。人の世に生まれて人の世を厭うなら死ねばいい、なのになぜ生きるのか? 人付きあいが嫌なら人に読ませる文章なんて書かなければいい、なのになぜ書くのか? この人はたぶん、そういう境地で筆を置いたんじゃないだろうか。
ところで『新源氏物語』上巻で私が好きだったのは「海はるか心づくしの須磨の巻」。手を出してはいけない人に手を出したことがお上に知れて、光源氏は都落ち。うらさびしい須磨の海ばたの暮らしで己の罪深さに慄く、というくだりだ。まあ結局はこの地でも新しい恋とやらが待っているのだけど。
方丈記にはさまざまな漢籍や和歌からの引用が織り交ぜられているそうで、福原(現・神戸市)に赴いた際の描写は、この「須磨の巻」に類似しているとか。長明さんもやっぱりこの箇所が好きだったのかもしれないな。上巻だけでも読んでおいてよかった、中巻も少しずつ読んでみるか。気が向いたときに。