「小林秀雄賞を擁する新潮社が洲之内徹の本を絶版にしたことは、批評的ではなかった」と前回書いた後で、なんだかバカなことを書いてしまったなと思った。新潮社で重版・絶版の決裁をする人は、そもそも自社がそういう賞を運営していることを知らないかもしれない。小林秀雄がかつて洲之内徹を「今一番の批評家」と評価したことくらい新潮社では常識だろう、と思うほうがどうかしているのかもしれない。
もし知っていたところで何だというのか。私は出版社で働く人たちの中に、与えられた業務に忠実な「アイヒマン的会社員」の姿を何度も見てきた。文学賞の運営は彼らにとって興行の一つに過ぎないだろうに。そもそも私は何をもって批評的だとか批評的ではないと判断しているんだろう?
批評という言葉と出会ったのは、大学二年生の秋だった。たまたま履修した大教室の講義がおもしろかったために、以降の学生生活を福田和也さんの講義とゼミを中心に過ごすようになったことは以前に書いた。その福田さんが批評家をもって任じていたのだった。
「ものごとの価値を示すのが批評です」
「文芸批評家とか音楽批評家なんていないんですよ、批評家はなんでも対象にするから」
「批評家が一つの職業として認知されるようになったのは小林秀雄以降です」
などなど、講義や飲み会で福田さんが言っていたことを今でも覚えている。言葉の意味内容が経験によって蓄積されるとすれば、私個人にとって批評という言葉の中身は、まずは福田和也という人の批評観によって形成されたはずだ。
そろそろ自分なりに整理しておこうと思って、福田さんの著書をいくつか手に取って頁をめくるうちに、殺伐とした気分になった。書かれた時期を遡ったほうがおもしろい。批評家としての地位を確立していく過程で、文章が弛緩していったように見える。
たとえば1995年から1997年にかけて執筆された『日本人の目玉』。この本で一番雄弁なのは、目次だと思う。いま読んでもさすがだなと思う文章はところどころあるけれども、「虚子と放哉の間で理論を、西田と九鬼の間で思考を、青山と洲之内の間で美を、安吾と三島の間で構成を、川端において散文を問い、そして小林秀雄にたどりついた」、その章立て以上に引用したい箇所はない。
一方で1991年から1992年にかけて執筆された『日本の家郷』では、文章自体に、おそらくはこの著者固有の批評観というものが表れている。
あらゆる時代において、海彼の思潮に侵され、大国の陰に己の小ささを認めなければならなかった日本は、明晰な意識の前にはただ虚妄としてしかあらわれることができなかった。「虚妄」としてしかあらわれえない、日本の真実を直視した時に、はじめて文芸は「日本」を在らしめる言葉に調べを与えることができた。(中略)
その認識が極みに達し、日本とは、あらゆる意味で実体ではなく、正当な名前ですらないと認識した時、批評がはじまる。(『日本の家郷』「第3章 虚妄としての日本」より)
論旨について議論することは、ここではご免被りたい。ただ、この間に著者が商業誌の要請に応え、批評家という職業に邁進していったことは事実だ。初出はどちらも『新潮』という文芸誌で、単行本はどちらも新潮社から刊行されている。『日本人の目玉』が「商品」として評価されていなければ、その後同社の複数の雑誌で連載を持つことはなかったと思う。
そして二冊を並べたとき、私個人は、後に書かれた文章よりも前に書かれた文章を「批評的だ」と感じている。批評家という職業に徹するほど批評的ではなくなっていった、私には、どうしても、そういう風に見える。
商業主義に走りすぎた、と言うのは簡単で、実際に私が学生だった頃(『日本人の目玉』が単行本として刊行された後)、福田さんの周囲には「多作を控えたほうがいい」と言う編集者もいた(それはそれで担当編集者としては矛盾するのだろうけど)。でも、その多作をもって得た金でしこたま酒を飲ませてもらった私としては、それを云々したくない。
それにもし「批評家という職業に徹するほど批評的ではなくなった」とすれば、それは福田和也という一人の批評家の資質よりは、近現代の批評のあり方とか、出版事業の体質に依拠するところが大きいんじゃないだろうか……今のところただの直感ではあるけれど。
何に笑って、何に怒るか。何を喜び、何を悲しむか。その価値観は、一般化することのできない体験を基に形成される。そういうものを小林秀雄は「宿命」と呼び、江藤淳は「私情」と呼び、柄谷行人は「単独性」と呼んだ。宿命/私情/単独性を語ることこそが批評である……、これも福田さんの受け売りだ。
私は批評家を志したことは一度もないし、「批評」そのものを扱おうとも思わない。ただ、学恩よりは酒場で恩を受けた者として、「批評的であること」についてときどき無目的に考えるだけだ。