ライターズブルース

読むことと、書くこと

文章の生死

『なつかしい本の話』/江藤淳/ちくま文庫/2024年刊

 最近どうも、ちくま文庫ばかり買っているような気がする。

 生きているうちに司馬遷の『史記』を読んでみようかと思い立ったのが数ヶ月前。現代日本語訳としてはちくま文庫版が良さそうだと当たりをつけたものの、通読できるかどうか、あまり自信はない。とりあえず一巻を立ち読みしてから考えようと、大きめの書店の近くを通りがかる度に立ち寄ってちくま文庫コーナーをチェックするようになった。

 全八巻となると文庫でもそれなりに場所をとるからか、店頭では『史記』になかなか巡り会えない。ネット書店で取り寄せたほうが早いと歯痒く思いながらも、おかげで洲之内徹のエッセイ集が新たにちくま文庫から出ていることを知った。それで『史記』を置いていないことがもうわかっている書店でも、洲之内徹の続刊がそろそろ出ただろうかと、ちくま文庫コーナーをうろつく。すると今度は江藤淳の『なつかしい本の話』をみつけて……という具合に、家の本棚にちくま文庫が増えつつある。

 どうやら私は、死んだ人の本ばかり読んでいる。書店に行けば「話題の新刊」や「◯◯賞受賞作」も手に取ってはみるけれど、結局買って帰るのは死んだ人の本ばかり。ちくま文庫を多く買ってしまうのも、そのレーベルが古典や旧作のリバイバルを多く出しているからだと思う。

 私は、いま生きている人たちの書いたものに興味がないんだろうか? 時代に取り残されるとは、こういう状態をいうのかもしれない。漠然とした不安が、ないわけではないけれども。

 私はただ、時勢とも文壇の流行とも無関係に、手当り次第に自分の心に響き合うものを求めて、あれこれと濫読をつづけていたにすぎなかった。(中略)
 いったい今日、あのころの私のような本の読み方をしている若い人がいるだろうか、と考えることがある。時流にも、文芸批評家のいうことにもまったく無関心に、ただ自分の嗅覚だけを信じて古今東西の書物の森のなかを逍遥してみよう、という若い人々が? それも、教養を身につけて優越感を味いたいというさもしい魂胆からではなく、自分の心身に重くのしかかって来る生の意味を解き明かしたいが故に、そうせずにはいられない若者たちが。……
 私は、そういう若者たちが、やはりいるに違いないと思い、またいてほしいと思っている。そうでなければ、読書というものは知的な冒険ではなくなり、われわれの感情生活はいくらでも貧しいものになってしまうだろうから。(「ルナール『にんじん』『博物誌』」より)

 気の向くままに手に取った一冊で上記引用の箇所が目に留まって、「読みたいものを読みなさい」と背中を押してもらったような気持ちになった。これを書いたときの著者と今の私はほぼ同年齢で、つまり私はこの人の言う「若い人」ではない。それに、濫読と言えるほどの量を読んでいるわけでもないのに。

『なつかしい本の話』は、幼年期から青年期にかけて親しんだ本について、中年になった著者がさまざまに思いをめぐらせたエッセイ集だ。「読みたいものを読む」ことは当たり前のように見えて、じつは難しい。子供の頃は親や教師の勧める本を読んでみたものの、あまり楽しむことができなくてがっかりしたり。ジュニア向けのシリーズ本を愛好しつつ、なぜかそれを恥ずかしく思ったり。大学生になると無知無学のコンプレックスを埋めるために難しい本を手に取っては、理解できないためにかえってコンプレックスを強くしたり。そうこうするうちに社会に出て、仕事で必要な本しか読まなくなってしまう。でも、読みたいものを読むこと以上にましな「読書術」があるだろうか。……読んだ後、そんなことをぼんやり考えた。

 

 思い出してみれば江藤淳も、私にとってはまず「先生の先生」だった。大学在学中からお世話になっていた先生がしばしば「江藤先生」の話をしていたからだ。それなのに私は、学生時代に『成熟と喪失』『閉ざされた言語空間』の二冊を読んだきり、長いこと他の著作を読もうとしなかった。「先生の先生だから」という理由で読んでしまうことが、なんとなく嫌だったのだ。

 だからその先生が編集同人をしていた雑誌の「江藤淳没後十年特集」に私も寄稿することになったときは、かなり焦った。手に入る本を手に入れて、時間の許す限り読みながら、私はただ「先生の先生」ではない江藤淳に出会うことだけを目指していた。

 それから十五年経って、今は「読むべきだ」とか「読まなければならない」という重圧はどこかへいってしまった。それが良いことか悪いことかは一概に言えない。目指すところも何もなく、ただ単に「読みたい」という気持ちだけで頁を開くと、江藤淳という人はつくづく、良い文章を書く人だと思う。

 瑣末な例を一つだけ挙げると、体言止めがほとんどない。日本語の文章は語尾が単調になりがちで、変化をつけたくなったときに便利なのが体言止めだ。ライターとして原稿を書いていた頃の私は「技術」としてそれを多用しがちだった。でも、そんなものは技術でもなんでもない、単なる小細工だ。単調であるという理由で読むことを止めてしまうような文章は、そもそもの内容が乏しいのだ。仕事の一環として江藤淳を読んだときは、そういうことには気づかなかった。

 先日、都内に用事があって竹橋の近代美術館に立ち寄ると、常設展に長谷川利行の描いた岸田国士像が掛かっていた。あ、江藤さんの本に出てきた人だ、と思って、持ち歩いていた文庫本を帰りの電車で開くと「翻訳そのものが確実に文学を感じさせる翻訳」とある。江藤さんがそこまで言うのなら、岸田国士の翻訳したルナールを読んでみたいなと思う。こういう時にふと、その人が死んでもその人の書いた文章は生きていると感じる。

銅版画家・武田史子さんの装画もすてきだと思う。江藤淳の全集は一昨年から電子版で刊行されているけれども。『犬と私』とか『夜の紅茶』とか『西御門雑記』とか、エッセイだけでも紙の本で復刻してくれないだろうかと、ちくま文庫コーナーをうろつく理由がまた一つ増えた。