ライターズブルース

読むことと、書くこと

雑記と予告

来年のカレンダーは今年に引き続き安西水丸さんにしました。
『安西水丸 カレンダー 2025』

 小山田圭吾さんが東京オリンピック開会式の作曲担当を辞任したという報道が出たとき、私が最初に思ったのは「何人目だったんだろう?」ということだった。「世界的に有名な日本人作曲家」という括りでまっさきに思いつくのは坂本龍一さんで(当時まだご存命だった)、開催側はオファーしたけど断られたのかもしれないな、若い頃に小山田圭吾さんと組んでいた小沢健二さんは、オファーが来たとしても断りそうだ、映像作家でいえば宮崎駿さんも、まず引き受けないだろう……。そういう、表には出てこない話が何件くらいあったんだろう、とぼんやり考えたものだった。

 なぜそんなことを思い出したかと言えば、手元に『ユリイカ』一月臨時増刊号の企画書なるものがあって、現在公式サイトに載っている執筆者一覧と見比べていたからだ。九月に亡くなった福田和也さんの追悼特集を組むとのことで、私のところへは十月末に寄稿依頼があり、企画書はそのメールに添付されていた。企画書には入っていたけれども、公式サイトには載っていない「執筆者」が、ざっと見る限り五、六人はいる。

 かくいう私もその一人だ。断ったのではない、原稿を書いてゲラを戻して責了したつもりだったが、つい先日編集部から「物言い」が付いて掲載見送りとなった。こんなことなら引き受けなければよかったと、つい双方のリストを見比べて、最初から依頼を断ったであろう賢明な御仁の名前を確認していたわけだ。

 

 断ろうかと思う理由は二つあった。まず原稿料が400字あたり1,000円、ほとんどボランティアだ。制作費が足りないなら隔月刊とか季刊にすればいいものを、月刊に加えて臨時増刊号を出して、それを2,640円で商業出版するというのは、私の感覚で言えば厚かましい。

 加えて、寄稿依頼の文章が意味不明だった。メールを引用するのは差し控えるが、興味のある方は以下、青土社の公式サイトの予告文をご覧されたし。

青土社 ||ユリイカ:ユリイカ2025年1月臨時増刊号 総特集=福田和也

福田和也の人生は(中略)、残された人々が今日もつづけていく」、やっぱり意味不明だ。「残された読者の中で生き続ける」とでも書けばいいのにと思う。依頼メールもこの調子で長文が綴られていて、判読するだけでひと苦労だった。亡くなった福田さんへの義理を通すために引き受けて、さっさと書いて終わらせたつもりだったのだが。

 フリーライターをしていた頃、「ここは削らないとマズイ」と言われることはあっても「これを加筆しないと掲載できない」と言われたことは一度もなかった。「だったら自分でお書きになればいいのではないでしょうか」と編集者に伝えたが、私の意味するところも、彼には不明だったらしい。フリーランス法を盾にゴリ押しすることも一瞬考えたけれども、これ以上関わりたくない気持ちが勝った。

 まったく、まともに読み書きのできない編集者を相手に原稿を売ることほど不毛なことはない。思い出してみれば、そもそもそれで私はライターを辞めたのだった。……どうも愚痴っぽくなってしまったので、江藤淳さんの文章を引用しよう。

 いずれにしても、本とは活字だという考え方は、本とは思想だという考え方とどこかで通じ合うものであるが、私はこういう考え方にまつわりついている一種貧寒なものに、あまり親しみを感じることができない。本とは、むしろ存在である。活字になった言葉と、語られていないそれより重い言葉との相乗積である。そして、また、そのように感じられる本だけが、私にとってはなつかしいのである。(『なつかしい本の話』江藤淳/ちくま文庫

「活字になった言葉と、語られていないそれより重い言葉」という一節は、今年出会えてよかった文章の一つだ。亡くなった福田和也さんについても「語られていない言葉」がたくさん存在している。

 掲載見送りとなった原稿は、雑誌の発売日(12月27日)に当ブログで公開する予定です。福田さんのことで検索してお越しになった方には、興味を持ってもらえる内容だと思うけど、そうでない方は少々退屈させてしまうかもしれません。でもまあ、せっかく書いたので。

(2024年12月27日追記:ユリイカ臨時増刊号の定価は税込3,080円に変更されたようです)

 

今年の安西水丸カレンダーで一番印象的だったのは10月。UFOとコーヒーカップとマーブルチョコの絵に添えられた言葉は「なんか変だな。そんな人生である」。そう、そんな人生なんだよなあと頷くことの多い年だった。