恩師の背中
私の最初の単行本はヘンテコな間取り図ばかりを載せたヘンテコな本だった。学生時代に作っていたフリーペーパーが編集者の目に留まって本を出すことになって、それがヒットしてフリーライターになったんですよと話すと、「調子に乗っちゃったんだね」と今でも言われる。実際には調子に乗るどころではなかったのだが。
二刷の知らせを受けたときは素直に嬉しかったけれども、三刷、四刷になると「コワイ、キモチワルイ」。売れる前と売れた後で私は何も変わらないのに、いろんな人がいろんなことを言い出す。本が売れたんだからニコニコしてなきゃいけないのに、当時の私はいつでも泣きたい気持ちだった。
実際に泣き出してしまったことがある。夏のゼミ合宿の二日目の講評会の席で、寝不足だったり前夜の酒が残っていたり、気がつくと涙が止まらなくなっていた。
「いきなり読者が増えるってキツイよね」
その夜の飲み会で、福田先生はそう声をかけてくれた。
「でも、本が売れるっていいことだから。本屋さんも喜ぶし、印刷屋さんも喜ぶ。絶対、いいことだから」
教え子が出した本が自分の本より売れて、教え子を慰める先生がどこの世界にいるだろうか。それが福田先生だった。
それから二十年の間にはいろいろなことがあって、先生とは疎遠になり、フリーライターは廃業した。「いろいろ」のうちの一つを書くとしたら、やっぱりあれか。
福田先生の行方がわからないとの連絡をご家族から受けたのは、二〇一二年の三が日が明けた頃だった。高齢のご両親の入院が重なるなか、長子である先生と連絡が取れず、ご家族は困憊しきっていた。私は「一緒に土下座してあげますから」というメールを先生に送ったが、音沙汰なし。「本当は気が進まないんですけど」という奥さんを、先生の勤務先(したがって私の母校)である大学に案内することになったのは、学期末が迫る寒い日の午後だった。
教室は二階で出入り口は二箇所、片方で奥さんが、片方で私が待ち伏せた。日が落ちて終業時刻を少し過ぎると、私が待ち構えていたほうの扉から先生が出てきた。
「お迎えにあがりました」
私は先生の右腕をしっかり抱えた。しかし先生は、事態を察するやそれを振りほどいて教室の中に戻ってしまった。
「どうしましょう」
「待つしかないですね」
五分くらい経っただろうか。扉が開くと今度は学生が大勢出てきて、私と奥さんを取り囲み、取り押さえた。
「あなたたち、不審者ですよ!」
どうやら先生は「ストーカーに待ち伏せされていて帰れない」などと説明したらしい。「その人は先生の奥さんです」と私は怒鳴ったが、福田先生を守ろうという彼らにもみくちゃにされて身動きがとれない。先生はその間に逃走した。
遠巻きに見守る学生の中に顔見知りを見つけて助けを求め、やっと解放された私と奥さんが校舎の裏手に向かうと、先生はタクシーに乗り込むところだった。出発しようとするタクシーに奥さんが体当たりをして、運転手に怒鳴られた。「この人ストーカーです、助けてくださーい」と先生が叫び、「夫婦喧嘩ですから、お構いなく!」と私も叫ぶ。奥さんだけは抑えた声で「話し合いましょう」と呼びかけていた。
結局、もう一台タクシーを呼んで先生の車を追いかけたが、信号待ちで巻かれてしまってその日の追跡は諦めた。辻堂駅から上りの東海道線に乗ると、暖房は効いているのに膝が震えだした。先生は学生を騙して、利用して、逃げた。奥さんか私か、学生さんが怪我をしてもおかしくなかった。
「あれは、書けなくなりますね」
私がそう言って奥さんが頷いたのだったか、奥さんが言ったことに私が頷いたのだったか、思い出せない。ただ、先生は奥さんから逃げたのではない、自分自身から逃げている、と思ったことは覚えている。別居するにしろ離婚するにしろ、もう少しマシなやり方がある。
逃げたこと自体を非難するつもりはない、私だってライター業から逃げた。でも、自分自身に対して批評的でない人に、批評の文章が書けるだろうか? 批評家という洋服を着ている限り、批評からもっとも遠い場所にいる。やがて疎遠になった福田和也という人を、私はそのように眺めていた。
以上。掲載見送りとなった経緯については次回、「続・恩師の背中」とでもしてなるべく年内に書いてみます。
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(以下は2025年1月6日追記)
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