ライターズブルース

読むことと、書くこと

ハートフィールドとビリー・ホリデイ

『風の歌を聴け』/村上春樹/講談社文庫/1982年刊

 小説とエッセイの違いについて考えていた。考えるともなく、ぼんやりと。

 小説は作り話で、エッセイは実際に起きたことだ、一般的にはそう思われているらしい。私も十代の頃はそう区別していたような気がする。でも実際に起きたことをそのまま書くのは、難しいというより不可能だ。

 日時や場所、居合わせた人々、どんな天気で、誰がどんな服を着ていたか等々、あらゆる事象の中から何を書くか(何を書かないか)、取捨選択をしないことには進まない。書こうと決めたことにぴったりな言葉が見つかるとも限らない。見つかったと思っても、文章として組み立てた途端に意味を見失うこともある。なんか違うな、ああでもないしこうでもない、とやってるうちに「実際に起きたこと」からズレていく。そもそも、実際には何が起きたのか、頭を抱える羽目になる。だからエッセイも(というか、あらゆる文章は)虚構の一つに違いない。

 私は基本的に、小説だろうとエッセイだろうと、読んでおもしろければ形式は何でもいいと思う。でも、もし誠実さを基準とするならば、小説以上の形式はない。あらゆる文章が虚構であるなら、あらゆる物書きは嘘つきだ。小説を書く者だけが「私は嘘つきです」という事実を述べている、とでも言っておこうか。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」
 僕が大学生のころ偶然に知り合ったある作家は僕に向ってそういった。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少なくともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧な文章なんて存在しない、と。
 しかし、それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。そういうことだ。
 8年間、僕はそうしたジレンマを抱き続けた。──8年間。長い歳月だ。
(中略)
 今、僕は語ろうと思う。
 もちろん問題は何一つ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みに過ぎないからだ。(『風の歌を聴け』)

 村上春樹のデビュー作を久しぶりに手に取ったのは、デレク・ハートフィールドのことを思い出したからだ。物語の冒頭、上記引用箇所に続いて登場する、架空の作家だ。発表当時は書店や図書館に「ハートフィールドを読みたい」という問い合わせが相次いだらしい。発表から20年以上経って、だいぶ遅れて読んだ私も「すっかり騙された」クチだった。

 なにしろありありと描かれている。経歴や代表作、作風はもちろんのこと、「文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ。」(「気分が良くて何が悪い?」1936年)といった具合に、引用形式には律儀に出版年が添えられている。1938年、右手にヒットラー肖像画を抱えて、左手で傘をさしたまま、エンパイア・ステート・ビルの屋上から飛び降りた──ずいぶん奇矯な作家だったんだろうなと思わざるを得ない。

 きわめつけは「ハートフィールド、再び……(あとがきにかえて)」という最終章だ。墓参りのためにアメリカに短い旅行をしたという思い出が語られ、「一九七九年五月 村上春樹」と締めくくられる。これでは本当の、一般的なあとがきだと思い込んでも仕方ないではないか。

 どうしてここまで念入りに作り込んだんだろう? 「ヘミングウェイフィッツジェラルド、そういった彼の同時代の作家に伍しても、ハートフィールドのその戦闘的な姿勢は決して劣るものではないだろう、と僕は思う」……だったらヘミングウェイとかフィッツジェラルドとか、実在した作家を題材にしてもよかったんじゃないの?

 

 比較対象として適切かどうかはわからないけれども、思いつくままに本棚から『雑文集』(新潮文庫/2015年刊)を取り出して「ビリー・ホリデイの話」を開いた。以前書いたから内容は省略するが(2023年12月15日付)、ジャズという音楽についての短いエッセイだ。ビリー・ホリデイが実在した歌手であることは私も知っているが、もしこれが架空の存在だったとしたらどうだろう? 少々ムリな仮定ではあるけれど、そのつもりで読んでみた。

 たぶん、特に問題ない。

「ジャズってどんな音楽ですか?」という質問に言語で答えることが、このエッセイの主題だ。したがってここでは、歌手の経歴や曲名など、具体的な音楽を想起させるような説明は一つもない(もし説明したら「だったら聴いたほうが早いじゃないか」ということになってしまう)。ただジャズ・バーを経営していたときに、ある客のリクエストで何度かビリー・ホリデイのレコードをかけたという思い出が綴られる、一つの物語のように。

 もしこれが架空の歌手だったとしても、「こういうことがつまりジャズなんだよ」という内容は伝わるはずだ。読んだ人がその歌手の音源を探して、そんなものは存在しないと知って面食らう、というアクシデントは発生したかもしれないけど。

 要するにビリー・ホリデイが実在しようとしなかろうと、デレク・ハートフィールドが実在しようとしなかろうと、読むという行為の障害にはならない。実在した存在か、架空の存在かは、むしろ書くという行為の分水嶺になってくるんじゃないか。

「僕は文章についての多くをデレク・ハートフィールドに学んだ」

 デビュー作においてそのように書きだすことは、おそらく、「僕」に人格を与えるために必要な手続きだったんだと思う。「僕」という虚像を存在させるためには、ヘミングウェイフィッツジェラルドといった実在の作家ではなく、「デレク・ハートフィールド」という虚像を存在させなければならなかった……今のところそんな風に納得している。

 

 さて、去年亡くなった福田和也さん、私が二十代を通して世話になった「福田先生」について書くとしたら、多かれ少なかれ嘘を書くことになるはずだ。小説にしようとは思わない、そういう野心は、たぶん邪魔になるだろうから。エッセイを書こうとも思わない、今までだって書いたものが結果的にエッセイになっただけだ。ただ、読む人に対してではなく自分自身に対して正直に書くために、どういう嘘が必要になるんだろうなあと、引き続き考えている。考えるともなく、ぼんやりと。

『一人称単数』(文春文庫/2023年刊)に所収の「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」は、実在のサックス奏者が登場する短編小説だ。「僕」という語り手が村上春樹本人を思わせる、エッセイに近い読後感。小説とエッセイの違いについてあれこれ考えたけど、結局、長いのが小説で短いのがエッセイ、もうそれでいいんじゃないか。少々乱暴な結論ではあるけれど。