会社員をやったおかげで少しは使えるようになりました。
ライターを廃業した理由の一つに、編集者に対する不信感というものが挙げられる。その最たるは原稿料で、振込があるまでいくらかわからないケースが珍しくなかった。それほど手広く営業していたわけではないけれども、個人的な印象(偏見)としては以下のとおり。
・新潮社──依頼の段階で明示してくれることが多かった。
・文藝春秋──教えてくれる人と教えてくれない人、半々くらい。
・講談社──こちらから聞けば教えてくれるが、時間はかかる。
・マガジンハウス、小学館──聞いてもわからないことが多かった。
廃業して10年近く経つから、最近のことはわからない。去年施行されたフリーランス法に則って「適正な取引」を行われていることを願ってはいるが、長年の慣習が法令一つでガラリと変わるかどうか、いくらか懐疑的になってしまう。
少なくとも当時は、出版社の規模が大きくなるほど額がはっきりしない一方で、実際の振込額は割高な傾向があった。背景として、規模に比例して分業化が進んで編集部員が予算を把握していない(だから聞かれても答えられない)という実情と、「よそより高いんだから文句ないでしょ」という心情と、両方があったんじゃないかと思う。
会社員生活を数年経た今となっては、大企業のなかで個々の社員が細かい予算を管理できないのは、ある程度は仕方のないことだと理解している。とはいえ金額について合意のないまま仕事を進める慣習は、やっぱりおかしい。社内手続きの不備で間違った額が振り込まれる可能性だってあるわけだから。間違いでないことくらい、お互いに確認できる状態にしておかないとマズイだろう。
そんなわけで、先方から金額の提示がないときは、こちらが見積書を提出するべきだった、というのが現時点での結論だ。ライター稼業を再開する予定は今のところないけれども、世間知らずだった自分自身への反省の意味で、見積書のテンプレートを作成してみた。
Googleドライブに置いておくので、ご入用の方はご自由にお使いください。ただし結果については自己責任とやらでお願いします。
なにしろ初めて会社員になったのが30代後半だったから、世間知らずだったなあと思い知らされることは他にもいろいろあった。
たとえば雇用保険。加入すると一人に一つ被保険者番号というものが割り当てられる。私はそんな番号の存在さえ知らずにいた。
「ほんとうに、ないですか?」
「たぶん、ないと思うんですけど」
入社手続きの際、窓口の職員に何度も念を押されて、怪訝に思ったものだった。その後、別の会社で私自身が入社手続きを担当する段になってようやく、あの年齢まで一度も雇用保険に加入したことがない、それが当時の担当職員を驚かせたのだと理解した。
組織図というものにも驚かされた。最初に入った会社では、実際に働いている社員は男女半々くらいなのに、組織図には男の名前しか載ってない、つまり部長以上の役職についている女性が一人もいなかった。女であるために個人的に不快な思いをしたことはあっても、相手の顔が見えない、システマチックな抑圧を感じたのは初めてで、これが男女差別というものかと、井戸から出てきた蛙のように仰天したものだった。
若い人たちがいろんなことを考えながら仕事をしていることにも驚かされた。何を着ていくか、誰とランチに行くか、どのタイミングで上司にハンコをもらうか、いつ有休を申請するか……。
彼らに比べると20代の頃の私は、何も考えてなかった。そもそも仕事は、一人でするものだと思っていた。取材や打ち合わせも仕事のうちだけれども、本番は原稿を書くこと。一人でパソコンに向かっている間は、文章のことしか考えない。机から離れている間も、何を書くか、どう書きだすか、参考になりそうな本はないか、だいたいいつもぼんやりと、そんなことばかり考えていた。
どうやら自分は、奇妙な20代を過ごしてしまったらしい。会社の中で働く若者たちを目の当たりにすると、そう認めざるをえなかった。
そのようにして編集者に対する不信感も、半分くらいは解消した。つまり彼らは「編集者」である以前に「会社員」であり、日々いろいろなことを考えていたわけだ。何を着ていくか、誰とランチに行くか、どのタイミングで上司にハンコをもらうか、いつ有休を申請するか……。
本や雑誌を作るという業務についても、もちろん考えてはいたのだろうけれども、ライターの私が原稿のことばかり考えて過ごしていたのと比べれば、優先度はあまり高くなかったんじゃないだろうか。会社員なんだから、それが当たり前といえば当たり前だと思う。
一方では、いまだに理解できないこともある。
「ウチで書かせてあげようか」
「あなたの本を出してあげることもできるよ」
知り合ったばかりの編集者にそのように声をかけられる度、フシギに思ったものだった。上から目線でムカつく、というのではない。この人にとってはそれが仕事じゃないのか? 自分の仕事をするにあたって、してあげるとか、あげないとか、そういう感覚が理解できなかった。
その出版社で書かせてほしいと思う人の数と比べて、実際に書かせてもらえる人の数のほうが少ない。需要と共有のバランスの観点から、こちらが「書かせてもらう」立場だということはわかる。でもそれは、その出版社と私個人の関係だ。いち社員と私個人の関係ではない。
数社を跨いで会社員生活をするなかで、個人と取引をする会社もあった。しかし、個人事業主たる取引先に対して「ウチで取引してあげる」なんて言い方をする社員は、今のところ見たことがない。自分の業務を遂行するために、相手が有している技術や知識を借りる必要がある、そういう認識で取引が進められる。組織対個人の力関係を持ち出して、相手の足元を見るような言動は、下品で恥ずかしいこととして軽蔑される傾向があるように思う。
出版社に所属する「編集者」が、外部に対して「書かせてあげる」とか「出してあげる」という感覚になってしまうのは、どうしてなんだろう? もしかすると彼ら自身がその組織のなかで、「雇ってあげる」とか「企画を通してあげる」とか、日々そういう抑圧を受けているんだろうか。今のところ、そんな風に憶測するしかない。