ライターズブルース

読むことと、書くこと

上手い文章、良い文章

『私の文章修行』/週刊朝日編/朝日新聞社/1979年刊

 文章が上手いということは、それを書く目的を達成できることだと思う。求人への応募書類なら一次面接に進むこと。商品紹介なら購買に結びつくこと。謝罪文なら相手の理解と赦しを得ること。フリーライターとして営業していた頃の私は、読んだ人に楽しんでもらうことを目的としていた。

 中小企業の広報部門に在籍していた頃は、商品URLをクリックしてもらえるようにとメルマガを書いた。また別の企業で経理部門に在籍していた頃は、役務売上に新税率が適用されてもクレームが来ないようにと顧客向けの案内文を書いた。そういうケースにおいて、私の打率はそこそこ高かった。

 その一方で「上手い文章」とは別に「良い文章」というものがある。個人的に、経験的に、繰りかえし読んで心地よい文章が、良い文章だと思う。上手いがために一度で済んでしまう、再び読む気にならない文章は、上手であっても良い文章とは言えない。

 結局のところ私は、上手な文章ではなく良い文章を書きたいらしい。

 ライターを廃業した理由の一つに編集者に対する不信感というものが挙げられる、と前回書いた後で、理由ではなく「きっかけの一つ」としたほうが適切だったかもしれない、と思い直した。目的に合わせて上手に書くことに空しさを覚えて、「良い文章」などというものを目指してしまった、それがより根本的な原因だったのではないか。空しさを覚えた背景には、編集者に対する不信感があったとしても。

 

 上手な文章を目指そうと良い文章を目指そうと、書くことが基本的に孤独な作業であることは変わらない。その孤独に向きあう「仲間」の存在を感じることで、いくらか慰撫される場合がある。

 たとえば『私の文章修行』。この本をいつどこで買ったのだったか(もしかすると世話になっていた先生の書架から貰い受けたのかもしれない)、気まぐれに手にとって頁を捲るうちに「ぼちぼち書くか」と気持ちを立て直す、私にとってはそういう本だ。

 1978年に『週刊朝日』に掲載されたリレーエッセイの単行本で、作家や評論家、俳優やミュージシャン等々52人が「文章修行」について思うところを綴っている。

 試しに倉橋由美子の頁を開くと──「若い頃から文章を書くことを商売にしてゐる人間は丁稚小僧に出された貧家の孝子に似て、苦労しただけ早くから文章は達者になるが、若くして文章を書く楽しみを失ふ。それは営業用の文章の型ができてしまふからで、その型に合せて他人を楽しませる文章を書くのは苦労である。それを埋合せてくれるものは金銭と名声しかなくなる」──。

 ライターだった頃の私は、名声というほどの活躍とは程遠く、原稿料がいついくら振り込まれるかもわからない状態で書いていたのだから、まあ「埋合わせ」が追いつかなくて廃業するのも仕方なかったな……という具合。

(前略)さういふ商売、つまり文筆業を数十年も続けて年をとつた人の文章は、所謂名文かもしれないがどこか悪達者なところがある。
 文章の品位を保つには自分の型など持たないのがよい。それに気に入った他人の文章を真似る楽しみは残しておきたい。それは素人の稚気ではあるが、しかし素人が自ら楽しんで(といふことは自己陶酔に陥つてといふことではない)書いた文章には少くとも下品なところはない。(中略)
 できれば過剰な形容詞や比喩の贅肉を一切落して骨だけが歩いていく調子の文章で書きたい位であるが、それでは面白がつて読んでくれる人などゐないに違いない。これが小説を書く気になれない理由の一つである。(「骨だけの文章」倉橋由美子

 私が「上手い文章」という言葉で表そうとしたことを、この人は「悪達者」と書いている。私が「良い文章」という言葉で表そうとしたことは、おそらく「文章の品位を保つ」ことと関係しているに違いない。共感という言葉を使うのはおこがましいが、遠くの独房から聞こえた独り言に大きな声で相槌を打ちたいような気持ちに駆られる。

 古い本だからとうに絶版で文庫化もされていないが、古書市場では手頃な価格で売買されている。どこの独房の声がどこへ通じているかわからない、興味のある方へ向けて執筆者一覧を以下に併記しておく。

──丸谷才一高峰秀子清水幾太郎円地文子新藤兼人和田誠、坪井忠二、團伊玖磨田村隆一飯田善国武田百合子北杜夫佐藤忠男吉田秀和開高健中村武志日高敏隆、小川国夫、東海林さだお倉橋由美子山口瞳、堀淳一、宇野千代尾崎一雄大岡信森崎和江金達寿佐多稲子山下洋輔吉行淳之介江國滋ドナルド・キーン梅原猛野見山暁治中上健次澁澤龍彦、つかこうへい、田中美知太郎、芥川比呂志石原慎太郎殿山泰司河上徹太郎沢木耕太郎戸板康二大岡昇平大野晋中山千夏三善晃倉本聰植草甚一井上靖池田満寿夫──

 それにしても「雑誌文化はなやかなりし頃」と書き添えたくなるような執筆陣だ。子役時代の高峰秀子は月刊映画誌に「日記や落書きをイヤオウなく書かされていた」そうで、今の時代で言えばブログやSNSがその代替か。

 雑誌広告とweb広告で、売上額が逆転したのは2010年頃。以降インターネット上では(特に商用サイトでは)私の思う「上手い文章」と「良い文章」が、日に日に乖離していくように見える。あまり共感できない目的に合わせて上手い文章を書くよりは、無目的に下手な文章を書きたい。倉橋由美子に倣って言えば、それがwebライターをやる気になれない理由の一つだ。

装丁と挿絵は池田満寿夫東海林さだおさんのエッセイに、池田満寿夫による「ショージ君」が添えられているのが「大人の遊び」という感じで微笑ましい。