引越し先が決まって一世一代の断捨離に取り組まんとする私に、ある人が助言してくれた。
「また買える本は、いいと思いますよ。買えない本だけ、持って行ったらいいですよ」
なるほど確かにそのとおりで、たとえば『ミレニアム』はまさに典型。世界的超ベストセラーのハヤカワ文庫なんて、少なくとも私が生きている間は絶版にならない。三部作計六冊はそれなりに場所をとることだし、この際だから処分しようと一度は決めたけれど。迷って結局、積み上げた山を取り崩して新居に持ってきてしまった。なぜ捨てられなかったか。
まず並のおもしろさではなかった。推理小説に付きものの登場人物一覧表、孤島の見取り図、家系図、ストックホルムの市街図など、図録を広げるだけでワクワク感が甦る。日本語訳が刊行されてからかなりの間あちこちで絶賛されていて、私はたしか宮本輝さんが「夢中になって読んだ」と言っているのを見て買った覚えがある。映画版『ドラゴン・タトゥーの女』もヒットしていたし、今さらストーリーを紹介することは控えるとして、この際ただ一つ、女性の描き方がすばらしかったことを強調しておきたい。
たとえば窮地に陥った主人公を助けるため、強力かつスマートな武器を携えて登場するのはヒーローではなくヒロイン。自分だけを頼りに生きてきた彼女は、事件解決の過程で初めて人と協力し、人に心を許し、傷を負い、自分の変化を受け入れる。勇敢そのものだ。二部三部と読み進めると脇役もカラフルで、身長184センチでボディビルディングが趣味の公安警察官や、法廷で自分の性遍歴やマリファナ吸引経験を引き合いに弁論する弁護士などが登場する。類型的な女性は一人もいない。
著者自身が投影されていると思われる男性主人公は、話中何人もの女性から誘われてセックスに至るが、不思議なことに嫌味がない。おそらくこの作家が、自分の分身をカッコよく描くことには一ミリも興味がなくて、とにかく彼女たちの怒りに共感し、彼女たちの強さを尊敬し、それを描くことに夢中だったからだと思う。個人的に経験的に無意識的に、男性作家が描く女性像にはあまり期待していなかっただけに驚いたし、読んでいて嬉しかった。
著者のスティーグ・ラーソンは三部作の完成直後に急逝したという。遺された構想メモを引き継いで他の作家が書いた続編も、おもしろかったけど、手放すのにそれほど迷わなかった。小柄な体躯で改造バイクを乗りこなす若い女性に対して中年男性が「かっこいいな」と賛辞を送る、こういうちょっとした場面は、根っからのフェミニストでないと書けないと思う。
もう3回は読んだからストーリーもディティールもあらかた頭に入っているけれど。そうだ、甥っ子がもう少し大きくなったらあげよう。そう思いついたことが留保の決定打となった。今のところ絵本や漫画の趣味は私と合うし、きっと楽しんでくれるに違いない。楽しんだうえで、世にいう「オンナの魅力」なんてものは実際にはなくて、魅力を備えた女性が存在するだけだと伝わるといいなと思う。