ライターズブルース

読むことと、書くこと

絵をみること、本を読むこと

 

『絵のなかの散歩』洲之内徹新潮文庫/平成10年刊

 本に始まり、本に終わる。それが私の引越しだ。机や床に積み上げられた本をどかさないことには荷造り一つできない。越してしまえば生活必需品を開梱し、足りないものを買い足すことに追われる。洗濯と入浴と睡眠ができるようになれば、あとのことは後回し。段ボール五箱の本は長らく手付かずで放置された。

 食事も、簡単なもの以外は外食に頼ってばかりで、おかげで近所にいくつか馴染みができた。羽根つき餃子が名物のカフェがその一つで、カウンターと二人掛けのテーブル三卓の小さなお店だ。おいしいのはもちろん、器や内装の感じがとても良い。テーブルごとに異なる椅子、入口のステンドグラス、アンティークの照明、空間全体に業務用什器のぎすぎすしたところが少しもない。自宅で寛げない分、ついお店で寛いでしまう。

 壁に大きな油絵が掛かっていて(何号という規格を示せればいいのだけど。とにかく家庭ではまず掛けられない大きさだ)、最初は抽象画かと思ったが、少し離れた席から見たときにどこかの港を描いたものだと気づいた。顔馴染みになった店主に「すてきな絵ですね」と声をかけると、おかみさんのお父上が描いたものだと教えてくれた。

「いやあ全然、有名とか、そんなじゃないです。女房の実家に置いてあったのを持ってきただけで。女房も喜びます、こういうものはやっぱりね、人に見てもらわないと」

 自分がこの店を好きだと思う理由の源泉に触れたような気がして、しばらく酒を飲みながらその絵を眺めていた。そうしているうちに、無性に洲之内徹の本が読みたくなった。

 洲之内徹は銀座の画廊主で、美術雑誌でエッセイを書いていた人だ。画廊をやる前は小説を書いていて、3回芥川賞候補になっている。戦後に書かれたその小説が大学の講義で扱われていたために私はこの人の存在を知り、手に入る本はひととおり買って読んだ。もしこの人の文章を読んでいなかったら、飲食店に掛けられた絵を眺めて楽しんだり、それについてお店の人となにがしかの会話をすることもなかったと思う。絵の見方、ではなく、絵を見ること自体を、私はこの人の本から教わったと言っていい。

 美術雑誌で連載を持つ前、書き下ろしとして刊行された最初の本が『絵のなかの散歩』。その最初の一編「赤まんま忌」では、19歳の息子がバイクの交通事故で死んだ、その第一報を受けてから葬儀を終えるまでのことがほぼ時系列で記される。電話を受けて「息子はもう助からないな」と思ったこと。自分の対処が少し違えば、意識はなくても息のあるうちに妻は息子に会えたかもしれないこと。警察からはカーブを曲がらず木に激突したと聞かされていたが、現場を確かめると何かを避けようとした痕跡があったこと。しかし何を避けようとしたかは調べようがないこと。葬儀をした教会の周囲に丈の高い赤まんまの花が咲いていたこと。その直後に偶然手に入れた絵に赤まんまが描かれていたこと。「その絵を私は、夏の終る頃になると、思い出して、しばらく自分の部屋に掛けておくことがある」。

 22頁中、最後の1頁になって初めて具体的な絵画が登場する。美術随想と聞いて人が思い浮かべる文章とはかけ離れているかもしれないが、もし知らない人に洲之内徹を紹介するとしたら、私はこの一編を選ぶ。絵とはそのようなものだし、そのようにしか書き得ないという、この人の決意が表明されていると思うからだ。

 餃子カフェから自宅に帰ると、クローゼットに積んだまま放置していた段ボール箱のうち「文庫本①」とマジックで書かれたものを引きずり出して、中身を確かめる。目当ての本はすぐに見つかった。よかった、自分がこの本を捨てるはずがない。布団に入って何編か読んでいるうち、不思議と気持ちが落ち着いてきた。引越してきて以来、初めての感覚だった。そろそろ本も荷ほどきしないとな、と思いながら眠った。

巻頭口絵は8頁。本文中は白黒の図版が複数掲載されている。