ライターズブルース

読むことと、書くこと

読む理由、読まない理由

『アンダーグラウンド』/村上春樹/講談社文庫/1999年刊

 酒場や旅先で若い世代の人と雑談する機会に、なんとなく「地下鉄サリン事件って知ってますか?」と話をふってみることがある。自分が15歳の頃に相手が何歳くらいだったか、距離感を測る目安にしたり、「オウム狂想曲」とでもいうような当時の報道合戦を体験しなかった人たちにあの事件がどういう風に伝わっているのかを確認することで、自分の認識に補正をかけたいのだと思う。

 生まれてはいたけれども記憶はない、最近『アンダーグラウンド』を読んだ、という女性がいた。事件の被害者60名弱への、村上春樹さんによるインタビュー集だ。「村上春樹さんの小説はあまり読まないけど、エッセイは好き」、地下鉄サリン事件については「親が話しているのを聞いてはいたけど、詳しいことは知らなかった」という。

「今起きたらどうなんだろう。何も情報がない状態で、ちょっと変な匂いがするくらいで。スマホとかあっても、意味ないですよね。やっぱり、とりあえず会社に行こうとしちゃうんじゃないかなあ」

 深刻な後遺症を負った人もいれば、そうでない人もいる。電車内で濡れた新聞紙の包みを見かけたという話もあり、駅構内で倒れた人を介抱しているうちに自分も具合がおかしくなったという話もあった。救急医療にあたった医師やPTSDの治療に取り組む精神科医の話もあり、地下鉄の路線図や駅構内の略図も載っていた。

 私も同じ本を最近読んだと伝えると「最近ですか?」と聞き返された。偶然ですね、という意味合いだったのかもしれないけれども、私はなぜ最近になるまで読まなかったんだろうかと、その後しばらく考えた。

 文庫本800頁近いボリュームと、予想される内容の深刻さに、尻込みしていたことは間違いない。加えて、「村上春樹が書いた本」として読むべきなのか、「地下鉄サリン事件の資料」として読むべきなのか、自分の興味の向け方がどっちともつかずにいた。事件を知る目的で読むには小説家によるフィルターが邪魔になるような気がしたし、小説家を知る目的で読むのは事件で被害を負った人たちに対してフェアではない気がしたのだと思う。

 結果的には、ある時点でその二つの興味が一致した。組織とか社会システムの中で個人が個人として生きるのは、思った以上に、かなり困難で、ほとんど無理なんじゃないかと実感したタイミングで、私は彼の小説世界をより近しく感じるようになり、地下鉄サリン事件に組織や社会の怖さを見るようになった。

 あなたは誰か(何か)に対して自我の一定の部分を差し出し、その代価としての「物語」を受け取ってはいないだろうか? 私たちは何らかの制度=システムに対して、人格の一部を預けてしまってはいないだろうか? もしそうだとしたら、その制度はいつかあなたに向かって何らかの「狂気」を要求しないだろうか? あなたが今持っている物語は、本当にあなたの物語なのだろうか? あなたの見ている夢は本当にあなたの夢なのだろうか? それはいつかとんでもない悪夢に転換していくかもしれない誰か別の人間の夢ではないのか?(エピローグ「目じるしのない悪夢」より)

 森達也さんの『A3』を読み返した後に『アンダーグラウンド』を読み返すと、二作を合わせ鏡のように感じる。麻原彰晃について知ることで見えてくる社会の姿があり、被害者について知ることで見えてくる教団の姿がある。その間で、私は組織とか社会システムに対する自分のスタンスのようなものを未だに決めかねている。

やっぱりどうも、考えがまとまらない。そのうち書き直すかもしれません。