学生時代にアルバイトをしていた本屋では従業員向けの割引制度があって、会計の際にレジでネームプレートを見せると、一割引きにしてくれた。当時の私はこれがとっても嬉しくて、それにテナントビルの地下一階から五階を占める大型書店には欲しい本がいくらでもあって、退勤後に本を買って帰るとその日のバイト代がほとんどチャラになってしまったり。これじゃなんのためのアルバイトだかわからないなあと思ったものだった。
あれから二十年以上経った今も、似たようなことをしている。少しでも本を減らそうと思って一箱古本市へ出店する予定だったのに、あいにく雨で中止に。それだけならともかく、準備過程でなんやかやと調べ物をしているうちに、つい読みたい本を何冊か買って、結局本が増えてしまったのだ。まったく、私は何のための何をしていたのだったか。
たとえば、塩野七生の『男たちへ』の隣に伊丹十三の『女たちよ!』を並べようと思った。それぞれいつ書かれたものだろう、何の雑誌に連載されてたんだろうと調べてみると、『女たちよ!』には続編があることが判明した。その名も『女たちよ!男たちよ!子供たちよ!』。
伊丹十三といえば俳優であり映画監督であり、女優・宮本信子の夫。『女たちよ!』(と『再び女たちよ!』)は、マルチタレントならではの文明批評とでも言おうか、スパゲティの茹で方やマッチの擦り方を語りつつ「男は野暮でなければいけない」とか「自分と深く付き合うことだけが他人を愛する道だ」といった名言が随所に光っていた。同じ著者が書いた育児エッセイがあると知って、これは読んでおかなければなるまいと、ついネット古書店で取り寄せてしまったのだ。
これが滅法おもしろかった。付箋を貼った箇所を抜き書きしてみると──
・まあ、男らしさに憑かれた人っていうのは、みんな可哀想、というか、下等なんだけどさァ(93頁)
・およそ表現の仕事というものは、何をどう表現するかもさることながら、その表現自体が、一つにはメディア論になっており、つまり、テレビでいうなら、番組自体が「テレビとは何か」という問いかけを含んでおり、なおかつ、表現自体が組織論にもなっておらねば何の価値もあるまい。(101頁)
・女だから主婦ってああなるんじゃないのよ。ほんとに主婦をやってごらん。あなただって主婦になっちゃうのよ。すべての日本の父親は、一と皮剥けば、実は中身は母親なのよ。(122頁)
本を減らすつもりだったのに増えてしまって、しかし増えた本がおもしろかったんだから、まぁいっか。いいのかなあ……?
そんな話をしたら、シェア型書店への出店を勧めてくれる人がいた。シェア型書店とは、運営側は本棚を区画割りして、月に数千円~数万円で貸し出す。出店者は借りた区画に自分が売りたい本を置き、本の売上は一割程度のマージンを差し引いて返ってくる仕組み。「あなたも本屋になってみませんか?」というわけだ。私もネット上で広告を見かけたことがある。
自分が読んでおもしろかった本を選んで、小さな売り場を組み立てることは、恥ずかしい反面おもしろい。これは一種の表現行為なんだなと、古書市の準備をしながら実感した今では、シェア型書店に出店する人の気持ちが、少しはわかる。でも経済活動として俯瞰すると、本屋というよりテナントビジネス(不動産業)なんじゃないかなあ。オーナーは棚を貸し出すことで確実に売上が上がるだろうけれども、店子にとって、本の売上から賃料を支払って残る収益は……。
そのシェア型書店、最近また神保町にオープンしたらしい。本をめぐる経済活動が多様化することは、きっといいことなんだろう。本屋が一軒もない地域で地元の人たちが本を持ち寄って、そういう書店を作って地域交流の場になった、という記事を見かけたこともある。でも私は、たとえば生徒を「アーティスト」と持ち上げるような講師に、月謝を払って絵や音楽を教わりたいとは思わないだよなあ。
シェア型書店なるものに行ったことがないので、実際に行ってみたら気が変わるかもしれない。そのうち機会があったら足を運んでみようとは思う。今のところは、本屋と「本屋ごっこ」は区別しなさいと、私の中の伊丹十三が言っている。