ライターズブルース

読むことと、書くこと

お客さんには、なれるけど

『本屋になりたい この島の本を売る』/宇田智子/ちくまプリマー新書/2015年刊
 『増補 本屋になりたい この島の本を売る』/宇田智子/ちくま文庫/2022年刊

 フリーライターをしていた頃、「編集者はお客さまなんだから」とたしなめられたことがある。相手はファンドマネージャーを辞めて作家を名乗るようになった人で、編集者に対する私の態度がよほど傍若無人に見えたんだと思う。彼にとってはたしかに編集者が「お客さま」だったんだろう。でも私は、編集者を客だと思っている物書きの書く文章なんて読みたくない、と思っていた。それで「私の客は読者です」と啖呵を切ったはいいけれど、じゃあ読者って誰なんだろう、どんな顔をしてどこにいるんだろう……考えてみるとよくわからない。雲を掴むとか霞を食うという慣用表現があるけれども、雲とか霞は目に見えるからまだマシかもしれないなあ、なんて思ったものだった。

 飲食店はいいな、と思ったりもした。食べるほうは作る人の顔が見えて、作るほうは食べる人の顔が見える。お金を直接やりとりして「ごちそうさまでした」「ありがとうございます」が言える。あるとき、厨房で働く人にそんな話をすると、「俺は物書きっていいなって思う。とんかつ揚げたって、なんにも残らないもん。物書きは残るでしょ」と返ってきた。隣の芝生は青く見える、ということかもしれない。

 ライターを辞めて電子書籍関連の会社に勤めていた頃は、出版社の人たちの会話を聞きながら「この人たちにとって客って誰なんだろう?」と考えたりもした。図書館向けの電子書籍事業だったから、直接の顧客は図書館だったはずだ。でも、彼らの話に出てくるのは図書館の利益よりは出版社の利益。結局、会社員や会社役員にとっての客って、給与報酬を得るところの会社なのかなあと思ったり。

 その後いくつか会社を転々としたけれど、私自身は雇用主であるところの会社を自分の「客」だとは、どうしても思えなかった。だって、会社員が会社を客扱いしたら、その会社の商品やサービスに金を払う人の立場はどうなるの、なんてつい考えてしまって。

 元ファンドマネージャー氏に啖呵を切ってから十数年経つのに、私はいまだに、私の客が誰なのかわからない。わからないけど、たとえばこんな風だといいなあと思うのは──。

「本屋の棚はお客さんのためにある」とさきほど書いた。これをさらに進めて、「お客さんが棚をつくる」とも言える。(中略)
 たとえば、お客さんが本を買ったとき。新刊書店なら、売れた本は一週間から一ヶ月ほどでまた入荷して棚に補充される。古本屋は、同じ本の在庫が何冊もあるとは限らない。一冊しかなければ、売れた本は棚から消える。また入ってくるかどうかはわからない。お客さんが本を買うことで、古本屋の品揃えはどんどん変わっていく。
 お客さんは古本屋に本を売ってくれることもある。こうなると、ますます「お客さんが棚をつくる」感じが強くなる。料理が好きな人からの買取で店の料理本コーナーが急に充実したり、雑誌のバックナンバーが一気に揃ったり。思いがけない買取によって、店主にも予想のつかない棚がつくられていく。(増補版「二章 本を売る」より)

『本屋になりたい』は、書店最大手に就職して八年間勤務した後、退職して、沖縄の市場で古本屋を経営している店主によるエッセイ。開店までのこと、買取のこと、値づけのこと、本の手入れ、棚作り等々、小さな古本屋の「いろは」が綴られている。

 等身大とか身の丈なんて言葉を使うのもためらわれるほど、あっさりした文章で、でも、ところどころでドキッとするようなことが書いてある。「世の中にはこんなにたくさん本があるのだから、これ以上は必要ないような気がした」とか、図書館で本を借りるということは「期限内に読む気があるということ」だから著者としては嬉しいとか、紙(古本)と紙(お金)の交換は「たぬきの葉っぱの化かしあいのようなもの」とか。

 ここに出てくる「お客さん」という言葉は、とても自然だ。きっと「お客さん」と相対する「自分」がしっかりしているからなんだろうなと、読みながら思う。私がいまだに私の客がわからないということは、裏を返せば、自分自身の弁えとか心得とか、そういうものがなってないということなんだろう。

 今のところ私自身は古本屋を開業しようと企図しているわけではないけれど、先月ひと箱古本市へ出店しようと思ったときに、参考にしたというか、励まされたのもこの本だった。良い本だから、もし売れたら自分用にまた買うつもりで出品リストに加えたのだったが。 

 準備をしているうちに、新書版の後に文庫版が出ていることがわかった。大幅加筆されているらしい、となるとつい買ってしまう。そして古本市は雨天中止となり、もとの新書版を売る機会は逃し、かくして手元にまた本が増えていく……。私はどうも、客になったり読者になったりするのは、けっこう得意みたいなんだけどなあ。

高野文子さんの挿絵より。文庫では市場の建替工事や感染症の流行をめぐるあれこれが加筆されている。沖縄の市場の古本屋の店主の日常……NHKで朝ドラにしたらおもしろそう、坂元裕二さんの脚本で。