ライターズブルース

読むことと、書くこと

"気配り"の行き着く場所

『毎日食べたい、しみじみうまい。和食屋の和弁当』/笠原将弘/主婦の友社/平成25年刊

 あるとき会社で昼休みにお茶を汲みにいくと、給湯器の近くに設置された複合機で営業部のSさんが何かの本のコピーをとっていた。私がお弁当を食べ終えてまたお茶を汲みにいくと、まだ作業を続けている。何の気なしに覗き込むと、それは図書館で借りたカレーの料理本で、Sさんは一頁、一頁、つまり全部のコピーをとろうとしているのだった。

「買えば。……と思いますけど」

 私が思わず声をかけると、Sさんは悪びれずに応えた。

「うんうん。ちょっと作ってみてから、買おうかなと思って」

 私的な目的であれば、本のコピーは法律では禁じられていない。会社の備品と消耗品を業務外の目的で利用することはルール違反ではあるけれど、その手のことには良くも悪くも大らかな社風だった。私も、その作業をしていたのが庶務の女性だったら、何も言わなかったに違いない。

 Sさんは成績の良い営業部員であり、従って給与もそれなりの額を受け取っていることを、経理の私は知っていた。つまり「セコいなあ」と思い「恥ずかしくないですか」と言いたかったわけだ。それに対して「別に恥ずかしくない」というのが彼の答えだった。

 なんとなくモヤモヤした気持ちでその日の帰り道を歩きながら思い至ったのは、そもそもあの本はもう本屋では買えないかもしれないな、ということだった。本屋には大抵料理本のコーナーがあって、行く度に新刊が入れ替わっている。売れない本はあっという間に棚から消える。Sさんがコピーをとっていたのは数年前の新刊だったから、街中の書店で見つかるとは限らない。そして料理の本というのは、実用の面からいって、実物を見てから買ったほうが後悔が少ない。 

 そこまで考えると、自分のモヤモヤした気持ちが何に対するものなのかわからなくなった。わからないままそのモヤモヤは重みで下に溜まって塊になって、今も私の中に残っている。

『毎日食べたい、しみじみうまい。和食屋の和弁当』も10年前の本だから、今は街の書店ではまず見かけない。古書と電子書籍なら手に入るけど、勿体ないことだと思う。

 第1章では男子高校生が好みそうな「のっけ弁」、第2章では女子高校生に似合いそうな「三菜和弁当」、第3章ではお花見や花火大会を想定した「四季の行楽和弁当」、そして特別編では「松花堂弁当」まで網羅。詰め方のコツや「三種の神器(焼き海苔、削り節、梅干し)」の使い方を示したコラムがあり、常備菜や「お湯を注ぐだけの汁の素」などのお役立ちレシピもあり。この一冊があれば、あらゆるお弁当シーンに対応できる頼もしさ。

お弁当箱というあの小さな世界に、どれだけおかずを詰め込むか。
どれだけ愛を詰められるか。
そう考えると、お弁当はロマンだ。(中略)
何はともあれ。
お弁当ほどワクワクする食べ物って見つからないなあ。(「はじめに」より)

 短いエッセイの中で「お弁当はロマン」の箇所が太字になっている。こういうさりげない気配りが、どの頁にも行き届いている。この本自体が、理想的なお弁当のようだ。

 たとえば先日、持ち寄りのホームパーティーに招かれた際にこの本を取り出して、「里芋の唐揚げとれんこんチップ」を作ってみた。材料や調味料がシンプルで、レシピがわかりやすいのは言わずもがな、正方形の判型で、頁を開いたまま置いておけるのがありがたい。「料理は気配り」と笠原将弘さんは別の本で書いていたけれど、ほんとにそうだなと思う。料理は気配り。本も気配り。

 そういうものは、会社の複合機でとったコピーの束からは、伝わらないんじゃないかと思う。もしかすると料理本の市場でも、すごく伝わりにくくなっているんじゃないだろうか。私の中のモヤモヤの塊の正体は、たぶんそういうことだ。

今度持ち寄りの機会があったら「スモークサーモンの春菊巻き」を作ってみようかな。簡単で見栄えも良いおかずがたくさん載っているのもありがたい。