ライターズブルース

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先生たちと、先生と呼んでくれた人たちへ

『閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』/江藤淳/文春文庫/1994年刊

 母校で週に一コマの非常勤をしていた頃のことで、一つ悔やんでいることがある。ある学期の最後に江藤淳の『閉された言語空間』をテキストに指定したところ、翌週の提出課題で「陰謀論」との感想を書いてきた生徒がいた。私の講義が不十分だった、あるいは不適切だったということだ。他の著作を指定するべきだっただろうかと、今でも時々思い返す。

「ライティング技法ワークショップ」というのが担当した講座名だったが、私にその機会を与えた先生がいて、遡ればその先生に機会を与えたのが江藤淳だった。作文技術を身につけようと欲する学生にとって、江藤淳の文章は一つの規範になると思ったことはもちろんで、加えて、学期中に一冊その人の本を教材とすることは、たまたま非常勤講師として学舎に紛れ込んだフリーライターなりの敬意の表れでもあった。

 最初の年は『アメリカと私』、翌年は『戦後と私』を、やはり学期の最後に取り上げた。文学と歴史を中心とした数多の著作の中で「○○と私」と題された一群のエッセイは、その平明なタイトルに表れるとおり読みやすい。自分を光源として対象を照らし、対象を光源として自分を照らす、その往還によって著者の姿と対象の姿が立体的に表れてくる……卑近なたとえで噛み砕いてしまえば、私は成人してこのかた酒飲みの味覚しか持ってない、だから自分がどの程度の酒飲みであるかを示さないことには、ある料理がおいしいとかおいしくないとか表現することができない。江藤淳はそういう道理をよく知り、その書き方を突き詰めた人であり、それが最もシンプルに表れているのが「○○と私」と題されたエッセイだったと思う。

 三期目となって、敢えてそのエッセイ群から外れる著作を選んだのは、前後の事情によって私がその講座を受け持つのは最後になると判断したからだ。江藤淳の著作の中で個人的に最も衝撃を受けたのが『閉された言語空間』であり、それを最後の教材としたのは、学習上の便宜よりも個人的な思い入れを優先する向きが強かった。今思う反省点の一つだ。

 

 もう一つの反省点は、紹介の仕方、講義上の焦点を誤ったかもしれないことだ。GHQ占領下の日本で実施された検閲の実態を一次資料から解き明かすというのが本書の枠組みだが、文庫裏表紙の紹介文を抜粋すると、「それは日本の思想と文化とを殲滅するためだった。検閲がもたらしたものは、日本人の自己破壊による新しいタブーの増殖である」……正面どおりにこれを概要としたのでは陰謀論との印象を与えてしまうのも無理はない。

 というのも、戦前の日本では反体制的な言論が弾圧されていた、敗戦によってようやく表現の自由がもたらされた、それが通説であり、私もその通説を受けて育った。両親は戦後のベビーブーム世代で、小学校教員だった母親は戦争の悲惨さについて比較的よく語り、その分野の本を読み、映画を鑑賞した。一方、同じ敷地内の隣家で暮らしていた父方の祖父母から戦争の話を聞いた記憶がない。戦前を生きた人が沈黙し、戦後に生まれた人が語る……そういうものだろうか。それが戦争というものだろうか。そういう、漠然とした違和感を抱えて私は育った。

 ポツダム宣言にも敗戦翌年に交付された憲法にも、表現の自由を保障する条項がある以上、GHQが検閲を行うことは、明らかな矛盾であること。そのために検閲は秘密裏に行われたこと。検閲官として登用された日本人は一万人以上いて、経歴を明かすことなく自治体の首長や企業役員、大学教授等の要職に就いた例が少なくないこと。

 私の漠然とした違和感、両親と祖父母の間に感じた一種の断絶は、こうした背景から生じたものだったか。私がこの本から受けた衝撃を端的に言い表すと、そういうことになる。戦争に敗けるとは、こういうことかという手触りのようなもの。十年以上前のことだから鮮明な記憶ではないけれども、教室でもそういう視点から話をしたと思う。ひとまわり若い生徒たちが、この本の内容をどう受け取るか、私は知りたかった。だから課題として「なんでもいいから感想を書いて」と言ったのだったが。

 久しぶりに再読してみると、課題とするべきは「禁忌と私」、もしくは「私の中のタブー」といったテーマだったように思う。というのも、占領者と被占領者間にあるべきフェアネスという問題ももちろん重要だろうけれども、作文の練習をするうえでより優先するべき問題は「表現の自由」だったはずだ。私はこの本の本当の主旨を見誤り、講座の目的からも若干逸脱した。当時の生徒たちと、江藤先生へのお詫びに代えて、以下にあとがきの一部を引用する。

 日本の読者に対して私が望みたいことは、次の一事を措いてほかにない。即ち人が言葉によって考えるほかない以上、人は自らの思惟を拘束し、条件付けている言語空間の真の性質を知ることなしには、到底自由にものを考えることができない、という、至極簡明な原則がそれである。

初出は1982〜86年の『諸君!』。GHQによる検閲の実態とその影響については、2010年代以降にいくつか後続の研究書が出版されている。

※書籍タイトルに誤記があったため、訂正しました。(2023年10月15日)
(誤)『閉ざされた言語空間』 → (正)『閉された言語空間』