ライターズブルース

読むことと、書くこと

願わくば今よりも広く深く

『河よりも長くゆるやかに』/吉田秋生/小学館文庫/1994年刊

 

 三十を過ぎた頃、母校大学で週に一コマ作文のワークショップを受け持つことになった。人に教えられるほど作文に習熟しているつもりはなかったけれども、私が辞退すれば枠が一つ空くタイミングでのお誘いだった。それにまあ、大学生にもなれば勉強する人はひとりでに勉強するし、育つ人はひとりでに育つ。そう自分に言い聞かせて、流れに身を任せた。

 一学期分のスケジュールを組んで各回のテキストを用意したり、提出された課題を読むことはおもしろかった。それ以上に新鮮だったのは「若いって良いなあ」という気持ちが自然に湧いてきたことだ。自分が学生だった頃は、若いといえば無知で幼稚で、まああまり良いものではないと感じていた。構内の風景、教室の雰囲気は変わらないのに、年齢と立場が変わるだけでこうも違った気持ちになるとは。

 何が良いんだろう。敏感であること。柔軟で軽やかであること。他人や自分に対する構えがもろく、可塑性が高いこと。彼らの書いた文章を読んだり、彼らと話をしながら感じたのはそんなようなことだった。私もかつてはそうだったかな、きっとそうだったんだろう。でもそれは、客体として接する分には清々しいけれども、主体として生きるにはそれなりに苦いことだった。「若いって良いなあ」と感じるということは、自分はもう若くないということか。悲嘆でも賛嘆でもなく、そんな風に実感して納得した。

「人間てさ…人間て年とると苦しいことばっかだと思うか?」
「…別に そうとも限んないだろ」
(「大麻畑でつかまえて」より)

 小学生の頃は『りぼん』と『なかよし』、中学生になると『別マ』と『別フレ』を年子の姉と共有した。高校生になると仲の良かった男の子の影響で『週刊少年ジャンプ』を読むようになり、荒木飛呂彦冨樫義博をコミックスで追いかけた。私のマンガ遍歴はそんなような具合で、少女マンガの知識と経験は浅くてまだらだ。吉田秋生も長らく、名前は知っているけれども読んだことはない作家の一人だった。

 人に勧められて初めて手に取ったのが『河よりも長くゆるやかに』の文庫本、奥付を見ると2011年11月付第25刷。大学で非常勤をしていた時期に買ったものと思われる。妙なことに、この漫画に対する第一の感想は「大人だなあ」というものだった。

 というのも主人公は男子高校生で、主な舞台は男子校だ。エロ本の貸し借りや「根性ゲーム・くさい靴下」で盛り上がり、自生の大麻を発見しては大騒ぎ。男子校の中のことはよく知らないが、きっとこんな感じなんだろうと思わせる説得力がある。がさつで下品なばかりではない。親の離婚と死別、姉との二人暮らし。米軍基地近くのバーでのアルバイト。女子校に通うガールフレンドと、その女友達との折衝。私が「大人だなあ」と感じたのは、おそらくそのあたりだったと思う。

 同級生と橋の上から河を眺めての会話の一部を、上記に抜き書きした。彼もまた少々複雑な家庭環境を生きていて、「この河だって上流のほうはきれーなんだろうに、こんな汚れちゃって」と呟く。それに対して主人公は「でも海に近くなるじゃん、汚れるけど、深くて広くてゆったり流れるじゃん」と返す。大人になるということは、コントロールできない物事との付き合い方を学ぶことだ、少なくとも当時の私はそう認識していた。今はどうなんだろう?

 学生さんたちに若さを感じたり、初めて読んだ吉田秋生の漫画に大人だと感じたり。四十をとうに越した今から振り返ると、齢をとることに今より敏感だった三十当時の私も、十分に若くて未熟だった。今の私の若さと未熟さも、きっと、十年後くらいの私が発見するだろう。

初出は1983〜85年の『プチフラワー』。れっきとした少女漫画誌だったはずだが、各話タイトルの一つに「愛と青春の朝立ち」ってのはどうなのか。