本を読むことはどこまでも個人的な行為だから、自分以外の誰かに本を勧めることは難しい。その逆も然りで、誰かに勧められたものを読むときも、過剰な期待は相手にも自分にもしないようにしている。かなりの例外として舌を巻いた(つまり、ピッタリとそのときの自分の好みだった)のが富岡多恵子の小説で、勧めてくれたのは大学の先生だった。
文芸評論の分野で仕事をしていた人だから、参照されるライブラリが豊富だったことはもちろんだと思う。加えて、私はその先生のゼミでコラムや小説を書いて提出していたから、読書傾向は把握しやすかったはずだ。しかし、それにしても……。
「富岡多恵子、おもしろかったです」
私が仏頂面で感想を告げると、先生はフンと鼻から息をして言った。
「そう? それはよかった」
見透かされたような気持ちで、私は少し口惜しかったし、その分だけ先生は得意気に見えた。20年以上前のことだ。
この小説のどこがそんなに、グッと来たんだろう? 改めて頁を開くと、あ、ここだ、それにここも、と思う。たとえば冒頭、ドライブに出かけた男女の会話。
「いやあ、ぼくは出ていったらいつ帰るかわからないから、うちのはさっさとメシ食っていますよ」
「そうですか、それなら休んでいきましょう。でも、わたしは若い女性とはちがいますからコーヒーを飲むだけじゃなく、ちゃんとモーテルへいこうといっているんですよ」
「ご主人が心配しますよ」
「わたしの夫が心配するかどうか心配するのはわたしで、あなたは関係ありませんけどね」
クルマはくる時とは別の道をいくようだった。(『波うつ土地』より)
いわゆる不倫とかいわゆる情事とか、そういう湿度がまったくない。エロスもロマンスも何もない、どこまでも乾いているところが良い。自動車を「クルマ」、恋愛を「レンアイ」と書く、カタカナの使い方も読んでいて気持ちよかった。そしてその乾いたテキストから不意に濃密な一滴がこぼれる。「わたしは、『ただ、たんに生きている』と思っている。できることなら、もっともっと、『ただ、たんに生きている』状態になりたいと思っている」……女の色気ではない、いきものの色気だと、そんな風に思ってこの頁のスミを折ったのを思い出す。
こういう小説を、二十歳を少し過ぎた小娘に勧めた先生は、その本性を見透かしていたはずではなかったか? それとも、それは本性ではなく歳とともに変わる一過性の傾向に見えたのだろうか?
というのも、後年になって先生は私にある種の湿度を要求した。少なくとも私は期待されているように感じた。
「時間の問題だと思いますけど」
乾いた気持ちで口走ると、先生はぎょっとしたような顔で聞き返した。
「何が」
始まるのも終わるのも時間の問題だと思いますけど、それでも始めますか。アーソーですか。……小説に出てきたカタカナのフレーズを、私は心の中で反芻した。それももう10年以上前のことだ。
富岡多恵子を勧められたこと、その後に起きたことをつらつら思い出すと、やっぱり、人に本を勧めるのは難しいと思う。たぶん、特に小説は。勧めてもハズれるのが大概だし、万一的中したなら、それはそれで厄介だ。期待し過ぎてはいけないのだ、相手にも自分にも。