意味とモラル

『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』/ヴィクトール・E・フランクル/霜山徳爾訳/みすず書房/1961年刊
『夜と霧 新版』/ヴィクトール・E・フランクル池田香代子訳/みすず書房/2002年刊

 新型コロナウィルス感染症が蔓延して、政府が初めて緊急事態宣言なるものを発令した直後のことだった。マスクや消毒液に加えて食料品も品薄になり、ネット上ではトイレットペーパーが転売されていた。

「いいこと思いついた」

 当時の上司が突然そう言って、オフィスから出ていくと、両手にトイレットペーパーを抱えて戻ってきた。

「やった、やった。これでしばらくはもつでしょ」

 還暦を過ぎた人のはしゃぐ声を背中に聞きながら、私は自分の顔が歪んでいくのを感じた。こういう上司の下で働いていることに、瞬間的にうんざりしてしまったのだ。どれだけトイレットペーパーに困っていたか知らないけど、れっきとした窃盗だ。そんなに嬉しそうに、楽しそうにしないでほしい。せめて部下に見えないところでやってほしいと。

 ……思い出してみると、あんな些細なことで何をそれほど苛立っていたのかと思う。でも、あの頃はその些細なイライラが積み重なっていた。モラルがない! 心の中でそう叫んで、無性に読みたくなったのが『夜と霧』だった。

強制収容所における一心理学者の体験」というのがドイツ語原題の直訳だそうで、学生の頃、講義テキストの一つとして読んだのが最初だった。第二次世界大戦下で起きたユダヤ人の虐殺。強制収容所の中で行われていたこと。徹底的に自由を奪われて、死の間際に追い詰められたときに、人間らしい行動をとる人と、そうでない人の違いって何だろう? 自分は、どこまでモラルを保てるだろうか。……そんなことを考えた覚えがある。

 学生の頃に私が手に取ったのは霜山徳爾さんの訳(以下、旧版)で、ほどなくして新版が出版された。旧版で満足していた私は、長らく新版を手に取ろうとはしてこなかったけれども。初めて、新版を読んでみようと思い立った。

 これらすべてのことから、われわれはこの地上には二つの人間の種族だけが存するのを学ぶのである。すなわち品位ある善意の人間とそうでない人間との「種族」である。そして二つの「種族」は一般的に拡がって、あらゆるグループの中に入り込み潜んでいるのである。専ら前者だけ、あるいは後者だけからなるグループというのは存しないのである。この意味で如何なるグループも「純血」ではない……だから看視兵の中には若干の善意の人間もいたのである。(旧版「九 深き淵より」より)

 こうしたことから、わたしたちは学ぶのだ。この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、そのふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れこんでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。したがってどんな集団も「純血」ではない。監視者のなかにも、まともな人間はいたのだから。(新版「収容所監視者の心理」より)

 読み比べを試みて知ったのは、原書自体、1977年に新版が刊行されていたことだった。つまり単なる旧訳、新訳ではない。新版訳者の池田香代子さんは、パレスチナの地で戦闘が繰り返されていることを指摘し、加筆・編集に至った著者の思いを以下のように分析している。本書が「世界の人びとにたいしてイスラエル建国神話をイデオロギーないし心情の面から支えていた、という事情を、フランクルは複雑な思いで見ていたのではないだろうか」。

 ドイツ語を勉強していない私は、オリジナル・テキストの違いと、訳者によって生じた違いを区別することはできなかったが、パレスチナが再び爆撃を受けている現在、新版を読んでおいてよかったと感じている。

 ああいうことがなければ、読もうとしなかったかもしれないな。パンデミックがなければ。上司がああいう人でなければ。私がイライラしていなければ。

 フランクル博士は言っている、「どんな困難にも、意味を見いだすことはできる」と。当時の私はそれができていなかった。「この上司のおかげで『夜と霧』の新版を読めたんだから」と思うことができていたら、もう少しおおらかな気持ちで彼女と接することができていた、少なくともその可能性はあったように思う。

私が気になった違いは「囚人(旧版)」と「被収容者(新版)」。原書で使われている単語が違うのだとしたら「訳者あとがき」で触れられていないのは不自然な気がするし、同じ単語だとしたら意訳し過ぎな気もする。結局わからない。