ライターズブルース

読むことと、書くこと

いくつかのかなしみ

『生きるかなしみ』/山田太一・編/ちくま文庫/1995年刊

 近所の家の庭で焚き火をするとのことで日の暮れ方から見物に行くと、家主の友人がひとりふたりとやってきて、八時過ぎには十人少々の集まりになった。二、三人ずつの輪ができてはほぐれ、また別の輪に入って酒を酌み交わす。秋の夜長だなあなんて思いながら世間話に加わっていると、不意にこんなことを言われた。

「こっち側の人ですよね?」

 見たところ三十半ば、メガネをかけた細面の男性だった。

「こっち側ってどっち側か、よくわからないけど……」

 前後の話から類推すると、彼は新型コロナウィルスをめぐる騒動のなか、自分で調べて考えるところに基づいて行動した結果、なかなか強い風当たりを受けた様子で、その経緯から「あっち側の人」と「こっち側の人」という考え方をするようになったらしい。

 彼の話に共感するところと、それはどうだろうと思うところと両方あって、私はコロナとは特に関係のない自分の体験を一つ二つ話した後でこう言った。

「世の中のこと大体は、そんなにわかりやすい話じゃないと思う」

 トイレから戻ってくると彼は別の輪に加わっていたから、話はそこで終わった。あなたがこっち側の人で、私があっち側の人だったとしても、私はあなたと話ができると思うよ。私としてはたぶん、そんな風なことを伝えたかったのだけど、どうもあまりうまく言葉にできなかった。

 こういう気分のときは、どの本がいいんだっけ。帰宅して風呂から上がると、本棚から一冊抜き取って頁を開いた。

『生きるかなしみ』はユニークなアンソロジーだ。テーマがテーマだから、親が子供を殺してしまう話、人種差別の話、それから戦争の話、深刻な詩やエッセイが多いと言えば多い。その一方で、メガネをかけた自分の顔が嫌で、人前でメガネをかけることを避けてきた話や、五十を過ぎて初めて好きな男と一緒に暮らして、ふとした瞬間に涙ぐんでしまう話など、同じテーマで他の人が編んだらまず入らないだろうと思うものもある。

 編者の山田太一さんは説く、かなしみの主調底音は「無力」であると。色合いも大きさもさまざまに、元は互いに関係なく書かれた文章の連なりを読んでいくと、たしかにその主調底音が響いてくる。

 心臓とか肝臓を移植出来たりロケットが宇宙で新しいことをしたり独裁者が倒されたりすると、人類は輝かしい力に溢れているようなことを新聞やTVはいうけれど、無論それはジャーナリズムの誇張で、人間は無力である。証明する必要があるだろうか? 早い話が容貌も背丈も性別も選べない。(中略)災害の前にはひとたまりもなく、数日食糧が尽きれば起き上ることもおぼつかない。交通事故などといわなくても指先の怪我ひとつでへとへとになってしまい、悪意中傷にも弱く、物欲性欲にふり回され、見苦しく自己顕示に走り、目先の栄誉を欲しがり、孤独に弱く、嫉妬深く、その上なんだかんだといいながら戦争をはじめて殺し合ってしまう。(中略)
 私たちは少し、この世界にも他人にも自分にも期待しすぎてはいないだろうか?
(「断念するということ」より)

 私にこの本のことを教えてくれたのは、学生時代の先輩だった。頭のいい人で、それに輪をかけて人徳というものを初めから備えて生まれ育ってきたような人だった。親しくしたのはほんの一時期だったけれども、たとえば、私のいないところで彼女が私のことを「○○な人だった」と誰かに話していたら、それがどんなに意外な内容だったとしても「そうか」と受け入れるざるを得ない、私にとっては今もそういう人だ。

 当時20代前半だった彼女は、この本に収められている宇野信夫の「二度と人間に生まれたくない」という短いエッセイの話をしていた。会話の内容は忘れてしまったけれども、苦笑まじりにそのタイトルを繰り返した様子は覚えている、「二度と人間に生まれたくない」。

 その心境は、当時の私にはよくわからなかった。だから本を読んでみたのだが、やっぱり、共感するほどにはわからなかった。今なら、そうだね、と応えるだろう。

 あの夜、「こっち側の人ですよね」と言った彼とは、夏目漱石とか村上春樹とか、小説の話も少しした。もしかすると、この本のことを話せばよかったのかもしれない。こっち側の人もあっち側の人も、無力であることに変わりはない、私はそう思うよと。

世代のせいもあって、山田太一さんのドラマは数えるほどしか観ていないけど、緒形拳鶴田真由が出演していた『いくつかの夜』は印象に残っている。