ライターズブルース

読むことと、書くこと

裏と表とその中身

『うらおもて人生録』/色川武大新潮文庫/昭和62年刊

 飲み屋のカウンターで背後を人が通り過ぎる気配がした。カウンターの中の人が「ありがとうございました」と声をかけたが、相手は無言のまま立ち去ったようで、中の人は眉を八の字に下げて呟いた。

「なんでなのかなあ」

 ほんと、なんでなんだろう。私が振り返ったときにはもういなかったから、男か女か、若いか年寄りかもわからない。彼もしくは彼女は、別に悪いことをしたとも思ってないだろうけれども、酒場にも士気というものがある。士気を下げるような行いは、やめてもらいたいものだ。

 お店の人とそんな話をしているうち、『うらおもて人生録』を思い出した。『麻雀放浪記』で知られる著者が、戦後の賭場で体得した「生きていくうえでの技術」を綴ったエッセイ集だ。劣等生・不良少年向けとあって語り口は優しいが、内容は手強い。たとえば、このとき思い出した「もう手おくれかな--の章」はこんな具合だ。

 あるとき読者だという少年が著者の自宅を訪ねてくる。「へとへと」だという著者に色紙十枚くらいサインをねだる。どこから来たの、高校は、と話しかけても愛想の一つもない。「彼は、俺の別名のマージャン小説を彼流に好いてくれたのだろう。それで一生懸命に住所を探して、わざわざやってきてくれた」と少年の行動を尊重したうえでこう続ける、「俺の作品を好いてくれたとして、どうして自分の好きなものに対しても、優しくないんだろう」。

 お店の人と、居合わせた私が疑問を感じたのもそういうことだ。客引きをして無理に引っ張ってきたのではない。客のほうが自分の意思で好きで店に入ってきたのに、どうしてその店の人に一言、あいさつを返さないのか。

 帰宅後に読み返してみると、やっぱり「なるほどな」と思うことが書いてあった。

 妙ないいかただけれども、俺の子供の頃、戦争があってよかったとも思うんだな。周囲ぐるりが戦時体制で、戦時色を教わったけど、まさか、戦争を好きになるわけはない。嫌いだけれども仕方がないと思ってた。それで、内心では、戦争に関係のないものを好きになった。(中略)今、平和だからね。実は直接殺し合わないだけで、少しも変わらずどろどろしてるんだけれど、子供の眼には、周囲ぐるりの有り様が、これは嫌だ、というふうに写りにくいからなァ。これは嫌だから、したがってこれが好きだ、というところがあいまいになる。またそこをあいまいにしても生きられる。

 お店の人にあいさつ一つしない人というのは、「好き嫌いをあいまいにして生きている人」なんだろうと思う。「なんで」という疑問が解消したところで、何かの足しになるものではないけれど。

 考えてみればこの本に書かれている「技術」を実践してうまくいったとか、役に立ったという体験は今のところない。大体いつも、読んでただ納得するだけだ。納得すると、怒りや悲しみのようなものが不思議と宥められる。宥められた後に、優しい気持ちと厳しい考え方が残る。

 お店の人は本が好きな人だから、次に行くときに持っていけば、話のタネになるかもしれない。しかし手に取ってみると思った以上にボロい。思い付いたときに鞄に放り込んでは、移動中や待ち時間にちょろっと読んでまた鞄に突っ込む、そんな読み方をしてきたせいでカバーが擦れて破れて、破れたところから折り目がついている。本体も三分の一くらい頁の角が折れている。ちょっと人に貸せる代物ではないが、これはこれでこの本にふさわしい「装丁」のように思う。

初出は毎日新聞。各回に和田誠さんによるイラストが添えられている。