ライターズブルース

読むことと、書くこと

記憶の栞

『災間の唄』/小田嶋隆/武田砂鉄編/サイゾー/2020年刊

 持ってきたと思っていたのに、引越し後に出てこなかった本の一つが阿佐田哲也の『麻雀放浪記』だ。2011年の春に全四巻を一気読みした思い出がある。地震津波原発事故を巡って、「自粛」と「風評被害」と「つながろうニッポン」という言葉をよく見かけたあの頃、私は超ロングセラーの一大娯楽小説をどっぷり読み耽った。敗戦後の復興期に博打の道で生き死にするアウトローたちに、妙な親しみを感じながら。

 大変なことが起きたときは、私も一応、誰かの役に立ちたいとか真っ当なことを言いたいと思う。思うけれどもあれこれと足踏みをして、そのうち自分の心を守る手段だけ先に思いつく。それで人の輪から外れて、人のいない方へ、人のいない方へと行きたがる。『麻雀放浪記』という小説は私にとって、自分がそういう人間だと示す記録のようなものだ。だから手元に置いておこうと思っていたはずなのに、どういうわけか手放してしまったらしい。

 同じような理由で保管してあるのが『災間の唄』。東日本大震災が発生した2011年から新型コロナウィルスが蔓延した2020年にかけて、コラムニストの小田嶋隆さんは「寝ても醒めてもツィッターにどんな言葉を書き込んだらウケるのかということばかりを考えていた」という。その膨大なツイートを、ライターの武田砂鉄さんが一割程度に選りすぐったのが本書だ。僭越ながら三本引用してみよう。

2011.12.12 なーにが絆だよ!という声を糾合すべきだな。非絆の絆。安易な連帯を求めない市民の会。

2014.12.11 「民主主義が死ぬ」という言い回しを「死ぬの何度目だ?」「死にすぎじゃね?」「まだ死んでないのか?」てな調子で嘲弄している人たちは、入院患者の前でも同じことを言うのか。死んでほしいのか。「死ぬ」と言っている人たちは、死を回避し、死から逃れるためにその言葉を使っている。わかれよ。

2020.3.10 いっそ「不っ幸五輪」てなことで粛々と開催するのはどうだろうか。/リキまずに「不幸五輪」と発音するのも悪くないかな。

 東日本大震災をきっかけにツィッターをはじめとするSNSがより広範囲に普及していった間、私自身はそういう世界からどんどん離れていった。2015年頃まではフリーライターとして活動していたから、一応アカウントを持っていたことはあるが、積極的になれなかった。「発信」したい人がこんなに大勢いるなら自分は他のことをしようかな。人がいない方へ、人がいない方へ。だから小田嶋隆さんのツィートも、リアルタイムではほとんど目撃していない。

 あの頃、「なーにが絆だよ!」と私も思っていた。「民主主義が死ぬ」という言い回しを見聞きすると、とことん死んで焼け野原からやり直すことになっても私は別に構わない、という気分だった。一年延期されたオリンピックは開会式も競技も二秒以上は見なかった。そういう思いを言葉にして不特定多数の誰かに伝えたり、誰かと共有しようとは思わなかった。こういうときに何も言わない、何も書かないのは、きっと書き手として失格だなと思いながら。

 資格とか責任とか、そういうものとは別のところから静かな言葉が出てくるのか、出てこないのか。期待も諦めもなくぼんやり見守っていた自分を、弁護するのでも反省するのでもなく今はただ単に覚えておきたいと思っている。

 それにしても内容も形式も書かれた時代もまったく違う二つの本を、同じような理由で手元に置いておこうと思ったのは、我ながら妙な成り行きだと思う。思い返せば『麻雀放浪記』は、たしかこんな書き出しで始まる。もはやお忘れであろう、今でこそ舗装された東京の地面だが、少し掘り返せば黒い焦土が出てくるはずだ……。どうも正確に思い出せなくてモヤモヤする。やっぱり、そのうち書い直してしまいそうだ。

一年ごとに年表が付されていて、個々のツィートの背景を参照できる。親切な造り。