ライターズブルース

読むことと、書くこと

崩れた本を積み上げる

『アンダーグラウンド』/村上春樹/講談社文庫/1999年刊

 外国人観光客が戻ってきたのはいいけれど、お会計のときに「え、こんな安いの!?」みたいに言われるとなんか、この人たちから見ると日本ってもう先進国じゃないんだろうなって思う……最寄駅近くのカフェのマスターがそんな話をしていた。いつからこうなっちゃったんだろう。どこからこうなっちゃったんだろう。

「結局、前提が違ってたことなんじゃないですかね」

 私の感覚的な物言いに、マスターはウンウンと頷いてくれた。同世代だからかもしれない。1980年前後に生まれた私たちは、たぶん、戦争に敗けた後、軍事力はアメリカに頼って経済に全力投球した結果、日本は奇跡的な復興を遂げて経済大国になりました、という話を聞いて育ったはずだ。

「今はもう、経済はダメだし、軍事力もこれからどうするのって話だし。どっかで軌道修正すればよかったんだよね、きっと」

 バブル崩壊とか、地下鉄サリン事件とか、原発事故とか、きっかけはいろいろあったのにね。でも結局、上のほうの人たちは既得権益があるから、自分たちは逃げ切ろうって感じなんだろうね。……そんな話をして帰ったけれども、ほんとは、前提をアップデートしたいのは私だ。国がどうこう、上の人たちがどうこうではなくて、私自身が、なんかちょっといろいろ整理したい。今のところはそれが、わたしがブログを書く理由なんだろうと思う。

 

 最初からそんなことを考えていたわけではない。引越しをするために、持っていた本を七割方処分した。また読みたい本、好きな作家の本、なんだかよくわからないけど捨てられない本。引越し先の本棚に収まった本を手に取って、どうして処分しなかったんだろうと考える。考えながら書いて、書きながら考えてみれば、何かわかることがあるかもしれない。そんな思いつきでブログを始めた。

 気楽に始めたつもりだったのに、やってみると難しい。

 たとえば森達也の『A3』を読めば、麻原彰晃の裁判はひとことで言えば杜撰だった思うし、村上春樹の『アンダーグラウンド』を読めば、「とにかく早く死刑にしてほしい」という地下鉄サリン事件の被害者の話にうなだれる。頭の中身は矛盾のカタマリだ。言葉で整理する、整理した言葉からあれこれ落っこちて、整理する前よりも散らかっていく。

 先週更新したときは『アンダーグラウンド』のエピローグを少し引用した。

 あなたは誰か(何か)に対して自我の一定の部分を差し出し、その代価としての「物語」を受け取ってはいないだろうか? 私たちは何らかの制度=システムに対して、人格の一部を預けてしまってはいないだろうか? もしそうだとしたら、その制度はいつかあなたに向かって何らかの「狂気」を要求しないだろうか? あなたが今持っている物語は、本当にあなたの物語なのだろうか? あなたの見ている夢は本当にあなたの夢なのだろうか? それはいつかとんでもない悪夢に転換していくかもしれない誰か別の人間の夢ではないのか?(『アンダーグラウンド』エピローグ「目じるしのない悪夢」より)

 戦後日本史上最悪といわれる犯罪の被害者数十名への、世界的に有名な小説家によるインタビュー集。自分にとってこの本は、「地下鉄サリン事件についての貴重な記録」だから捨てられないのか、「村上春樹の本」だから捨てられないのか、ブログを書いてみてもわからなかった。

 でも、もしかするとそれは、同じことなのかもしれない。地下鉄の車両や駅構内にたまたま居合わせたがために、それまでの物語を奪われた人たち。家族や友人や同僚と日常を共有することができず、一人の教祖の差し出した物語を選んだ人たち。致死的な物語について語る小説家。

 私は私で物語を求めている。崩れた前提の瓦礫の中から、使えるものと使えないものを選り分けて、足りないものを補って、立ったり歩いたりできる足場を組み立てる。組み立ててもまた崩れるかもしれないから、なるべく小さいものを一つ一つ積み上げていく。そういう風にブログを続けていけたらいいなと思う。

 

はてなブログの特別お題「わたしがブログを書く理由」にかこつけて、前回と同じ本について書きました)