ライターズブルース

読むことと、書くこと

追悼文についての覚書き

『友よ、さらば 弔辞大全Ⅰ』/開高健・編/新潮文庫/昭和61年刊
『神とともに行け 弔辞大全Ⅱ』/開高健・編/新潮文庫/昭和61年刊

 15年前に少々変わったなりゆきで、物故した陶芸家の追悼文を書いたことは前回に記した。当時その種類の原稿を書いたことのなかった私がまず参考にしたのが、開高健の編集による『友よ、さらば』『神とともに行け』だった。明治から昭和にかけての追悼文の選集で、たとえば昭和17年萩原朔太郎への追悼を三好達治が書き、昭和39年には三好達治への追悼を中野重治が、昭和54年には中野重治への追悼を佐多稲子が書いている。勝者も敗者もない懸命なリレーのようでもあり、時の奔流に言葉が浮かびあがった一瞬を捉えた写真集のようでもある。

 亡くなった人を悼む言葉に優劣をつけるなんて外道のすることだよなあと思いながらも、読めば心にすっと入ってくる文章とそうでもない文章があることは、どうすることもできない。当時の私は外道上等と開き直って、その良し悪しを分析したものだった。その結果、良い追悼文には「怒り」がある、と思ったことも前回に書いた。

 たとえば菊池寛直木三十五が亡くなる数日前まで囲碁を打ち、その勝敗を互いに記した表を家の壁に貼っていた。通夜の晩に誰かがそれを片付けてしまったことに気づいて、「自分はむやみに腹が立って、社員や女中を怒鳴りつけて探させた」。

 あるいは東条耿一。ハンセン病の隔離施設で共に闘病した北条民雄を看取った際、「私は周章てふためいて、友人たちに急を告げる一方、医局への長い廊下を走りながら、何者とも知れぬものに対して激しい怒りを覚え、バカ、バカ、死ぬんじゃない、死ぬんじゃない。と呟いていた」。

 私に確信に近いものを与えたのは佐多稲子から壷井栄へ贈られた言葉だ。

 壷井栄さん、三十数年のつきあい、ありがとう。あなたとおしゃべりをするときはもう失われました。そのことであなたとのおつきあいはもう終るのでしょう。けれども私のいる間は、あなたとのつながりはいろいろな形で残りましょう。私はそのことでむしろ苦しい。あなたと共にあった私は、私の中に残るにしても、あなたのうちにあった私は、永久に消えたことをおもうからです。(中略)
 あなたが私を語ってくれることはもう無いのです。私は不満です。

 佐多稲子という人は激しい感情をよくよく自制した文章を書く人だ、そういう人が敢えて選んだに違いない「不満」という言葉に、私は「怒り」に近いものを感じた。それを手がかりとして仮説を立て、自分の仕事を進める頼みとしたのだったが。

 良い追悼文には「怒り」がある……とも限らないかなあ、と今は思う。

 たとえば梶井基次郎が死んで、自らも病床にあった三好達治が寄せた詩も、心にすっと入ってくる、--「僕は考へる ここを退院したなら 君の墓に詣らうと」。林芙美子の死に「幻滅」という言葉を使った平林たい子の文章も良い、--「私達は、思いがけず二人とも文壇の人間になったが、私たちの夢はこんなことではなかった。もっともっと、崇高ですばらしい筈だった」。この本に入っているものではないけれど、思い出してみれば、甘粕事件で殺された伊藤野枝について書いた辻潤の文章も好きだ。江藤淳の遺書に応答した石原慎太郎の弔辞も、忘れられない。

 良い追悼文の条件なるものを外道なりに考え直してみると、率直であること、個人的であること、だろうか。15年前の私が「怒り」をキーポイントと捉えたのは、おそらくそれが元来個人的な感情であり、率直さをもって発露されるものだからかと思う。

 そしてそれは、もしかすると追悼文に限ったことではないのかもしれない。どんな目的の文章であれ、率直に、個人的に書くこと。それができたなら、もし次に誰かの追悼文を書く機会が訪れたとしても、アワアワと参考書を紐解くような真似はしなくて済むと思うのだけど。今はまだこの二冊は捨てられない。

『友よ、さらば』には55編、『神とともに行け』には50編所収。編者あとがきによると弔辞というものの特質は「たった一回しか書けない」こと。なぜなら「人はたった一回しか死ねない」。