ライターズブルース

読むことと、書くこと

"怒り"ではなく"粘り"を

『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』/加藤陽子朝日出版社/2016年刊

 今の若い人たちはもっと怒ったほうがいいと、先日ある年長者に言われて、さて、と考え込んでしまった。とうに四十を過ぎている私を指してのことだったかどうかはともかく、私だってここ十年くらいの政府・官邸のやり方には頭にきている。でも、怒りという感情を発露すると、自分でもどこに向かうかわからない、経験的に。それでも怒りを、怒りとして表出するべきなんだろうか?

 国政というものに国民の一人としてどう参加したものか、わからなくなったときに読みたくなるのが『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』。著者によると、世界が日本に「どちらを選ぶか」と真剣に問うたことが過去に三度あったという。日本はまず国連脱退を選び、次にドイツ・イタリアとの軍事同盟を選び、最後は真珠湾攻撃を選んだ。その意思決定は為政者や軍人によってのみなされたわけではなく「国民」も関わっていた。であれば今の日本で、おそらくは私自身もその意思決定に関わっている。なるべくなら不本意な形で関わることを避けたいけれども、当時の人々とて敗戦の道を辿るとは思っていなかったはずで……。

 東大の歴史の先生が書いた歴史の本を、私のような門外漢が読んで理解が追いつくかといえば、追いつかないのが道理だ。しかしこの本は、高校生を対象に開講された全六回の講義録。地図や年表等の資料も豊富で、何より質疑応答がめっぽうおもしろい。たとえば満州事変後の国連との交渉を題材に、先生は次のような問題を設定する。

「一国の首相が何かをやろうと考えたとき、その選択や行動を縛るものは何ですか。ただし、対外関係とジャーナリズムを除いて」

 生徒からは「有権者の意向」「産業界の利害」など複数の解答があがる。「他にありますか」と聞かれて、最後の一人が答えたのが「憲法とか」。

「ああ、これはすごい。私が想定していなかった答えをあげてくれました。憲法について制約要因だと考えていなかったということは、私が立憲主義者じゃなかったということですね(笑)」

 先生が用意していた解答は「テロリズムを含む政治運動」だったと明かされるのだが。国会レベルでも官邸レベルでも憲法をないがしろにした決定が度々なされている現在、憲法によってその職位を保障されている彼らに「あなたは立憲主義者ですか?」と質問してみたいなと思う。怒りではなく、好奇心から。

選択の入口の地点で、ゲームのルールが不公正であったり、レフリーが不公平であったりする現状を目にしたとき、国家との社会契約が途絶えたと絶望する道をとるのではなく、ゲームのルールを公正なものに、レフリーを公平な人に代えていく、その方法や方略を過去の歴史から知ること、それが今、最も大切なことだと私は考えています。(「はじめに」より)

 2020年10月、菅前総理が日本学術会議の会員候補6名の任命を拒否したことも「頭にくる」出来事の一つだった。うち5名は代替手段によって学術会議の活動に加わったそうだが、加藤陽子さんだけは加わっていない。歴史の分野については自分がいなくても会員が充実していることに加えて、「十分な説明なしの任命拒否、また一度下した決定をいかなる理由があっても覆そうとしない態度に対し、その事実と経過を歴史に刻むため、”実”を取ることはせず、”名”を取りたい」と。こういう態度を「粘り腰」というのだろう。怒りを表出するよりは、かくありたいと思ってしまうのは凡夫の高望みだろうか。

 好きな作家の本。思い出や思い入れがある本。もう一度、読みたい本。もう一度、読まなければならない本。引越しに向けてなんとなくの直感で本を整理した結果、手元に残った本はどうやら以上のいずれか(もしくはいくつか)に当てはまる。この本は、少なくともあと三回は読まなければならないと思っている。選択を迫られたときの「なんとなくの直感」の精度を上げておくためにも。

地図や年表資料に加えて、写真やイラストを使った吹き出しもわかりやすいし、楽しい。