ライターズブルース

読むことと、書くこと

憲法と私

『落ち葉の掃き寄せ 一九四六年憲法−その拘束』/江藤淳/文藝春秋/昭和63年刊

 中学校の社会科の教科書で現憲法の九条を読んだとき、私は「要するに、誰かを殺すか自分が殺されるかの二択に迫られたときは、自分が死ねってことなんだな」と理解した。それは、前の戦争で他の国の人たちを殺したことの報いってことなんだなと。30年くらい前の話だ。

 今はどうなんだろう、どんな風に教えているんだろう。そのうち甥っ子に教科書を見せてもらおうと思いついて、はたと疑問がもたげる。教科書を挟んで私は、甥っ子とどんな話をするつもりなのか。甥っ子から質問されたら、きちんと答えられるか? どうもあまり自信がない。

 現憲法はGHQによって起草されたこと、いわゆる「押しつけ憲法」だったと知ったのは大学生の頃で、「先に言ってほしかったなあ」というのが第一の感想だった。中学校ではテスト対策として前文と九条を暗記させられたけれども、率直に言って「変な文章だな」と思ったものだ。もとが英文だった、それを翻訳したと聞けば納得がいく。加えて「前の戦争の報い」というのも「懲罰」だったと理解したほうがより現実的だ。

 それで大学生の頃の私は、「自分の国の憲法は、自分たちで作るべきだろう」と思いながら、「成立過程がどうあれ占領終了後も半世紀以上改憲されなかったということは、日本人がそれを自分たちの憲法として受け入れてきたってことだ」と聞けば、「それもそうか」と思う、改憲とも護憲ともどっちともつかないままでいた。加えて、アメリカの戦争に日本国内の米軍基地が活用され、自衛隊が海外派遣される現実を見ると、「憲法がないがしろにされている状態で、憲法だけ変えても何も変わらないんじゃないの」という気がしていた。

 その後も体系的に勉強したわけではない。その時々の思いつきで関連の本をいくつか読んだ限りではあるけれども、憲法九条の問題は「主権」の問題だ、というのが現時点での私の立場だ。日本という国は、軍事的な主権(選択肢)がないこと。九条は主権を制限するものの一つではあるけれども、それを変更すること(交戦権を認めること)は主権の回復とイコールではないこと。……私が甥っ子に説明できるとしたら、このくらいまでだと思う。

 では主権とはなにか、と質問されたら、以下引用の後半部分を、なるべく噛み砕いて説明したい。あまり自信はないけれども。

「平和主義」運動についていえば、それは武力のかわりに「絶対平和」という点で万邦に冠絶しようという急進的な心情のあらわれであり、「中立主義」とは、結局世界支配のかわりに国際的な権力関係から離脱したいという願望の政治的表現にすぎない。
 しかし、実際には「平和」とは戦争を回避する努力の継続ということにほかならず、この努力が生かされるのは相対的な国際関係のなかにおいてである。万邦にさきがけて、などということが可能なわけではない。また、「中立」とは、おそらく東西二大勢力のいずれにも荷担せず、恒に紛争のらち外にいるという特権的な位置のことではなく、問題に応じてどちらを支持するかという判断を留保する努力のことであろう。(「”戦後”知識人の破産」より)

 ちなみに、いま自民党公式サイトに掲載されている憲法改正草案には、私は反対だ。反対派の指摘する緊急事態条項追加はもってのほかだけれども、それを除いて国民投票にかけられたとしても、私は反対票を投じる。

 先の大戦で日本軍の戦没者過半数は餓死だったわけで、自衛隊を「国防軍」と改称するなら、セットでやらなければならないのは食料自給率の回復とエネルギー問題の改善だと思う。そんな動きがないということは、少なくとも改正草案の九条追加事項が目指すところは、国防ではないし、ましてや主権の回復でもない。

 何が目的なんだろう? できれば、今度こそ、せめて先に言ってほしい。

江藤淳の「占領三部作」は保守改憲派に引用されることが多いけれども「押しつけ憲法だから改憲するべき」みたいな単純な話ではない。「戦争か平和か」の二元論でもなく、60年日米安保闘争の頃から一貫して「主権の回復」を論じていたことを、及ばずながら強調しておきたい。