引越す前は、江國香織の小説は文庫とハードカバー合わせて十冊くらい持っていた。吉本ばななも山田詠美も桐野夏生も宮部みゆきも、読みたくなったらまた文庫で買えばいいと思って、古本屋へ引き渡す山へごそっと分類しながら、ふと思いついて避けたのが『神様のボート』だった。一冊くらいは、と思ったのだ。恋愛小説らしい恋愛小説を、一冊くらいは持っていこうかなと。
引越しから一年半経つ間にまた増えた本の整理をしながら、そんなことを思い出して、パラパラ捲ってみて唖然としてしまった。恋愛小説と聞けば、ぱっとイメージするのは一対の男女の話だ。でも、ここには男の方がほとんど出てこない。主要な登場人物は母と娘で、男はその二人の会話や回想に出てくるだけ。話が進むにつれて、その不在感がみしみしと充満して母娘の生活を不穏なものに変えていく。これを「恋愛小説らしい恋愛小説」だと思った私の恋愛観って、なんなんだろう。
改めて不思議だなと思うのは、男との再会を切望する母親が、娘を連れて引越しばかり繰り返していることだ。一つの場所に馴染んでしまったら二度とあのひとに会えない気がする、というのがその理由で、普通は逆だろうと思う。探す側の立場で考えれば、どうにか居所を探し当てたのに引越した後だった、という状況を想定しないはずがない。でもこの母親は「探す側の立場」で考えたりはしない。
--どうして?
仕方なくもう一度訊いた。
--どうして引越しばかりなの?
ママはあたしの髪に何度も唇をつけながら、
--ママも草子も、神様のボートにのってしまったから。
と言ったのだった。
--神様のボート?
訊き返したけれど、それ以上の説明はしてくれなかった。
これは恋愛小説なんだろうか? 確かに「恋」は描かれているけれども「恋愛」となるとどうだろう? 恋愛小説と言っていいのかどうか、不安になってくる。
恋と恋愛の違いについて、辞書にはどう書いてあるか知らないけれども、個人的な直感に従って言ってしまえば、一人でするか二人でするかの違い、のような気がする。そして私は、恋は知っているけれども、レンアイとなると、ちょっとよくわからないのだ。だからこの本を「恋愛小説らしい恋愛小説」だと、勘違いしてしまったのかもしれない。
この人は、私がこの人の彼女じゃなくなっても私を好きでいてくれるんろうか。私は、私の彼氏じゃなくなってもこの人を好きでいられるんだろうか。そんな好奇心から、付き合っていた男の子と別れたのが二十歳の頃だった。二十代の終わりには、一番好きだった人から一番好きだと言われて、あまり嬉しくないことを発見した。その人の目に映っているのは、実際の私より二歩くらい横にずれた幻のようなものだと感じて、私は自分自身をその幻に同化させることができなかった。
やっぱり、私にはレンアイはよくわからない。少なくとも、運動音痴で方向音痴であるのと同じ程度には、恋愛音痴であるらしい。
私がこのジャンルの小説で他に思いつくのは、絲山秋子さんの『ばかもの』だ。一対の男女が描かれていたはずだが、一度別れてから再会するまでが、やっぱり長い話だったと記憶している。引越しで手放してしまったので、そのうち文庫版を買ってみようかと思う。恋と恋愛の違いについて、もしくは私の恋愛観の空虚さについて確認するために。