海を見ながらビールでも飲もうかと思って。引越しの報告にそう付け足すと、どういうわけか誰も彼もが「いいですね」「素敵ですね」と言ってくれた。みんなそんなに海とビールが好きなのか? 特に姉は「いいなあ、いいなあ」と嫉妬まじりに繰り返すので、それなら自分も海の近くに引越せばと思ったけれども、姉には学校に通う子供があり、近所で長く続けている仕事もある。私が自分一人の都合で引越しできるのは、言ってみれば何も持っていないからだ。家も子供も、取り替えの効かない勤務先もない。人と比べて余分に持っていたのは本くらいで、それも七割方処分すると、荷物を積んだ引越しのトラックはすかすかだった。
しかしそれでも「何も持っていない」は言い過ぎというもので、私はたとえば長谷川利行の画集を持っている。関東大震災後の近代化していく東京の街や人を描いた画家。彼は三十前後で絵を描き始めてから四十九歳で亡くなるまで、寺や、木賃宿と呼ばれる簡易宿泊所に寝泊まりして、住所さえ持たなかった。窮民施設で病死した後も係累は現れず、遺留品のスケッチブックや日記は焼却されたという。比べれば私は、何も持っていないどころかずいぶんいろいろなものを持っているような気がしてくる。
あるとき利行に洋服をくれた人がいた。曰く、絵は買いたいが、着物も髪もとにかく不潔で家に上げられない、その洋服を着て来なさいと。ところが十日経っても来ない、代わりに警察から連絡が来た。洋服が盗品だと疑われたらしい。留置場に迎えに行くと、利行はその人の顔を見るなり足に抱きついて泣き出したという。
私には私にふさわしい服装がある。あなたがこんな洋服を着せてくれたために、かきたい絵を一週間もかけなかった。くやしいといって司法主任ももてあますほど抱きついて泣いちゃった。食うこと、住むことは木賃宿に住んでいるわけだからなんでもないが、絵が描けないことがいかに苦痛だったかということだ。(中略)大変な泣きじゃくりで、どうして慰めていいか解らない、司法主任もそとへ出たらどんどんかけといって慰めた。(座談会「長谷川利行をしのぶ(一)」木村東介の談話より)
この画家の名前は洲之内徹のエッセイで知ったのだと思うが、欲しいと思ったのはお世話になっていた先生の自宅でその画集を見せられたときだった。夫人によるお料理を食べ、酒も相当量飲んで、先生はその画集を広げた。何を話したかは覚えていない、きっと利行について何か書こうと考えていたのだろう。私は横から覗き込んだ”上野風景”という絵を「いいなあ」と思って、その翌日に神保町の古書店で同じ画集を見つけた。15年以上前のことだ。
いいなあと思ったその頁を開くと、今も、やっぱりいいなあと思う。鋪道が開けていて、両側に木々があって、その上に空が開けている、題がなければどこともわからないような絵だ。地面にも木々にも空にも、ところどころ白い絵の具が重ねられていて、その白い色が明るいのが良い。そこにあるのは公園でもなく木や道や空でもなく、風景そのものという感じがする。住所とか係累とか、そういうものを持っている限り、こんな風景は見えてこないのかもしれない。
不思議だなと思うのは、表紙の裏には一誠堂のタグが付いているけれども、一誠堂は美術書を専門とした古書店ではない。そして私がいわゆる画家の画集を買ったのはこれが初めてで、画集の探し方なんて知らなかった。たまたま入った古書店で「先生の家で見たあの画集、あるかなあ」くらいの気持ちで美術書コーナーを覗いてみたらあった、という具合。値段も覚えていない、一万円札をふんだんに持ち合わせていたとは思えないから、たぶん数千円か。
偶然はもう一つあって、先生とはその日の神保町の路上でばったり会った。前の晩に同席していた担当編集者も一緒だったから、彼との仕事の資料を探しにきていたのだと思う。私が買ったばかりの画集を袋から出して「ありましたよ~」と報告すると、編集者氏は私の顔を指差して「持ってますねえ」と言った。その横で先生は大笑いしていた。私は何を持っていたんだろう。それで今は、何を持っているんだろう。