ライター業を廃した理由は、その気になれば二ダースは挙げられる。後付けの説明にどの程度の本当が含まれるかは保留として、諸々の中でおそらくはこれが根本的な問題だったかなと現時点で思うのは、良い原稿を書けたときに限って良くないことが起きることだった。
書くなら良いものを書きたいと思って自分なりに尽くす。結果、思ったよりは良く書けた、良い反響が得られた。すると、そのことを起点として良くないことが起きる。嫉妬ややっかみを買う程度なら不愉快の一言で片付けられるけれども、大切な人との関係が取り返しのつかない方向に捻じ曲がっていった、その捻じ曲げる力の一つに自分の書いた「良い原稿」があるのを認めたときは困憊した。書こうという気持ちが曇り、濁っていった。
他の仕事をして、書かない生活をする中で初めて見聞きして知り得たことがある以上、廃業、転職したことに後悔なり反省なりはない。あのまま続けていたら、と考えることは恥や恐怖を伴う。それでも時々は、やっぱりちょっと情けない気持ちになる。たとえば佐多稲子の本を手にとると、この人はどうして書き続けることができたんだろう、と思う。
佐多稲子は昭和初期のプロレタリア文学から出発して1990年代まで書き続けた人だ。私は十年以上前に季刊の文芸誌の仕事でこの作家について十枚ほど書いた、その時期にまとめて本を買い、読み耽った。引越しを機に処分しなかったのは、好きな作家の一人だからと言って終えてもいいけれど、おそらくは「どうして書き続けることができたのか」という問いが残っているからでもある。
文学仲間であり先輩でもあった夫との関係は、彼女の原稿が高く評価され、経済的にも一家を支えるようになるにつれて、こじれていった。たとえば『くれない』という小説では、夫婦二人とも家で書く仕事をしている、夫婦が属する文学グループでは男女平等を謳ってもいる、それでも妻としてお茶をいれるのはいつも自分であることを「なんなんだろうと思う」といったことが書かれている。するとそれを読んだ夫が「お前にお茶をいれさせると後が怖いからな」とあてこすりを言う、その経緯がまた『灰色の午後』という小説に書かれている。泥沼だ。
夫婦関係以上にきつかったのは、戦地慰問に参加したことを戦後になって咎められたことだったかもしれない。戦前からの仲間が文学団体を設立するときに彼女は仲間はずれにされた、そこで自分が「戦争協力」の汚名を着ていることに気付いて愕然としたという。
「戦地へ行かれたことを、当時、悪いことをする、とお考えでしたか」
「悪いこと? いいえ、そうはおもいませんでした」
と私は彼を見上げて答えた。
「あ、そうですか」
と彼はにこりともせず「それならよろしいのです」と、切り口上に聞える答えをした。
そう聞いたとき私は、心の中で、なにおっ、と叫んでいた。(中略)私のあのときの猛々しい反撥は、それならよろしいのです、などと簡単に審判を下すような、その扱いに対するものだった。私にとっては、そんな軽いものではなかったからである。(「その四」より)
作家としての活動が、その自分を産み育てた文学的土壌を汚すものとして非難された、その周辺のものごとを書いた文章に居直りもなく、悔悟もなく、弁明もないのは驚異だと思う。「軽いものではなかった」と書くが、重いものだったとは書かない。書くことは書く、書かないことは書かない、その見極めの基準は何だったんだろう。
『時に佇つ』は1976年に発表された短編集で、出生にまつわること、非合法時代の共産党活動のこと、離婚した夫の死など、題材は様々だ。「過ぎた年月というものは、ある情況にとっては、本当に過ぎたのであろうか」、老齢に入った彼女が自分の人生をどう見ていたか、いや、書くことによってどう見据えていくかという独特のライブ感がある。
どうして書き続けることができたのか、久しぶりに読み返してみてもその答えは得られないままだ。感嘆とともにむしろ疑問が増えたように思うが、一つ思い出した。資料として読んだ当時、「強か」と書いて「したたか」と読むことを、私はこの作家の小説によって覚えたのだった。夫や党の仲間ではなく「私の強かさ」と、この人は書いていた。