ライターズブルース

読むことと、書くこと

弟子時代の遺物(その三)

『コスモポリタンズ』/サマセット・モーム/龍口直太郎 訳/ちくま文庫/1994年刊

 お世話になっていた先生の自宅からサマセット・モームの文庫本を十冊くらい引きとった経緯については、以前書いた。代表作とされる長編小説と、晩年に書かれたエッセイ集と、いくつかの短編集と。先生の書架には学術本も稀覯本の類もあっただろうに、それなりに長く弟子でいたはずの私の手元には世界的ベストセラー作家の文庫本ばかり残ったことを「我ながら欲もなければ学もない」と、そのときは書いたけれども。

 最近になってふと、それはそれでもっともなことだったかもしれないという気がしてきた。モームという作家が繰り返し描いてきたのは、矛盾した人間の姿だ。たとえば株の仲買人だった男が仕事も家族も捨てて、狂ったように絵を描きはじめる(月と六ペンス)。あるいは不貞の果てに駆け落ちをした放埒な女性が、子どもを亡くした悲しみを抱きかかえて生きている(お菓子と麦酒)。

 私がお世話になった先生もメチャクチャな人だった。指導者らしい助言をする一方で、「アナタはもう友達だもんね」と悪戯の片棒を担がせたり。私が親の小言を愚痴ると「俺の娘になればいいじゃん」と宣い、男女の口説き文句のようなことを口走ったかと思えば、「書き出しってキツイよねえ」と同業者同士のような弱音を吐いたりした。

 私がモームの文章に親しむようになったのも、先生が蔵書をすべて置き去りにして家出をした結果だ。でもそれを「もっともなこと」だと思えるのは、相応の時間と距離を経たからであって、当時の私が聞いたら「冗談じゃない」と怒るかもしれない。

 置き去りにされたのは蔵書だけではなかった。たとえば荷物が詰められたままのリモワのスーツケース。私は本以外の私物にはあまり触れないようにしていたが、一生かかっても飲みきれないくらいの漢方薬の束と、一生かかっても使いきれないくらいの付箋の山が出てきたことは、スーツケースを開けたご家族の会話から聞こえてきた。

 二台のスーツケースから合計三台の電動シェーバーが出てくると、その場にいた誰もが首を傾げた。うち一台は動かなくなっていたが、故障ではなく、詰まっていたゴミをブラシで掻き出すと、やがて低い振動音が鳴り響いた。さらに掻き出すとそれが高音に変わっていった。
「きったねえなあ。一回も洗わなかったのか」
「ちょっと前に『センセイの鞄』って小説がありましたけど……」
「現実なんて、こんなものですよ」

 ご家族とそんな話をした。呆れながら。笑いながら。

 私は先生の家族も、ひとりひとり好きだった。家族の絆とか社会倫理とか、そういうものとは関係なく、それぞれに知的で、個性的で、楽しい人たちだった。先生がいずれ帰ってきたら、いない間に起きたこと、交わされた会話を、第三者の口から語って聞かせることが自分の役割だと思っていた。その機会がついに訪れなかったことは、私にとってまったく意外なことだった。

 小説とか芝居とかいうもので、人生の真実に反していることがあれほど多いというのは、おそらく止むをえないことなのであろうが、それは作者がその登場人物をまったく矛盾のない人間に仕立ててしまうからなのだ。作者としては、人物を自己矛盾だらけの人間にするわけにはいかないのだろう。もしそんなことをすれば、そういう人物は読者の理解を超えてしまうからである。しかし現実において、われわれ人間の大半は自己矛盾のかたまりではないだろうか? 矛盾だらけのさまざまな性質をごっちゃに束ねたもの──それが人間なのである。(中略)人々が、自分たちの受けた第一印象はきまって正しいなどと語ると、私はただ肩をすぼめるほかないのだ。たぶんかれらは洞察力が乏しいか、虚栄心が強いかのどちらかであるにちがいないと思う。私個人としては、人々と長くつきあえばつきあうほど、ますますその人間がわからなくなってくると感じる。(『困ったときの友』)

 モームの短編集のうち、私が読んだなかで一番好きなのは『コスモポリタンズ』。一世紀前に活躍した作家だから、いま出ている短編集は傑作選のようなものが多いけれども、こちらは「コスモポリタン」という雑誌に連載された一連の作品集だ。

 なんと言っても一つ一つが短いのが良い。文庫本10頁くらいのショートショートが30編、登場するのは詐欺師や外交官、漁師や隠棲者などなど。舞台となるのはロンドンやニューヨーク、ボルネオや京城、神戸などなど。医者として、諜報員として、世界各地を渡り歩いた作家だけに、創作とも実話ともつかない語り口が魅力的だ。

 虫も殺さないような好人物が、何事もなげに殺人に近い行為に及ぶ話。騒々しくて派手派手しい男が、たまたま居合わせた女性の名誉を守るためにひっそり自己犠牲を忍ぶ話。……モームだったら、あのメチャクチャだった先生をどんな風に描いただろうかと、考えるともなく考える。私だって良い弟子だったか悪い弟子だったか、わかったもんじゃないよなあと思いながら。

コスモポリタン』は和田誠さんによる装画もすてきだと思う。でも岩波文庫の短編集(上下巻)も、翻訳の行方昭夫さんによる解説が親切で捨てがたい。