ライターズブルース

読むことと、書くこと

批評的であるということ(その三)

『洲之内徹ベスト・エッセイ2』/洲之内徹/椹木野衣 編/ちくま文庫/2024年刊

 大学で在籍していたゼミでは学期中に一回か二回、外部から講師を招いてのゲストレクチャーがあった。ゲストは作家や漫画家や舞踏家など、幹事をする学生によってさまざまで、講義後には必ず飲み会が開催された。藤沢のキャンパスから新宿の中華料理屋へ移動すると、ゲストを囲んで乾杯をする。指導教員の福田和也さんは「初めて買ったCDは?」とか「今まで買った一番高いものは?」とか、その時々のゲストにちなんだお題を学生に与え、学生はそれに答える形で一人一人自己紹介していくのが恒例だった。

「一番好きな批評家は?」というお題が回ってきたのは、たしか針生一郎さんが招かれたときだったと思う。私は「洲之内徹」と答えたが、ほんとうのところ、評論とか批評の類はそのゼミに入るまでほとんど読んだ試しがなかった。講義で触れられた小林秀雄江藤淳洲之内徹を文庫本で一、二冊読んだ程度、つまりその三択(もしくは福田和也を入れた四択)で、一番も何もないもんだと内心自嘲したものだった。

 だからまあ、知ったかぶりだったと言われても仕方ない。ただし文庫本を一冊か二冊読んだ程度でも「この人はあまり批評家らしくない批評家だな」ということはわかった。小林秀雄江藤淳も、それから福田和也も、その主著を開くと「批評とはかくあらねばならない」という定義が展開されている。洲之内徹はそういうことを言わない。そこが好きだったわけだ。

 

 しかし最近になって、やっぱりあれは知ったかぶりというか、思い込みだったと発覚した。『洲之内徹ベスト・エッセイ2』の冒頭に収録された「批評精神と批評家根性と」という短文に、洲之内徹の批評観というべきものがはっきり記されていたのだ。曰く、「批評家は、何よりも先ず作品を理解しなければならないのだが、然も理解するということは、芸術に関する限り先ず”感ずる”ことなのだ」。

 私が愛読してきた「気まぐれ美術館」シリーズは六十代以降に書かれたエッセイで、編集・解説の椹木野衣さんの表現を借りると「脱線調の味わいある文章」だ。だから、若い頃はこういうカクカクした文章も書いていたんだなと、微笑ましく思った。しかし続いて掲載されている「結構な御身分」という短文を読むうちに、驚愕というか震撼というか、ぞっとした。二十代の若者が六十、七十になるまでずっと刃物を研いでいる、その音がきこえてくるようで。

 長くなるけど以下に引用する。

 よほど強靭な精神力をもっていないかぎり私たちは自分で自分の環境をつくって、それでもって逆に自分の心を支えてゆかなければいつも自分の心を破壊の危険に曝すことになる。現実的な生活の形式は、無意識という避難所を精神のために用意してくれる。また、精神の自己保全の本能は、蛹が繭に籠るように、自らを思想や、真実や、良心などの裡に棲まわせたがるものだ。
 しかし、私は自分の精神の周囲に、そうした環境をつくることはすまいとおもう。そのために、私の精神が殻をなくしたやどかりのように、柔い腸を砂地にひきずりながら這いまわらなければならぬとしても、真実や、良心のお題目を唱えて、時代の風波の中に身の安泰を願うようなざまをさらすまい。そうして私の観念が猶一層錯乱を深めてゆき、そうした精神の加速度を肉体が支えきれなくなるようなときが早晩来るとしても、私は身を躱したりはすまいとおもう。(中略)
 ひとつの立場をもって生きるなどということが、既に私にはできないことである。精神に環境がないというのはそのことなのだ。つまり、生活から意義だとか目的だとかを一切抜き去ってしまうことである。そうして、ただその無意味と無目的の裡に生きるということのほかには、真実掛値のない誠意は私にはもてない。また、事実それ以外のものは私には残されてもいない。(「結構な御身分」より)

 批評的であることについてときどき無目的に考える……前回ブログを更新した際、末尾にそう書いた。私は二十代を通して福田和也という批評家の世話になり、その後疎遠になった。その過程で文筆業者となり、それを廃業した。要するに「先生」に対しても「仕事」に対しても、「ひとつの立場」に居続けることができなかった。それを反省したり、正当化したり、そういうことはなんだかインチキくさい。だからといってなかったことにもできないから、ときどき無目的に考える……そんな心境が続いていたものだから、上記に引用した「無意味と無目的の裡に生きる」という箇所がなんだか目に沁みた。

 私は学生の頃から洲之内徹の文章が好きだった、そう思っていたけれども、自覚が甘かったかもしれない。私にとって批評という言葉は福田さんによって肉付けされたと思っていたけれども。あの頃、洲之内徹の文章に振れ動いた心の針のようなものが、どこからやってきたかがわからない。

 前々回書いたとおり「気まぐれ美術館」シリーズは新潮社が絶版にして以降、古書以外に入手できない状態が続いていた。一方で小説や、上記を含む文学論等を編んだ『洲之内徹文学集成』(月曜社)は現在も販売されている。刊行当時(2008年)、買うか買うまいかずいぶん迷ったものの、税込8,000円となると私の金銭感覚では「業務用」だ。結局買わなかったのはケチっただけとも言えるが、私は洲之内徹を研究したり分析したりしたくない、ただの読者でいたい、という気持ちもあった。

 その「業務用」をやっぱり買うべきか、今になってまた迷っている。たぶん、そのうち買うだろうと思う。でも今はまだ読みたくない。読むのが怖いのだ。

椹木野衣さんの編集も解説も、表紙もとても気に入っている。上下巻ではなく1・2巻ということは、とりあえず3巻はあるものと期待している。