15年以上前に某月刊誌の取材として、某民放の情報番組の打ち合わせを見学したことがある。番組の司会者はスタッフが用意したフリップを指して、「これはどういう意味?」「だったらそう書けばいいじゃない」「もっとわかりやすくして」と檄を飛ばしていた。わかりやすく、もっとわかりやすく。何度も繰り返されるその言葉に、だからこの司会者が「視聴率男」と評されるわけだなと納得しながら、でもまあ、世の中そんなにわかりやすいことばかりでもないだろうに、と思ったものだった。
記事の中でそういう違和感を表すことは、私の仕事として求められていなかった。自分の感情や考えをなるべく漂白して書いた結果、記事を読んだある知人は「あの俗物っぷりがよく出てたねえ」と言い、また別の知人は「あの人、やっぱり気さくな人なんだねえ」と言った。記事の中では「俗物」という言葉も「気さく」という言葉も使っていない。おそらく、俗物と評した人はもとから彼を批判的に捉えていたのだろうし、気さくと評した人はもとから彼を好意的に捉えていたのだろう。
人は、見たいものを見る。理解しやすい情報を受け取る。私も身に覚えがある。
たとえば地下鉄サリン事件。1995年3月20日、都内地下鉄3路線の車内で毒ガスが散布され、乗客と駅員14名が死亡し、6,000名以上が負傷した。同年5月にオウム真理教の教祖・麻原彰晃と教団幹部ら約40名が逮捕された。麻原は自分をトップとする国家建設を企んでいた。教団幹部は麻原に洗脳され、麻原の命令なら何でも実行した。麻原と幹部は、教団を潰そうとする警察の強制捜査を免れるために事件を起こした。……彼らが逮捕されて以降、そういう風に報道されていた。高校生だった私は、まあそうなんだろうなと受けとめていた。わかりやすかったからだ。
つまり麻原はレセプター(受容体、引用者注)だ。一つ一つのニューロンは、このレセプターが好む情報(神経伝達物質)を選択しながら運んでくる。そこに競争原理が加わり、過剰な忖度も加わり、側近たちはやがて、麻原が好む情報を無自覚に捏造するようになる。でも麻原にはその真偽の測定はできない。そうかそうかとうなづくだけだ。こうしてレセプターは肥え太る。与えられたカロリーのほとんどは、米軍やフリーメイソンや創価学会や警察権力などから自分たちは攻撃されているとの危機意識だ。(下巻「31 受容」より)
2004年2月、東京地裁は麻原彰晃に死刑判決を下した。『A3』はその一審判決の傍聴から始まるノンフィクションだ。なぜ教団は地下鉄で毒ガスを撒いたのか、映画『A』『A2』から継承される疑問のうえに、新たな疑問が折り重なっていく。弁護人が意思疎通を図れない被告人は、訴訟能力を有していると言えるのか。紙オムツに大小便を垂れ流す被告人に、なぜ精神鑑定がなされないのか。メディアに登場する「有識者」は何を根拠に詐病だと断定するのか。疑問、煩悶は、元信者との鼎談という形式で『A4または麻原・オウムへの新たな視点』(深山織枝、早坂武禮との共著/現代書館/2017年刊)へと継承される。
念のため、森達也さんは本書で麻原の減刑を訴えていたのではない。事件の根本的な原因と経緯を明らかにしないことには、同じようなことがまた起きるのではないですか、と問いかけている。
そして私は、判決や死刑執行を批判をしたいのではない。かつて「わかりやすい話」を受け入れた側の一人として、上記に引用した部分をときどき読み返すために、この本は手元に置いておこうと思っている。「麻原はレセプターだ」という文章の「麻原」という語を、たとえば「視聴者」とか「読者」とか「私」に置き換えて。