ライターズブルース

読むことと、書くこと

一時停止からの再生

『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』/森達也/角川文庫/平成14年刊

 高校一年生のとき、週に一コマ倫理の授業があった。たとえば「ウソも方便か?」とか「男女間で友情は成立するか?」といったテーマが設定され、生徒は配られた紙に自分の考えを書いて提出する。先生は回収した用紙の中から任意でいくつか読み上げる。書いた本人に意味を確かめたり、生徒同士でガヤガヤと話す場面はあったけれども、刻限に合わせてイエスかノーかの結論を出したりはしなかった。オッサンだと思っていたその先生の年齢に自分が近づいてみると、あれは「いろんな考え方がある」と体感するための時間だったのかなと思う。

「死刑制度は必要か?」というテーマに対して、私はたしか「廃止が望ましい」と書いた。裁判に「絶対」はない、冤罪の可能性がゼロではない以上、殺してしまったら取り返しがつかない。同じように考える人は一定数いたようだったが、中には死刑肯定の意見もあった。覚えているのは「世の中には生きている価値のない人もいると思うから」。1995年のことだ。

 高校入学前に地下鉄サリン事件が起きた。5月にオウム真理教の教祖が逮捕された。裁判はまだ始まっていなかったが、テレビや新聞は数ヶ月間オウム関連の情報で溢れていた。サマナ服やヘッドギアを装着した信者たちの姿。”サティアン”とか”ハルマゲドン”とか”ポア”といった教団用語。モザイクのかかった元信者の証言。

 思いだして欲しい。僕らは事件直後、もっと煩悶していたはずだ。「なぜ宗教組織がこんな事件を起こしたのか?」という根本的な命題に、的外れではあっても必死に葛藤をしていた時期が確かにあったはずだ。事件から六年が経過した現在、アレフと名前を変えたオウムの側では今も葛藤は続いている。でも断言するが、もう一つの重要な当事者であるはずの社会の側は、いっさいの煩悶を停止した。
 剥きだしの憎悪を燃料に、他者の営みへの想像力を失い、全員が一律の反応を無自覚にくりかえし(中略)、「正と邪」や「善と悪」などの二元論ばかりが、少しずつ加速しながら世のマジョリティとなりつつある。(”あとがき”より)

 森達也さんは当初テレビ番組のディレクターとしてオウム真理教接触するが、「彼らの日常に、危険で凶悪という雰囲気をどうしても嗅ぎとることができなかった」。幹部が逮捕された後の信者の日常を映したドキュメンタリー番組の企画は、制作部から却下され、放映するアテのない中でカメラを回し続けた。なぜ教団はサリンを撒いたのか? 「この疑問が解けない限り、僕らの中では地下鉄サリン事件は終わらない」。本書は自主制作映画として1998年に公開された『A』の制作記録だ。

 私は大学生の頃に続編の『A2』を先に観て、情報補完のために本を手に取った。報道のあり方、受け取り方については大いに考えさせられたが、あとがきに記されている「地下鉄サリン事件以降、日本社会はまるで歯止めが外れたように急激に変質した」という指摘については、「そうなのかなあ」とぼんやり受けとめていたように思う。年齢的に、比較対象となる事件前の社会をシビアに体験していなかったからかもしれない。

 2011年の東日本大震災、2020年の新型コロナウィルス蔓延を経て、時々『A』と『A2』のこと、そして高校の教室風景を思い出す。あのとき先生は、やがて開かれる麻原彰晃の裁判を想定していたのだろうか。ある生徒が「生きている価値のない人もいる」と書いたのは、具体的な誰かを想定してのことだったのか。死刑廃止を是とした私や他の生徒たちは、地下鉄サリン事件の犯人にも死刑は適用されるべきではない、と考えていたのだったか。

 今となっては確かめようもなく、もともと鮮明な記憶でもない。ただ、同じ空間にいろんな顔をした人がいて、それぞれいろんなことを考えてるなあ、と感じた時間を懐かしく思う。今の私だって、少なくとも政治家でも官僚でも裁判官でもないのだから、ほとんどの社会的事件に対しては、イエスかノーかの結論を出して固定する必要はないはずだと、自分に言い聞かせてみる。

『A』と『A2』は現在Amazonプライムビデオで配信中。プライム会員は無料で視聴できる。

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