ライターズブルース

読むことと、書くこと

古い良き今はなき

ナンシー関大全』/ナンシー関文藝春秋/2003年刊

 どの本を手放してどの本を持っていくか、引越し前の選別作業は時間的物理的限界に迫られてだいたいは「なんとなくの直感」で決まった。珍しく、残した理由をはっきり覚えているのが『ナンシー関大全』。この本を手に取ったとき、私は「古き良き文藝春秋の名残だな」と思って残留組の段ボールに詰めた。しかしまあ「古き良き文藝春秋」って何だ? やっぱりそれも、なんとなくの直感か。

 ナンシー関さんは週刊誌や月刊誌にいくつも連載を持っていた名コラムニストで、2002年に39歳で早逝した。没後ほぼ一年後に刊行されたこの本は、単行本未収録の対談や家族による回想譚、年譜、生い立ちや仕事場のカラー写真等々、盛りだくさん。出版ビジネスにおける追悼本の類が早ければ早いほど売れるとばかりに拙速に編まれることも多いなか、奥付によると2003年7月30日初版。亡くなったのが6月だったから、きっかり一年後を目指していたけど、ちょっと間に合わなくて、でもしっかり作った、という感じ。「ナンシーはここにいる。究極の愛蔵版」というスリーブの文言に欺瞞を感じさせない、丁寧な作りだと思う。

 圧巻なのはもちろん、コラムと消しゴム版画の傑作選だ。サッカーW杯に沸く(湧く)1億2千万人のサッカーファンの様相をクサしたコラムとか、盗撮で捕まった田代まさしの似顔絵に「激撮」の文字を入れた消しハンとか。どこがどうすごいか、ちょっと説明できない。試みとして田村亮子谷亮子)評を少しだけ引用しよう。小さいのに強い「自慢の孫」的柔道着姿で備蓄米のCMに出演していた頃の彼女と、某バラエティー番組で少しばかりセクシー路線の衣装で胸チラする彼女を比較して、こんな風に締めくくる。

ヤワラちゃんがどんな自己認識で(別にそんなものなくてもいいが)どれだけ胸元の開いた服を着ようが、本当はとやかく言う筋合いではない。しかし、タレントだからな。みんなのヤワラちゃんはじゅうどうぎがいちばんにあうよ。頼むよ。しまっとけ。

 そして似顔絵に添えられた「夜のヤワラちゃん」という文字の破壊力よ。「選挙にでそう」という予想が的中したことなんて、もはやオマケでしかない。初出は1999年7月の『週刊文春』、こういう連載を何の気なしに読めたあの頃のあの雑誌は、やっぱり「古き良き」だったなあと思ってしまう。ということは、今はどうなのか。

 いつからか私は、文藝春秋というブランドに嫌な感じを覚えている(だから"古き良き"なんてフレーズが出てしまう)のだが、その正体がどうもはっきりしない。「文春砲」という言葉が流布した頃からか、もう少し前からか、文藝春秋の出版物ではなく、社員の人たちでもなく、あのブランド臭がなんだか嫌だ。きっとナンシー先生ならこの「嫌な感じ」を的確に、それも『週刊文春』誌上で表してくれたんじゃないだろうか。生前の公式サイトには芸能人の名を挙げて「こいつをどうにかしてください」と訴えるメールが日に十通くらい届いていたらしい。わかるなあ、その気持ち。

 オンラインメディアの「ふみはるくん」とかいう名前の公式キャラクターのダサさを、どうにかしてくれないか。社長交替のお家騒動で出回った部署長による長ったらしい連判状を添削して、一文、いや一語に置き換えてくれないか。新卒採用サイトで「文春の名刺を持っていけば一流人に会える」みたいな惹句で若者を集めることの危なっかしさを、諌めてくれないか。

 私はおそらく、権威であることと権威主義的であることを履き違えた結果、ブランドの空洞化が起きている、というような印象を受けている。タレコミや寄稿で体裁は保っているけれど、もしかして自前では絵も描けないし、文章も書けないし、読めてないんじゃないの。その空洞のあたりから何か嫌な臭いが漂ってくるんだけど、どう言い表したものかわからない。ああ、ナンシー先生だったら何て書くかなあ。

目次の欄外にちょっとした消しハンが並んでいるところとか、本として好ましい。どうして文庫化されていないんだろう。