ライターズブルース

読むことと、書くこと

責任の墓標

『作家の値うち』/福田和也/飛鳥新社/2000年刊

 大学受験のときは理工学部を志望して一年浪人までしたのに、結果は惨敗で、受かったのは予備校の先生に勧められて受験した某私大の環境情報学部だけだった。入学はしたけれど、これという目的もなく漫然と大学に通うなか、たまたま履修した講義を担当していたのが福田和也先生だった。第二次世界大戦下の文学や思想を題材とした講義内容がおもしろかったことに加えて、その人のゼミでは飲み会に参加すれば単位がもらえるらしいとの噂を聞いて、以降の私は福田さんの授業とゼミを中心とした大学生活を送ることになった。

 卒業後、就職先が決まらずフリーライターとして活動するようになると、福田さんは私を「弟子」として周囲の人たちに紹介した。酒を飲ませてもらったり、仕事を紹介してもらったり、酒を飲ませてもらったり、という間柄は、私が三十になる頃まで続いた。必然的にその著書の多くを買って読んだから、7、80冊くらいは持っていただろうか。いろんなことがあって疎遠になり、フリーライターを廃業し、一昨年引越しをする段になって、その大部分は手放してしまったが。

『作家の値うち』は、私が初めて買った福田さんの本だ。現役作家の主要な小説作品を100点満点で評価するという挑発的なブックガイドで、たとえば当時の私は、店頭でまず山田詠美の頁を開いた。中学から高校にかけて愛読した作家がどのように評価されているかと見てみると、「倫理的な作家である」。作品はすべて作家の価値観の提示の場となる、ゆえにその本領は短編で発揮され、長編は説教くさくなる……。うーむ、と声こそ出さなかったものの、書店の店先で頷いた覚えがある。本を読むことはそれなりに好きだったとはいえ、理系崩れで現代文芸というものにそれほど親しんでこなかった私は、桐野夏生宮部みゆきも、石原慎太郎矢作俊彦も、この本に導かれて読んだのだった。

 99年から2000年にかけて書かれた本だから、以降に登場した作家が載っていないのは当然のこととして、それ以上に時間の経過を感じさせるのは、その前書きだ。小説に点数をつけることはナンセンスであると百も承知のうえで、このような「暴挙」に至った理由について、以下のように説明されている。

 どう見ても活字にする価値のない作品が、つぎつぎに権威ある文芸誌に掲載されるだけでなく、高名な賞を受賞する。一方できわめて優れた作品が、何の反応も評価も受けないままに消え去っていく。
 こうした光景が、一部の偏向としてでなく、有力な作家や一流の編集者の構成する場の中心で行われているのだ。
 そうした状況を改善する、覆すことが、批評家の責任であることは云うまでもない。(「はじめに」より)

 このような義憤は嘘偽りのないものであった、当時の著者の身近にいた私はそう思う。しかし同時に、この十年余り後にはその人自らが「活字にする価値のない」原稿をしばしば雑誌に掲載していたことも、思い出さずにいられない。

 たとえば週刊誌の連載で、見開き一頁の文字量の九割方がある本からの引用だった場合、それこそ「活字にする価値がない」と思う。そういう引用だらけの原稿は、一度だけでなく数週間に渡って掲載された。その頃すでに疎遠になりつつあった私は、思い余ってそのコピーを取って引用部分を蛍光ペンで塗りつぶして、福田さんと近しい編集者に渡したのだったが。まっ黄色になったその紙の束が、本人の手に渡ったかどうかはわからない。

 書いていたことと矛盾するじゃないか、と責める気持ちは、少なくとも今はない。そんなことは私にだって多々身に覚えがある。それでも、かつて文芸の基準を説いていた人が、自らの基準を破壊することになった事実には、いまだに呆然としてしまう。どうしてあんなことになったんだろうかと、疑問が向かう先には荒れ果てた土地が広がっている。私が背を向けて逃げてきた土地が。

 いつか福田和也論を書かなければならないなと、以前は思っていた。あれほど世話になった者として。でも今は、あまりそうは思わない。責任とか義務とか使命とか、そういう重苦しい動機ではなく、もう少し身の丈に即したところから書けたらいいだろうな、とは思う。福田さんから受けとったものが、もし私のなかに根づいて生きているなら、何らかの形で出てくるだろうし、出てこないならそれまでのことだ。

採点基準29点以下は「人前で読むと恥しい作品。もしも読んでいたら秘密にした方がいい」。明らかにケンカを売っている、それを当時は私もおもしろがったのだったが。