ライターズブルース

読むことと、書くこと

弟子時代の遺物(その二)

サミング・アップ』/モーム著/行方昭夫訳/岩波文庫

 いま私の手元にあるサマセット・モームの文庫本はすべてF先生宅から貰い受けたものであることは前回に書いた。書いた後で思い出したことがあり、思い出した後で考えたことがある。

モームだけでいいんじゃないかって気がする。全部書いてあるんだもの」

 いつか何かの折に、F先生はそんなことを言っていた。先生が家出をする数ヶ月前、もしくは一、二年程度前かもしれない。時期も話の前後もはっきりしないが、酒を飲んでいたことだけはたしかだ(先生と会って酒を飲まなかったことは一度もない、学生時代の講義を別にすれば)。先生にそう言わせたのは代表作でも短編集でもなく、『サミング・アップ』だっただろうと今さらのように考えている。

サミング・アップ』はモームが64歳のときに発表したエッセイ集だ。人生には意味などないのだから、せめてペルシャ絨毯の職人のように自分の審美眼に従って人生模様を織り上げよう、と考えていたモームは、この本をその模様の総仕上げと位置付けている。自伝的な回想、文芸と文壇、宗教や哲学等々、思索の対象は幅広い。私がアンダーラインを引きたいのは、たとえば以下のようなところだ。

しかし私はもう一生をほぼ終えた人間であるから、今さら真実を隠すのはふさわしくない。私は誰にも実際以上によく思ってもらいたいなどとは思わない。私を好む人にはあるがままの私を受け入れて頂きたいが、そうでない人に相手にされなくても何ら痛痒を感じない。(中略)偉大な作家は堂々たる想像の翼をのばして、どんどん天高く昇って行くだろうが、そういう真似は私には出来ない。私の想像力は元来弱いのに加えて、ありそうもないことを書くのを嫌う性分に邪魔されて飛翔できないのだ。私は壁画ではなく、イーゼルにのせられる絵ばかり描いてきた。(23章より)

 作家を職業としたモームが、その職業的仮面を取り払って書いている、そんな印象を受ける。F先生が「全部書いてある」と言った、全部という言葉が酒席の誇張だとして、言わんとするところは「職業作家が書かないこと、書けないことを書いている」という意味だったのではないか。

 F先生宅からこの本を持ち帰った当時、私はまだフリーライターという商売をしていた。一定の職分において文章を書いていくと、その職分のために書けない文章というものが意識の端からせり上がってくる。商売として書けない場合もあれば、自己矛盾や自己否定に発展するから書けない場合もある。それを書くためには、その職分を返上しなければならない。おそらく、どういうジャンルの物書きでも多かれ少なかれ抱えるジレンマだと思う。少なくとも私の場合はそうだった。

 モームが作家としてではなく、一人の人間として文章を書いている。F先生がその率直さに打たれたのだとしたら、その当時の先生は「批評家」であることを辞めたかったのかもしれない。批評家である自分と、批評家ではない自分の分離、対立。連載中だった仕事の資料も含めて、蔵書も何もかもを置き去りにしての家出は、やっぱり批評家のすることではない。先生は批評家を辞めたかったのだと、考えるほかない。

 前回「不肖の弟子だった」と書いたが、私は批評家を自認する人の弟子を自認していた。その人が批評家ではなくなったときに、どういう行いをもって弟子たり得るかは難しいところだ。当時も難しかったし、今も難しい。

原題”THE SUMMING UP”、別の邦訳では『要約すると』。中身が饒舌なだけに、モームらしいタイトルだと思う。