私たちが中学生だった頃にはなかった言葉の一つに「陽キャ/陰キャ」というものがある。私たち、というのは年子の姉と私のことで、中学生の頃の姉はまさに「陽気なキャラクター」だった。
「今でも職場で言われるもん、○○さんみたいな根っからの陽キャにはわかんないですよ、とかさ。でも、陽キャは陽キャで大変なんだよ、周りの期待に応えなきゃってプレッシャーと常に戦ってるんだから」
そんなプレッシャーは身に覚えがない。ということは、私は少なくとも「陽キャ」ではなかったわけだ。
その日は甥っ子と三人で昼ご飯を食べた後、甥っ子だけ先に帰して二人でカフェに寄った。姉の息子は、性格はどちらかというと私寄りだ。
「もう、見てるとじれったいっていうか、歯痒いっていうか。甘いんだよって言いたくなる。世の中、もっと厳しいんだから」
姉は姉で、息子のことを心配している。私は私で、学校でも家でも「陽キャ」に押されて肩身を狭くしているであろう甥っ子に同情せざるを得ない。
同じ年齢で、同じ制服を着ているのに、目立つ子と目立たない子がいること。同じ教室で同じ教科書で授業を受けているのに、理解の差が開いていくこと。体の成長に頭の成長が追いつかない、もしくはその逆。誰かと比べられ、自分もまた誰かと自分を比べる。……中学生の頃を思い出すと、たしかに窮屈だった。
「まあでも、母親にできることってあんまりないかもしれないよ。あの子はたぶん、初めて孤独を体験しているわけだからさ」
ほとんどジュースのようなモスコミュールを姉が舐める間に、私ばビール一杯と白ワインを二杯飲んだ。
「放っておくしかないんじゃないかな」
姉に対しても、甥っ子に対しても、薄情な言い方になってしまったかもしれないなあと、帰りの電車の中で考えた。そもそも、私はだいぶ昔に少女だった記憶はあるけれども、少年だったことはない。少女の孤独と、少年の感孤独は、やっぱり違うものだろうか。
少年が主人公の小説でも読んでみようかと思いついて、手に取ったのが『海辺のカフカ』だった。学生の頃に一度読んだものの、当時の私は小説の中に描かれる超常現象というものが苦手で、イマイチついていけなかった。したがって内容もあまりよく覚えていない。15歳の少年が主人公だったことくらいしか。
「僕らがこれから行こうとしているところは、深い山の中にあって、快適な住まいとはとても言えない。君はそこにいるあいだ、たぶん誰にも会わないだろう。ラジオもテレビも電話もない」と大島さんは言う。「そんなところでもかまわないかな?」
かまわない、と僕は言う。
「君は孤独にはなれている」と大島さんは言う。
僕はうなずく。
「しかし孤独にもいろんな種類の孤独がある。そこにあるのは、君が予想もしていないような種類のものかもしれない」
「どんなふうに?」
大島さんは眼鏡のブリッジを指先で押す。「なんとも言えないな。それは君次第でかわってくることだから」(第13章より)
姉が息子を理解するにあたって、もしくは甥っ子が自分自身を理解するにあたって、何か手がかりになるような言葉、文章はあるだろうかと思いながら読み進めたけれども。まあ、小説というものは往々にして実用には向かない。
ただし、彼もいつか、テレビも電話もインターネットもない、誰とも会わない山の中のようなところで数日過ごしてみると良いのかもしれない、とは思う。小説の中の少年は、小川の水を汲んで簡単な食事を作り、雨水で体を洗い、小屋のデッキで本を読み、森を散策する。誰とも会わない代わりに、言ってみれば自分自身と対話をする。
たしかに孤独にはいろんな種類があるようで、私はそのいくつかを知っている。いくつかしか知らないけれども、その中では、孤独なのにそうでないフリをしなければならない状況が一番苦しかった。一人になってしまえば、少なくともそういうフリはしなくて済む。
甥っ子は、おそらくはまだ自分がいる状況や自分の心情に、名前を付けてはいない。自分で自分の孤独を発見する頃に、できるだけ一人で過ごす機会をあげるといいんじゃないかな。次に姉に会ったら、そう話してみようと思う。陰気なキャラクターの役割として。