ライターズブルース

読むことと、書くこと

修行と教育、もしくは指導

『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』(上)(中)(下)/ゲーテ/山崎章甫訳/岩波文庫

 編集者と原稿のやりとりをしていると、たまに「だったら自分で書けば」と思うことがあった。従ったほうが記事が良くなると思えば従うし、注文を受けての原稿だからなるべく意向に沿うように努めるけれども、山に登ろうとしている人に向かって海に行く道を教えるような指摘は少々対応に困る。自分で書けば、とはもちろん言えないから、海より山のほうが楽しくないですかーとそそのかしたり、海に行くと見せかけて山に登ったり。

 大学の非常勤で作文のワークショップを受け持つことになったとき、最初に考えたのはそのことだった。要するに、学生が書いた文章に対して良いとか悪いとか、感想を言うだけだったら誰でもできる。編集者とライターだったらともかく、講師が学生に「だったら自分で書けば」と思わせてはいけない。

 それで指導方針のようなものを考えたときに、まずはその学生が何を書こうとしているか、どんな文章を目指しているかをなるべく正確に読み取ろうと思った。それを最大最善のものとしてイメージして、目の前の文章を比べたときに、足りないところ、余計なところを検討して、より良く目的地に辿り着けそうなルートを提案する。そういうつもりで提出された文章を読んでみると、どの学生が書いたどんな文章もおもしろかった。

 たまに、目的地自体が誤っていると感じることもあった。たとえば、ただ単にカッコつけたいだけの文章。そういうときは「カッコいいね」と言った後で、「でも、この書き方だったらもっと別の内容も書けると思うよ」と新たな目的地を提案した。

 そういうやり方で、うまくいったと思えるときもあれば、そうでないときもあった。そもそも文章の書き方なんて、私が教えてほしいくらいなんだけどなあと、いつも思っていた。

 一言でいえば、あるがままの自分を残りなく育て上げること、それがおぼろながらも、幼い頃からのぼくの願いであり、目標だった。いまもこの考えは変わらない。それを実行する手段がいくらかはっきりしてきただけだ。(中・第5巻第3章より)

『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』は、ドイツ教養小説の元祖として教わって、学生時代に一度読んだきり。覚えているのは、演劇に魅入られた若者が旅に出ていろいろ経験する、そんな程度のあらすじで、愛読したとか味読したとは、とても言えない。でも、上に引用した箇所だけは妙に印象に残っていた。「あるがままに育てる」という言い方は、語義に照らすと矛盾があるように見えて、不思議な説得力がある。

 最近、転職活動を始めた友人と話しているときに「修行」という言葉が出てきて(私もここ数年は転職を繰り返しているから、修行みたいなもんでさあ……という具合に)、何の気なしに頁をめくりながら思い出したのは非常勤時代のことだった。私があの頃やろうとしていたのは、たぶん、学生たちが書こうとしている文章を「あるがまま」に書かせることだったんだなあと。

 自分の文章に対しても同じことができたらいいのかもしれないが、自分が何を書こうとしているのかを見極めることは、どういうわけか、他人の文章と比べてかなり難しい。ここ数年の自分の転職歴も「あるがままの自分」を育てようとしてのことだと、言って言えないこともないけれど、自分の「あるがまま」を見分けることは、さらにもっと難しい。

 あるがままの自分を育てるってどういうことなのかなあと、読みながら考えてみたけれども、結局わからなかった。ブログを書きながら考えれば何かわかるかなと思ったけれども、今もわからないままだ。それに、どちらかというと今は、上に引用した箇所よりも物語の結末に惹かれる。

「この最高の幸福の瞬間に、あの頃のことを思い出させないでください」
「あの頃のことを恥ずかしく思う必要はありませんよ。素性を恥じる必要がないのと同じです。あの頃も楽しかったじゃありませんか」
(第8巻第10章)

 怒りや屈辱、失意も悔悟も経験した主人公に、旅の道連れが言う台詞だ。書くことや読むことをおもしろいと思ってもらえれば、それだけでいいんじゃないか。非常勤時代の最後のほうでは、そんな風に考えていたことを思い出す。

キリスト教の世界観に馴染みがないと、ヨーロッパの近代小説はイマイチ入り込めないなあと思っていたけれど。昔よりおもしろく読めたのは、それなりの修行の成果、ということにしておこう。